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序. 「人間失格」
他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、本当の自分を誰にもさらけ出す事の出来ない男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く太宰治の代表作。多くの人を引きつけ、時には狂わせたその書籍はぼくの原点であり、原典だ。
1. 久慈川周:1月11日生まれ 16歳 A型 帰宅部
少し前まで冷たかった風が、ほんのり花の香りをまとった暖かい風に変わり、進級してから騒がしかった教室も徐々に落ち着きつつある2年B組の教室では、午後最初の授業が行われていた。昼食後、開け放たれた窓からは暖かいそよ風が吹き込み、降り注ぐ日光は窓際の席に座ったぼくの体温を徐々に上げて行った。
「―ふわぁ~」
殺しきれないあくびが出る。ぼくは進んで授業で居眠りをはじめる質ではないが、さすがにこの条件下の睡魔には勝てない。
黒板の前では担任の馬淵が夏目漱石の「こころ」について解説をしていた。ぼくは昔から読書が好きだったので「こころ」は既に中学3年のときに読んでしまっている。そんな状況も相まって非常に眠い。とにかく眠い。
「こころ」は友情と恋愛の板ばさみになりながらも結局は友人より、恋人を取ったために罪悪感に苛まれた「先生」からの遺書を通して、明治高等遊民の利己を書く夏目漱石の代表的な長編小説だ。
当時中学3年のぼくが読んだ時は中々に感動したものだ。Kの心情や顛末。先生の罪と独白。語り部、傍観者としての「私」。一体夏目漱石のどのような体験から紡ぎだされたものだかはわからないが、物語としての「重み」を感じられるよい作品だったと感じている。しかし、こんな捉え方もできる。例えば、
「じゃぁ~、久慈川」
「はい」
「眠そうだな。『こころ』でなぜKが自ら死を選んだかわかるか?」
「そーですね。『こころ』が弱かったんじゃないですか?」
「いや、そういうことじゃなくてな・・・」
「まあ、近年もメンヘラとか居ますし、悩み続けたら人は死を選びたくなるものなんですよ。きっと。」
「・・・屁理屈はやめろ、屁理屈は・・・埒があかんから前川、お前はどう思う?」
「ふえ!?また俺っすか?先生!」
「ぐだぐだ抜かさず答えろ」
「いつも俺だもんな~・・・って、なにをどう思うんですか?」
「お前な~~!」
ぼくの代わりに斜め前の前川が生け贄になった。
今週に入って昨日ぶり、4度目の指名だ。可哀想に。
そもそも他人が死を選ぶ理由なんてわかるわけがない。これは答えのない問いなんだ。模範解答をするとなると、恋と家、そして「先生」との間での葛藤がそうさせたとかが正しいんだろうが、夏目漱石はそういうことを言いたいんじゃない。自我や自意識というものの危うさを移り変わる時代の中に感じとり、「こころ」という作品に残したんだと僕は思っている。結局、近代文学も現代文学もその時代、著者によって感じ、考えられた事柄を紡ぎだしているに過ぎない。結論、語られない心情や顛末なんてものは著者しか知らないし、著者もわからないのかもしれない。
馬淵がぼくの屁理屈について強く言ってこないのは、偏に点数を取っているからだ。だいたいどんなテストも8割以上が常なので、少し遊びを含んだことを言っても許される。
先生には好かれてもいないが、嫌われてもいない。ついでに言うとちょっぴり信頼されていて、それでいて目を付けられているわけでもない。この状態が最も好ましい。面倒ごとは嫌いだ。
―ピーン、ポーン、パーン、ポーン
そんなこんなで適当に現国の授業を流していたら5限の終了のチャイムが鳴った。あとはこの後の数学が終われば放課後だ。
「久慈川、借りてた漫画返すわ。サンキュー」
隣の席の最上がひょいっと漫画を返して来た。ちなみに、ジョジョの5巻だ。いろいろあってなぜかぼくのロッカーにはジョジョの1部から5部が入っている。特にファンというわけではないが、好きなキャラは花京院だ。
