第八章 縁は異なもの、味なもの
秋の夕暮れ。紅葉は消えかかり、暗闇と沈黙が制す、夜を迎えようとしていた。遠くの方から、カーン、カーンと物寂しそうに、鐘の鳴る音が聞こえる。
家の中はというと、満面の笑みで、また、せわしくキッチンとダイニングを行き来している母さんの姿があった。テーブルに次々と並べられる料理は、いつもと違って特別な日に出すような、豪華なものあった。
今日って、何か特別な日だっけ。体育の日はとっくに終わったし、僕らの誕生日も終わったし、勤労感謝の日はまだ先出し…というよりも、確か僕らの誕生日以外の日は、例年こんなに豪勢にしたことはない。では何のための料理であろうか。
僕はこのことを調べるべく、ソファーから身を乗り出し、少しほころんだ顔をつくって言った。
「母さん、ところで、今日の夕飯は何?」
僕は直接聞き出すのではなく、あえて遠回りに聞くことにした。なぜなら、それがいつもの僕のスタイルだからだ。
母さんはテーブルにフォークとスプーンを並べながら、照れて言った。
「ふふん、ヒミツ」
母さんは上機嫌だ。やはり、今日は何か特別な日なのであろうか。予想外の返答に僕の計画は台無しになり、そのうえ、話が聞きづらくなってしまった。こうなるのであれば、初めから率直に聞いておけばよかったとつくづく思う。まえもこうやって失敗したことがある。そろそろこのスタイルを変えようかな。しかし、鼻歌を歌いながら料理をしているので、今日が何の日であるのか、そのことは夕飯のときに聞くことにした。
外はすっかり暗闇に覆われ、空は象牙色の歯をみせて、薄気味悪く笑っていた。
数時間経ち、母さんはイスに座り、やたらに外をにらみつけ、足を小刻みに動かし始めた。この動作は、これから火山のように爆発的に起こる兆候である。非常に危険な状態だということは、誰だって理解できる。
そして母さんはひじを机に強く叩きつけた。
「遅い、遅すぎる」
母さんは手を組み、怒りがこもった声で言った。どうやら父さんのことを待っているらしい。そういえば、電話から厳しい口調で誰かと話していた。あれは父さんだったのだろう。それにしても、この怒り具合は半端ではない。きっと今日は、よっぽど大切な日なのであろう。
僕はその怒りの矛先がこちらにいつ来るか心配だったので、ひとまず二階の自室に避難することにした。
二階に上がると、ふと深雪のことを思い出した。多分、寝ているのであろう。
僕も自分の部屋に入り、ベッドに横たわった。そして、まだ眠くもないのに目を閉じた。
「ただいま」
父さんの少しおびえた声とともに、勢いよく居間の扉が開く音が聞こえた。僕はその音を聞いて、目を大きく開いた。
「何やってたのよ。今日が何の日だか知ってる?もう、やんなっちゃう。ホント、昔からあなたって無神経。馬鹿…もういいや。私、もう寝る」
母さんは怒声と父さんを玄関に残して、二階に上がってきた。そして主寝室のドアを開け、家に大きな雷をひとつ落とした。その音に、僕の心臓が震えた。
今まで、どんな些細なことでも喧嘩をしてきた二人だが、それは喧嘩するほど仲がいいというもので、二人の喧嘩を平和に眺めることができた。しかし、今日のは違う。ここまで大規模な喧嘩をしたのは初めてだったのだ。
僕はしばらくベッドに横たわったままでいながら、真っ白な天井をただ呆然と見つめていた。白い光に照らされ、宙を舞うほこりが鳥の羽のように舞い上がる。そのほこりは僕の上を旋回し、蝶のように僕の鼻の上に着地した。僕はすぐに指で払い、ベッドから体を起こした。僕は机の上の時計の時間を確かめ、すぐに部屋を出た。
廊下を通る時、主寝室に通じる廊下が、なんだか熊の住処のように見えた。そして階段を下り、黄色い光が玄関まで染み込む、リビングに入った。
リビングに入ると、父さんはイスにえらそうに腰をかけていた。そして深いため息を一つ。自分をいっそうに黒くした。
「父さん、大丈夫?」
僕は小さな声で、いかにも恐縮そうな表情で言った。
