祭り
雪がちらりちらりと舞っている冬の日、一人の男が山頂に佇んでいた。名を富吉という。姉に長男が生まれたと聞き、山を二つほど越えた隣町から祝いの品を届けに来た者である。
彼は今まで行っていた雪を足で掻き分ける作業を中断し、麓に見える町を眺めているところだった。
姉が嫁いだのは親戚。父の遠縁が商いをしている呉服店である。父曰く、親戚には家が傾きかけた時散々世話になったので、今でも頭が上がらない、らしい。実際、三年ほど前、その家から姉を嫁に迎えたいとの話が来た時に、父は一も二もなく了承していた。
親戚――義兄の家は裕福であるらしい。小さな呉服店で、繁盛している、とはお世辞にも言えない我が家にとっては、正に願ってもない申し出だったのだ。
今回、富吉自ら祝いの品を持ってきたのは、それらの恩があったからであり、加えて、今後も世話になるかもしれない、という打算があったからである。
富吉としては純粋に姉のお祝いとして来たかったのだが、父からそれとなく言っておくようにと言いつけられている手前、そういう訳には行かなかった。
久しぶりに姉や義兄に会えるのは嬉しいし、姉の子供を見るのも楽しみであったが、その一点があるおかげで、富吉は素直に喜ぶことが出来なかった。
姉の嫁ぎ先の町はなかなかに大きいところであった。山の頂上から見ても大通りがはっきりと見えるくらいだ。
富吉が雪を掻き分けてやってきた道は山を下り、町の中心を通って反対側にある山に続いている。町の近くには枝だけの林、遠くの方には凍っているらしい湖が見える。見渡す限り白と黒と茶しかない。
富吉の周りの音は全て雪に吸われてしまい、しん、としている。耳が痛い気さえする。たまに遠くで落ちる雪の音が、やけに気になって仕方が無かった。
富吉は一度頭を振ると、町に向かって歩き出すことにする。足を踏み出した瞬間、富吉は、山に囲まれた町なので、このまま雪が降り積もれば春になるまで出られそうにないな、ということに気がついた。
実際、今までの道のりはきついものだった。雪が予想以上に多かった為である。今年は酷く寒いなぁ、凍えて氷になっちまうかと思ったよ。と、馴染みの行商人が話していたのを思い出した。
ぐずぐずしていたら本当に閉じ込められるかもしれない。これは用事を手早く済ませ、早々に帰ったほうがいいかもしれん。富吉はそう考えると、止めていた足を動かし、雪かきを再開した。
町は思った以上に賑やかだった。山頂からは分からなかったが、人々は降り積もった雪も気にせず、溌溂とした様子で暮らしているように見えた。富吉とすれ違った町人は全員、何かを心待ちにしているような、何かが楽しみでならないといった顔をしていた。
子どもたちは雪が積もったことが嬉しいのか、元気に駆けずり回っている。もうすぐ雪によって道が閉ざされてしまうというのに、ここで暮らす人はいやに陽気だな、と富吉は思った。
ぐるり辺りを見渡して、着飾った姿が多いことに気づいた。ひょっとして、祭りかお偉いさんの婚儀でもあるのだろうか。だからこんなに賑やかなのかもしれない。富吉は納得し、町人達の楽しそうな様子を見ながら義兄の営む呉服店へと向かった。
訪ねてきた富吉を義兄は快く出迎えた。祝いの品を渡すと大いに喜んでみせ、富吉を労わった。そして、富吉へのねぎらいも早々に、生まれてきた赤ん坊がいかに自分に似ているかを長々と語り始めた。
義兄の話はとても流暢なものだった。すでに多くの人々に語っているに違いない。大人しく話を聞いていると、姉が赤ん坊を抱いて居間にやってきた。
姉とは婚儀の時以来会っていなかったが、以前よりもふっくらとし、十分な生活が送れていることが見て取れる。着物も実家にいた時よりも上等な物だ。姉と義兄の仲睦まじい様子を見ると、やはり姉をここに嫁がせたのは正解だったらしい。富吉は思い、嬉しそうな表情で姉達を眺めた。
