第四章 二人の思い
腹をいっぱいにして、我が根城であるアパートに帰る道中、雄治は加藤を見かけた。加藤は片手に小さな箱をぶら下げ、駅の方に向かっていた。加藤はこちらに全く気付いていないようだったので、雄治は車道をまたいで声をかけた。こちらに気付き、加藤が急いだ様子で車道を横切り、こちらに向かって来た。
「よぉ、どこ行ってたんだ、こんな遅くまで」
加藤が言った。
「どこって病院に決まってるだろ。ま、お腹が空いたからちょっとお腹に入れに、店へ行ったけど…」
「ま、いいよそんなことは。て言うかどうだっ…」
雄治は加藤から目を逸らした。それに気付いたのか、加藤はその話をやめた。そして雄治は加藤にこのことを打ち明けることを決めた。仕事仲間の親友であったし、加藤はなんでも知りたがる性格だが、秘密は最後まで守るので信頼できた。
二人は公園に入って、ベンチに腰をかけた。
そして雄治が話し始めると、加藤は静かに耳を傾けた。
そしてすべてのことを話し終えると、雄治はひとつのことをすっかり忘れていた。それは芳江に利根川に捨てられた乳児の話をしてなかったことだった。ま、明日に話そう、と忘れないように頭に刻み込んだ。
加藤は顎を触り、しまったというような顔をした。
「悪いな、変なこと聞いて。なんか自分が嫌になってきたなぁ…俺、このことは誰にも言わないよ。約束する」
「ああ」
加藤は立ち上がり、雄治に小箱を差し出す。
「あ、これ、お見舞いに買ってきたんだけど…病院の場所分かんなくて、お前の家に行ったんだけど、誰もいなくてさ。だから、こう会ったんだから、はい、これ」
「ありがと」
雄治は素直に小箱を受け取った。中身は多分、ケーキだろう。箱は冷えていた。
加藤は自分の腕時計を見た。
「あ、やべ、終電が…じゃあな、古葉、奥さんによろしくな」
「ああ」
加藤は走って行ったと思ったら、すぐに立ち止まった。
「明日はどうするんだ、休むのか」
「ああ、頼むよ」
「分かった」
そう言うと、加藤は駅へと走り去った。
雄治はその姿を見届けた後、小箱を持って公園を後にした。
アパートのドアを開け、中に入ると明かりをつけた。
昨日の朝の通りだった。散らかった新聞、テーブルの上には片付けられていない食器、脱ぎ捨てられたままの服。
ふと、昨日の朝の状況を思い出す。素早く着替えをし、急いで朝食を作って食べ、ビジネスバッグを持ち、あわただしい様子でこのアパートを飛び出した姿をしみじみと思い出した。あの時はまだ希望に満ち溢れていた。もし何でも願いがかなえられるなら、まだ輝かしかったあの時に戻りたい。いや、もうこのことは忘れたい。
雄治は居間に向かい、新聞、食器、服を片付けた。
そしてそのまま居間に倒れこんだ。
外は暗闇に覆われ、月だけがひときわ輝いていた。まるで、希望の光のように。
スズメのさえずりを耳にして、頭を起こした。朝日がまぶしい。体を起こしてみると、首が痛かった。首を押さえながら、顔を洗いに行った。
朝食をとりながら、新聞を読む。すぐに新聞で松林清治のことを探したが、見つからなかった。そして時計を見ると、ちょうど八時を回っていたところだった。
食器を片付け、身支度をする。服はズボン以外を着替えて、コートを着て、加藤から貰った小箱を持って、寒い外へと出て行った。
外は予想通り冷え込んでいたが、太陽がわずかな暖かさをコートの中へと注ぎ込んだ。風は感情を剥き出しにしていた時とは逆に、優しく出迎えてくれた。そして足は勝手に病院へと向かっていた。
ああ、今日は良い一日になりそうだ。そう思いながらも、少し複雑な気持ちでもいた。正直、不安な日でもある。芳江が何て言うか心配だったからだ。病院に近づくにつれて、その思いはよりいっそう高まっていく。しかし、足はその場に留まらずに、病院へと歩き続けていた。
病院に着くと、待合室で頭を抑えている医師に会った。
「おはようございます…あのことを奥さんにはもう話しましたか」
「あ…いいえ、まだなんですが…昨日話そうと思ったのですが、忘れてしまいまして。なので、今から話そうと思いまして…」