「ああ、要か…ごめんな、こんなことになっちゃって。自分が、腑がないから…」
父さんは頭をかきむしり、今度は重いため息をついた。
テーブルの上には、すっかり冷え切っている夕飯。僕はそれをじーっと眺めていた。そして唐突に一つの言葉が出てきた。
「で、父さん、どうしたの」
父さんは一度こっちを見ると、またうつむいた。そしてすっと立ち上がり、キッチンに向かうと、お茶を注いだ。そして一呼吸もなく、一気にコップ一杯を飲み干した。
「要も飲むか」
僕はうんとうなずき、父さんの席の前の席に座った。
父さんはお茶を両手にキッチンから出てくると、深々とイスに腰掛けた。
「さて」
父さんはゆっくりと息を吐いた。
「食べるか。もったいないし」
父さんは自分の夕飯を手元に寄せ、コップの中の箸を手にした。
「今日は、ちらし寿司か…悪いことしたな」
少しの間、うつむいたかと思うと、天井を見上げ、僕を見た。
「で、なんか言ったか」
僕はまた同じこと言った。
「ああ、そうだったな…知りたいのか」
僕は軽くうなずき、両手をイスの手すりにかけた。そして強いまなざしで父さんを見つめた。
「そうか。もう、教えてもいい時期になったかな…オレ達の結婚記念日」
「結婚記念日?」
初めのうちはまったくといえるほど、心当たりがなかったが、すぐに今までのことを思い出した。
そういえば、去年も一昨年もその前も、母さんがキッチンで楽しそうに料理の準備をしていたのを、僕はかなり繊細に思い出した。あの時には分からなかった、今日は何の日だったか、やっと解明された。
そして父さんの口がゆっくりと開く。
「あの日、オレが高校生の時…
「おい、あの子、可愛くないか」
「そうか」
それは相変わらずに人とはまったく違う趣味をたどっていた雄治の姿があった。高校に無事入学し、そろそろ学校に慣れてきそうなころに、雄治は見た。
オレは廊下の窓際の壁にもたれかかり、目の前のある一点を見つめていた。そして友人がオレにあきれたような顔で言った。
「お前、もっと広く視野を持てよ」
友人は教室から廊下に出てきたある女子を見かけた。
これが二人の出会いであった。
そして友人がオレの肩を引っ張った。
「おい、見ろよ、あの子」
友人はひどく興奮し、さらに肩を強く引っ張った。そのこともあったのか、少しは興味があったのかは分からなかったが、ふとその方を見た。視界に一瞬、美しい髪、きれいな輪郭がくっきりと見えた。そして顔がはっきりと視界に写る。
そして彼女が自分の前を通るとき、気持ちのいい香りを残して過ぎ去った。
「ああ、オレ、あの子がいい」
友人もすでにメロメロであった。
「…じゃあ、授業はここまで。号令」
チャイムがなり、昼休みになった。オレと友人らは、机をつなげて小さな班をつくった。そして弁当を取り出し、食べ始めた。友人とは中学校からの付き合いが多く、今でも友好な関係を築いている。
中学校のころの懐かしい思い出、最近の流行、今の高校生活について、そしてこれからのことを話しているうちに、弁当を食べ終わってしまった。しかし話は食べた後でも続いた。そこで、ある一人の友人が一点を指差す。その指先を、全員が一斉に見つめた。
その先は教室の入り口を指してあった。そこにはあの時の彼女がいた。
彼女は雄治の横を通り、彼女の友達らしき人のもとへ駆け寄った。その時もまた、あのかすかな香りを残した。皆の目は、彼女一点に注がれた。彼女は楽しそうに会話を楽しんでいる。
オレはその姿を手にあごを乗せてボーっと見ていた。というより、そんなことしかできなかった。
そして、友人の一人が催眠術にかかっているかのように言った。
「あの子の名前、何?」
もう一人の友人が言う。
「オレ、知ってる。五組の法月さんだよ。名前は確か…何だっけ?」
「法月…さん」
オレも夢の中にいるかのように唱えた。
「お。お前も興味が出てきたのか」
友人はいやらしく言った。しかしオレには、そんな言葉が聞こえなかった。