ひとしきり義兄たちと話した後、断りを入れて赤ん坊を抱かせてもらう。存外重いものだった。顔を見ると、確かに義兄と姉の面影があるように思われた。赤ん坊はとても可愛らしいものだったが、同時に、二人の特徴を併せ持つ存在は、やや奇妙な存在にも思えた。
興味深く赤ん坊を観察していると、義兄が話しかけてきた。
「それにしても、富吉は丁度よいところへ来たなあ」
「何がでしょう」
「明日から祭りがあるんだよ。他では絶対に見られない、とても珍しいモノが見れるんだ」
「こんな時期に、ですか」富吉は少し驚いた顔で聞いた。
「この時期が一番いいそうだ」
「どんな祭りなんです」
「それは……なんとも、説明しにくいな」
義兄は一度口を閉じた。少し考えて、まあ、実際に見に行った方が早い。祭りはこの先の開けた場所でやっている。晩飯までの暇つぶしに見に行くといい。そう言葉を続けた。
祭りは町の中心を十字に区切る、大通りの中心で行っている。大きな道が交差してできた空き地だ。普段は市が開かれる場所であり、いつも賑わっている所ではあるが、祭りのせいか、今日は一段と賑やかな様子であった。
開かれている店も、飴細工やらお面やら、祭りらしいものが殆どを占めている。どの店も繁盛していたが、その中でも、広場の中心は一層人だかりが多かった。
富吉はそこに祭りの主役がいるのだろうと見当をつけた。近くにいって覗いてみようとしたが、なかなか近づけず、諦めざるを得なかった。
元来、気の弱い性分であるものだから、人ごみを掻き分けてまで見に行こうという気力が起きないのだ。どうにか隙間から見えやしないかと周りをうろついていると、丁度人だかりから抜けた者がおり、富吉はようやく少しだけ、遠くから中心を覗くことができた。
人ごみの中心には若い男がいた。髪は髷だったのが解けてしまったのか、落ち武者のようになっている。富吉が覗いた位置は横側であり、髪が邪魔で男の顔を見ることはできない。
富吉から見て、男は全く特徴がないように思われた。確かに着ている着物は上物の部類だが、それほど値が張るものではない。しかし、それでも富吉が男が祭りの主役であると理解できたのは、男の置かれている状況のおかげであった。
男は両手を後ろで縛られ、その上で頑丈そうな柱に縛られていたのである。雪の上に正座し、いつからこの状態なのか、着物はぐっしょりと濡れていた。
あの男は祭りで一体何をするのか。考えてもいっこうに分からなかった富吉は、人だかりから離れ、大通りで日向ぼっこをしている老人に尋ねることにした。
「ああ、あんたあの呉服の旦那の義弟さんか」
老人はどうやら話し好きな性格であったらしく、富吉が出自を語ると、頼んでもいないのに町の噂話を語りだした。その中には義兄についての話もあり、あそこの夫婦は本当に仲が良いという話や、春に町長の娘の婚儀があるらしく、その衣装を任されたらしいという話、長男が生まれた時の話など、大半が義兄のことを羨んでいる内容だった。
老人の話はしばらく続き、ようやく話が途切れる時を見計らって口を挟むことができたのは、話しかけてから半刻ほど経ってからだった。富吉が祭りについて聞きたいと言うと、老人は立ち話もなんだからと富吉を家に招き入れた。
老人は囲炉裏の側に腰をおろし、富吉と向かい合って茶をすすっている。老人の家は質素ながら落ち着いたもので、好感が持てるものだった。いかにも隠居した老人が暮らしていそうな場所だと富吉は思った。
「それで、あんたさんは広場を見たんで」
「ちらとだけ。男が縛られていたのは見ました」
「そうそう。その男がね、祭りの主役なんですよ」老人は言った。
「何をやるんです」
「いんや。やるというか、やられるというか」
わけがわからない、といった表情をした富吉に老人は告げる。
「あれの首をねぇ、はねるんですよ」
いつから始まったかは知らないんですけどねぇ。なにせ、あっしが子供のころにはすでにやってましたから。確か、あっしの爺さんのころからやってるってぇ話を聞いたことがありますねぇ。
