『おまえ……誰だ?』
降水確率十五パーセント。ところにより、にわか雨が振るでしょう。
窓から見える豪雨にぼんやりと目を傾けながら、朝の天気予報を思い出す。
東京に越してからにわか雨に振られるのはこれが初めてだが、グラウンドがどろどろに汚れてあちこちに池みたいな水溜りの出来る天気がにわか雨とは、さすがに都会は一味違う。
こういうところだけ用意周到ってのも、変な話だよな。
錠剤をお茶で胃の中に流し込むと、学生かばんを開いて縞模様の入った折りたたみ傘を確認する。
ハンカチやティッシュはおろか筆記用具すら忘れることがあるのに、傘だけは手放さない。そんな自分が、なんだか少しだけ情けなく思う。
「天城君、ちょっと」
急に名前を呼ばれて振り返ると、教室の入り口で知らない女が手招きしていた。たしか昨日、新堂と話をしていた女だ。
「なんだよ急に呼び出して。ってか、誰だっけ? おまえ」
「お前とか言うな! 鈴原真奈美。クラスメイトの名前くらい覚えときなさいよ馬鹿」
類は友を呼ぶ。新堂と仲が良さそうだったが納得した。こいつの性格も最悪だ。
「物覚えが悪いからな。それに、大して興味もない奴の名前を覚えてもしょうがないだろ」
言った瞬間、つま先を思いきり踏みつけようとしてくる。察知して足を後ろに引くと、どんっと激しい音が周囲に響き渡った。
ぎろり、とこちらを睨み付けてくるが無視。いちいち相手をするつもりはない。
「で、俺を廊下に呼び出したのは喧嘩を売りたかっただけか?」
「喧嘩なんて売ってない! そっちが変なことを言うから悪いの! って、そんなのどうでもいいか。それよりこころのことを聞きたいんだけど、あの子を見ていて何かおかしいって思ったことはない?」
「どういう意味だ?」
「その、だから無理をしてるように見えないかってこと。なんとなくだけど、こころ、今年になってから少し変に見えるから」
「変に見えるって、本性押し殺して無理やりキャラ作りしてりゃそんなの当たり前だろ。心配なんかする前に、まずはキャラ作りを止めるよう言ってやれよ」
そんなことを言いながら、心のどこかで少しだけ安心している自分がいた。
俺の前だけなんて言っていたが、他の奴の前でもちゃんと自分を出していたのか。
「こころがキャラ作りって、なんのこと言ってるの?」
「はっ? だから、おまえと同じでどぎつい性格してるだろ。あいつも」
「誰がどぎつ……ま、まああたしについては否定しないけど。でもこころの性格がきついはありえないでしょ。だいたい天城君の席はこころの隣だし、さぼってるのをよく連れ戻されたりもしてるんでしょ。だったらこころの人の良さとか、普通はわかるものだと思うけど」
人の良さが普通はわかる?
