『帰ってなんかこねえよ。永遠にな』
病院から一歩外に出ると、蒸し蒸しとした残暑が身体を蝕んできた。片側が四車線。左右合わせて八つに区切った巨大な道路を何十、何百、何千という数の車が行きかっていて、道路の両端には灰色や白色のビルが森の木みたいに生え揃っていた。
ほんとに、似たような色ばっかだな。
白と黒と灰色。周囲のどこを見回しても目に付くのはそんなものばかりで、なんともいえない味気なさを感じてしまう。
騒音と排気ガスが溢れるコンクリートだらけの世界。太陽に焼かれたアスファルトが高熱を放つその中を歩き続けていると、左側にたくさんの木々が見えた。今度はビルじゃない。本物の木。
むせ返るような土の匂いにひたすらうるさいセミの声。風が吹くたびにかさかさと葉っぱが揺れて、真っ白の小さな蝶が木の枝で翅を休めていた。
山の自然から一部分だけを切り取ってきたような異様な光景。緑を増やすつもりかなにか知らないが、見ていて少し変な気分になる。
別に緑があるのが悪いとは思わない。木や土が本物と違うなんて言うつもりもない。それでも、なんだかパズルのピースが間違った場所にはめられているようで……。
やっぱり、偽者っぽいんだよな。
踵を返し、とっとと家に向かって歩き出す。汗がシャツに張り付くぐらい蒸し暑いのに、わざわざ緑なんて見ていてもしょうがない。
偽者といえばあいつも、ある意味偽者ってことになるのか?
たしか、まゆとか言ってたな。
新堂こころって身体に無理やりはめ込まれた、間違ったパズルのピース。
不安がらせてみたらあっという間に青白くなって、動きを止めたまま、じっとなにかを考えてるみたいだった。めんどくさかったからそのままにしてきたが、一応、ばらすつもりはないくらい言ってやるべきだったか?
少しだけそんなことを考えて、すぐに頭を横に振る。
馬鹿馬鹿しい。なんで俺がそんなことを。
蒸し暑い中を歩き続けているからか、妙に身体に熱がこもっている気がした。なんとなく足取りが重いし、ひどく喉が渇く。
そのうち、遠くのほうに見慣れたぼろアパートが見えてきた。二週間ほど前。夏休みが終わる前にあの女と一緒に越してきた場所。あの女が、長い間ずっと暮らしていた家。
…………。
アスファルトをどんっと、思いきり踏みしめて歩く。
味気ない作りをした灰色のアパート。等間隔に並んだドアの一つに手をかけ、鍵を開けてドアノブを回す。
「あっ?」
瞬間、頭の中が真っ白になった。足に力が入らず、思わず片膝をつく。
なんだこれ……。
目の前がぐるんっと暗転して、吐き気がこみ上げてくる。
貧血のうえに風邪が悪化……か? ああ、そういや薬。飲み忘れてたな。あいつに会って、訳わかんねえこと言われて――。
考えがまとまるよりも先、水面に垂らした絵の具みたいに思っていたことが四散してしまう。
気持ち悪。つぅか、しゃれになんねえなこれは。
冷や汗でもかいているんだろう。額に右手を押し当てると、冷たい感触が指先に返ってきた。
「天城智也。あなた、何やってるの?」
とん、という足音が聞こえたのはそのときだ。気持ち悪さを無理やり押さえながら見上げると、病院で出会ったあの女、まゆが俺を見下ろしていた。
「体調不良? よかったら手を貸すけど」
「……なんでもねぇよ。どっか行ってろ。ってか、なんでてめえがここにいる」
「口封じ」
ポケットから茶色い棒を取り出し、出っ張りを指で摘んで中に入っていた刃を伸ばす。それがなにかは一目でわかった。
「馬鹿みたいに私の事を言いふらされたくないから」
「なっ――」
「何驚いているの。冗談よ、そんなわけないでしょ」
折り畳み式ナイフの刃先を閉じて、ごそごそとポケットに仕舞いなおす。