……むかしこの町でね、男が悪さをしたんですよ。何をしたか、ですか。さあ、それは覚えてないですねぇ。なんにせよ、男が何か悪さをして、打ち首に決まったことが始まりなのは確かですよ。
ここじゃあ今ぐらいの時期にね、首をはねることになってるんです。ああいうものは見せしめだかなんだかでしばらく置いとかなきゃいけないんでしょう。今の時期ならにおいも気になりませんからね。
……とにかく、男の首をはねることになってね、こんな山しかない田舎町でしょう、みんなこぞって見物にきたらしくてね。ほとんど全員が見に来てたって言ってましたねぇ。
そりゃあんた、人が殺されるところなんてそうそう見れるもんじゃあ、ありませんからね。……え、その時になにかあったのか、ですって。いやいや、それがねぇ、違うんですよ。首をはねたときは別段、変わったことはなかったんですけどね、次の日なんですよ、妙なことになってたのは。
男がね、生きてたんですよ。
そう、生きてたの。男の体に首がついてたんですよ。首がくっついたわけじゃあない。男を括り付けた柱の上にはちゃあんと、昨日はねた首があったそうですからね。
ここじゃあ、首はね、はねたあと、柱の上においとくんですよ。一日置いといて、そのあと林に埋めに行くんです。林って分かります。町から少し離れた……ああ、山の上からみましたか……まあ、とにかくね、生えてきたんですよ。男の体から。首が。
それから何度はねてみても、次の日になるといつのまにかね、首が生えてるんですよ。
ね、不思議でしょう。町の連中も最初は気味悪がってたらしいけど、だんだん面白く感じてきてね、それ以来毎年この時期に、こうして首をはねてるってぇわけなんです。
老人はそこで話を止め、茶をずずず、とすすった。息をついて、話を続けた。
……あっしは五つの時だったかな、おっとうに連れられて見に行ったんですよ。男はものの見事に悪人面をしたやつでね、目がぎらぎらしてね、今にも飛びかかってくるんじゃあないかと思うような目でね、そりゃあ怖かったですよ。
いよいよ首をはねるって時になってもね、男はぜんぜん取り乱さないんですよ。ずうっとあっしら見物人を殺したいと言わんばかりの目でにらみつけてんです。あの目をみたときあっしはこいつは打ち首になって当たり前のやつだと思いましたね。きっと本当の悪人ってやつはああいうのを言うんでしょうねぇ。
なんせ、もうすぐ死ぬっていうのに、今まで何度も死んでるっていうのに、ちっとも怖がってないんですからねぇ。
……でもね、首をはねるときはあっけないもんですよ。思っていたよりも簡単に首が切れてねぇ、首が落ちる時の音も軽くって。血はどばどば出ますけどねぇ、なんだか現実のものだとは思えなくって。ちょっと拍子抜けな感じはしますねえ。
まぁ、それでも、毎年見にいっちまうんですけどね。
話終えると、老人は茶を飲み干し、お茶請けの干し柿をかじり始めた。富吉は何も言えず、しばらく老人を見ていた。老人が食べ終えたのを見て、口を開く。
「やめてやろう、という人はいなかったのですか」
「そりゃあ」
老人は急須にお湯を入れながら告げた。
「いませんよ。あの男が悪さをしたのは確かですし、なにより珍しいですからね」
老人に礼を言い、富吉は義兄の家に帰ることにした。まだ日が沈むか沈まないか、といった頃合いのはずなのだが、外は暗い。おまけに吹雪いていた。いつ降り始めたのだろうと思いながら、富吉は吹雪のなかを進んでいく。
老人の話を思い出した。おれにはどうしようもない。富吉は雪を振り払いながら考える。よそ者のおれが言ったところでどうしようもないし、勝手に男を逃がしてしまえば、きっと町の連中は怒り、おれを殺すだろう。
男のことは気の毒だとは思うが、自分の体質を恨んでもらうしかない。富吉は雪を振り払い続けた。
腕を振り回しながら、富吉はもはや自分がなにを振り払おうとしているのかも判らなくなっていた。
