『必要とされたから。だから私はいま、ここにいる』
JRと特急を乗り継いで二時間半。
東京に近づくにつれ雲行きの怪しさが増していたよどんだ空は、俺たちが特急を降りるとそれを合図に大粒の雨を降らし始めた。
「うわぁ、ついに降ってきちゃったか」
前髪を上にかきあげながら、母さんはうーんと唸りながら空を見上げる。
「参ったな。天気予報だと晴れるって言ってたから傘なんて持ってきてないし、智君、持ってない?」
「あるわけねえだろ」
「む、そういう言い方しなくてもいいのに。仕方ない、適当な場所で買ってくか」
年甲斐もない声を上げてきゅらきゅらと、母さんは旅行用に買ったというキャリーケースの音を響かせる。
ほのかに香る香水の甘い匂い。揺れる長い髪。
すれ違う奴ら。特に男が途中で足を止めたり、振り返っているように見えるのは気のせいではないだろう。
魔性とでも言ったらいいんだろうか?
俺の母親は、男をまどわすことに長けているらしい。無防備に開けたシャツブラウスの首元に、紺色のロングスカート。スカートの先からほんの少しだけ覗く、雪のように真っ白な細足。アイラインを入れてぱっちりと開いた二重まぶたに、ルージュが強い自己主張をする柔らかな唇。
天然か計算かは知らないが喋り方にどこか幼さ、あどけなさが残っていて、外見との強いギャップが、なんともいえない魅力を引き出している。
この女の子供の俺でもそう思うのだから、見ず知らずの他人の目には、いわゆる『美女』に見えているのだろう。
たしかに綺麗な人だとは思う。何度も騙されていながら、今度こそは、と淡い期待を抱かせる程度には。
「すいませーん。この水色の傘だけど、もう一本ないですか?」
「あ、申し訳ありません。そちらの傘は展示品が最後の一本でして」
駅の構内で見つけた傘屋に立ち寄り、母さんは何本かの傘を見比べた後に男の店員とそんな話をしていた。
二十の半ばほどのメガネをかけた店員はやたら丁寧な姿勢で頭を下げ、顔を上げると母さんの横顔をじっと見つめ続けていた。
「うーん。一本か、弱ったな。あ、そうだ。こっちの折り畳み傘なら二本あります?」
「はい。そちらなら大丈夫ですよ」
「あ、よかった。じゃあそれを二本お願いします」
どうして同じものを二本にこだわるのか。不思議に思いながら会計を終えるのをじっと見ていたら、はい、と買ったばかりの紺色の折り畳み傘を手渡された。
「引越し祝いのプレゼント。お揃いなんだから大事にしてね」
「お揃いって……いらねえよ。うざったい」
「む、なに? その言い方。せっかくプレゼントしてあげるって言ってるのに」
「はは、照れてるんですよ弟さん。わかるなぁ、僕もそのぐらいの時は憎まれ口ばかりで」
「弟って、やだ。この子、私の息子ですよ」
「息子! えっ、じゃあお母さん? はー、お若いですね。とてもそんな風には」
「でしょ。まだまだ若い子には負けてられないから」
謙遜という言葉を知らない母親は自分がいかに美容に、服装に力を入れているかを楽しそうに語っていた。わざわざ店員の手を両手でぎゅっと掴んで笑顔を作るあたり、わかってやっているんだろうなと思う。そう考えると子供っぽい喋り方もわざとで、完全に、男を引っ掛けるつもりでやっているのだろう。
引っかかったって意味じゃ、俺も大して変わらないか。
母親から渡された傘を開く。新品の傘には傷一つ、汚れ一つ付いていなかった。
「…………」
物を買ってもらったぐらいではしゃぐほど子供染みてるつもりはない。でも、悪い気はしなかった。いや、それどころか気分が良くなっているように感じて、こんな些細なことで喜ぶ自分自身が、少しだけおかしく思った。
● ● ●
結局、おかしかったんだよな。愉快とか楽しいじゃなく、純粋に、狂ってるって意味で。
目覚めは最悪。ただでさえ休み明けの月曜日だってのに嫌な夢を見て、気分が悪くてしょうがない。
いっそのこと学校をサボろうかと思ったが、家にいても別段、なにかやることがあるわけでもない。仕方がないと息を吐き出し、かばんを片手にアパートを出る。室内から一歩外に出た瞬間、生暖かい風がむわっと吹き寄せてきて、少しだけイラついた。
夏なんてもうずっと前に終わったはずなのに、暑さだけがいつまでも残り続けている。
「おはよう。天城智也。体調不良はもういいの?」
街路樹代わりに電信柱が並ぶ高校に向かう道の途中。文字どおりの二重人格女が話しかけてきた。
