第五章 トイレの神様
入学式のあの日、僕の両親は泣いていた。泣いている父母はあまりいなかったというのに。そういえば、幼稚園の卒園式の日も泣いていた。なぜだろう。よっぽど二人は泣き虫なのだろう。そう思うことで僕は納得していた。
学校は楽しいところだ。いろいろなことを覚えることができるし、友達もたくさん作れる。だから学校は大好きだ。深雪はというと、元気すぎて、先生や父さん、母さんの手を焼かしている。
家に帰れば、優しい母さんがいつも笑顔で迎えてくれる。しかし僕はすぐに外へ遊びに出て行っていく。友達と遊ぶのは楽しいが、友達の都合もある。そんな日は深雪と家で遊ぶか、家でのんびりしている。
そして夜はというと、夕飯を食べ、お風呂に入り、居間でテレビを見る。そして風呂上りはいつも、深雪に言われることがある。もう、いつもクッションで頭を拭かないでって言ってるでしょ、と。これは幼稚園を卒園する少し前からやり始めていた。本当に気付かないでやっているので、自分でも参っていた。父さんはその僕らのやり取りを見て、いつも笑っていた。僕はそれを見て、安心しているから続けているのかなぁ、と思っている。そして家族団らんでテレビを見て、笑うところは家族全員で笑い、沈黙しなければいけないところはきちんと黙る。就寝時刻に近づくと、僕らは強制的に寝かされる。どんなに面白いテレビでも。寝る前に、僕と深雪は眠そうな目で歯を磨き、時々、深雪は歯を磨きながら寝ることもあった。頭がこくんとなると、その前兆である。そして歯を磨き終わると、僕らは各々の部屋へ向かった。僕らは小学校に進学してから部屋が分かれた。その前はよく二人で、その日起こった話やしりとりをしたものだった。先にどちらかが寝ると、少し寂しくなるのであった。なので部屋が分かれると、毎日が寂しくなる思いであった。
僕は寝る前に必ずトイレへ行く。なぜかというと、夜中にトイレへ行くのを防ぐためである。なぜ防ぐのかというと、少し恥ずかしいが、怖いからである。それは昔まではいかないが、幼稚園の年少の頃に聞かされた、父さんの話が原因であった。
ある日、寝る少し前に、いつも父さんが話をしてくれる。いつも深雪とその話を聞くのだが、今日はたまたま、深雪のトイレが長引いている。
そして突然、父さんは僕に問いかけた。
「なあ、要、トイレに神様がいるのを、知っているか」
僕はびっくりした。まさかトイレなんかに神様がいるとは思わなかったからだ。父さんは僕に布団をかけた。
「えっ、いるの?」
「ああ、いるさ」
父さんは得意気に言った。しかし要はまだ、疑問に思っていることがあった。
「神様はどこに棲んでいるの?」
「えーっと、トイレの後ろについている箱みたいなのがあるだろ」
「うん」
「そこの中に棲んでいるんだよ」
「へー」
僕は半信半疑に言った。しかし僕の心を、父さんはお見通しのようだった。
「信じてないだろ」
父さんはため息をついた。
「だって、なんかウソっぽいんだもん。その話、誰から聞いたの」
父さんはその言葉を聞き、少し戸惑った顔をしたが、すぐに元の顔に戻った。
「話っていうのはな、誰から聞いたっていうのは言ってはいけないんだ」
「そうなの?」
「そうだよ」
父さんはピンチを脱したような顔をした。しかし、父さんのそんな顔を見ても、僕の心は確実に動かされている。父さんは僕の顔を見てニヤッとした。僕はその顔を見て、慌てた。それを機に、父さんは僕を追い立てるように言った。
「でもな、そこのふたを開けて中を覗いちゃいけないんだ」
「なんで?」
父さんはさらに微笑んだ。
「自分の家を覗かれるのって、あまりいい気分じゃないだろう。それと同じさ。それに開けたとき、神様はどこかに行ってしまうんだ。また新しい住み家を見つけにな」
父さんは満足そうに言った。しかし、まだ疑問があった。
「なんで神様は棲んでいるの?」
「それはな、トイレって水が流れるだろ。その出る量を抑えたり、使う人のことをいつも見守っているんだ。だから人間は安心してトイレを使えるんだよ」
父さんは勝ち誇ったような顔をして言った。今の話は完全に僕を信じ込ませた。
子供は何事も信じやすいが、僕はほかの誰よりも信じやすい。お化けだって妖怪だって信じている。だから、父さんはいつも僕にウソの話をして楽しんでいる。悪いとは思っていても、なかなかこれはやめられないようであった。