「明日が最期だ。」
ふいに、そんな声がしたような気がして、富吉は辺りを見渡した。しかし、こんな夜の、しかも吹雪いている時分に、誰かが出歩いているはずもない。
きょろきょろと左右を見た後、ふと、富吉は後ろの広場に目をやった。すでに遠くなった広場の中心に柱が見える。そこには昼間と同じように男が縄で縛られ、木に繋がれ、正座をして蹲っていた。
富吉は気づいた。男は笑っていたのだ。
一寸ほどしかない人影を見て、どうしてそんなことが分かるのかと、富吉は不思議に思った。
しかし、とも富吉は思う。やはりあの男は笑っている。半ば確信に近い思いを抱き、富吉は目を凝らした。
男がこちらを見た気がした。
思わず目をそらした。と同時に、先ほどの声は彼だったのではないかと富吉は思った。何を馬鹿なと、恐る恐るもう一度目をやってみたが、男が本当にこちらを見ているかは分からなかった。
気になりはしたが、わざわざ確かめに行く勇気もなく、富吉はその場を逃げ出した。否、逃げ出そうとした。
「見ない顔だな。」
前を向き、足を踏み出そうとしたその時。また声が聞こえ、富吉は思わず足を止めた。逃げる機会を逸し、のろのろと体を後ろに向ける。声の主があの男だと、確信していた。
「見ない顔だ。初めて見る。誰かに似ている。誰か。誰だ。……あの女か。二つ前。から。俺を見ている。あの。」
ぶつぶつと細切れに、男は声を発した。暗い感情を煮つめた様な声。富吉に聞かせるというよりは独り言に近いそれ。富吉はその声を呆然と聞くしかなかった。ふいに男は笑った。歯をむき出しに、暗くぎらついた目で富吉を見た。
「なあ。お前。俺が見たことない男。俺を見たことない男。あいつらは。」
「あいつら。は。何を。何を斬っている。つもりなのだろうな。楽しそうに。首だ。愉しんで。皆見ている。お前以外。俺の首を。あいつらは。俺の。斬っているつもりだ。俺の首。だがな。そうじゃない。そうじゃないんだ。」
一転、男の笑顔が変わった。ようやく待ち望んだ何かが来たような、そんな笑顔だ。
「あいつらが斬っているのは俺の首じゃないんだよ。」
富吉はいつの間にか、呉服屋の前に立っていた。どうやって戻って来たのかが分からない。頭がぼうっとして、男の話を聞いた後のことが思い出せなかった。店に入ると姉がいて、祭りについて尋ねられた。
「どうでした。変わったお祭りでしょう」
姉はにこにこと笑っている。祭りに対して、何の疑問もないらしい。その様子を見て、姉が全く別人の、理解不能な存在に思えてしまい、富吉はすっかり、祭りについて尋ねる気力を無くしてしまった。
かろうじて、あの男は不気味です。特に声が恐ろしい。とか細い声で言う。姉はそれを聞いて、不可解そうに眉をひそめた。なにを言っているのです。あれは口なんてきけませんよ。
その日の夜、姉の料理をご馳走になりながら、富吉は祭りに行かない口実を必死に考えていた。気弱で臆病で、血が苦手な性格なのだ。
子供の頃も友人が蛇や蛙を面白半分に解剖するのを見て毎度悲鳴を上げていたし、夜中に一人で厠へ行くなど絶対に無理だった。
もっとも、これは今でも同じなのだが、家族は怖がりは治ったものだと思っている。
悲鳴を上げないのは、大人になってからは一日の大半を店で過ごし、生き物のむごい姿を見る機会が無くなっただけであり、厠に付き添いが要らなくなったのは、同様に、大人になってからは夜中に行きたくなることなど無くなってしまっただけである。というのは、富吉だけの秘密だ。
ともかく、富吉はそういった性格であるものだから、いくら翌日には首が生えて元に戻っているからといって、打ち首の様子を見ることなどとても出来なかった。
見た瞬間、悲鳴を上げて卒倒してしまうに決まっている。姉にも迷惑を掛けてしまうし、何より、祭りを邪魔すればどんな目に合うかと考えると怖くてたまらなかった。
そんなわけで、富吉は翌日、家に残る旨を義兄に伝えた。もちろん、理由をそのまま伝えたりはしない。