「ああ、おかげさまでな。それよりおまえ、結局土曜日は何も言わずに勝手に帰りやがったな。目が覚めたら影も残さず消えやがって」
「しばらくしたら退散するって言っておいたでしょ。私にだって用事はあるんだから、いつまでもあなたに付き合うほど暇じゃあないの。それに眠っている人を無理に起こすのは悪いから」
「だからって病人置いて帰るか? 普通」
「私が普通じゃないのは、あなたもよく知ってるでしょ」
「……まあな。けど、それとこれとは話が別だろ。つぅか自分で言うか? それ」
「うるさい、風邪はもう治ったんでしょう。だったらあれこれ文句を言わないで」
「へぇへぇおっしゃるとおりで。ま、たしかに変人に口を出してもしょうがねえ。馬の耳に念仏だっけ? 都合の悪い言葉は全部右から左なんだろ」
「ことわざの使い方が間違ってる。頭が悪いんだから、無理してことわざなんて使わない方がいいと思うけど?」
「いちいち揚げ足とってんじゃねえようぜえ。第一、性格どぶすに比べたら馬鹿のほうがまだましだろ」
「ふぅん。自覚はあったんだ」
「そういうおまえもな。否定しないってことは、性格どぶすな点は認めてんだろ」
挨拶程度に嫌味をぶつけ合って、沈黙。気まずいというわけじゃなく、単純に話題がないからだ。
「そういえば、こころは近いうちに帰ってくるとか言ってたよな。あれ、どういう意味だ?」
だから仕方なく、まゆやこころという面倒そうな話を話題に上げてみた。
必要以上に首を突っ込みたくないが、気にならないと言えば嘘になる。
「どうもこうも、言葉通りの意味だけど? こころは近いうちに目を覚ます。そうしたらこの身体をこころに返してあげて、あとは全て元通り」
「目を覚ますって、そういうのってわかるもんなのか? それに身体をこころに返すって」
「確証はないけど、目を覚ますのは間違いないと思う。なにかの原因で休んではいるけど、こころだって、いつまでも私みたいのが表に出てるのを良いとは思わないだろうから」
「私みたいなのがって、おまえ、またそれかよ」
「うん?」
言っている意味がわからない。とでも言いたげにまゆは首を捻る。その仕草から無自覚、無意識というのが痛感できて、余計な苛立ちを感じた。
「その自分を悪く言うような言い方、聞いててイライラすんだよ。だからやめろ。だいたいおまえが表に出てるのをこころが良いと思わないって、そんなのありえねえだろ」
「ありえない?」
「だってそうだろ。自分の都合で開いた穴を埋めてくれてる奴がいるとして、そいつに感謝こそしても、迷惑とかうっとうしいって思うのはねえよ。あったとしたら、そいつはただの糞野郎だ」
「……あなた、こころがそんな人でなしだって言いたいの?」
態度を急変。あからさまに凶暴そうな目つきで睨みつけてくる。
薄々はわかっていたが、確信した。やっぱり、こいつはこころに対して異常な執着心を持っている。
「そう思ってんのはおまえだろ」
「えっ?」
「おまえの言うとおりこころがとんでもない良い子ちゃんなら、自分の代わりをやってくれてる奴を迷惑に思うわけねえよ。むしろ感謝してんじゃないか? おまえ、こころから礼を言われたことはないのかよ」
「こころは私が生まれた瞬間から、ずっと眠り続けているから……」
じっと目を伏せたまま、独り言のようにまゆはそんな言葉をつぶやく。
思わずため息をつきたくなった。こころの話題になると、こいつは我を忘れるか表情を暗くするかのどっちかだ。正直見ていてつまらないし、相手をするのもめんどくさい。
「寝てるだけってのはうらやましいな。けどま、寝てばっかだと逆に身体がきつくなるから、そのうち目を覚ますだろ」
言った瞬間、背筋が痒くなった。相手を気遣ったり励ましたり、やっぱり、そんなことをしても気持ち悪いだけだ。
「目を覚ます。うん、あなたもそう思うわよね」
いつもどおり冷めきった目で暴言を吐いてこればいいのに、まゆはやたらと嬉しそうな声を上げ始めた。勢いそのまま、両方の手で右手をぎゅっと掴んでくる。
瞬間、妙な感覚が胸を締めつけてきた。なんだかよくわからないが、ひどく息苦しい。
「は、離せよ暑苦しい」
慌てて腕を払うと、まゆのほうも正気を取り戻したのだろう。
「……ごめん、ちょっと気が動転してた。忘れて。今すぐに」
両手を慌てて引っ込め、こっちに向けていた目線をそらす。
「…………」
「…………」
沈黙。なんとなく、ひどく気まずい。
「なに黙り込んでんだよ。なにか喋れ」
「う、うるさいわね。なんで私が朝からあなたと話なんてしな……何か、変な視線を感じない? やたらと見られてるような」