いつも話を真に受けているので、話のしがいがある、と父さんは微笑ましい笑顔で、いつもそんなことを思っているのであろうか。
その時突然、不意にドアが開いた。そこには深雪がいた。深雪は目をこすって眠そうな声で言った。
「あれ、パパ、もう話終わった?」
「ああ。じゃ、早く寝ろよ。要、深雪、おやすみ」
二人のおやすみの返事を聞き、父さんは安心した顔で出て行った。
「ねぇ、今夜はどんな話をしたの?」
深雪は興味ありげにこちらを見て言った。
「そんなことより、トイレに神様がいるってこと、知ってた?」
僕は自慢そうに言った。しかし深雪は、分かりきったような顔をした。
「それが今日のパパの話でしょ。要って分かりやすいんだから」
深雪はフフフと笑った。僕はその笑みに動揺した。
「それにトイレに神様なんているわけないじゃん」
さらに深雪は笑う。いつの間にか、僕の耳がカーッと熱くなっていることに気付いた。そして深雪は続けた。
「それにパパの話、多分、ウソばっかだよ。というより最近、パパって要のことをからかうのが趣味みたいだし」
僕はとどめを刺されたように、元気がなくなっていた。しかし、そんなことを気にせずに、深雪は言った。
「ねぇ、そんなことより、しりとりしようよ」
「…いい、もう寝る」
僕は布団をかぶった。
「なんでー、しようよ、ねえ」
しばらく深雪は駄々をこねていたが、とうとうあきらめたのか、静かになった。そしておやすみと一声かけ、そのまま黙ってしまった。
その後僕は布団の中で考えた。本当にトイレに神様がいるのだろうか、父さんはウソばかり言っているのだろうか、と。そのことが頭から抜け出して、布団の中でぐるぐる回っている。
その時、深雪の小さな声が聞こえた。深雪は寝返りをうって、大きく深呼吸をした。僕は時計を見る。すると、いつの間にか三十分が経っていた。
僕は突然トイレへ行きたくなった。こんなに長く起きているんじゃなかったと、後悔するばかりであった。
しかし、一人でトイレへ行くのは怖い。いつもは中間点である居間に、父さんと母さんがいるはずなのだが、今日はたまたま早く寝ていた。暗い廊下を一人で歩くのは怖いし、夜にトイレへ行くのも怖い。もうどうすることもできなかった。
しかし、僕はひとつのことを思い出した。トイレにはおばけが出そうな感じがする。しかし今日の父さんの話によると、トイレは神様で守られているらしい。暗い廊下はダッシュをしてトイレに駆け込めばいいと考えた。それのおかげで僕は、一時的に安心したが、深雪の言葉が頭の中によみがえった。するとまた僕は、見たことがない恐怖に襲われた。
絵本に出てきたようなお化けが出てくるのだろうか。もしくはとんでもなくおぞましい姿をしているのだろうか。僕は想像に想像をめぐらした。想像をしたくなくても、次々と恐ろしい姿のお化けが頭の中に浮かんでくる。頭を振っても頭から離れない。ますます恐怖が増していった。
どうしよう、と思っていても、布団の中でぐずぐずしていることしかできなかった。
もう我慢の限界が近づいてきている。怖い、もれるが頭の中を駆け巡る。
その時、僕は決心した。ついにトイレへ行くことを決めたのだ。そして暗い廊下を小走りで走り、闇を吸い込んでいるような階段を降りて、トイレに駆け込んだ。
部屋に戻ると、やっと安心した。なぜかというと、トイレではお化けが出てこないか緊張したし、部屋に戻る途中でも、お化けのことを考えていたので怖かった。しかし、トイレでも廊下でも何も起こらなかった。僕のスリッパの音が、暗い廊下にこだまを残しただけであった。
僕は布団にもぐった時、神様を信じた。そして胸が急に熱くなった。僕の身に何も起こらなかったのは神様のおかげだ、そう信じたのだ。
神様はいる、僕はその言葉をしみじみと噛みしめた。そして父さんと神様に感謝するのであった。ありがとう、と。
そして僕は布団の中でうずくまり、深い眠りに落ちた。
その夜、僕は夢から引っ張り出された、
気付くと、深雪が僕の体を揺り動かしていた。深雪は眠そうな目で僕に言った。
「要、トイレについてきて」
深雪は僕の手を引っ張り出す。しかし僕は眠かった。なので、手を振りほどこうとしたが、深雪は思いっきり引っ張ったのか、僕を布団から引きずり出した。あーと思っても、もとの布団に戻ることができないので、しょうがないと思いながらも、僕はついていってあげることにした。