どうやら、昨日の疲れが出てきてしまい、少し熱があるようだ。祭りに行けないのは本当に、非常に残念だが、悪化させて迷惑を掛けるわけにはいかない。そう言って納得させた。
それなら息子を、良太郎をたのみますね。今日は夜遅くまで帰らないから。
姉はそう言って義兄と並んで出て行った。
富吉はやり遂げた晴れがましい気持ちで二人を玄関先で見送った。
富吉は誰もいなくなった家で、一日中のんびりと過ごすことに決めた。昼までは縁側に出、手入れの行き届いた庭を眺めることにする。
良太郎を真新しいワタの詰まった半纏にくるみ、あぐらを掻いた足にのせる。積もっている雪で中庭は一面真っ白であったが、それはそれで趣があった。
見上げると、昨日の吹雪が嘘のような晴天だ。冬らしい、澄んだ薄い青。塀の向こうからは子どもの甲高く大きい声が響いてきた。
無邪気な声で、くびがきれるよう、くびがはえるよう、と調子はずれに歌っている。
空気が澄んでいるせいか、子供の歌の合間に大人たちのさわさわとした話し声もかすかに聞こえてきた。
歌を聞き、富吉はふと昨日のことを思い出した。慌てて庭を見つめることに集中しようとするが、できなかった。それでもなお一心に庭石を睨みつけていると、抱きかかえていた良太郎がぐずりだした。
富吉は庭を見ることを諦めて居間に戻り、良太郎の世話を始めた。良太郎の世話は思った以上に気がまぎれた。富吉は甲斐甲斐しく飯を与え、体を拭き、おしめを換えることに専念した。
しかし、やることを全て終え、良太郎を寝かしつけてしまうと、すぐに頭は祭りのことで埋め尽くされた。若い男。賑やかな町。柱に縛り付けられている男。いやに陽気な、町の人。
次々と昨日見聞きした光景の欠片が浮かび上がってくる。富吉はそれらから逃れようと良太郎に意識を向けた。寝顔を見ることに集中する。
それにしても、良太郎は本当に義兄に似ているな。目や耳なんかは特にそっくりだ。口元は姉に似ているかもしれないな。それから、そう、この鼻なんか、義兄と姉のを足したみたいな形だ……祭りはもう終わっただろうか。男はどうなったのだろう……良太郎が起きたら、めいっぱい遊んでやろう。なにをして遊ぼうか。馬か、高い高いか。ああ、玩具を使うのもいいかもしれない。確か、姉が祝いに貰ったものがたくさんあると言っていたはずだから。どこに仕舞ってあるのだろう……
それが限界だった。富吉は目をつぶった。必死になって忘れようとした。さわさわ、さわさわ。殆ど聞こえないはずなのに、人の声がやけに大きい。塀の向こうからは未だに調子はずれな歌が聞こえてくる。
富吉はとうとう耳まで塞いでしまったが、ざわめきは遂に途切れることがなかった。
どれくらいそうしていただろうか。昨日のことを余すところなく繰り返し思い出し、その度に何度も男との会話が頭に流れた。
富吉の中に、次第に罪悪感が募っていった。男に対する罪悪感と恐怖で気持ち悪くなる。いっそ、叫び出したいくらいだ。
それは富吉にとって理想ともいえる義兄と姉に対してもだった。いや、それは罪悪感というよりは、失望といったほうが正しい。
今ごろ、人が死ぬところを見学し、首切りを祭りとして心の底から楽しんでいるであろう優しい夫婦を思うたび、富吉は吐き気がした。
だがしかし、と富吉は思う。姉に義兄、あの老人や町人共と自分に何の違いがあるのだろう。
実際、見に行かないというだけで、おれはあの男になにをしてやろうという気持ちなど、欠片も持ち合わせてはいないではないか。姉と義兄だけが原因ではない。自分の身勝手さこそが吐き気の本当の原因なのだ。
そこまで考え、富吉はついに耳と目を塞ぐことを止めてしまった。
どうしようもない。散々思い悩みはしたが、結局のところ、富吉が出した答えはそれだった。
何もしないことに対する嫌悪感はあるが、何をすればいいのか、何をするべきなのか、全く思いつかなかった。