「あっ、そうですか…話し終わったら、昨日の部屋に来てください…では、失礼します」
医師は足早に立ち去った。いつもとは違う、殺風景な感じであった。何かあったのだろうか。医師を心配しながらも、203号室へと足を進めた。
部屋の前に来ると、やはり躊躇した。しかし、アパートから出てきた時の決意を思い出し、部屋の中へと入っていった。
正面の窓から差し込む朝日は、真ん中の狭い通路を照らし、雄治を出迎えた。
そして芳江のいるベッドのカーテンをくぐり、中に入った。
「どうだ、気分は」
「まあまあ」
芳江は雄治と眼を合わせようとせず、窓の外を眺めていた。雄治は構わず話を続ける。
「何かこれ、加藤がお前にさ。お前のことが好きになっちゃったかな、あいつ。多分、中身はケーキだと思うけど…ほら」
「うん、そこに置いておいて、後で食べるから。あと、加藤さんにありがとうって言っておいて」
芳江はこちらに目もくれず、ずっと外を見ていた。
「あとさ、今日のニュースで…」
「そんなことより、養子のこと、もうどうでもいいわけ?」
芳江が恐ろしい目をしてこちらを見た。しかし、その言葉を聞いて、雄治は少しほっとした。そして雄治は仕切りなおして、ゆっくりと話し始める。
「じゃあ、昨日の話のことなんだけど…どう考えてくれた?」
「その前に、私、昨日、夢見たの」
雄治はなぜこの時に夢の話をするのか分からなかったが、とりあえず、おとなしく聞くことにした。芳江は続ける。
「何の夢かというと、あなたの夢だったわ」
「オレの…」
「そう、あなたの。その夢はあなたが子供と仲良く遊んでいたの。家族のようにね。私は遠くから見ていたわ。あなたの幸せそうな顔っていったら、本当に良かったわ…それで、私は独りぼっちだった、遠くにいたから。でもあなた達が私を呼んだの。ヨチヨチ歩きの…あなたの子供かしら。ま、とりあえず、子供が私に近づいて、手招きしたの。こっちに来て遊ぼうよ、って言わんばかりに。そして私は気付いたの。私はこのベッドの上で泣いていたの。何だったんだろう、あの時の気持ち。悲しみでもないし、喜びでもない。言葉では言い表せない何かが、一人このベッドの上で泣かせたの。だけど正しく一つだけ言えることは、体じゅうが一気に開放されたような快感があったわ。でも涙が流れた時、胸が少し痛かった。胸を通って、体じゅうがその涙に共感したわ」
芳江はそのことを思い出しているのか、目が潤んでいた。
「それで夢から目が覚めた時、私は思ったわ。やっぱり雄治には子供が必要だってね。だから私は、養子をもらうことに、改めて賛成します」
その時、芳江に笑顔が戻った。涙目だったが、もとの芳江に戻った。
「ありがとう…芳江」
雄治はそのことに感銘を受けた。しかし、その良い空気が芳江の一つの疑問によって、一瞬にして消えてなくなるのであった。
「そういえば、なんだかあの夢、変だったのよね。子供の人数が一人じゃなくて、二人だったのよね。私達がもらう養子は一人なのに、変な夢ね」
芳江クスクス笑っていたが、雄治の顔は、不穏に包まれた。今、ここで切り出すのは少し嫌だったが、先程の決意を思い出して話を切り出した。
「あのさぁ、芳江、ちょっと話があるんだけど…」
「なーに、そんな変な顔をして」
芳江はまだこの事態に気付いていないためか、まだちょっとした興奮が、残っているようであった。さっきとは大違いだった。この表情をいつまでも残しておきたかったが、いつか言う必要があったのは分かっていたので、そんなことを無視するのは、少し胸が痛かった。
「実は…」
三度目の話だったので、スムーズに話が進んだ。芳江の顔は話が進むに連れて、険しくなってきているのが分かった。その顔尾を見るたびに、芳江の目を避けながら話を進める。話が終わると、芳江は口を抑えてうつむいていた。しばらく話さないだろう、と思っていたので、沈黙を守ろうと思っていたが、先に芳江が話を始めた。
「で、雄治はどう思うの。その子について」
芳江はうつむいたままから顔を上げた。その表情からは無理だといっているのが分かったが、自分の気持ちを押し通した。
