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この空の下で  作者: kazuha
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第六章  あの日、あの時、あの思い出

 私と要の二人は小学校に入学してから、二度目の夏休みを迎えようとしていた。私たちは、今年の夏休みを去年よりもわくわくしながら待ち望んでいた。なぜなら、今年の夏休みにはいろいろなスケジュールが入っているからだ。いわゆるハードスケジュールである。その予定の内容は遊び尽くしである。七月中には夏休みの宿題を終わらせ、八月に遊ぶという予定である。はたして、今年の夏休みの宿題はどれくらい出るだろうか。それだけが私たちの心を不安にする。それに、一学期の通知表。悪かったらどうしよう、もし悪かったら予定がなくなっちゃうかな、とよく二人で話し合ったものである。しかしそのことは、一学期が始まる前に二人で、良い成績をとろうと打ち合わせてあった。だからそのことは少し安心していた。いよいよ私たちは楽しい夏休みを迎える。


「古葉君」

 江藤先生が要を呼ぶ。要は席を立ち、体を硬くしたまま教卓に向かって歩く。

 江藤先生は私たちのクラスの担任で一年生のころから引き継いでいる。女の先生で、外見は優しそうなのだが、怒れば恐く、悪いことは悪いと公平にジャッジを下す、親しみやすい先生である。クラス編成も無く、私たちは一年生と同じまま、学年が上がったのである。唯一変わったことといえば、教室が玄関から遠い位置に変わったぐらいしかない。

「古葉君、今回の成績は良かったよ。どうしたの?」

「今回は頑張ったから」

 要はいつもより、かなり照れているようだ。そして安心したように大きく息を吐く。

「ま、夏休みはほどほどに勉強して、いっぱい遊んで、また来学期に会いましょう。子供のうちにしか遊べないことはいっぱいあるからね。勉強より大切な…ま、いいや。ということで、夏休みは大いに遊んでください。じゃ、次、古葉さん」

 要はこちらを見て心配そうな顔を見せた。私は要とすれ違い、教卓に向かって歩く。その際、私の胸の鼓動が早くなった。これで、私の今年の夏休みが決まる。いつの間にか私は教卓の横にきていた。

 その時、私の頭の中に、今年の初詣の回想が映し出された。


「はー」

 私は息を吐いて手を温めた。そしておみくじと書かれている六角形の箱をお母さんに取ってもらい、シャカシャカと振る。そして出てきた棒の先端に書いてある数字と、引き出しに書いてある数字が同じの引き出しを開ける。この開けるときのドキドキ感がたまらない。一番下から二番目の引き出しであったので、私でも手が届いた。そしてそこからおみくじを取り出し、真ん中に巻いてある紙をとっておみくじを開いた。しかしその字が読めなかった。

「お母さん、これなんて書いてあるの?」

 去年とは違うことは確かであった。書いてある漢字が違うからだ。

「ん、これは…凶、ね」

 お母さんは苦笑いをつくった。私はすかさず聞き返す。

「キョウって何?」

 お母さんは苦痛そうな顔をして答えた。

「ん…これはね、ええと…あなた何だっけ」

 お母さんはお父さんに振った。お父さんはぎょっとした顔をして、どうしようかと迷っていた。しかしあることを思いついたのか、すぐにもとの顔に戻った。

「凶っていうのはな、まぁ、簡単に言うと…そう、去年のよりも悪いっていうやつなんだけど、めったにこれを引くことができないんだ。つまりだな、当たりであって、はずれでもある、オールマイティなものなんだ。分かった?」

「うん、分かったけど…今年の運勢は?」

 お父さんはたじろいだ。そしてお母さんと同じように苦笑いをつくった。

「ん…ん、えーと、そうだな。正直言って…悪い、運勢なんだ」

「ふーん」

 私は決して落ち込まなかった。どっからあふれてくるのか、変な自信が私のことを幸せにすると言っている。私もその自信を信じている。

 お父さんは励まそうとしたのか、私に明るく言った。

「でもな、大丈夫なんだ。悪いおみくじを引いた時は、枝におみくじを結びつけて、そのおみくじの効果を天の神様になくしてもらうんだ。でも、良いおみくじを引いた時も枝に結び付けて、今度は天の神様にそのおみくじの通りにしてもらうんだ。良いおみくじは良い効果を、悪いおみくじは厄除けになるんだ」