どう考えても不自然なことを言っているようにしか思えないが、目の前の女が嘘をついているようにも見えなかった。
ただ、確かにこいつの言うとおりでもある。表面だけを見れば新堂は友達思いの性格をしているようだし、困っている人を積極的に助けようとする、お人好しな面も強い。
「どうしたの? 急に黙り込んで」
「……なんでもねえよ。ところで、今年になってから新堂が変になりだしたって言ってたな。ってことは、去年はそうでもなかったのか?」
「うん、今年の六月くらいからかな。なんていうか、違和感を覚えるようになったの。こころなのにこころじゃないみたいな」
「新堂じゃないなら誰だって言うんだよ。双子の妹と入れ替わってるとでも言う気か」
「誰かなんてわかんないよ。こころは一人っ子のはずだし、こころそっくりの子なんて見たこともないし。でも、何かがおかしいのは確かなの。理由はわからないけどこころはあたしに、ううん。みんなに対して嘘をつき続けてる」
猫の皮をかぶるのも、広い意味で言えば嘘の一つに含まれる。新堂がおかしいのは俺も知っていたから、嘘という言葉に対して特別になにかを思うことはなかった。
ただ、今年の六月という言葉が妙に頭に引っかかる。あんなに極端な二面性を持っているならもっと昔。それこそ、小学生のころに変だと思うのが普通な気がするが……。
今までは隠し通せていたけど、今年の六月についに感づかれた。
それが一番無理のない考えだが、どこかすっきりしない。
釈然としないまま考えごとを続けていると、不意に、あの日の情景が思い浮かんできた。
ぐるりと世界が反転をした日。あらためて『本当』を思い知らされた日。
「……無理でも変でも、俺には関係ねえよ」
頭の中に湧いてきたものと新堂に関すること。結局、両方を強引に終わらせる。
「関係ないって、そんな言い方――」
「うるせぇな! どうでもいいんだよ。新堂のことなんて」
言葉を吐き捨て、そのまま、くるりと踵を返す。
世界なんてものはとても不安定だから、ある日を境になんの脈絡もなく姿を変える。
その変化に耐えられず、自分自身も変化する。
そんなのはよくある話で、俺とは何の関係もない。
そう。関係がない、はずなのだ……。
昼過ぎから降り始めた雨は夕方になっても衰えることを知らず、今もまだ、アスファルトの地面に雨音を響かせ続けていた。
今日は一日、ずっとこんな調子かもな。
細長く続く廊下の右手側。銀色の枠で縁取られた四角い窓を眺めていると、雨水をたっぷりと含んだ灰色の雲が一面に覆い被さっているのが見えた。ごろごろと唸り声を上げながら、カメラのフラッシュのように一瞬だけの光を放つ。
両隅に埃の溜まった白い床を歩き、足音を響かせながら階段を下る。すると、昇降口の近くで見慣れた後ろ姿を見つけた。
胸の辺りまで伸びた長めの黒い髪。つま先から膝までをぴんと強く張っていて、背伸びしてるような姿勢で、小さな背中を必死で大きく見せている。
「なにやってんだ? こんなところにぼーっと突っ立って」
声をかけると予想どおりの相手。新堂こころがこちらに振り返る。
「あなた……天城智也。別に、ただ何となく外を眺めていただけ」
わざわざ人のことをフルネームで呼んで、新堂は泥まみれの校庭に視線を戻す。
こちらのことは気にも留めていない。興味も持っていないようで、無視しているようなその扱いが、軽い苛立ちを覚えさせた。
「なんとなくで立ってられたら邪魔なんだけどな。用がないなら帰ったらどうだ?」
「そう思うならあなたが帰ればいいでしょう? 後から来ておいて人を邪魔者扱いなんて、まともな人の考え方じゃないと思うけど」
売り言葉に買い言葉。
こいつが女じゃなかったら、たぶん確実に手を出していたと思う。
「あーあーあーあー。まともじゃなくて悪かったな。けど、用もなくどしゃぶりの雨を眺めてるような馬鹿に比べれば――」
言いかけて、気づく。
「ひょっとして、傘を忘れたってオチか?」
プライドが服を着て歩いているようなこいつのことだ。傘を忘れて立ち往生していても、絶対に自分からその話題を出そうとはしないだろう。
「あなたと一緒にしないで。そんなわけないでしょ」