男を助けてなおかつ自分も無事でいられる方法など、いくら考えても存在しなかったのだ。
富吉は庭に出た。日差しによって雪が溶け、あちこちで地面が見えていた。ざわめきは未だに聞こえている。確実にさっきよりも大きくなっていた。それこそ、この町の全員が集まっていなければこんなにも聞こえはしないだろう。
空は相変わらず薄い青がのびている。町の異常さなど僅かも映しこまず、空は綺麗なままだった。
ざわめきが止んだ。
なにかが落ちる音となにかが倒れる音が聞こえた。
歓声があがった。
富吉は良太郎の泣き声で目を覚ました。居間で眠り込んでしまったらしい。しかし、さっぱり眠った気がしなかった。
気分が沈んているのを察するに、夢の中でも昨日のことを思い出していたらしかった。外を見ると、空が赤くなっている。
慌てて良太郎の様子を見ると、おしめが湿っていたので、すぐに取り換え、食事を与えた。その後自分の飯をつくる。とはいえ、出掛ける前に姉が作っておいてくれたものを温めるだけだ。食事はすぐに終わった。昼は何も食べていなかったので、全て平らげることが出来た。
寝るころになるとまた吹雪きだした。
日が沈み、朝が来ても、姉夫婦は帰って来なかった。知り合いの家にでも泊まったのだろうか。もしそうだとしても、一度くらいは様子を見に帰って来そうなものだが……
日が高くなっても、夫婦は戻らなかった。気になって居ても立ってもいられなくなった富吉は、姉達を探しに行くことに決めた。
良太郎を背負い、外に出た。扉を閉め、老人の話を思い出す。老人はたしか、首をはねた次の日には林に埋めに行くと言っていたはずだ。
富吉は林に向かうことにした。歩き出した富吉の背後、広場の方からは男の笑い声が聞こえてくる。
林は静まり返っていた。道の先の開けた場所には、ただただ小さな石碑があるだけである。
掘り返された様子もなく、足跡のついていない雪だけが広がっていた。人の気配がないせいか、林の中は異様に静かだ。
どこかで雪の落ちる音さえ、聞こえなかった。ふいに、富吉は誰かに見られているような気がした。その視線は地面の下からきているように思われた。
背中に怖気が走り、慌てて林を出た後、富吉は広場に向かった。向かう途中、誰ともすれ違わない。それがたまらなく不安だった。
心の中で繰り返す。きっと町人全員が広場にいるに違いない。笑い声も聞こえたし、きっとそうだ。今から首を埋めに行くところなのだ。なに、予想が外れたからといって気にすることはない。向かう途中で鉢合わせるかもしれないではないか。何度も自分に言い聞かせ、足を動かす。
はたして、広場には誰もいなかった。あちこちに大きな雪のかたまりがあるだけで、人影は全く存在しない。見回した後、富吉は広場の中央、柱に目をやった。柱の下に、ほどけた縄が落ちていた。
「言ったろう。今日が最期だ。」
耳元で声が聞こえた気がした。富吉は再度周りを見渡したが、当然、誰もいない。呆然として、立ち尽くす。暫く立っていたが、おーう、う、うあ、と呻く良太郎の声以外、富吉の耳を震わす音はない。
行かなくては。富吉は思う。姉さんと義兄を探さなくては。
歩き出して、躓き、転んだ。広場に大量にあった雪のかたまりだった。雪が崩れ、中身が見えた。
中身は人だった。首のない、死体だった。切り口はいっそ、見事と言いたいほどに綺麗だった。富吉は直感した。日本刀の、切り口だ。隣も、向こうも、あちらも。全部そうだ。
ああ、そうか。男の言う通りだ。違ったのだ。斬っていたのは、男の首じゃあ、なかったんだ。この者達が、斬って、いたのは……
富吉は座り込んだまま空を見上げた。相変わらず、薄い青だった。すがすがしい、青だった。
視界の端に柱が映った。上になにかが乗っていた。乗っていたのは、首だ。
首は何かを心待ちにしているような、何かが愉しみでならないといった顔をしていた。
昨日見た、夫や息子を愛しむような優しい表情はどこにも見当たらなかった。