再び廊下を通って階段を降りる時、深雪は小走りで走って先に行ってしまった。しかし僕は敢然と歩いた。
深雪はトイレに入り、すばやくドアを閉めた。
僕は何もすることがなかったので、寒い廊下で一人待っているしかなかった。
しかしその時、僕の耳にひとつの声が入ってきた。外からホーホーと鳴く、ふくろうの鳴き声だ。ふくろうはリズム良く鳴いているので、ついその鳴き声に聞き入ってしまった。そしてふと外を見る。無数の星が空を瞬いている。月はうっすらとした雲がかかり、きれいだった。
僕は風流だなと思いながらも、起きてきてよかったと思った。そして僕はぼんやりと外を眺めていると、深雪が出てきた。
「ごめん」
深雪は洗面所に行き、手を洗った。
僕は一応、と再びトイレに入った。
「早く出てきてね」
ドア越しに深雪の声が聞こえた。
先に行けばいいのに、と思いながらも、僕はその言葉に従った。
二人が部屋に戻ると、深雪はそそくさと布団にもぐった。僕も布団にもぐった。
そして深雪は顔を出して、僕に言った。
「ありがとね」
深雪は照れくさそうに言った。僕も照れてしまった。そして深雪は続ける。
「要さ、いきなりだけど、なんで廊下を歩いて通れるわけ?」
僕はどう答えようか迷った。神様のおかげと言えば、また馬鹿にされるかもしれない。しかし簡単な返答を思いついた。
「ヒミツ」
「えー、なんで。教えてよ」
僕はそれ以上言わなかった。深雪もそれを察したのか、すぐに質問をやめた。そして深雪は寝やすい体勢を作った。僕は目をつむり、知らないうちに意識が遠くのほうへ行くのを感じた。
僕は目を覚ました。
そしていつものようにトイレへ向かう。
トイレで用を足して水を流した時、僕はひとつの好奇心に駆られた。僕は知らずに興奮をしていた。
知らずのうちに、例のふたに手をかけていた。そしてそれを持ち上げようとしたその瞬間、開いている窓からビュッと風が吹いた。僕は思わずふたから手を放した。そして僕は怖くなって、すぐにその場から離れた。とりあえず洗面所へ行き、手を洗ってから顔を洗った。僕の呼吸は乱れている。そして僕は何度もうがいをした。呼吸が整うと、大きく深呼吸をした。その後、鏡の中の自分と目を合わせる。もう大丈夫だ。さっきのは偶然だ。単なる偶然。僕はそう思うことで安心した。そしてふーと息を吐く。
落ち着いた僕は家族と朝食が待つ居間へと階段を下りていった。
僕はそれ以来、例のふたを開けようとは思わなくなった。神様は見るものではないし、見つけようとするものではない。ただ単にそこにいて、僕らを守ってくれるものだ。そんなことを思っていても、忘れたころには再び好奇心に駆られるものである。
小学校に入学して、初めての夏休みになった。
僕と深雪は初めての夏休みに興奮した。夏休みの前日は眠れなかったほどだ。その前夜は、僕の鼓動が高まった。明日は何しようか、宿題は明日のうちにあそこまで終わらせよう、と布団の中で考えていた。毎晩毎晩そういうことを考え、想像した。
暑い日が続くある日、僕は留守番をすることになった。深雪は友達の家へ遊びに、父さんと母さんは買い物をしに行った。母さんは僕を誘ったが、僕は断った。なぜなら僕は、昨日、母さんが牛乳の賞味期限が過ぎていることに気付き、今朝に捨てようとしていたのだが、僕はそれを知らずに飲んでしまった。なので、腹をこわしてしまったため、トイレにいなければならなかったのだ。
僕は腹を押さえながら、腹の痛みと戦っていた。ああ、もしこの痛みが無ければ、と思っても、痛みは消えないのは分かっている。だがその時、遠い昔というほど僕は生きてはいないが、かなり前のことを思い出した。
それは幼稚園のころに父さんから聞いた、トイレの神様の話であった。
あの時の僕は神様を信じていたが、今はどうだ。すっかりそのことは忘れ去られている。いつから忘れたのだろうか。全然覚えていない。
僕は試しに神様に祈ってみた。痛いのを、どうにかしてください、どうにかしてください、と。しかし痛みは腹に残ったままだ。僕は何度も何度も祈り続けた。
そして七、八回目ぐらいで、僕の祈りが神様に通じたのか、痛みは雪解けのように消えていった。神様が助けてくれた、僕はそう思った。