「本当は、あなたの弱みを握りにきただけ。人質になるものがあれば、あなたも迂闊には私の事を言い広められなくなるから」
「それ、口封じとたいして変わらねえよ……」
「そうかもね。ほら、肩貸してあげるからとりあえず中に入ろ。あなたの家、ここで合っているんでしょ」
無理やり身体を起こされ、部屋の中に入れられる。屈辱にしか感じないが、抵抗できるほど体力が残っているわけでもなかった。
部屋の中はそれほど広くない。薄いだけが取り得のテレビに、ペットボトルの水と冷凍食品しか入っていない冷蔵庫。テーブルの上には朝食のときに使った皿がそのまま残っていて、脱ぎ散らかした寝巻きがそこらに散らばっていた。
しかし、こうやって見てみると。
「なにこれ、汚い部屋。せめて服や皿ぐらい片付けときなさいよ。あと、そこに転がっている布団も」
「うるせ。勝手に人の家に上がりこんでケチつけんな」
自分でも汚いと思ったが人、特にこいつに言われると必要以上に腹が立つ。
「ふん、瀕死のくせに偉そうに。まあ布団が敷いてあるほうが寝かせやすいから、私としては楽でいいのだけど」
シーツがぐちゃぐちゃなままの布団に寝かされると、頭の中を冷たい感覚がすーっととおり過ぎていった。ひとまず、最悪の気分からは回復できたようだ。
「とりあえず、薬をくれ」
「いきなり命令? まったく、勝手に人の家に上がりこむなって言っておきながら……えっと、解熱剤は――」
「そっちじゃなくて、黄色いでかい玉のほう。あと水も頼む」
「風邪薬じゃないの? まあいいけど。それじゃ、悪いけど冷蔵庫を開けさせてもらうわよ」
そう言って立ち上がり、まゆは部屋に置かれた冷蔵庫まで歩いていった。それから少しして、コップに水を入れて戻ってくる。
「はい、これ」
「ん、悪いな」
薬を口の中に放り込んでごくり。水ごと思いきり飲み込む。すぐに楽にはならないが、なんとかこれで大丈夫だろう。
「……なんだよ、まだなにかあるのか?」
気がつけば多重人格の女。まゆがじっと俺を見つめ続けていた。正直、監視されてるみたいで落ちつかない。
「悪いのは、むしろ私のほうでしょう」
「はっ、いきなりなに言って」
「これ、昨日貸してもらった傘だけど」
手に提げていた紺色のかばんを開き、まゆは水気のとれた折り畳み傘を差し出してくる。
「私にこんなものを貸したからずぶ濡れで帰ることになって、そのせいで風邪を引いたんでしょ。だから、」
「ストップ。いいって、そういうのは。全部俺が勝手にやったことだし、それに、ぶっ倒れた理由は風邪とは関係ねえ」
「そう……なの? まあ違うと言うならそれでいいけど。あ、そういえばさっきあなたがよこせって言ってたこの薬なんの……鉄剤?」
「あ、てめっ。なに勝手に見てんだよ」
俺の文句になんて全く耳を傾けず、まゆは錠剤の成分について書かれた紙を黙々と読み続けていた。
「これ、ようは鉄分を補充する薬よね。なんでこんなものを」
「ちっ、うるせえな。貧血対策だ貧血対策。なんたら遺伝ってやつが原因で、俺は極端に鉄分を取り入れづらい体質をしてるんだとよ。食べ物からはまともに摂取できねえし、注射じゃ拒否反応が出る。で、その鉄錠ってので無理やり取り入れてんだよ」
「貧血対策? じゃあひょっとして倒れた理由って」
「ああそうだよ、ただの貧血だ。だから言っただろ。風邪とか、そういうのとは関係ないって」
「ふぅん。なんだ、じゃあ心配して損しちゃったな。でも風邪薬も飲んでおいたほうがいいんじゃない? 一応、熱は出てるんでしょ」
そう言って風邪薬を手渡される。薬を飲むのはいいが、自分の家にこいつがいると思うといまいち落ち着かない。
「はいよ、ありがとな。で、おまえ一体いつまでいるつもりなんだ? 邪魔だからいい加減帰れよ」