「見られてる?」
くるりと振り返って周りを確認する。と、自分たちと同じ制服を着た奴らが数十人。よく見ると、そのなかの何人かはクラスでも見かけたことのある顔。
気が付けばもう高校に続く坂道の手前。そんな場所で手を握ったりごちゃごちゃ話し込んでいれば、人目につくのは当たり前だろう。
「これはちょっと、ううん。かなり……まずいかも」
見てわかるぐらいに顔を青くして、まゆはつっかえつっかえ、そんな言葉を呟いていた。
女って奴はどうしてこう、色恋沙汰に無意味に興味を持ちたがるのか。
自分に関係あるならともかく、誰と誰が付き合うだの付き合わないだの、そんなのどうでもいいじゃねえか。それにしても、
「あいつら、こっちは完全に無視か」
無駄に人ごみに溢れた教室。質問攻めにあい続けているまゆを尻目に、ぱきぱきと指を鳴らす。
話の内容までは聞き取れないが、時折「そんなことないよぉ」とか「ち、違うって」と聞き慣れた声で聞いたことのない言葉が聞こえてくる。
あれがこころの口調なんだろうが、正直違和感が大きすぎる。言い方もなんだか子供っぽいし、案外、本物のこころも腹黒い性格をしていたのかもしれない。いや、あれが素だって言うならそれはそれで可愛いと言えなくもないか?
「それで天城君。本当のところはどうなの」
妙な声が聞こえて振り返ると、見たことのある女が立っていた。名前は忘れたが、まゆとそれなりに仲の良い、性格が最悪の女。
「なんの本当だ?」
「またまた、とぼけちゃって。こころとのこーーと。迷惑がってたけど、実はまんざらでもなかったわけ? ね、あたしにだけ特別に教えてよ。大丈夫だって。あたしは口が堅いし、こころとは親友だから、あの子が嫌だって言うなら言いふらしたりもしないからさ」
にやにやとした笑顔がうざい。完全に無視したままでも良かったが、暇つぶしに相手をすることにした。それに親友という言葉が馬鹿馬鹿しく聞こえたから、少し煽りたかったのもある。
「新堂の親友ね。ま、それならそれでいいんじゃないか」
「うん? どういう意味?」
「意味はねえよ」
椅子から立ち上がり、そのまま、教室の外に向かって歩いていく。
「俺から言うことはなにもねえから、気になるなら親友の口のほうを割らせてみるんだな。てか親友だって言うなら、まずはあっちで困り果ててるま、じゃない。新堂を助けてやったらどうだ?」
涼やかな秋風。濁った灰色の空。
屋上でいつもどおりにごろり。横になって目を閉じる。が、全然眠れそうにない。風邪を治すためといえ、やっぱり昨日一昨日と寝続けていたのが原因だろう。
まあやりたいことがあるわけでもないから、目を閉じて時間潰し。それから少しして、階段のほうからこつこつこつ、という音が聞こえてき始める。
「やっぱりここにいた。あなたいつも寝てるわね」
「まゆか。めんどくさい質問攻めは終わったのか?」
聞き慣れた声に反応して身体を起こす。屋上と校舎を結ぶ昇降口を見てみると、その入り口にまゆが立っていた。
「うん。納得してくれたかはわからないけど、とりあえずは終了。あなたのほうは、なんだか随分静かそうだったわね」
「ああ、まあな。俺のほうにはだーれも聞きにこねえ。ま、来てもうっとうしいだけだから別にいいんだけど」
「こないのは仕方ないでしょ。下手にあなたに話しかけるのは危ないだろうし。なんなら、プラカードでも首から提げておく? 迂闊に手を触れないでくださいって」
「殴るぞ糞女」
「どうぞお好きに。傷害罪で訴えるだけだから。ほら、邪魔だからちょっとそこどいて」
俺を押し退けて場所を占領すると、白いハンカチをアスファルトの上に敷く。スカートを押さえながら両足を大きく伸ばし、そのまま座り込む。
「真面目でおしとやかが売りの委員長がそんなことやっていいのかよ」
「いいの。あなたに影響されたってことにするから。疲れてるんだから、ちょっと休ませてよ」
後ろ髪をぴんっと指先で弾くと、体中の疲労を取り除くように深い息を吐く。そのまま、ぐーっと真後ろに大きく身体をそらす。
「だいぶ疲れが溜まってそうだな」
「まあね。あんなにたくさんの人と話をしたのは初めてだから」
「めんどくさいなら、次に来たときは追っ払ってやろうか?」
「それじゃあ肯定してるのと同じじゃない」
ため息混じりにしみじみと言われる。うぜえ。
「ああ、そういや俺のほうに聞きにきた奴が一人いたな。ほら、しょっちゅうおまえと一緒にいる性格のきつい奴」