その時僕は喜びを感じた。思わず笑みをこぼしてしまったほどだ。
僕はトイレから出て、鏡を見た。僕の顔は幸せそうだった。誰だってどんな苦しみでも、解放されるとうれしいはずだ。
僕は胸をなでおろしながら、残った宿題をするために自分の部屋へ向かった。しかし僕は、部屋とトイレの中腹である階段を昇っているときに、あの時と同じことを考えた。神様は本当にあそこにいるのだろうか。
僕は知らずのうちに階段を降りて、トイレの前まで来ていた。右手が扉に手をかけ、僕は扉を開ける。すると、風が出て行けと言うかのように最後の警告を出した。しかし僕は恐れずに中へと入っていった。そして、家には誰もいないのに、静かにドアを閉め、誰も邪魔が入らないようにした。
例のふたに近づくにつれて、胸の鼓動はだんだん早まってきた。僕は例のふたに手をかける。しかし、僕は過去に起こった恐怖を恐れた。神様が怒ったことを思い出したのだ。僕は一度それから手を離し、冷静になろうとした。
その時、もうひとつの恐怖がよみがえった。神様がどこかに行ってしまうことだ。
それは父さんの声であった。父さんの声が僕の頭の中でこだまする。そして、もし開けようとした時のことを思い出す。
僕はぞっとした。そしてその場から退いた。背後の壁に背中が張り付く。
しかしその反面に、僕の心にはまだ小さな欲望があった。見てやりたいという欲望だ。
やはり僕の心は変わらなかった。僕はもう一度例のふたに手をかけた。僕はふたをゆっくりと持ち上げる。そのふたはずっしりと重かった。僕に向かって吹く風は無く、なんの妨害も無かった。
胸の鼓動がさらに高まる。
僕は完全にふたをはずし、家を覗いた。そこには風船のような丸いものがあった。
僕は試しにその風船をつついてみる。すると、左にあるパイプから勢いよく水が出てきた。僕は慌てて風船から手を離した。水は止まったが、袖がぬれてしまった。
こんなものだったのか。僕はがっかりしながら、例のふたを閉じた。
僕は部屋に戻り、夏休みの宿題の絵画をする。
一時間、二時間と時間は時を刻む。僕の額からは、じりじりと汗が流れる。七月に入ってから、毎日のように暑い日が続いている。夏休みに入って三日しか経っていないのに、もうでれでれになっている。
十一時を過ぎても、父さんと母さんは帰ってこない。深雪はというと、いつも正午を過ぎないと帰ってこない。
絵の具に使った水が汚くなったので、水を替えに洗面所へ向かった。
僕は水をゆっくりと流す。すると抹茶色ににごった水が、白いスケート場を回転して流れる。そしてその流れた後に、砂のようなものが跡として残った。僕は洗面所をきれいにし、きれいな水を容器に移し替えた。
外が暗くなり、すぐに明るくなる。まぶしいほどだ。そしてその明かりのほうを見る。そこにはトイレがあった。すると再びトイレに行きたくなった。
僕は容器を床に置いて、トイレに入っていった。用を足し、水を流す。そしてまた自分の部屋に戻った。
あれから三十分経ったが、依然に二人が帰ってくる気配は無い。いつになったら買い物から帰ってくるのだろう。僕は終わったというのに。
僕は再び、水を流しに洗面所へ向かった。
水をこぼさないように階段を降りていると、遠くのほうから水が流れる音がした。その音は、トイレに流れる水の音だった。
そして僕は階段の下を見る。するとそこには水が流れていたのだ。
僕は急いであと一段までのところまで降りた。すぐに洗面所のほうを見る。なんと、トイレからの水であった。トイレから小さな波ができて、あたり一面にその波を送っている。
一体全体、何が起こったのであろうか。僕の頭は一瞬にして真っ白になった。その場でボーっとして突っ立っていることだけは分かっていた。その他に、僕は今、どうすることもできなかった。
しかし、僕の頭の中にひとつのことが浮かんだ。
神様が怒ったのか。
そういえば父さんの話によると、神様はトイレの水源を守るようだった。しかし僕が例のふたを開けたことによって神様がどこかに行ってしまったのか。
僕のせいだ。僕は自分を責め立てた。しかし自分を責めてもしょうがない。今は自分ができることをしなければならない。なので、今はひたすら祈るしかなかった。
お願いします、神様。戻ってきてください。