そしてその時間を途絶やすかのように、予鈴が教室中を取り巻いた。その音を耳にした彼女は、すぐさま教室を去り、残ったのは、チャイムのむなしい音と彼女の香りだけであった。
それからしばらく、彼女をチョコチョコ見かけることがあった。しかし話をかけることもできず、そのまま一年が過ぎた。
二年になり、クラス編成があった。
その日は空も明るく、絶好の日であった。そして胸を躍らせてクラスに向かった。ついに憧れの人と同じクラスになったのだ。階段を上り、ドアが開いている教室が見えた。そしてその教室に入ろうとしたその時、教室から出てくる人と向き合った形になった。相手はなんと、例の法月さんであった。
オレの背筋から耳にかけて、急に発火したように熱くなった。
「あ…ごめん」
雄治が避けると、彼女はまずい顔を作ったような顔で、雄治の前を足早に通った。その時もまた、変わらないトレードマークを落としていった。
せっかく彼女と同じクラスになったのに、まだ一度も話をしていない。しかしそのまま、今年の初めの行事、文化祭が近づいてきた。
その準備で、オレは看板を作ることになった。そしてそのことをきっかけに、オレの人生は大きく左右されることに、その時はまだ知る由もなかった。
文化祭が始まる二日前になり、放課後は皆があわただしくあっちへこっちへと移動する。それなのにオレは友人と二人で、廊下に座りこんで看板を作っていた。作業は簡単なもので、四角く切ったダンボールに、文字を書いたわら半紙を貼るだけのことであった。
しかし、この簡単と思われる作業が、友人にはできなかった。まず、文字は上手く書けない。ここが詰まると、後が続かない。次に、ダンボールを正方形に切れない。完全なる完璧さを彼に求めてはいないが、これはあんまりにもひどすぎた。最後に、のり付けができない。量が多すぎて、紙がしわくちゃになってしまうのだ。
そんなことがあって、早く部活に行きたいのに、オレは長い間、廊下にいることになった。しかも友人は、バイトがあるとか言って、早く帰ってしまった。
廊下に一人にされたオレは、黙々と作業を進めた。
そしてオレは作業に熱中しすぎて、時間など当に忘れていた。それと同時に周囲の音や声も、まったく耳障りだと感じなくなった。それもそのはず、ほとんどの人が自分の分担のことを終えて、帰ってしまったのだ。残ったのはオレを含め、ほんの二、三人程度であった。
夕陽が窓からぼんやりと差し込み、廊下の隅々を照らした。その中で、オレの前に一つの影がその光を閉ざした。
「ねぇ、なんか手伝うことってある?」
あの柔らかい声、あの赤く燃えるショートヘア、そしてあの香り。オレは目の前を見上げた。予想通り、前に立っている、オレに話をかけたのは、彼女、法月芳江であった。
オレの頭は台風が通り過ぎたかのように、まっさらになっていた。そして頭に血が上り、頬と耳が紅潮する。
オレは困った。この状況をどうすればいいのか。廊下の端から端を見ても、今は誰もいない。どうすればいいか、オレは自分自身に問いかけた。そしてその結果として出た言葉は、悲しいほど単純なものであった。オレは一回も息継ぎをしないで言った。
「じゃ、じゃあ…そこの紙をそこのダンボールに全部貼って」
しかし、この言葉を言うだけでも、十分に勇気がいり、オレにとって、かなり精神的に参った。
ああ、こんなときに誰かが近くにいてくれたら。
オレはそんなマイナスな思考もあったが、プラスな面もあった。これはチャンスだ。そういう声をオレは耳にしたのだ。
彼女はオレに言われたとおり、その作業に黙々と取り組んでいる。しかしいくらチャンスがあっても、話しかける勇気など最初からない。勇気を出して話しかけよう、と口までは開くのだが、それがやっとのことで、すぐにためらってしまう。はたしてどうしたものか。
そんなことを考えているうちに、いつのまにかオレの作業は止まり、口を開けながら彼女を見つめている形になっていたのに、オレは気付いていなかった。当たり前だが、彼女はこっちに気付き、優しく微笑んだ。そしてオレの頬は再び紅潮し、石のように固まった。その滑稽な姿を、彼女は柔らかく笑って言った。
