KOHALU
スライダーに的を絞ったバッターの読み勝ちですね。揚々と言って微笑んだ高校野球中継の解説者の顔が、かろうじて残っている。テレビを消したのは何分前だろう。何時間前だろう。ほどなくしてその暑苦しい顔の残像も消えた。直後、航作の二対の眼球には桜の花びらが張り付いた。目は開いても閉じても同じものしか見えなくなった。午前でも午後でもない時間の指先が、濫りがましい部屋の中で小春の白いみぞおちに小さくのの字を描いている。
二人は灯りを消そうとはしなかった。一緒にいる時間は視神経をも絡ませていたかった。舌や頭髪や毛細血管やどこかからコピペして作った二人の思い出などと一緒に。
そして感じ合う。あえて明るい中、互いが見える状態にありながら目を閉じて感じ合う。なぜだろう。本当は見たくないから。見てほしくないから。より深く感じるために。あるいは何も感じなくするために。距離が縮まるごとに生じる空気の摩擦で、お化け屋敷に仕掛けられた陥穽のような思い出が薄く削り取られる。それが眼球に張り付くのだ。桜の花びらみたいに薄い贋の記憶となって。
指ならば入る。入れて、出して、入れて、第一関節をほんのちょっと曲げて、出す、と思わせて深く突っ込んで、を繰り返すたびに小春は白くか細いからだをよじらせ、かすれた透明の声を上げる。太腿と太腿の間にある毛で蔽われた割れ目の周辺は、蜂蜜を塗ったバタートーストのような光沢を帯びてきた。航作は自分のからだの同じ場所に怒張する器官を、割れ目の最上部から四分の三あたりの位置に押し当て、先端をゆっくりと滑り込ませた。
「いい」
「だめ?」
「いいい」
「だめか」
「いいいい、痛いっ」
小春の声がだんだん大きくなっていき、最後は震えながら呼吸を止める音に変わる。その動物的な叫喚を聞いて航作は器官の先端を慌てて引き抜く。怒張が一気に収斂する。両手で顔を隠した小春の白すぎる肢体がシーツの色に同化し、ベッド全体が桜の花びらに溶け込んでいった。白い輪郭。白い視界。今回もそこには一点の赤も混成していない。
「ごめんね」
しばらくして、手の平で隠された唇がいつもと同じ言葉を明るすぎる闇に滲ませた。
四十五歳の小春は、未だに赤を知らない。
濁流に捨て来し燃ゆる曼珠沙華 赤きを何の生贄とせむ
そう歌った寺山修司が生き終えた年齢に、小春はあと2年で辿り着く。生まれた意味、生きていた意味などは、死んだあとで誰かの心に張り付くもの。齧りついてシャツに垂れたザクロの赤黒い果汁のように。女は最初から腐りかけで生まれてくるのよ。いつか小春は言った。毎日ちょっとずつ、ちょっとずつ腐敗していって、最後はしぼんでなくなるの。ザクロの実みたいに。化け物よ。知らずに、受け入れずにこんな歳まで生きてきた女なんて。化け物の門番が、私の“門”の前にはいつも立っているの。
小春は自ら生贄となることを望んだのかもしれない。航作は白い臍を中心にゆっくりとのの字を描きながらそう思った。赤い人身御供を自分自身に捧げるために。清流も濁流も知らずに生きてきた、白い時間たちを呪うために。