「へー」

 私はちらりと要の方を見た。要は引き出しを引いているところだった。私はすぐに要のもとへ駆け寄り、要の運勢を見ようとした。

「ねぇ、早く見せてよ」

「ん…うん」

 要は真ん中の巻紙をとり、おみくじを開いた。

「小吉…」

 そう言うと、要に笑みが広がった。


 あー、いいなー要は。運勢も良くて成績も良いし。今年は要にとって、すべてにおいて良い年なのかもしれないなぁ。あの時くじなんか引かなきゃ良かった。それに代わって私は…。

 何だか自分のことが悲しくなってきた。しかし、あの時にあふれてきた自信を、すぐに取り戻した。

「古葉さん、今回の成績は…」

 深雪は息を飲んだ。

「ん、ん…まあ、平均より良いってとこだけど…可もなく、不可もなく…ま、次、頑張りましょう。じゃ、次、佐川さん」

 私はそれを聞いて安心した。平均より良い。それだけが聞けただけで安心だった。私は胸を躍らせて自分の席に戻った。

「どうだったの、深雪」

 その声の主は幸恵だ。そして横から聖子が顔を出す。

「深雪、見せて」

 二人は私の親友である。幼稚園のころから二人に出会って、私は何回も二人に助けられてきた。しかし、私は彼女らの役に立ったのかは知らないのだが、私はこよなく二人のことが好きである。いつまでも一緒にいたい、私はそう思っている。

「ねぇ、見せて。お願い」

 幸恵と聖子は私に頼み続ける。今回の成績は前のより悪かったので、初めは拒んで見せようとはしなかった。しかし二人の強情さに骨が折れて、結局見せることになった。

 幸恵は通信簿を開き、聖子と顔をそろえて通信簿を覗き込んだ。

「いいじゃない。見せないものじゃないと思うけど…私の見る?」

「うん、見せて」

 幸恵は自分の机に戻り、通信簿を持ってきた。

「はい、これ。聖子、後で見せてよ」

「大丈夫だって、心配しなくても、だいじょーぶ」

 私は通信簿を開き、聖子が私の隣に来て、一緒に通信簿を見た。

「すごーい、幸恵。よくこんなのとれるね。たいていの人じゃ、こんなのとれないよ」

「へへ、すごいでしょ」

 幸恵は得意げに言った。そして私たちは笑った。なんとその通信簿には、すべての項目が3が記されていたのだった。私の通信簿には4と5もチラチラあったのに。もしかして、この三人の中で私が一番頭がいいのか。私はそう思うと、嬉しくてたまらなくなった。

「…望月さん」

 江藤先生が聖子のことを呼んだ。聖子はどうしよう、というような顔をして、こちらを見た。私と幸恵は頑張れ、とエールを送った。そして聖子は教卓へゆっくりと歩いていった。