「なんか、だめなところでもあった?」
「…いや、なんでもないよ。ただ…疲れてボーっとしてただけ。そのまま続けて」
オレは、気が付いたような素振りをみせて、自分の仕事に戻った。彼女は不安そうな顔を見せたが、やがてもとの仕事に戻った。
そして再び沈黙が暗闇とともに包み込む。今、この廊下には誰もいない。どの教室にも、このフロアには自分たち以外、誰もいない。ただ二人だけ。
再び彼女に話しかけようと挑戦するが、できない。こんな簡単なことができないなんて、と思うと、なんだか自分のことが嫌になってくる。そんな自分に、風はあざ笑うかのように吹いた。
夕陽は薄くなり、教室から差し込む光を頼りに作業を進めた。教室の中でやればいいのだが、移動が面倒くさい。オレは相変わらず作業に集中できず、彼女ばかりを気にしていた。
しかしそんな時間も、完全下校のチャイムが告げる。外から差し込む光もなくなり、教室からの光が廊下でゆらゆらと揺れていた。
時間が時間なので、オレは彼女と目をあわせないように何気ない口調で言った。
「いいよ、そこまでで。今日はありがとう」
彼女は軽くうなずいて、作業に使った道具や材料を片付け始めた。オレもきりのいいところで作業をやめ、片付け始めた。
教室に入り、素早く片付けるべき場所へと片付ける。彼女もオレに続いて、同じように片付けた。そしてバッグを肩にかけ、電気のスイッチの前で止まった。その姿を見た彼女は、急いでバッグを机からひったくって、教室を去った。オレも電気を消して、彼女を追うようにして教室を出た。
昇降口で、初めて彼女の真横に立った。それは、靴を下駄箱から取り出そうとした時に、ただ彼女から寄ってきたのだった。オレはただ立っていただけ。その時は本当に心臓がはちきれそうなほど緊張し、背筋には凍るほどの冷たい汗が流れた。本当に凍ったかのように、体はまるっきり動かなかった。なぜだか分からなかったが、彼女も動かなかった。その間は彼女について思い巡らした。何度も何度も考えた。そして長い二人の金縛りが終わり、彼女が離れて靴を履き替えた。オレも靴を履き替えて、刻々と闇が迫っている外へと出た。
「ねぇ、一緒に帰らない?」
オレは暗がりから聞こえる方に目を凝らした。言うまでもないが、その声の主は法月であった。
オレは背筋が稲妻のごとくしびれ、顔と足は発熱反応を起こした。なんでこんなオレが法月さんから話しかけられるのか。なんでまともに話したことがない俺なんかと帰りたがるのか。俺はそれが不思議でたまらなかった。
「ねぇ、いいの?」
法月は期待で満ち溢れている目でこちらを見ていた。
部活はまだ続いていたが、あと二十分もしたら終わるであろう。今から言ったのであれば、クールダウンをするだけで終わってしまうはずであった。
オレは彼女の目を避けて、まだ空が残っている遠い彼方を見た。そこには、いつもより明るい、悠々たる空が見えた。
電灯を通過する時、二つの影が後ろから前へとオレ達を追い抜く。そして再び後ろに退くと、また追い抜く。
オレはいつもとは違う帰路を歩いていた。完全に幽幽とした空は、なんとも言えない。
突然、彼女はその暗闇から、低い声でオレに話しかけた。
「ねぇ、古葉くん、私のこと覚えてる?」
「…えっ」
オレは法月の目を見つめた。これは羞恥心も勇気もなかった。ただ、法月の言っている意味が分からなかったのだ。いつどこであったのか。いままで法月という人にはあったことがない。
彼女はうつむいて、悲しい目で言った。
「私、芳江って言うんだけど…」
オレはその一言にはっとした。そういえば、どこかで聞いたことがある。それは、確か、小学校の頃だったような。
「…そうだよね。私のことなんて、知らないよね。ごめんなさい。今日は付き合ってくれてありがと。じゃあ、さようなら」
突如、法月は走り出した。
「あ…」