案の定、無意味に嫌味を口にして話の軸をずらそうとしてくる。
常にこちらに喧嘩を売っているような、攻撃的な口調。
そういう性格の奴には、一人心当たりがあった。周囲全てを敵ととらえ、無意味に相手に噛み付こうとする。噛み付かないまでも怒らせることで相手が自分の領域、心に触れてこないようにする。
「やっぱてめぇ気にいらねえわ」
「何を言ってるのいきなり。というより、別にあなたに気に入られたくもないのだけど」
「…………」
「…………」
互いに沈黙。もちろん気まずくてとか言葉に詰まってとか、そんな類が理由なわけじゃない。
「で、傘を忘れたんじゃないなら、なんで馬鹿みたいに外を眺めてたんだ?」
「何だっていいでしょ。あなたには関係ないのだし」
いい加減黙ったままというのも面倒だったので話題を振ってみたが、予想どおり、返ってきたのは嫌味を含んだ言葉だけだった。
「関係ないか。ま、確かにそりゃそうだ。いちいちおまえに付き合ってやる理由もねえし、そろそろ帰るわ」
かばんから折りたたみ傘を取り出し、ばさっと大きく広げる。学生かばんに入れられるだけあってそれほど大きくはないが、一人で入るには十分な大きさがあった。
「あ、傘……持ってたんだ」
「ああ? 持ってたら駄目なのかよ」
「ううん。そうじゃないけど、あなたが不測の事体に対しての準備をしてたのが、少し意外だったから」
相変わらず、口の減らない女だ。
「……なんなら、入ってくか」
「えっ?」
「だから入るかって聞いてんだよ。無理やり詰めれば入れないこともないだろうし、どうせ、本当は傘を忘れて途方にくれてたんだろ」
親切の押し売りをする気はないが、このまま新堂を放って一人で帰るのも寝覚めが悪い。だから一応は声をかけてみた。が、
「違うって言ったはずだけど?」
「はっ?」
一瞬、なにを言っているのか意味がわからなかった。
「だから傘を忘れたわけじゃないの。忘れたのは真奈美で、私は自分のを貸してあげただけ」
「私のを貸したって、なら、どっちみち今は持ってないってことじゃねえか」
「それはそうだけど、別に私が忘れたわけじゃないから。そこを勘違いしないで」
「ああ、はいはい」
変なところでこだわりを見せるのは優等生としてのプライドとか、そういうものなんだろう。もっとも、こいつの場合は単純に意地を張っているだけかもしれないが。
「それにしても自分のを貸して雨が止むのを待つって、馬鹿だろおまえ。つうか、借りたほうも大概だな。一つしかないなら相傘でもすりゃいいだろうに」
「それが出来ればよかったんだけど、私はまだ学校での用事が残っていたからね。私の都合で真奈美を待たせるのも悪いし、それに、傘は二本持ってきたから大丈夫って言っておいたから」
「は? なんでそんなわけわかんねえ嘘を」
「友達思いだからね」
にこやかな笑みを浮かべながら、新堂は無意味に胸を張る。
「ま、そのせいで損な役回りになるのがたまに傷だけど」
その言葉は、自分ではない誰かのことを言っているように思えた。仲のいい誰かを自慢しているような言い方。その子を誇るような言い方。
『こころなのに、こころじゃないみたいな』
新堂のことを心配していた女の言葉が頭に蘇ってきて、
「おまえ……誰だ?」
気がつけば、口元からそんな言葉が零れ落ちていた。
「……!」
その直後、新堂ははっとしたように口元に手を当てる。
「……消えて」
微かにそう呟いたかと思うと、胸の辺りに思いきり拳を叩きつけてくる。
「消えて消えて消えて。私の元から居なくなって。今すぐに!」
どうしてこんな取り乱し方をしているかわからないが、とりあえず凄くうっとうしい。それにキレた女に胸を叩かれるなんて状況、誰に見られても具合が悪い。
「ちっ、うるせぇな。わかった。わかった。んじゃほら」
握っていた拳を強引に開かせると、かばんから取り出した傘を無理やり握らせる。
「あ……えっ?」
「月曜には返せよ。じゃあな」
かばんを頭の上に掲げてそのまま、泥まみれの校庭へと飛び出す。
やっぱりあの女(新堂)は気に入らねえ。
そんな事を思いながら靴の踵で泥を大きく巻き上げ、灰色の雲の下をひたすらに走り続けていった。