「望月さん、えーっと、今回は…」

 二人の話は始まった。

 何もすることがなくなった私は、幸恵と話し始めた。

「ねぇ、今年の夏休み、何かする?」

 幸恵は待ってました、と言わんばかりの表情をつくった。

「今年はね、家族で旅行するんだ」

「え、どこに行くの?」

 聞いてもしょうがないことを聞くのはなぜだろう。私はいつもそう思う。しかし幸恵は楽しそうに話をする。

「なんと海外なんだよ。どこかというとね…あれ、どこだっけ」

 幸恵は考え込み始めた。

 また一人になってしまった。しょうがないので教卓の方を見た。聖子はうれしそうな顔をしている。そして楽しそうだ。話は長くなりそうであった。

「ふ…ふ…何だっけ」

 幸恵の頭の中には頭文字まで浮かんでいるようだ。頭文字が「ふ」なら、私に思い当たる節があった。

「もしかして、フランス?」

「あっ、そうそうそれ。フランスだ」

 幸恵は笑っている。

 その時、聖子が戻ってきた。さっきとは違い、うれしそうな顔をしていない。

「はい、これ」

「あ、きたね。どれどれ…」

 幸恵は通信簿を受け取り、広げて見た。するとすぐに幸恵の口が開いた。私も幸恵の後ろに行き、聖子の通信簿を覗いた。

「何これ」

 なんとその通信簿は体育と図工を除いて、オール5だったのだ。

「ありえないっしょ」

 私と幸恵はその通信簿に見とれていた。私が聖子を見ると、すぐさま聖子は照れた。

「聖子、今までこんなに良かったの?」

「ん…うん…」

 聖子は何だか気まずそうな表情をつくった。


 チャイムが鳴り、私はいつものように、幸恵、聖子と一緒に帰った。二人の家は、私の家から徒歩一分もかからないところにある。

 学校を出て、公園の脇を通り、交差点を渡った。夏休みについてだけの話題で帰り道は十分に楽しめた。聖子も楽しそうに話している。二本道に出ると、幸恵は左に曲がった。

「じゃあね、今度は…八月の…ま、いいや。じゃあね」

「じゃあね」

 幸恵は走り去った。

 私は聖子とともに右の道へ曲がった。そして私たちは変わらずに夏休みについての話を続ける。しかし私は気になることがひとつあった。それを聞き出すべく、私は聖子に問いかけた。

「ねぇ、聖子。話し変わるけど、あなたって、いつからそんなに頭が良くなったの?」

 突然のことに聖子は黙った。笑っていた顔が、だんだん険しくなっていった。そして元気の無い声で聖子は言う。

「わたしが頭良いの、イヤ?」

 予想外の返答に私は戸惑った。

「え…ええと、イヤ…じゃないよ」

「そう、良かった」

 聖子に笑顔が戻った。そして聖子は話を続ける。

「えっとね、あたしのお父さんとお母さんさ、有名な大学を卒業したの。だから、お父さんとお母さんが、有名な大学に入ってほしいって、かなり期待しちゃって。だからさ…」

「…そうなんだ」

 その後の二人は、三つの分かれ道に出るまで黙っていた。そして私が左に曲がろうとした時、聖子が笑顔で私に声をかけた。

「じゃあね、深雪。また」

「うん、じゃあね」

 私はその声を聞けてホッとした。聖子は笑顔のまま前に向き直り、前方の道を進んだ。聖子の背中は何を語っているのだろうか。なんだか寂しさが感じられた。私は聖子が道の角に曲がるまで見届けた。もう一生会えない友達を見届けるように。


「ただいまー」

「おかえりー」

 居間で要の声が聞こえた。私は居間に入り、ソファーにランドセルを投げ出した。要はもう、夏休みの宿題に取りかかっていた。

「ねぇ、お母さんは?」

「買い物か話」

「あー、またか」

 私は落胆した。お腹が空いて、今にも倒れそうだった。しかし、その空腹も要の通信簿を思い出したらすぐに忘れてしまった。

「あ、そういえば、成績どうだったの」

 私は不敵な笑みを浮かべた。

「まあまあ」

「何それ」

 私は要の通信簿を見るべく、要のランドセルに飛びついた。

「おい、何すんだよ。やめろよ」

 要の怒声が居間に響く。私はそれに構わずにランドセルを素早く開け、通信簿を抜き出した。そして要からなるべく遠い位置に逃げ、通信簿を見る。しかし皮肉なことに、成績は私よりも明らかに良かった。

「返せよ」

 要は私の背後から腕を伸ばし、通信簿を取り返した。私はすぐに背後にいる要を見た。

「あんた、いいじゃない、成績」

「まあね」

 要は照れそうに頭を掻いた。

「ただいま」

 お母さんが帰ってきた。

「おかえりー」

 私は玄関へ急行した。

「あら、どうしたの深雪、そんなに頑張っちゃって」

「お母さん、私の通信簿、見て。早く」

 私は再び居間に入り、ランドセルから通信簿を取り出した。

「お母さん、見て。今回の成績、良かったんだよ」

「そうなの」

 通信簿は私の手から買い物袋を持っていないお母さんの手へと渡った。お母さんは通信簿を見た。

「あ、本当だ、良いじゃない。どうしちゃったの、深雪」

「へへへ」

 私は今日初めて照れた。しばらくほめられることは無かったので、久振りにほめられるとうれしかった。お母さんは私を引き寄せ、頭をなでた。

「えらいね」

 私は完全に有頂天になっていた。私は何となく要をふと見ると、要はこちらをじーっと見ていた。私はその姿を見て、少し気にかけた。

「お母さん、要の成績もすごいんだよ」

「そうなの、要、見せて」

 要の顔は見えなかったが、背中がうきうきしている。私はお母さんから離れ、ソファーに座った。要は通信簿を持って、お母さんにそれを渡した。

「…え、何これ」

 お母さんはわが目を疑っているようだった。

「すごい…じゃない。どうしたの、要」

 お母さんは私と同じように、要を引き寄せて頭をなでた。要は気持ち良さそうだった。そして猫のように、お母さんに身を寄せた。それを見て、私はいい気分になった。要はこの上なく幸せそうであった。しかし私はその些細な幸せを壊すのであった。