オレはついに思い出した。確か、小学校のころ、芳江という女子がいた。しかしその子の苗字は違っていた。その時の彼女は神村であった。どうして苗字が違うのであろうか。
そんなことを考えていると、法月はいなくなっていた。冷たい風と供に。
法月がどこかにいないかと、辺りをきょろきょろしながら歩道を歩いていると、ある公園に目がついた。そしてぼんやりとした電灯に包まれている公園へと、一人ひっそりと入っていった。
公園の中を一分ほど歩き回っていると、木のベンチに一人ぽつんと座っている女子を見つけた。彼女は頭を抱え、時々、大粒の雨を降らせた。
オレはその姿を見て、近寄り難くなった。どう話し出せばいいのか。オレが知るはずがない。
オレは知らず知らずのうちに、彼女に向かって歩き出していた。
「なぁ、思い出したよ。小学校の頃、五年の時だけ同じクラスだった神村だろ。六年になってからは引越ししたみたいだけど、なんでまた戻ってきたんだ」
彼女はすっかりしわくちゃになった顔を上げた。
「う…うん」
「もう泣くなって。というより、お前だったのか。ずいぶん変わったな」
神村に笑みがこぼれた。そして神村はしゃくり声で話した。
「う…うん、私、ちょっと厄介な…病気になって…いて、しばらく…神戸の方に行って…いたんだ」
「ふーん」
今のオレには、羞恥心や彼女に対する態度というものが、すでに忘れ去られていた。同時に、オレの心境には片思いというものはとうになかった。ただ、懐かしさだけに浸っていたのだ。あまり互いを知らなくても、再会というものは、どんな国境をも乗り越えて、感動を教えてくれる。オレは、今、それに当てはまっている。
オレは彼女から微笑みをもらった。
「そういえば、ずいぶん変わったな。あの時はけっこう太ってたよな」
「あの時は…四年まで、入院していて…何にもしてなかったから」
「そうか」
神村のしゃくり声はだいぶ治まり、顔を上げて話せるまでになった。
「それにしても、なんで苗字が違うんだ?」
「あ、それは…理由が分からないけど、私が中学校に入学したら、父さんの姓から母さんの姓に変えるって、結婚当時から決めてたみたい」
「ふーん」
オレは質問を続ける。
「で、なんで今日は一緒に帰ろうとしたんだ?」
神村はオレを強張った顔をしてみた。そして袖で涙を拭いた。
「馬鹿」
その後は、当然のことのように、彼女を送っていった。
そしてそれから、当たり前のように、家が近いこともあって、彼女と毎日帰るようになった。なぜなら、彼女は弓道部に加入しており、終わる時間が同じだからだ。
オレと法月は、知らずのうちに、彼氏彼女の関係になっていた。
しかし、彼女は高校卒業間近に、今まで治まっていた喘息が再び発病したことがあって、神戸の病院に入院することになった。運よくその病気は、高校の授業の全過程を終えてから発病したので、卒業をすることができた。しかし卒業式には出られない。オレの前では嘆き悲しんでいたが、オレや友人の周りではそんな姿を見せなかった。オレはそんな彼女を見るたびに、心が痛んだ。
そして月日は流れ、彼女が引っ越す前日になった。それは彼女の送迎会の帰りのこと、もう外は闇にのまれていた。
「いよいよ明日だな」
「…うん」
吐く息はまだ白かった。月が公道をずっと先まで照らし続ける。
「どんな気持ち?」
法月は眉間にしわを寄せた。
「やだ…行きたくない」
「そうか」
オレたちは寒い空気の中をずんずんと突き進む。決して後ろを振り向かずに。
そしてしばらくの間、夜が沈黙で閉ざしてはいたが、突然、季節はずれの雪が降り出したことで、二人の口はやわらかく開いた。
「雪…」
法月は足を止め、空を見上げた。雪は彼女の頬について、その白い頬に吸い込まれるように溶けていった。
オレも足を止め、法月の顔をじっと見つめる。彼女の顔は、寂しさを物語っているように見えた。目の下についた雪が解けて、彼女の頬を滴ると、本当に泣いているように見えた。法月はその涙をぬぐうと、オレが見ていることに気が付いた。