「真奈美のこと? そういえばいないなーって思ってたけど、そっか、あなたの口を割らせようとしてたんだ」
「そう、そいつだそいつ。こころとは親友とか言ってたから、親友ならそっちに当たれって追い返したけどな」
「親友かぁ。こころと真奈美の付き合いは小学校の一年生からだから、確かにそう言えなくもないかな。中学の時の修学旅行でも、おんなじ班だったみたいだし」
「小、中? おまえが生まれたのは今年の六月なんだろ? なんでそんなことを」
「ああ、えーっとね。記憶を引き継いでいると言えばいいのかな。こころが見たものや聞いた事。どうしてかわからないけど、私はそれを全て覚えているの。幼稚園のお遊戯会。小学校の運動会。高校受験。ただあくまでも覚えているだけで、その時その場所でこころが何を思っていたか、何を考えていたか。そういったものは想像する事しか出来ないの。客観的な視点、客観的な心で記憶を見ているだけ。映画やドラマをイメージしてくれたら分かりやすいかな」
「想像と自分の中のイメージ。ああ、だからあいつは、なにか違うって感づいたわけか」
「どういうこと?」
「前におまえの様子がおかしいって思いかけてる奴がいるって言っただろ。それがその親友ってことだよ。今のとこは大丈夫そうだけど、そのうちばれるかもな」
「……そう、忠告ありがと。なら、何か隠しごとがあってそれを隠そうとしていたとか、適当な嘘をでっちあげる必要があるか」
相変わらず、自分に関しては妙に引っかかる言い方をする奴だ。隠しごとは事実だし、嘘のでっち上げもなにも、最初から事情を話せば似合わないキャラ作りの必要もないだろうに。
「変なことしないで、素直に自分のことを話したらどうだ? たしかにおまえは変人で性格もあれだけど、本当のことを言えば案外受け入れて――」
「それは駄目」
はっきりとした口調。怒鳴ったり叫んだりしてるわけじゃないのにその声には妙な迫力があって、思わず勢いに飲まれそうになった。
「ったく。自分のことは秘密にしたいって、なんでそんなに必死なんだか」
「……何に必死になるかなんて、そんなの人の勝手でしょ」
押しても引いても効果なし。相変わらず、自分のことは絶対に人に話そうとしない。
「あ、いたいた。こころーーー」
突然女の声が聞こえて、びくり、とまゆが激しく肩を震わせる。だれかと思って昇降口を見てみたら、自称こころの親友が大きく右手を振っていた。
「……ど、どうしたの真奈美ちゃん。こんなところに」
慌てて立ち上がりハンカチをポケットにしまうと、まゆはスカートを軽く手の平ではらう。少しだけ反応が遅れたのは、驚いたせいでキャラ作りに時間がかかったからだろう。
「うん。天城君とのことを聞こうと思ってたんだけど……こんな人気のない場所に二人きりってことは、やっぱりそういうこと?」
「ち、違うよ。変な誤解をされちゃったけどどうしようって、天城君に相談に――」
「はいはい。ならそういうことにしておくね。でもこころがこんな凶暴で素行の悪いのを……少し意外だな」
「もうっ。そういうことじゃないって!」
まゆの本性を知っているだけに、このあからさまなキャラ作りが妙に気持ち悪かった。本物のこころを知っている奴からすれば、『まゆ』のほうが異常に見えるのだろうけど。
作り物のやりとりを眺めてしばらく。予鈴が大きな音を響かせる。
「あ、休憩時間終わりか。それじゃこころ、そろそろ戻ろう。あと、天城君も」
屋上を降りて階段へ。とんとんとん、と足音を響かせて、そのうちに聞こえなくなってしまう。
「ふうっ。今のタイミングは予想外」
と、まゆは緊張を緩めながら息を吐き出す。相変わらず、無駄な変わり身の早さだ。
「しっかし、おまえもいつもいつもよくやるな。辛抱強いっつうかなんつうか。いつか我慢の限界に達して素を出すだろうって期待してるのに」
「……ぼろなんて出すわけがない。あなたが転校してくるずっと前から、私はこころを演じ続けているんだから」
「へぇへぇ。こころが目を覚ますまでだったか? まゆ。おまえさ、なんでそこまでこころにこだわるんだ? 二重人格がどういうのか詳しくは知らねえけど、おまえとこころは別人。いや、別人格なんだろ。だったら」
「必要とされたから」
まゆは考える素振りすら見せなかった。他がなんだろうとそれだけは絶対。
譲れない。決まっている。確信。
まゆの言葉には、そんな強い意志が込められているように思えた。
「必要とされたから。だから私はいま、ここにいる」