「オレはその話に乗りたい。兄妹にすれば何かと成長もよくなるし、子供たちの心も安定すると思う」
「経済的に考えたことある?気持ちだけじゃ到底育てることなんて無理なのよ。むしろ私たちの生活だって危うくなるのよ」
芳江は一向に食い下がらない。しかし、ここで雄治も負けるわけにはいかなかった。ここで負けたら、その子の親の意思を踏みにじることになる。
「もともと俺たちは子供が二人生まれる予定だったはずだ。だから…」
「もうその話はやめて。お願いだから」
芳江はぴしゃりと言った。そして突然しゃくりを上げて話し始めた。
「もう…いいよ。分かったわ、私の負け…ね。あーあ、もっと強くなりたいなぁ。そうずればこんなことにならなかったのに…見た夢って、このことの前兆だったのかなぁ」
芳江は再び笑った。その顔を見て、雄治も笑った。雄治は顔を外に向けた。
「ごめんな。オレが勝手にこんなこと決めちゃって」
「いいのよ、別に。その時にその子を見つけなきゃ、その子は本当に幸せじゃなかったと思うよ。乳児で風邪だったなんて、ふつうなら死んじゃっていたかもしれない。その子の幸せ、一緒に探してあげようね」
その言葉を聞いて、雄治は心の底からジーンときた。今の雄治には、これだけの言葉しか送ることができなかった。
「オレ、仕事も生活のことも頑張るからな」
雄治は203号室を出て、医師のいる昨日の部屋へ向かった。
中に入ると、朝の医師とは違う、快さが感じられた。医師はすやすや寝ている乳児から雄治に目を移した。
「どうでしたか」
医師は眠そうに言った。
「昨日は大変でしたよ。あまり泣かないのはいいのですが、活発なんですね、この子。毛布は嫌がるし、でも、よく寝る子ですね。おかげで少しは眠れましたよ。あと、この子の病状はよくなってきています。あと二・三日安静にしていれば、直に良くなるでしょう」
医師の目がとろんとしてきた。
「大丈夫でしたよ。少し反対していましたけど、最後には快く賛成してくれました」
「あ、それはよかった。これでこの子からかいほ…いや、失礼。この子をお願いします」
そう言って、そそくさと出て行ってしまった。
「え、ちょっと、この子はもう」
医師には聞こえていないようだった。この子はもう自分の管理下に置かれたのか、もう一度確認したかったのに。そんなことを思っても、もう遅かった。
雄治は養子を抱きかかえ、静かに部屋を後にした。赤ちゃんが起きないように。
203号室に戻ると、さっきは気付かなかったが、峰倉さんのベッドが片付けられていた。峰倉さんは退院したのか、いいなぁ。そんなことを思いながら、赤ちゃんに目を向けて、芳江のベッドに向かった。どんな顔するかな。頭の中を、芳江のあらゆる顔がめぐった。びっくりしている顔、笑っている顔、唖然としている顔。まさか今日、ここにいるとは思っていないだろう。いつの間にか、自分の心が躍っていることに気付いた。
そして赤ちゃんを大事に抱えたまま、芳江のベッドに通じるカーテンをくぐった。
すると、芳江は外をぼんやりと眺めていた。すぐに芳江はこちらのことに気がついた。そして思ったとおり、芳江は目を丸くしていた。
「どうしたの、その子。その子は雄治が見つけた子?」
芳江は完全に戸惑っていた。雄治はそれを見て、心の中で喜んだ。
「ああ、そうだよ」
「え、ちょっと抱かせて」
赤ちゃんは雄治の手から芳江の手に移った。だが、そのことに気付かないで、まだすやすやと眠っている。
「かわいいわね、この子」
芳江は甘ったるい声で言った。
「なんて名前にしようか」
芳江はすっかり上機嫌であった。
「もう決めてある。この子の名前は深雪だよ。いい名前だろ」
「いいはいいと思うけど…なんで?」
芳江は赤ちゃんを見て、結婚式以来の心底から喜んでいる微笑を見せた。子供の力は計り知れない。人々を喜ばせ、未来に秘めたる力を隠し持っている。子供たちはそのことを知らずに成長する。だから子供たちはその時その時を、幸せに暮らしていける。しかし、いつまでもそんな暮らしができるわけがない。それを知ってしまったその時から終わる。雄治は持論に浸りながら、ボーっとしていた。