「ん、何かついてる?」
「いや…なにも」
「そう」
法月はうつむくと、顔を手で覆い、突然泣き出した。
「どうしたんだ?」
「だって、だって…私、私…」
顔を上げると、口を押さえたまま、法月は眉間にしわを寄せて、発作が始まったように肩を動かした。
「もう何も言うな。とりあえず、公園のベンチに座ろう」
オレは法月を連れて、白くぼんやりと浮かぶ公園へと入った。
公園の道は、商店街の裏道のように暗く、そのおかげで、時々大きい石を蹴飛ばしてしまう。その石は、寂しそうに立っている、電灯の支柱に当たり、公園中に夜を伝える鐘の音を響かせた。雪はまだ降り続いていたが、電灯の光に照らされ蛍のように宙を舞い、ひたひたと地面の上を歩く景色は、とても美しかった。
オレは電灯近くにあるベンチに法月を腰をかけさせ、その右側に自分も腰をかけた。
「ありがと…」
法月はまだ涙を流していたが、だんだんと落ち着きを取り戻しつつあった。しかし何も話そうとはしなかった。オレも口は閉ざしたままであった。
そのまま沈黙が続く。それを遮るかのように、しんしんと雪は降り続ける。二人の間には二人の手が握られていた。暗闇はいっそうに濃くなっていく。しかしそんなことに気が付かず、二人は目の前の一点から目を話さない。
オレは、そのままでずっといたいと思った。しかし、彼女はそんな感じには思えなかった。なぜだろうか。彼女のことを思うと、非常に胸が痛んだ。今を幸せに過ごしているはずなのに、今まで感じたことがない苦痛を感じていた。
彼女は徐々に顔を上げた。
「少し落ち着いたか?」
「う…うん」
法月は手を俺の手の上に重ね、強く握った。その時、オレの頬が赤くなったような気がした。
「ごめんね…なんか、私ったら、泣いてばっか」
法月の頬は、依然、赤く紅葉していた。オレは法月を見ず、暗い空を見上げた。そして体内にたまった気持ちを白い息に変えた。
「そうだな…」
公園の池を眺めると、白い光が浮かんでいた。時々、小さな波紋ができたと思うと、光の中へと吸い込まれた。
オレは一度下を見た。ゆっくりと顔を起こし、肩で呼吸をした。
「これから…どうなるんだろうな、オレ達」
「えっ」
法月はやっと気付いたかのように、オレの方を見た。
「終わるのかな…オレ達」
「なんで?」
法月のほうを見ると、もう泣いてはいなかった。目は真剣だ。
オレはまた前方を眺めた。
「今までの思い出重ねていくたびに、思い出がシャボン玉みたいに膨らんできたけど、簡単に割れちゃうのかな…」
「馬鹿、なんでそんなこというのよ。ここで終わりにしちゃったら、今までのが何なのよ。なんでここでやめなきゃならないの。なんでそんなことを言うのよ。ホント、アンタって無神経。馬鹿」
オレの腕に抱きついた法月は、また泣き出した。
なぜあんなことを言ったのであろうか。今頃後悔していた。本心ではこんなことを言いたくはなかったのだが、彼女と離れてしまうことで、気が動転していた。落ち着いてなかったのは、自分のほうではないか。
オレは法月の左肩に手を回し、自分のほうに抱き寄せた。
「悪い、ゴメン。オレ…おかしくなってた。ホントにゴメン」
法月の体を優しくなでながら、オレは自分の心を悔い改めた。そしてオレの手は肩から彼女の頭に移った。
「ゴメン…ホントにゴメン…」
オレの手は止まり、二人は頭をつけた状態でしばらくそこに座っていた。
二人は時間を忘れ、自分の思い、そして互いの気持ちについて考えた。いつの間にか、二人は脳裏に焼きついている二人で過ごした思い出を回想していた。
二人は心が通じ合っているかのように、顔を互いにゆっくりと見合わせた。
そしてその後は、人生でもっとも大事な青春の一ページが、二人の心にずっと残ることになった。一生忘れることのない、誰にも言えない、そしてもう二度と繰り返すことのない一ページを、心の中に綴じこんだ。
父さんは話し終えると、世界中の幸せをつかんだような顔をした。