「ねぇ、お母さん。昼ごはん、何?」

 お母さんは気付いたように、要から手を離す。

「あ、そうだわ。今日はね、焼きそばよ」


 夏休みに入り、もうすでに十二日が過ぎようとしていた。要は昨日のうちに、アサガオの観察を除いては、宿題をすべて終わらせていた。私はというと、絵画とアサガオの観察だけが残っている。なので、私は今日のうちに絵画を終わらせることを決めた。早く要のようにだらだらとした生活がしたい。憧れのだらだら生活を目標に、私は張り切った。

 夏の昼下がり、私は筆を握っているだけで手から汗が噴き出した。残りのここを塗れば終わりだ、私は自分を励ますように心の中で言った。

「深雪、ハサミある?」

 ノックもしないで、突然部屋に入ってきた要のせいで、私の筆は塗る場所からはみ出してしまった。私は要を責めた。

「ちょっと、あんたのせいではみ出ちゃったじゃない」

 要は絵を覗き込んだ。

「そっちのほうがきれいに見えるよ」

 要は素直そうに言った。いくら人から良く言われても、やはり自分のやりたい通りにしたかった。しかし私のどこかで、要の言うことを少し信じていたようだ。

「ほんとに?」

 私は信じがたい声で言った。

「うん、だってさ、それって葉っぱでしょ。そうだったら緑の上に黄色を重ねて塗れば、太陽に照らされて光っているように見えるじゃん」

「そうなの?」

 私はまた信じがたい声で言った。そして、私はまじまじと自分の間違って重ね塗りした葉っぱを見た。すると、確かに要の言うとおりであった。

「ほんとだ」

「だろー」

 要は嬉しそうであった。

「ところでハサミどこ?」

「知らない」


 ついにアサガオの宿題も終え、夏休みの宿題は無くなった。いよいよ前から予定していた旅行の日の前日になった。家中は大騒ぎになっている。お父さんとお母さんは、あっちへこっちへとあわただしく動いている。私と要はというと、海へ行くので、スコップにバケツを玄関の脇にそろえた。バッグには財布、本などを詰め込んだ。私は初めての旅行に胸を躍らせている。おばあちゃんの家ではなくて、ホテルに泊まるのは初めてであった。明日が待ち遠しい。私はバッグに次々と自分の荷物を詰め込んだ時、隣の部屋から声が聞こえた。

「深雪、僕のあれ知らない?」

「あれって何よ」

「あれって、あれだよ…ん、何だっけ」

 要は黙った。私は再度荷物をバッグに詰め込み始めた。きれいに入れようとしても、なかなかできない。そしてすべての荷物がバッグに納まると、下の階からお母さんの声が聞こえた。