しかし水の勢いは止まらない。僕は祈ることをやめなかった。
お願いします。お願いします。
水かさは少しずつ高くなってきているような気がした。僕は祈り続けたが、トイレには神様が戻ってはこなかった。
ああ、どうしよう。そんなことを思っても、悔やみに悔やみきれない。あの時、例のふたを開けなければ。僕の目からは涙が溢れ出してきている。
その時、僕は階段を駆け上がっていた。そのはずみで、階段の上に置いておいた、水が入っている容器をひっくり返してしまった。にごった水は、階段を滴り落ちて、床上に広がっている湖と混ざった。そして赤い炎が水の中で燃える。
僕は部屋に入り、ベッドに体を投げ出して、枕の中に頭を沈めた。僕の心は後悔とあせりによって包み込まれていた。
僕のせいで…僕のせいで…この日本は水の下に沈むんだ。この世界は僕のせいで水の下に沈むんだ。
僕は絶望の底にいる気分であった。さらに一生這い上がることができないような崖が、目の前に聳え立っているようだった。もう一度、父さん、母さん、そして深雪にまた会えるのだろうか。まだ僕には、やりたいことがたくさんある。世界はなくなってしまうのだろうか。
その時僕は思った。これは夢だ、と。僕は夢から目覚めるために頭をたたいた。しかしすぐにそれは夢ではないことが分かった。
僕は顔を上げて耳を澄ました。下の階で水が流れている音がする。僕は再び枕に顔を沈めた。もうどうすることもできない。
その時であった。下の階から玄関のドアが開く音がした。
「ただい…何これ」
それは母さんであった。びっくりしたのか持っていた荷物を落としたようだ。
「どうしたんだ、それ落とし…何があったんだ、これは」
父さんがその後を続いて中に入った。
「とにかく、どうしたんだ、これは。誰かいるか、要、いるか」
僕はその声を聞いて、胸をなでおろす思いだった。
そして僕はすぐさまに部屋を飛び出し、階段をものすごい速さで駆け下りた。
「父さん、どうしよう。トイレから…トイレから水があふれてきたんだよ」
「ああ、そうなのか、まったく…」
父さんは靴を脱ぎ、靴下も脱いで、裸足のまま水の上を歩いた。父さんは僕の前を通り、トイレの中へと入っていった。
ガコン、と音がすると、水の流れる音が無くなった。
「ふぅ、まったく、要、ちゃんと説明するんだ。分かったな」
父さんは僕を見て苦そうな顔で言った。僕はゆっくりうなずいた。
三十分をかけ、やっとのことで床上の水を雑巾で拭いた。
「父さん、ごめんね。こんなことになっちゃって」
僕は泣きじゃくっていた顔を父さんに向けた。
「ああ、いいよ、やっちゃったことはしょうがないだろ。もう終わったことは悔やんでもしょうがない。なぁ、そうだろ。ところで、どうしてこうなったんだ」
「じつは…」
僕は今日起こったことをすべて話した。
すると意外にも、父さんは笑っていた。そして父さんはすまなそうに言った。
「ごめんな、父さんがそんな話をしたから悪かったんだな。ははは…まさか本当に開けるとは思わなかったよ」
父さんは笑っている。僕はそれがなぜだか分からなかったが、疑問に思っていることを聞いた。
「ねぇ、神様は戻ってきたの?」
「ああ、そうだよ。ここ以外に行く場所が無かったんだよ。他の場所にも神様がいるからな。きっと無いと分かったから帰ってきたんだよ。だけど、家のふたが閉まっていたから入れなくて、こうなっちゃったんだ」
「あー、そうなんだ」
僕は目を輝かせた。今、僕の家のトイレには神様がいる、それだけが分かっただけでうれしく思った。今では心が晴れ晴れしいほど、今の太陽のように輝いている。あの時の絶望がウソのようであった。僕は今ホッとしている。いろんなことにだ。
母さんには父さんから話してくれた。
そして十二時半を回ると、ちょうど母さんが昼食の準備に取りかかろうとした時、玄関のドアが開いた。
「ただいまー。おかーさん、おなかすいたよー」
その声は深雪である。そして居間に飛び込むように入ってきた。
「お母さん、今日のご飯、何?」
母さんは支度をしながら答える。
「今日は冷やし中華よ」
「やったー」
深雪は喜んだ。今日ここで何が起こったことも知らずに。
僕は深雪のそのうれしそうな顔を見てうらやましく思った。何も知らないほうがいい時もある。僕はそう感じたのであった。