僕はそんなことにかまわず、疑問を持ったような声で聞いた。
「なんか悪いんだけど…それでおしまい?」
当たり前だが、父さんはきょとんとした顔をした。そして厳しい口調で言った。
「どうした。なんか不満か?」
「うん」
父さんはいかにも嫌そうな顔をし、恐る恐る僕に質問をした。
「もしかして…その後のことも聞きたいのか?」
「うん」
僕は即答した。誰だって最初を聞いたら最後も聞きたいものだ。そして父さんは少し照れくさそうに言った。
「それだったら、もっと簡潔に話せばよかったな」
父さんは優しく微笑んだ。そして仕切り直すかのように、大きなあくびをした。
「その後か…どんなんだっけなぁ…
「じゃあ…元気でな」
「雄治も…忘れんな」
「ああ、忘れないさ、一生」
彼女は最後に微笑を残して去っていった。しかしその笑顔の裏には、泣いている彼女がいる。どんなに隠そうとしても、オレには分かる。
オレは今無駄な時間を、部屋の壁に寄りかかり、送迎会の日に最後に撮った写真を、ボーっと眺めながら浪費していた。
こんな回想を、一日に数回する。思い出すたびに、オレの目には、あの時の光景と涙が浮かぶ。もうこれ以上会えないかのような別れ方をしたので、本当にそうならないかを今まで恐れてきた。しかしそれをつなぎとめる希望が、今でも手紙を交換していることであった。しかし、その手紙は大体四日おきに届くのだが、最近は十日経っても手紙は返ってこない。果たしてどうしたものか。オレは自分の思い思いを巡らせるたびに、頭を抱えてしまう。
「あーあ…」
オレは深いため息をつき、再び写真を眺めた。あの時に戻りたい、オレは芳江と過ごした日々を懐かしみ、また、彼女に会いたいという衝動に駆られた。
第一志望の大学に現役で受かっても、勉強なんかできなくなっていた。楽しいキャンパスライフのはずなのに、ちっとも楽しくない。理由は明白だが、どうにかしようといくらもがいても、どうにもならない。
オレは一人部屋にたたずみ、奇跡と幸せが来るのを待つことしかできなかった。
そして直に、彼女に手紙を送らなくなった。
芳江といる二年はあんなに早く感じられたのに、この一年は時間の経過がその倍近くに感じられた。
時々散歩に出かけて空を見上げると、芳江のことを思い出す。芳江もこの空の下で、同じように空を仰いでいるのであろうか。
空に流れる雲が、芳江の面影を残した。
「あー…」
オレはいつの間にか重いため息をこぼした。今日は同じようなため息を何回しただろうか。
あれから一年経った今も、あの時とはまったく変わっていない。唯一変わったものといえば、自分がもう子供ではないと自覚しはじめたことである。
「どうしたんだよ、そのため息。今日で十八回目だぜ」
大学に入学してから人生の負け組みになったかのようになっていたころ、積極的に声をかけてきてくれた男と友達になった。
「なんでもない。最近…疲れてるんだ。寝不足で…はぁ…」
「十九回目」
橘は鼻で笑った。オレはそんなことを気にせずに、ラウンジからぼんやりと外を眺めた。
青々とした新緑が、空を眺め、気持ち良さそうに風に身をまかせていた。その木の下には楽しそうに弁当を食べながら笑う女性が三人。しかしそのうち一人は、何だか悲しそうな表情であった。
オレはなんだか彼女に不信感を抱いた。それが何か確かめるべく、よく目を凝らした。
そして突然、オレは気が付いた。彼女はこの一年間、ずっと待ちに望んでいた、愛しの芳江であった。
オレはすぐさまラウンジを飛び出し、大声で叫んだ。
「よしえー」
彼女はすぐに振り返る。
「…ん?」
彼女はすっと立ち上がり、信じられないような目でこちらを見た。
「…ゆう…じ?雄治なの?」
オレと芳江は互いのもとへ走りよった。
「信じらんない…なんでここに?」
「ここはオレが来てる大学だから…当然だろ。で、なんでお前はここに」
「私もここの大学に入ったのよ。ある程度有名だし…将来的に役に立つかなーって」
芳江は幸せな人生を送っているかのように、小さく笑った。
