『帰りたくないじゃない、帰れないの』
リズムでも取っているように、一定の間隔で揺れる電車の動きに身を任す。
窓越しに外の景色を見ていると、流れる山々の合間にたくさんの緑が見えた。
ビルもマンションも、店らしい店もコンビニすら見当たらない。ときどき小さな民家が見えるだけで、その民家もほとんどが木造の一軒家ばかりだった。
「特急から乗り換えてしばらく経つけど、まだ着きそうにないの?」
「ああ、まだ結構時間がかかるな。今で丁度半分ってとこだ」
隣の座席に腰掛けていたまゆが話しかけてくる。疲れが溜まっているのか、まだこころのことを引きずっているのか、その声には若干の陰りが掛かっていた。
そういえば、昨日もまともに寝れていなかった気がする。
「ところで、何ていうところで降りるの?」
「尾張宮駅。着いたら起こしてやるから寝てろよ。疲れてんだろ」
「ん、あなたに借りを作るのは癪だけど、ここはお言葉に甘えさせてもらって……悪いわね、引っ付いてきたのに迷惑をかけちゃって」
「あ? んなの気にすんな。誘ったのは俺のほうだしな。しかしてめぇ、すっかり元どおりだな。昨日はあんなにしょんぼりしてたのに」
「別にしょんぼりなんてしていない。人の記憶を勝手に改ざんしないで」
「へえへえ。けど、あれはあれで意外に可愛かったぜ。借りてきた猫みたいでさ」
反応なし。まゆの顔を覗きこんで見ると、座席に沈み込むような姿勢のままで目をつぶっていた。耳を澄ましてみると、すぅすぅっと小さな吐息が聞こえてくる。
たまに優しい声をかけてやったらこれか。嫌になるな。けどこんなに早く寝れるってことは、やっぱり相当疲れが溜まってたんだろう。
「まったく……なんでこんなことになったんだか」
ため息混じりに昨日のことを思い出す。
そう、昨日までは。少なくとも昨日の夜、十時を回るぐらいまでは、こんなことになるなんて想像もしていなかった。
自称こころの親友の女。今思えばあいつから掛かってきた電話が、この妙な状況の始まりだったような気がする。
● ● ●
「いなくなった? それ、どういう意味だよ」
『だからまだ帰ってきてないんだって、こころ』
三連休を目前に控えた金曜日の夜。のんびりとテレビを見ていた矢先に鳴り響いた突然の電話は、話を聞くだけではっきりとわかる『面倒』を運び込んできた。
『ほら、用事があるから先に帰ってて言ってたでしょ。こころ、あの後家に帰ってないらしいの。携帯も通じなくて、それであたしのところに来てないかってこころのお父さんから電話があったの。あたしは学校で別れた後こころと会ってないからどこに行ったかわからないし、天城君なら何か知ってると思って電話したんだけど……その様子だと、天城君も知らなさそうだね』
「知らねえよ。こころの親友のおまえが知らないのを俺が知るわけねえだろ」
『それもそうか、ごめん。なら、あたしはこころと仲の良い友達に連絡を取ってみるから、悪いけど天城君は、こころが行きそうな場所を適当にあたってくれない?』
「あ? なんで俺が。ったく、仕方ねえな。けどあいつが行きそうな場所なんて見当もつかねえぞ。おまえのほうで、どこか心当たりとかねえのかよ」
『そんなこと言われても、あたしだって見当もつかないからこうして天城君に電話をしてるわけだし』
「それもそうか。わかったよ。じゃあまあ、適当に回ってみる」
電話を終えて部屋の外に出ると、凍えそうなくらいに冷たい夜風に襲われ、思わずぶるりと身体が震えた。慌てて室内に戻って上着を着込み、あらためてアパートを後にする。
まだ秋に移ったばっかだってのに、残暑はどこに行ったんだよ。昼間と夜の温度差が激しすぎるぞ。
とりあえず、あいつと会ったことがある場所を回ってみるか。
そう思って最初についたのは学校。無駄に長い坂道を駆け上がってみたけど、学校の正門はしっかりと施錠されてしまっていた。乗り越えられないか軽く試してみたが、足を引っ掛けられる場所がないだけにかなりきつい。それにあいつはこころの株を物凄く気にしていたから、こころの優等生っぷりに傷がつくようなことはしないだろう。
待てよ。だったら、なんで家に帰ってないんだ? こころの株に傷をつけたくないなら、そもそもこんな時間に家に帰ってないこと自体。