「深雪、要、用意し終わった?」

「うん、用意したよ」

「まだ…何だっけな」

 要はあれが何かを思い出そうとしているようだ。私はすることがなくなったので、とりあえず下に降りて、居間に入った。

「ねぇ、お母さん。明日は何時に出るの?」

 お母さんとお父さんは一段落ついたのか、いすに座ってお茶を飲んでいた。

「明日か…あなた、明日は何時にする?」

 お父さんはお茶をすするのをやめた。

「明日か。そうだなぁ…早いほうがいいか?」

「うん」

「そうか」

 お父さんはお茶の入ったカップを口に近づけた。しかしすぐにお茶をテーブルの上に戻した。

「じゃ、五時半はどうだ。行きは寄りたいところもあるし、芳江、それでいいか?」

「五時半か、早いな…ま、いいか」

「よーし、決まりだな。明日は五時起きだ。深雪、早く寝ろよ」

 私は本当に早いな、と思ったが、自分で早いほうがいいと言ってしまった限り、その予定に反対できなかった。

「うん、分かった。で、要にも言っとく?」

「ああ、歯磨きをちゃんとしてから寝るんだよ」

 お父さんはまたお茶の入ったカップを口の近くまで持ってきた。しかし、私はその次の動作を封じた。

「おやすみ」


 私は歯磨きを済ませ、二階に上がった。そして私はすぐさま要の部屋に向かった。私が部屋を覗いた時、要はまだ荷物をバッグに詰めていた。

「要、あれ、見つかった?」

「ああ、あったよ」

「ねぇ、あれって何だったの?」

 要はこちらを見てにこっと笑った。

「教えない」

「何よー、それ」

 要は立ち上がり、本棚から文庫本を取り出した。

「もしかして、あれってそれのこと?」

「違う」

 要は文庫本をバッグに詰めた。そしてすべてが詰め終わったのか、バッグのファスナーを閉めた。

「気になるでしょ。教えなさいよ」

「いやだ」

「私が夜眠れなかったらどうするの」

「どうもしない」

 要はまったく引こうとはしない。しょうがないので、私はちょっとしたハッタリを使うことにした。

「あーあ、明日のこと、ちょっと教えてあげようかなぁて思ったのに」

「え、何かあるの」

 予想通り、要は食いついてきた。

「教えてあげようか?」

「いいよ、別に」

「え?」

 意外な返答に困った私は、もう引くことしかできないな、と思った。私は部屋を出ようかとすると、背後から要の声が聞こえた。

「じゃあ、僕が教えて、お前も教えるんだったらいいよ」

 私はまたこの意外な話にびっくりした。要も少しは気になったのだろうか。そこで、私はそれを機に仕掛けることにした。

「それでいいよ。じゃ、私が後で話すから、あんた、先に話してよ」

「何で」

 要はかなり不満そうな顔をした。

「あんたが持ち出した話でしょ。あんたから話なさい」

「えー…まぁ、いっか。じゃあ、お前もちゃんと教えるんだぞ」

「分かった」

 要は疑い深そうな眼でこっちを見た。しかし軽快な口調でひとつの単語を言った。

「ポータブル・シーディー・プレーヤー」

「え」

 それを聞いた時、確かに気持ちはスッとしたのだが、その反面、何だ、こんなのだったのか、という心があった。

「何だよ、悪いか」

「別に」

 要は少しはずかしめていた。

「で、お前のは何だよ」

「教えない」

「は?」

 要は意外と本気で怒り始めた。これはまずいと思ったので、すぐになだめた。

「ジョークだよ」

 私は要に作り笑いを見せた。

「実はね、明日は五時起きで、五時半に出発なんだよ」


 海がそのまま映ったような青い空。天高くそびえる山のような真っ白な雲。銀色に輝く大海原。そして白く光る砂浜。私は海に向かって砂浜の上を歩いている。背後ではお父さんとお母さんがパラソルを立てていた。要は砂の上に寝そべっていた。周りには私たち家族以外には誰もいない。私は海に足をつけた。すると、すぐに暗闇が迫ってきた。これから雨が降るのだろうか。そしてその予測が当たり、空からはポツポツと雨が降り始めた。私はすぐに後ろを振り返る。そこにはさっきまでいたはずの三人がいなく、海が延々と続いていた。周囲を見ても、海、海で、どこまでも続いていた。陸ははるか遠くにも見えない。そして気付くと、私の体は吸い込まれるように、海のそこに引きずり込まれた。いくら叫んだところで、誰もいるわけがなければ、助けが来るわけでもなかった。しかし私は必死に叫び続けた。ほんの少しの可能性を信じたのだ。そして顔が水につかろうとしたその時、私の周りの水が渦を巻いて、天高く消えていった。海は空になったのだった。太陽も雲の隙間から顔を覗かせ、私は手を広げて天を仰いだ。そして私は周りを見回した。するとまぶしい太陽の光が目に飛び込んだ。


「…雪、深雪、朝だよ、起きろ」

 お父さんの声が聞こえた。私は一瞬にして別世界からこの世界に戻ってきたらしい。

「深雪、早く起きなさい」

 お父さんは隣の部屋へ行ってしまった。

「要、要、朝だよ」

 私は朝に弱い。だから今はどんなところに行くよりも、この布団の中にもぐっていたいというのが本心である。しかし私は人の迷惑にかかることは好きでなかった。私は布団から出て、昨日のうちに用意しておいた水着に着替え、その上に服を着た。