「ああ、次読みたかったら勝手にロッカーから持って行ってくれ」
「ほいほい~」
「ところで最上は今日部活?」
「いんや、今日は休みだ」
「じゃあ、一緒に帰ろーぜ」
「おっけー。確か木戸も部活休みだったはずだから誘っとくわ」
「おっ、頼んだ」
隣の席の最上とは去年も同じクラスで、よく話す。おちゃらけて目立っているわけでもなく、特段ネクラなわけではないので、気楽に絡んで居られる。
―ピーン、ポーン、パーン、ポーン
授業と授業の間の10分間の休みは短いもので、チャイムと同時に最上もそそくさと隣の席に戻って行った。
6限の数学は担当の清水が三角関数の公式を言って、問題を解いているだけなので割愛。数学って、公式理解して後は計算するだけだから楽なんだよなぁ。
sin cos tanの公式を一通り目に通していると、唐突に頭の上に軽いものがぶつかる感覚が起き、そして、折り畳まれたノートの切れ端が机の上へと落下した。何事かと顔を上げると、斜め前の吉野志穂が小さく手を振っていた。投げ返してやろうかとも思ったが、とりあえずたたまれた紙を広げてみる。
そこに書いてある内容に思わず顔を顰めてしまった。
『しおりがお願いしたい事があるんだって。』
またか。これで吉野からの依頼は今月だけで3件目だ。露骨に嫌な顔を吉野に返すが、奴は既に黒板に顔を向け、なにやら一生懸命出題された問題と格闘していた。
ぼくは女子が苦手だ。あの思春期特有の単純さと複雑さ。そして秋空のような心境の変化が特にダメだ。笑っていたと思ったら泣いていやがる。泣いていたと思っていたら悪口を言っていやがる。本当に恐ろしい人種だ。だから、ぼくが女子の頼みを断れないのも恐怖心からだ。けして、女子に弱いとかではない!
放課後、約束していた最上と木戸に頭を下げ、吉野の机へと向かう。
「吉野、さっきの要件はなに?」
「あ~!久慈川よかったよかった来てくれた~」
「なんなんだよ・・・で、しおり?って誰?」
「え~!隣のクラスの岩木さんだよ!相変わらず、女子の名前覚えてないんだな~」
「ああ、岩木さんね。名字ならなんとかわかるよ。たぶん」
「まあ、いいや~。じゃあ、駅前のマックに行こっか。待っててもらってるし」
「ん?なんでマックなんだ?」
「なんか、学校だと話しづらいんだってさー」
吉野と連れ立って最寄り駅前のマクドナルドへと向かう。マクドナルドの略名は、マックとマクドと地域によって変わるらしい。ファーストフードの略名と言えば、ファーストキッチンをファッキンと呼ぶと聞いた時は驚いた。なにその凄まじいネームセンスは。
しかし、女子と二人で連れ立って歩くというのはどうにもこう歯がゆいものがある。しかも、吉野は客観的にみて中々に可愛い部類に入るだろう。肩にかからないぐらいの黒髪ショートヘア。化粧は教師に指摘されない程度のナチュラルメイク。大きな目に小さな鼻と唇で全体的にかわいらしい雰囲気を出しているのに、話してみると意外と快活で屈託ない様を感じさせる。
「でね!しおりに、この間の恵美のことを話したら是非久慈川くんに相談したいって頼まれちゃってね!」
「おま、この間のこと話したのかよ!さすがに高瀬恵美のプライバシーに関わってくるだろ・・・」
「まあ、そうなんだけどね・・・でも!ちゃんと、大事なところはぼかしたよ!!」
「・・・はぁ~。おしゃべり好きはいいけど、あんまり余計な事言わない方がいいぞ」
「ぅう~だって、しおり本当に困ってそうだったから~」
「・・・まあ、仕事だからいいけどさ・・・」
なんなんだその目は。上目遣いやめろ!本当に女子は恐ろしい生き物だ。
高瀬恵美は先週吉野が連れて来た依頼者だ。確か、A組の熊沢のことが好きでどうしても付き合いたいのだが、どうすればいいかだっけか。今は無事お付き合いをはじめたらしい。別にうらやましくなんてない。断じて。
吉野と連れ立ってとぼとぼ歩いて5分ほどでマックに着いた。ぼくが入ろうとすると吉野が立ち止まってしまった。吉野はどうやらスマホでLINEを起動して、岩木さんに連絡を取って席の場所を確認しているらしい。