「ねぇ、聞いてる?」
芳江は不審そうに尋ねた。
「あ、ああ聞いてるよ。あ、これ見てよ」
雄治はポケットを探って、しわくちゃに丸められた手紙を取り出した。そしてその手紙のしわを伸ばすように広げ、芳江に渡した。
「何これ」
「それ、その子のそばにあった、その子の親の遺志手紙」
「えっ」
芳江はすぐに手紙を読み始めた。そしてすぐにぼやくように言った。
「だから…か。この子の両親は私たちと違って大変だね。この人たちと会わせ…あっ」
芳江は首をひねったり、髪の毛を触ったりと、急に落ち着かない様子になった。
「ねぇ、この子の親とはどうするの。この子の実親とこの子はどうするの」
「あ、そうか」
雄治は考えた。が、人のことを考えるのが苦手な雄治は、直に面倒くさくなり、適当なことを言った。
「ま、どうにかなるでしょ」
「もう、いつも適当なんだから。こっちはいいかもしれないけど、あっちはすごく心配するかもしれないよ。でも、連絡の手段はないから…どうすればいいんだろう」
「ま、しょうがないじゃない、考えても。考えていないときに思いつくことだってあるじゃん。探しているものが見つからないのと一緒だよ。その時になるまで待とう、な」
「ま、そうだね。いくら考えてもしょうがない、か」
芳江は落ち着き払ったように言った。
その時、深雪が目を覚ました。知らない部屋、見たことがない人にびっくりしたのか、突然泣き出した。芳江が深雪をなだめようとしても、泣き止まない。たまらず芳江は言う。
「ねぇ、泣かないで、お願いだから」
しかし一向に泣き止もうとはしない。芳江は必死に深雪に問いかけ、体を揺らしている。部屋中に深雪の泣き声が響く。芳江は泣きそうな声を出した。
「ねぇ雄治、どうしよう。泣き止まないよ」
「オレがやってみよう」
深雪は雄治の腕の中へと戻った。雄治は深雪を優しく揺らす。するとすぐに深雪は泣き止んだ。そして深雪は前と同じように、手を天井に向かって突き出した。雄治はその手を自分の手で優しく包む。
「泣き止んだ…」
雄治は安心したように息をついた。芳江は半分安心し、半分不満そうな顔をした。
「その子、雄治によくなついているね。きっと自分を助けてくれたことを知っているんだよ」
芳江は皮肉を言った。しかし雄治はそのことに気付かず、素直に受け止めた。
「そうかな」
雄治は少し照れて言った。芳江は雄治の顔を見てあきれた。しかし芳江はその純粋な心の持ち主を笑った。そのことも知らずに雄治も釣られて笑った。深雪も笑っている。
その時、家族の大切さを、芳江は初めて知った。
その後、雄治は約束どおり孤児院に行き、男の養子をもらった。名前は要にすることにした。この世の要になってほしい。また、人々にとっての大事な人になってほしいという意味がこめられている。
二人のもとに送られた二人の養子は、今、双子として暮らしている。二人は偶然にも、同日、同時刻に生まれたため、そういうことにしている。そしてその奇跡に感謝している。雄治と芳江は二人が養子だということを忘れて、わが子のようにかわいがっている。二人は何も知らずにすくすくと成長していった。何の疑いも持たずに、不審にも思わずに。
三年後、雄治と芳江は新築の一戸建てを購入した。将来のために、3LDKで造られている。要と深雪は新築の家を見て、とても喜んだ。わー、これ、私たちの?と言って深雪は家に駆け込んで、はしゃいでいた。その後に要も続く。そして、深雪は要と部屋めぐりをして楽しんでいた。
二人は友達を作り、毎日を幸せそうに、すくすくと育っていった。公園に行ったり、幼稚園に通ったり。雄治と芳江の両親の家にも行った。しかし、行くたびにいつも胸を痛めている。なので、実家に帰る回数は、なるべく少なくしている。
二人の秘密は、雄治、芳江、加藤、鎌塚、葵、そして医師しか知らない。もちろん誰もこの秘密をばらさないと思うが。
二人は少しトラブルもあったが、無事、幼稚園を卒園した。そのとき、雄治と芳江は泣いた。いくら自分の本当の子供ではなくても、今では立派な彼らの親になっていたのだ。