嫌な予感を頭の中に抱え込んだまま、総合病院のほうにも足を運んでみた。
予想はしていたけど診療の受け付け時間は終わっていて、正面玄関は押しても引いてもびくともしなかった。緊急患者を受け入れる入り口は開いているらしく、そっちから中に入って精神科医の女がまだ病院に残っていないか聞いてみる。
けど精神科の女性医師(水野とかいう名前らしい)は非番らしく、受け付けの男は「あいにく今日は~」という事務的な返事を返してきただけ。一応連絡先を聞いてみたが、プライバシーに関することなので教えられない云々。
思わずざけんなっ、と叫んでいた。持病持ちの容態が悪化して担当医者が休みなら、病状を一から説明すんのかよ。
結局まゆはいないようなので、とっとと病院を後にする。そうして、早くも行き詰まり。
まゆと会う場所なんて学校ぐらいのものだから、他にどこに行けって言うんだよ。
自動販売機で買ったブラックコーヒーを胃の中に流し込みながら、じっくりと考えてみる。
俺とまゆが会った場所って言うと、あとは……。
気づいた瞬間、思わずあっ、と声を出していた。
続けて、ぽつりぽつり。頭に冷たい雨粒が落ちてくる。
おいおいおいおい、ちょっとしゃれにならねえんじゃねえか?
空き缶をごみ箱に放り込む間にもどんどん雨の勢いは強まって、気づけば周囲はもうかなりの大降りに変わってしまっていた。
かばんの中には財布と携帯、折り畳み傘が常備って、用意周到すぎて嫌になるな……。
傘を広げて、急いでアパートへ向かう。アパートの裏手側。駐車場が広がるその端っこで、見慣れた横顔が空を見上げていた。
胸の辺りまで伸びた長めの黒い髪。つま先から膝までをぴんと強く張っていて、背伸びしてるような姿勢で、小さな背中を必死で大きく見せている。
上にベランダが取り付けられている場所だから濡れはしないけど、逆を言えば一歩も外に出られないってことでもある。
「なにやってんだよ、こんなところにぼーっと突っ立って」
近づいて、声を掛けてみる。ここに来るまでに雨に当てられたのか、制服や髪がひどく濡れているみたいだった。
「……天城智也。別に、ただ何となく空を眺めていただけ」
「家にも帰らずに、人のとこのアパートの裏手でか? おまえの友達とか、両親もみんな心配してるみたいだったぞ。用がないなら帰ったらどうだ?」
「遠慮しておくわ。ここにいても、あなたに迷惑をかけるわけじゃないんだから」
「はいはい。相変わらず無駄なプライドの高さのようで……って、そういやこころのふりはどうしたんだ? まゆなんて子はどこにもいないって言ってたじゃねえか」
「……!」
俺の前でもこころを演じ続ける。まゆの反応は、それを忘れていたからとは違っているように見えた。
「で、どうした? なにかあったのかよ」
「……別に。なんでもないけど、ただちょっと夜風に当たってみたかっただけ。邪魔だから帰ってよ」
相変わらずの減らず口。肩が震えるくらい思いつめているくせに、なにを強がっているんだか。
「傘を忘れたわけじゃない。あなたには関係ない」
「うん?」
「覚えてねえか? 前に学校で同じような状況になったとき、おまえ、そんな風に言って俺を遠ざけようとしてただろ。ほんと変わんねえな。ワンパターンっていうか、なんていうか」
「……私の言う事がわかっているなら、今回もそうしていてよ」
「やなこった。てめえを見つけたって親友女に報告しねえと、こっちはいつまで経っても雨の中を走らされんだよ」
「親友って真奈美のこと? なら、違うよ。あの子は私の親友なんかじゃない。それに真奈美やお父さん、お母さんたちが探してるのはこころなんでしょ。だったら、」
「あーもうっ、ごちゃごちゃとうるせえな」
「えっ? なっ、わっ」
俯いたままでいたまゆの手を取ると、強引に傘の中に入らせる。一人で入るには十分過ぎる大きさがあるから、こいつが入った分は俺が外に出れば問題ない。
「どうせ傘を忘れて途方にくれてたんだろ。止むまで俺の部屋で休んでけよ。濡れてんじゃねえか」
「……強引。はぁ、仕方ないから従ってあげる。本当はそんなつもりなんてないんだけど」