「あら、もう起きたのか。えらいな」

 お父さんはそう言うと下に降りていった。私は荷物を持ち、お父さんに次いで下に降りた。

「おはよー」

「おはよ」

 居間に入ると、お母さんはすでに準備が終わっていた。

「お母さん、張り切っているね」

「そんなことないわよ。でも、旅行なんて新婚旅行以来だからなぁ」

 お母さんは新婚旅行のことを思い出しているのか、手の上にあごを置きながら、頭の中が飽和状態のようだ。私がいくら新婚旅行のことを聞いても、まったく聞いていないようだった。

 しばらく時計の音を聞いて暇をつぶしていた。そして三分ぐらい立つと、要が上の階から降りてきた。

「おはよー。あれ、父さんはどこ?」

 そういえばさっきからお父さんの姿が見えなかった。普通なら探しているものはすぐに見つからないのだが、探している人は見つかるようだ。お父さんは要に続いて居間に入ってきたのだ。

「もうそろそろ行くから、早くトイレを済ませてこいよ」


 私たちは車に荷物を積み込み、いつもの席に座った。車は私が幼稚園にいた時に買った新車で、たいして使ってないので、まだピカピカであった。

「忘れ物、ない?」

 お母さんは車に乗り、シートベルトをしながら言った。

「ないよ」

「ない」

 私と要が声をそろえて言った。

 お父さんも乗り込み、エンジンをかけた。

「じゃ、行くぞ」

 車はゆっくりと動き出した。予定より早く出ることができた。さあ、いよいよ初旅行だ。たくさん楽しむぞ。私はひとり意気込みを入れた。


 車は走る、風を切って、どこまでも、どこまでも。

 朝食を食べていなかったので、コンビニに寄り、パンを買って食べた。朝のコンビニや公道には、人も車もあまり見かけなかった。

 途中で墓地に寄ったが、二、三分で用が終えた。そういえば、今日はお盆の最終日であった。

 そして車はいよいよ高速道路に入り、車のスピードは上がった。私の心は喜んでいる。車のスピードが上がると、楽しくなってくる。もしかしたら、海にだんだん近づいている、というワクワクの気持ちなのかもしれない。すれ違う車は光を残して、過ぎ去っていく。私はすれ違う車の数を数えて楽しんでいた。

 すると、高速道路を仕切る、壁の向こうの空が明るくなってきた。そして太陽がさんさんと地上に光を降り注いだ。道路と反対側の道路の間の木は、うれしそうに葉っぱと踊っていた。

 途中にパーキングエリアに寄り、用事を済ませて、車は再び走り始める。

 三時間ぐらい走ると、銀色に輝く光が目に飛び込んだ。海だ。ついに着いたのだ。私は興奮し、寝ている要を起こして、海が近いことを教えた。要は寝ぼけた目で、窓から海を眺めた。少し目を凝らし、目の上に手をかざした。

「きれい…」

 要は素直な気持ちをこぼし、目の前の銀色に輝く海に見とれている。私はたまらなくなって、前方を見て言った。

「あと何分ぐらいなの?」

「うーん、そうだなぁ…保障できないけど、三十分ぐらいかなぁ」

「三十分…」

 私はこんなに近くにある海なのに非常に遠くに感じられた。


 車を止めて、私と要は車を飛び出す。背後でお父さんの声がしたので、その場に立ち止まった。お父さんはパラソルとクーラーボックスを担ぎ、母さんはというと、シャベルだけであった。

「早く早くー」

 私は我慢できなくなって、石階段を上がり、堤防の上に立った。

 その景色は夢と同じだった。

 海がそのまま映ったような青い空。パレットから絵の具がこぼれたような真っ白な雲。太陽のように、銀色に輝く暖かそうな大海原。そしてまぶしく光る、白い砂浜。まったく同じ景色が目に焼きついた。ただ、たくさんの人がいるのだけは違った。