「それにしても、久しぶりだな。もう大丈夫なのか、病気の方は」
「うん、だいぶ良くなった…」
芳江は突然うつむいた。そしてオレは抵抗することもなく、いきなり芳江に抱きつかれた。
「…会いたかった。ずっと、ずっと待ってたんだからね…」
芳江はオレの胸の中で静かに泣き始めた。オレはその芳江の頭を手でゆっくり引き寄せた。
「オレもだよ。お前のことをどんなに待ち望んでいたことか…」
ここでオレと芳江は互いに待ち望んでいたことを告白しているが、互いにまた会えるとは思ってもいなかった。
そして二人の関係をつなぐための手紙は、確かに二人とも送り続けていた。しかし互いに勘違いをしていた。それはオレが彼女の家に送っていたことだ。なぜと思うかもしれないが、彼女は病院に入院していたので、彼女の元に届くはずがなかった。彼女の親が手紙を届けてくれると思われるが、彼女の母親は彼女が幼いころにして死に、父親はというと、芳江が入院してから一ヵ月後に、静岡に単身赴任をしていて、家に戻るのは一ヶ月に一度であり、その上新聞も取らないので、郵便受けを開けることはなかった。彼女の場合は根本的に住所を知らなかっただけなのだ。高校時代、一緒のクラスになったことがなかったので、連絡網でオレの電話番号を得ることができなかった。いつでも教えてもらう機会もあったのだが、彼女はタウンページで分かると思っていた。案の定、オレの家はそれに登録をしていなかった。
それがオレ達の間を不安にさせ続けた事実である。
その後は前年に比べ、時間は一瞬にして過ぎ去った。
そして交際を繰り返し、同棲もした。互いの愛を確かめ、彼女が大学を卒業したら、結婚することを決めていた。
医者の先生が言うには、芳江に適した環境は、もちろん都会ではない方がいいらしい。そしてこの埼玉に引っ越してきたのだ。
芳江が大学を卒業するまで、オレは安定した家庭を築くために就職先を探した。そして勤めることになったのが、今年で十三年間働き続けることになる、長羅製作所だ。この製作所は三代続いている工場であった。
オレ達は互いにそばにいるだけで幸せだった。そしてさらに大きな幸福が訪れた。
…お前たちが生まれたことだ…」
僕は少し別のことを考えた。そういえば深雪は何をやっているのであろうか。多分、まだ寝ているに違いない。
外はおぼろげに月が輝き、遠くでフクロウが寒そうにさえずっていた。
僕は父さんの顔を見た。父さんは首を掻くと、頬を赤らめた。そして手を合わせて、そっと一言つぶやいた。
「いただきます」
そう言い終ったとき、階段から足音が聞こえてきた。そしてその音は次第に大きくなっていった。
「…ゴホッ…ゴメン、ちょっと言い過ぎた…」
母さんは鋭い目つきで睨むようにこちらを見た。目と鼻と頬は赤く、きっと寝室でずっと泣いていたのであろう。父さんはというと、気まずい顔に変わった。
そして母さんは自分の髪をなで、続けた。
「ところで、ご飯、食べる?」
「ああ」
父さんは少し照れくさそうな声で言った。
「…じゃ、要、深雪呼んで」
そう言い残すと、母さんはテーブルの上の皿を持って、キッチンへと入っていった。
そして僕は廊下に出て、階段下から深雪のことを呼んだ。すると、深雪は驚くべき速さで部屋を出て、階段を駆け下りた。まるで階段の上から待っていたように。僕はその深雪の速さに見とれていた。
「何、どうしたの」
深雪はしてやったりといった表情を見せた。
「なんでもない」
僕はそそくさと、暖かい光が漏れる居間に入っていった。
夕飯の準備は過ぎており、父さんと母さんはすでに席に着いていた。どうやら二人は見えないところで仲直りをしたようだ。こういう特別な日には、特別な効用があるらしい。そして僕と深雪は急いで自分の席に着いた。
「じゃあ、食べよ」
キッチンの奥で、静かに電子レンジ音が鳴っている。しかし外は風も吹かず、温かい家庭を見届けているように静かであった。
そして家庭は一つになった。
「いただきます」