そう言って、こつん。まゆが俺の胸に頭を押し付けてくる。秋の初めといっても、やっぱり夜は相当冷え込むんだろう。肩に手を添えてやると、冷たい制服越しにまゆの震えが伝わってくる。
周囲に響き渡る雨音が、また、一回り大きくなったような気がした。
『じゃあ、こころはいま天城君の家にいるのね?』
「ああ。だんまり決めたままでなにも話しゃしないけど、とりあえずはここにいるよ。さすがに男の家に転がり込んでるのをそのままこいつの家族に言うのは不味いだろうし、ひとまずおまえの家にいるってことにしといてくれ。落ち着いたら、家に帰るように説得するからさ」
『うん、了解。こころの両親にはあたしが伝えておくから心配しないで。それにしても、天城君がそんな風にこころに気を使ってあげるなんて少し意外。見直しちゃったな』
「……っ。うるせえよ! 俺は問題を無駄に大きくしたくないだけだ」
『あはは、そっかそっか。とりあえず、こっちは何とかするから心配しないでいいよ。天城君はこころのことをお願い。ちなみにこころはまだ処女のはずだから、間違いを犯すならよく考えてやるようにね』
その言葉を最後に、ぷつり、と電話が切れる。間違いを犯すならよく考えてって、どういう忠告の仕方だ。
「あれだけ落ち込んでたわりに、やることはしっかりやっておくんだな」
まだ家の中に少しだけ残っていたあの女の服に着替えて、湿ったままだった制服をタオルとドライヤーで乾かしていたまゆに声を掛ける。
「落ち込んでたわけじゃない。人の気持ちを勝手に決め付けないで」
「へえへえ。あれか? その制服はこころのだから綺麗に使わないと、とか」
「……!」
その瞬間。ドライヤーを動かしていた手の動きがぴたりと止まる。
「お、おい、焦げるぞ馬鹿」
「あ、う、うん」
慌ててスイッチを切って、ドライヤーをテーブルの上に置く。その間も、表情はどこか暗いまま。
「そうやって落ち込んだままってのもいい加減うっとうしいんだよな。おまえが自分のことを話すのが大っ嫌いなのは知ってるけど、せめて理由だけでも話してくれねえか? なんで家に帰りたくないか。そんだけでもいいからさ」
「違う。帰りたくないじゃない、帰れないの。あの家は、こころの家だから」
「あ? どういう意味だよ」
「友達の家に勝手に上がりこむのはおかしいってこと。まあそれを言ったら、今の私自身もおかしいという事になるのだけど」
まゆは瞼にぎゅっと力を込めて、零れ落ちそうになるものを必死で抑えようとしているみたいだった。
「……ねえ。病院で初めてこころの話をしたとき、こころが私を押し退けて表に出てくる事はない。そう言ったのを覚えてる? あれってね、逆を言えばこころを感じることは出来ていたって事なの。目を閉じればあの子の顔を見ることが出来たし、胸に手を当てれば鼓動を感じることが出来た。でも、いまはそういうのを何にも感じないの。まるで、こころがいなくなっちゃったみたいに」
「…………」
「鼓動を感じられなくて、本当になんにも感じられなくて、ひとまず水野先生に相談しようと思って病院に行ってみたんだけどお休みで」
「ああ、それで仕方なく他で唯一事情を知ってる俺のところに来た。でも喧嘩してた手前、素直に話すことが出来なかったと」
「人の気持ちを勝手に決め付けないでとさっきも言った。うぬぼれないでよ馬鹿。このアパートに来たのはたまたまで、さっさと離れなかったのは雨が降ってきたからってだけなんだから。第一、あなたをあてにしていたのならもっと目立つ場所にいるのが普通でしょ? だから私はこれっぽっちもあてになんて――」
「あー、わかったわかった」
感情を押さえ込もうとしていたんだろう。言葉がつっかえそうになるのも構わず、まゆはとにかく、必死なくらいの勢いで言葉を並べまくってきた。
「いいから少し落ち着けよ。ホットミルクでも入れるから、それ飲んでとりあえず身体を温めろ」
返事を聞かずにとっとと台所に移動すると、手鍋で牛乳を沸かしてコーヒーカップにそれを移す。両手にコーヒーカップを持って部屋の中央にあるテーブルに戻ると、まゆは何度も瞬きを繰り返しながら、床に広げた制服を綺麗に折りたたんでいた。そうして、自分の隣にぽんと置く。
「ふぅん。こころがいなくなっても、やることは変わらねえんだな」