「ちょっと待ちなさい」

 今度は背後でお母さんの声が聞こえた。私は一人張り切っていた。要はこちらに向かって歩いているし、お父さんやお母さんだってまだ十メートルぐらい離れたところにいる。

「早くー」

 そんなことを言ってみたが、私はここで待つことにした。来て早々、迷子にはなりたくなかったからだ。

 三人はやっとのことで、堤防に着いた。

「さて、どこにしようか」


 その後は時間も忘れ、海で砂浜で遊んだ。昼はラーメンを食べ、温まった体を海の水で冷やす。お父さんは私たちと遊んでくれたが、お母さんはパラソルの下で、サングラスをかけて眠っていた。そして時間はあっという間に過ぎ、いよいよ上がる時間がきた。まだ日は高い位置にあった。しかし、明日も遊べるということなので、私たちは潔くホテルに向かうことにした。シャワーで体を流し、ホテルに入った。


 ホテルは海の目の前に位置し、かなり古い感じがした。悪いと思うが、はっきり言って今にも崩れそうだった。チェックインは僕たちが遊んでいる間に、母さんがいつの間にか済ませていた。僕たちは母さんの案内で部屋まで案内された。

 外見のわりに、中はきれいな和室だった。お盆中なのに、このホテルには客が少ない。やはり外見が悪いのだろうか。しかし父さんと母さんがここにしようとしたのは、やはり価格らしい。そのおかげで二泊できる。

 僕らは荷物を置き、一度座った。そして家族そろって息を吐いた。部屋は冷房がよく効いていて涼しかった。しかし効きすぎて寒くなった。そこで父さんはひとつのことを提案した。

「暇だから、外へ散歩をしに行くか」

 僕はここから出たかったのでこれに賛成した。深雪も賛成した。

「私はパス」

 母さんは畳の上に寝転がった。

 僕と深雪と父さんで、ホテルを出て海岸に出た。赤い夕陽が海を真っ赤に燃やしていた。その中をまだ、泳いでいる人がいる。

「きれいだな」

 父さんは今の気持ちをそっくりそのまま声に出した。僕もその景色を見て、父さんと同じように心が打たれた。

 そして僕たちは海岸の端から端までを一往復した。


 外は少しずつ、闇が迫ってきていた。

 部屋に戻ると、母さんは座布団を枕にして、寝ながらテレビを見ていた。

「お帰り」

 そう言うと母さんはあくびをした。僕も座ってテレビを見ようとした。その時、父さんはまたもや提案をした。

「お風呂行かないか」

「それなら私も」

 母さんは起きて、風呂へ行く準備をする。どうやら風呂へ行かなくてはいけないようになってきた。しょうがないので、流れに逆らわず、なるように任せた。

 僕らは部屋を出て、エレベーターに乗った。

「何階なの?」

 母さんはすでにボタンを押そうとしていた。

「一階」

 母さんはボタンを押した。エレベーターの扉は閉まる。しかし母さんはすぐにあることに気付いた。

「えっ、一階ってロビーじゃない。だいじょうぶなの?」

「一階に降りてから、下に降りれる階段があるんだ」

「へー、変わってるね」


 一階に着くと、人はまったくといっていなかった。

 エレベータから降りて、右に歩いた。そして端にある階段を降りて、自動販売機の脇を通り、「風呂」と書かれているのれんをくぐった。

「じゃ、入り終わったら…部屋でいいよな」

「うん、いいよ」

 僕と父さんは「男」と書かれているのれんをくぐった。


 風呂に通じる扉を開けると、室内は湯気で立ち込めていた。

「わー、すげぇ」

 そこには広いジャングル風呂が広がっていた。入っている人は誰もいない。水と水が触れ合う音が、室内に響いた。右のほうには初めて見る、釜のようなものがあった。中を覗くと、お湯が入ってあった。