「しおり、2階の奥の席に居るってさー」
「わかった。とりあえず、なんか買って行くけど、なに欲しい?」
「お!ありがとー!ゴチソーサマ!バニラシェイクのMをタノンダヨー!!」
吉野は顔を輝かせるとまくしたてるように自分の注文を言い、返事も聞かずに階段を上って行ってしまう。
「・・・別におごるって言ってないのに・・・はー、まあ、いっか。」
ぼくは、バニラマックシェイクMサイズを一つと野菜生活100を購入して2階へ上がる。マックの中で唯一許せるものは野菜生活だと思ってる。他はあまり頼みたくない。
2. 岩木しずか(いわき しずか):4月9日生まれ 17歳 女子テニス部
「おーい!こっちこっち!」
マックの2階に上がると奥の4人席で吉野が手を振っている。向かい側に座っている茶髪セミロングで目つきの鋭いのが岩木さんか。
ぼくは抱えたトレーを軽く持ち上げ、席へと向かう。
「君がA組の岩木さんだよね?」
「そうよ。志穂にあなたの事を聞いたの。どうぞ、座って」
ぼくは言われるまま、岩木さんの対面へ座る。吉野は岩木さんと対角線上、ぼくの隣に座っている。
「久慈川くんは、今まですべての恋愛相談を成功させたって聞いたのだけど」
「まあ、確かに運良く1回も失敗はしていないとは思うよ。そもそも、恋愛相談は苦手なんだ。本来は進路相談とかの方が得意なんだけどね」
「すべての恋愛相談を成就させている人がなにを言うのよ」
「・・・ごもっとも。でも、別にすごいことはしていないよ。ただ、話を聞いてアドバイスしているだけさ」
これまで視線をやや下に向け、髪をいじっていた岩木さんが目線を上げて、にらみつけるようにぼくを見た。
「じゃあ、私の相談事も叶えてくれる?」
「善処はするよ」
ぼくは苦笑い気味にそう言った。
すると、岩木さんは一層目線に力を込め言い放った。
「恵美と熊沢くんを別れさせて欲しいの」
「・・・は?」
「だから、高瀬恵美と熊沢くんを別れさせたいの。方法は問わないわ。もう、二度と二人がくっつかないようにしたいの」
「え、ちょっと!しずか!?」
それまで黙って聞いていた吉野が慌てて岩木とぼくの間に入ってくる。
「おいおい、さすがにそれは困るよ。高瀬さんにはちゃんと報酬をもらっているんだ。それに別れさせるって、なぜそんなことを?」
「そんなこと言わなくてもわかるでしょ?報酬は支払うわ」
岩木さんの目線がやや左上へ上がる。右の口角がやや上がり、余裕そうに見せた顔とは裏腹に手は微妙に震えている。
「・・・わかった。ただし、報酬は10万円だ。それとこのことは一切の他言無用だ。吉野も誰にも言うなよ」
「ちょっと!久慈川!・・・しおりも!そんなの良くないよ!考え直そう?」
「吉野、俺はこの依頼を受ける。帰るぞ。岩木、報酬は成功後で構わない」
「頼むわ」
「えっ、ちょっと待ってよ!」
マックのトレーを持ち席を立つ。つられて吉野も立ち上がる。横目で岩木をちらっと見ると、下唇をかみ、目には涙が浮かんでいた。
マックを後にすると、吉野も慌てて店を出てくる。
「ちょっと!どうしてあんな依頼受けたの!?しおりも久慈川もどうかしてるよ!?」
「依頼を持って来たのは吉野だろう・・・」
「っ、それはそうだけどっ!」
「まあ、任せろ。悪いようにはしないから」
「えっ?」
「吉野はどうして岩木があの二人を別れさせたいと思っていると思う?」
「え?そんなのは、しおりが熊沢くんのことを・・・」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。人のこころなんてわからない。この件はいろいろ調べてみるよ。だから、吉野は心配しないで待っててくれ。ちゃんとわかったら説明するから。それまでは黙っていてくれ。これもプライバシーだ」
そう、人のこころはわからない。ある人にとってはどうでもいいことでも、ある人にとっては生涯を投じる意味のあることだってある。特に恋愛は人を狂わせる。そう、それはいつの時代であっても。Kのように、「先生」のように。