「虫の息の分際で何を言っているんだか。少し寝てなさいよ。心配しなくても、ご家族と鉢合わせになる前に退散するから大丈夫。あ、確認しておくけどあなたの両親、昼間に帰ってくるなんてことは」
「心配しなくても帰ってなんかこねえよ。永遠にな」
「えっ、どういうこと?」
まゆの発していた声が凍りついたのがわかって、思わずため息をつきたくなる。
うぜぇ。そっちが出した話題なんだから勝手に口ごもるな。
「父親は俺が物心つく前に蒸発。母親のほうも俺を田舎に置き去りにして、時々、思い出したようにふらっと顔を出してただけなんだよ。田舎のじじいとばばあはまだ生きてるから身寄りがないわけじゃないけど、よぼよぼの老人どもを都会に連れて来てもしょうがねえだろ」
「……それじゃああなた、一人暮らしってわけ?」
「ああ、今はな」
「今は?」
「東京に越してくるきっかけ、母親が作ったんだよ。いつもどおり急にやってきたと思ったら家族をやり直したいだのなんだの訳わかんねえこと言って、東京で一緒に暮らそうって言いやがった。で、俺はそれにのこのこついて来たと」
「こっちで暮らそうって、それっておかしくない? だったらなんで一人暮らしを」
「おかしかねえよ。こっちに来て、三日で母親がどっか行っただけだ」
「えっ、やり直したいって言ってたんじゃ……」
「さあな、気が変わったんだろ。あいつは、いっつもそんなんだったから。けど転校手続きを済ませた矢先にってのは痛かったな。おかげで田舎に戻るわけにもいかなくなって、その結果が一人暮らしってわけだ」
「その結果がって……」
まゆは、声を失ったままじっと視線を下に傾けていた。それから少しして、擦れかけの小さな声を出す。
「なら、もう少し寝ていたら? 体調が悪いときぐらい、誰かを頼っても罰は当たらないだろうしさ」
「そういうのはいらねえよ。おまえに同情される筋合いはないし、第一、いても邪魔なだけだ」
別に同情されたくて話をしたわけじゃない。それに以前から一人暮らしをしたいと思っていたから、過程はどうあれ、現状にそれほどの不満はなかった。が、
「……何か勘違いしていない?」
立ち上がって俺を見下ろし、まゆは、布団ごと身体を踏みつけてくる。
「私はあなたに余計なことを喋らせないために、わざわざこんなアパートにまでやって来たの。そしたらあなたが死に掛けてた。ううん、状況的には今も似たようなものか」
踏みつける足に、ぐぅーっと体重を押し付けてくる。
「ぐっ。てめぇ、なにが言いてえんだよ」
「別に。ただ完全にあなたを見下すことの出来るこの状況を満喫せずに帰るのは、ちょっともったいないと思っただけ。と言ってもごみ屋敷を楽しむ趣味はないから、私の独断で好きに掃除させてもらうけど」
「おまっ、ふざけんな。なに勝手なこと――」
反論しかけたその拍子、もう一度強く踏みつけられる。
「寝てろって言ってんの。貧血も風邪も、睡眠が一番の特効薬になるんだから」
「っち、相変わらず勝手ばっか言いやがって。みてろよてめえ。体調が回復したら、ふざけた態度とったことを後悔させてやるからな」
「はいはい、体調が回復したらね」
なにか文句を言おうと思ったが、どうせなにを言っても聞く耳持たずだろうから黙っていることにした。何気なく視線を傾けてみると、まゆは何故だかご丁寧にゴミ袋を片手に散らばった紙くずや弁当の容器を片付け始めていた。
なんだかんだ言っても、やっぱり世話焼きなんだよな。
ぼんやりとそんなことを考えながら天井を仰ぐ。
少し黒染みの混じった天井が高く、見ているとだんだん、気が遠くなっていった。
本日の投稿はここまでになります。
この物語は全四章構成で、イメージ的には
ここまでが第一章という形になっています。