「うん。こころの持ち物は大切にしておきたいし、それにこころが帰ってきたとき、私が前と違っていたら嫌だって思うだろうから。おかしいかな?」
「さあな。好きにすりゃいいんじゃねえか?」
ほんと、こころに関してだけは素直だなこいつ。一度でいいから一緒にいるのを見てみてえ。
「とりあえず飲めよ。冷めるぞ」
「毒は?」
「入ってるわけねえだろ!」
「ふふ、冗談冗談。ありがとう、智也」
コーヒーカップの一つを手前に置いてやると、潤んだ瞳のままでお礼を返してくる。
唇をぎゅっと噛み締めたり、必要以上にまばたきを繰り返したり。小さな肩が小刻みに震えていて、自分の中の本当が、本当の感情が零れ落ちるのを必死でこらえているのがわかった。
なにが起きてもポーカーフェイスを崩そうとしない。どんなときでも憎まれ口を忘れず、絶対に自分の弱みを人に見せようとはしない。
そんなことにこだわるのは、まゆが繭だからなんだろう。こころを包み込んで保護する覆い、鎧。
「……けど、鎧にしては柔らかすぎるだろ」
「えっ?」
「なんでもねえ。それよか、悪かったなまゆ。おまえが答えたくない話題、無理やり言わせようとしたりして」
「何の話? って、ああ、喧嘩の原因か。もういいわよ。薄々は自覚していたことだし、どちらかと言えば認めるのが怖かった。認めたくなかったというのが正解なんだから」
さばさばとした様子で、もう気にしていないという風を装っているが、気にする余裕がない。が本当なんだろう。
「で、家に帰るつもりはないのかよ。こころの家だから帰れないってのはわかるけど、家出なんてこころの顔に泥を塗るだけだろ」
「それは、うん。こころにとって不名誉になるようなことはしたくないけど、いまはまだ、帰るのは無理だと思う。まだ……こころを演じられる余裕がないから。ねえ智也。こころ、本当にどこにいっちゃったんだと思う? こんなこと初めてで、いつも一緒にいたのに、気がついたらどこにもいなくて」
『あるいは、もう新堂こころって人間はこの世にいないのかもしれないわね。肉体的ではなく、精神的な意味でだけど』
不意に、精神科医の女の言っていた言葉が頭の中に蘇ってくる。
まゆが生まれた時点でこころはもうどこにもいなかった。それを、まゆは勘違いし続けていた。でも、その勘違いに気づいてしまった。あるいはまゆが言っているように本当に突然、こころがどこかにいった。消滅してしまったのか……。
「…………」
平静を装ってはいるけど、こころがいなくなったことでまゆが動揺しているのは間違いないと思う。もしもまゆが落ち着きを取り戻したとして、こころがいなくなったことを、現実を受け入れでもすれば――。
「まゆ。おまえあの折り畳式のナイフ、まだ持ち歩いてんのか?」
「え? それはこころの護身用に持ってはいるけど、それがどうかしたの?」
「それ、俺に渡せ。今すぐ」
「はあ? なんで渡さないといけないの?」
「いいから出せって。念のためだよ」
「念のためって……」
言葉の意味がわからないらしく首を捻りながら、それでもズボンのポケットに手を入れる。と、そこで何かに気づいたようで、まゆはぴたりと動きを止める。
「なら、あの傘を貸して」
「は? あの傘ってあの折り畳みか? なんでいきなりあんなのを」
「交換。人が大事にしてるものを寄こせって言うんだから、それ相応のものを渡してもらわないと釣り合わないから」
「寄こせじゃねえ、貸せって言ってんだよ」
言いながら、かばんに放り込んでおいた折り畳み傘をテーブルの上に置く。大切にしてるわけじゃないから『それ相応』に釣り合うとは思えないが、まゆ自身が納得してるならそれでいい。ひとまず、こいつから凶器を取り上げるのが最優先。
「ありがと。それじゃ貸してあげるけど、変な気は起こさないでね」
ポケットから茶色い筒を取り出し、ようやく、テーブルの上にそれを置く。
変な気を起こさせないためだよ。
喉元まで出掛かっていた言葉を飲み込んだのは、わずかでもそんなことを考えさせないためだ。
代わりを務める必要がないとわかれば、あとは自分の望みを叶えるだけ。
つまり……自分の消滅。ほんと、面倒なことに巻き込まれたものだ。