 後ろからドアの開く音がした。

「父さん、これ何?」

 父さんはこちらに向かって歩いてきた。

「ああ、これか。これは五右衛門風呂だよ。まぁ、ちょっと違う感じがするけど…まぁ、単に釜風呂でいいんじゃないかな」

「へー」

 僕は釜風呂の底に何があるのか見ようとした。

「それにしても広いなー。ここにあるのがもったいないくらいだ」

 父さんは辺りを見回して感心している。

「よーし」

 僕は気合を入れてジャングル風呂へ真っ先に飛び込んだ。


「あー、気持ち良かったー」

 僕はジュースを片手に、自動販売機の前にいる。父さんはトイレで、脱衣所からまだ出てきていない。その前に女風呂から母さんが出てきた。

「あれ、深雪は?」

 母さんは不思議そうな顔をしている。そして男風呂から父さんが出てきた。

「はは、奇遇だな」

「ねぇ、あなた。深雪がどこにいるか知ってる?」

「えっ、もしかして、いないのか」

「うん、この自販機の前にいてって言ったのに、いないの」

「もしかしたら、部屋の前にいるかも。行くぞ」

 僕らは小走りで階段を上がった。そしてロビーに着くと、父さんは僕に言った。

「要はここにいて、深雪が戻ってくるかもしれないからな。分かった?」

 僕はこれが非常に大事な任務だと思った。

「うん、分かった」

 二人はエレベーターに乗り込んで行ってしまった。

 僕はロビーに設置されているソファーに座った。辺りを見回し、深雪がいないか確かめた。しかしいるはずがなかった。その時、受付にいる人たちの話が耳に入ってきた。

「あの女の子、一人で外なんかに行って、大丈夫かなぁ」

「そうね、風がなくて、まだ少し明るくても、一人でねぇ」

 僕はその話を聞いて、すぐに深雪だと思った。

 気付いたら僕は、出口に向かっていた。そしてすぐに海岸に出た。確かにうっすらと光は残っているものの、ほぼ闇の中であった。僕は左から右へ首を回した。しかし、暗くて人がいるかよく分からなかった。

「みゆきー、どこだー」

 左方に向かって叫んだ。しかし波が小さくささやきあっているだけで、深雪からの反応はまったくなかった。

 今度は右方に向かって叫んでみた。しかしまた波がささやきあっているだけであった。

 僕はなんの反応がなかったのが恐かった。もしかしたら…そんなことを考えるだけで、体が震える。

 とりあえず海岸を一往復しようと思った。僕は右方に向かって歩きだした。そういえば、さっきの散歩に比べて、潮が満ちてきている。これはまずいと思った。僕は走り始めた。そして次の瞬間、何かに足が引っかかって、砂の上に横になった。僕はすぐに、何につまづいたのかを調べた。するとそこには、ビニール袋があった。僕はうさ晴らしに、そのビニール袋を砂の中から引っ張り出した。そしてそのビニール袋を砂の上にたたきつけた。僕の目は自然と、ビニール袋があった場所に戻った。するとそこには、赤い何かが埋まっていた。僕はそれが気になって、掘り出してみた。

「巾着…」

 それは深雪がいつも携帯していた巾着であった。もしかして、もう遅かったのだろうか。僕の体が勝手に震え始めた。そして突然背後からしゃくり声が聞こえた。

「か…なめ、な…んか、よん…だ?」

 僕は後ろを見た。そこには泣いている深雪が立っていた。

「かな…め、なに…か、よう…な…の?」

「お前がいきなりいなくなるから、父さんと母さんが心配してんぞ」

「お…とうさ…んと、おか…あさんが?」

「もう何にも言うな。行くぞ」

 そう言って僕は深雪の腕をつかんで引っ張った。しかし深雪は僕の手を振りほどいた。

「い…やだ。まだ…見つかって…ない」

「何が?」

 そう言うと僕の頭に、ひとつの物が浮かび上がった。僕は手中の赤い巾着を見て、深雪に差し出した。

「もしかして…これ、巾着のことか?」

「あ、そ…れ」

 僕は巾着を深雪に渡した。

 そういえば深雪はどんな時もこの赤い巾着を持っていた。いつも大事そうにポケットにしまっている。何で大切なのかを問いだしては見たものの、おばあちゃんからもらった、としか言わず、まったく教えてくれない。なぜだろうか。

「あ、これ…だ」

 深雪はうれしそうな顔で言った。

「あ…りが…とう」

 深雪の目からは、涙が溢れ出してきた。

 深雪の泣き虫は昔から変わっていなく、治ってもない。いつもの変わりがない深雪が深雪の中にある。些細なことですぐ泣くところなんて、まったく変わっていない。変わらないことほどすばらしいことはない。誰もがうらやむ、素晴らしいことだ。

 僕はこれを機に、その巾着のことを聞いてみることにした。

「そういえば、なんでその巾着が大事なの?」

「へへ、ひ…みつ」

 その巾着にはどれほどの価値があったのだろうか。そのときの深雪には、まだ分かるはずもなかった。

 空は完全に暗闇で覆われていた。早くホテルに戻らねば、父さんと母さんが心配する。僕は深雪の腕を引っ張り、ホテルへ走った。




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