第三章 出会いと決別
もと来た道を戻り、風が強い利根川にかかる橋まで来た。
雄治は風に押されながらも、一歩一歩進んだ。風は嘲り笑うように雄治に向かって吹きぬける。心はさらにブルーになった。
先程のことで、少し不幸の事故の話がどうしても頭から離れない。あの時、聞きたいと言ったのが間違いだったのだろうか。
そしていきなり突風が吹くと、橋の上にある一枚の落ち葉を連れ去った。
その時であった。どこからともなく、小さな泣き声が聞こえた。雄治は橋の上から辺りを見回した。が、何もなかった。
ついに疲れがピークかなと思った。そして雄治はさらに歩く。
少し歩くと、再び泣き声が風に乗って、耳元まで来た。また同じように辺りを見たが、何もなかった。今度は耳を澄ませて声が聞こえるのを待った。耳の中に冷たい風が流れ込む。その中には、確かに子供の泣き声があった。そしてその声は、橋の下から聞こえるのが分かった。
雄治は急いで橋を渡り、土手を降りた。川付近の風は、上と比べ物にならないほど冷たかった。辺りを見回してみると、柱付近に一つのダンボールがあった。
雄治はダンボールの近くまで歩み寄り、ダンボールの中を覗いた。
雄治は唖然とした。
そこには顔を真っ赤にしている小さな乳児が、大きな声で泣いていた。
雄治はどうしようもないような顔をして、辺りを見回した。そしてまた段ボール箱の中の乳児を見る。するとさっきは気付かなかったが、乳児の横には手紙が置いてあった。
そこにはこんなことが書かれていた。
深雪をお願いします。 松林 清治・望
「はぁ?」
思わず声を出した。そしてわなわなと怒りが込みあがってきた。
手紙をたたんでポケットにしまった。腰を下ろし、乳児を抱く。すると乳児が少し微笑んだように見えた。何だろう、この気持ち。今まで味わったことのない、いや、遠い昔に一度だけ味わったことがある、あのときの気持ち。何だか懐かしい。
遠い過去に浸りながら、その味わいを楽しんでいるとき、後方でガサッと音がした。雄治が振り向くと、ススキが揺られていた。
赤ちゃんを見直し、額に手を当ててなでようとした。すると、乳児の額は異常に熱かった。時々、乳児は泣きながら小さく咳をした。雄治は風邪だ、と判断した。
そして気付いた時は、乳児を抱いて走り始めていた。土手を駆け上がり、道路を一生懸命に走った。風が妨害するが、風を切るように全速力で走った。
息が切れてきた。病院はあの丘の上にある。もう少しだ、雄治はそう自分に言い聞かせる。
その時、雄治は気付いた。いつの間にか、風が後押ししてくれていたことを。
病院に駆け込み、すぐに受付を済ませ、待合室にある長イスに座った。
雄治は乳児の顔色を覗き込む。すると、乳児は、先程より弱っているように見えた。
しばらくすると額から一滴の汗が流れた。そのとき、体が一瞬にして凍るような思いがした。その汗をハンカチで拭おうとした時、乳児の顔が見えた。今は泣いてはいないが、ひどく汗をかいていて顔が真っ赤だ。雄治は持っていたハンカチで急いで拭いた。そして時計を見ると、さっきから一分しか経っていなかった。
まだか、まだかと待ち焦がれているうちに、名前が呼び上げられた。そして診察室に入ろうとすると、看護婦は診察室の前の長イスを指差した。再び待ち、すぐに名前が呼ばれた。
中から看護婦がドアを開けてくれたので、軽い会釈をして入った。看護婦はそのまま部屋から出て行った。
「どうしたんですか、古葉さん、カゼにでもやられましたか。今年のカゼは強いみたいですからね」
聞きなれた声だ。それもそのはず、その医師は朝の医師だったのだ。
医師は笑いながら続ける。
「で、どうしましたか…えっ」
医師がこちらに振り向いたとき、突然沈黙が訪れた。医師はあんぐりとしたまま、雄治の方を見ていた。
「どうしたんですか、その子は…」
医師はまだ呆然としている。今度は雄治が切り出した。
「あの、この子、熱みたいなんです。診てください」
雄治は抱いている乳児を差し出した。
「この子は、この子はいったい誰なんですか」
医師は本当に気が動転しているようであった。その反面、雄治は落ち着いて答えた。
「そんなことより、早く診てください。すごい熱なんです」
「あ、そうですか。早く見せてください」
我に返ったのか、乳児を受け取り、手を額にやった。それを見て、雄治は少し面白おかしく感じた。その後すぐに自分の行いに気がついたのか、やっとのことで医師らしい行いをした。
「ん、この子はいつ生まれましたか」
「分かりませんよ、そんなの」
雄治は率直に答えた。今日この子を見つけたのに、いつ生まれたかなんて知るはずがない。そして医師は深刻そうな顔をして、重いため息をついた。
「多分、この乳児は、生後間もないでしょう…」
「生後間もないって…」
雄治はひとつのことを思い浮かべた。
「今、非常に危険な状態です。少し、預からせて下さい」
そう言うと、抱いたまま部屋の奥へと行ってしまった。雄治は一人になった。
しばらく椅子の上で、あの子のことを考えていた。あの子はもしかして捨てられたのではないのか。頭の中にそのことが駆け巡る。なら、なぜ捨てたのであろうか。家庭の事情なのか、それとも、心底からあの子のこと嫌いなのか…。
最近の悪い癖が出てしまった。意味のないことを次々と進展して考えていくことだ。
一人で照れくさそうにいると、突然ドアが開いた。
「古葉さん、先生がお呼びです」
看護婦がドアの横から顔を出して言った。ドアの閉まる音が聞こえてから、雄治は立ち上がって、廊下に出た。そのとき、雄治は気が付いた。あの看護婦は場所を言っていなかった。どうしたことだろうか。雄治は左から右へと廊下を見た。しかし、そこには先程の看護婦は見られなかった。そこにずっと立っているわけにもいかなかったので、とりあえず、受付へ向かった。
受付はさっきより人は少なくなっていた。雄治は受付の窓を覗いたが、当てが外れてがっかりした。しかしここに聞けば分かるかもしれないと思ったので、受付の女性に尋ねようとしたが、変に思われるかもしれないのでやめた。
そこで丁度、先程の看護婦が廊下から待合室に入ってきたので、急いで看護婦に歩いた。そして、ずいぶん気をつかった感じで尋ねた。
「すいません、道に迷ったんですけど、どこですか」
看護婦は不思議そうな顔をした。そして笑いながら答えた。
「迷ったって、さっきの部屋の右の部屋じゃない」
雄治の心は一瞬にして空っぽになった。
「失礼します」
部屋に入ると、医師がベッドに横たわって寝ている乳児を見ていた。
「来ましたか、遅かったですね」
「いや、はい…ちょっと疲れていたので」
「そうですか…あ、そこに座って下さい」
二人とも上手く切り出せないのか、長い沈黙が流れる。その間、二人は小さな呼吸に耳を傾けながら、寝ている乳児を見ていた。寝顔が非常に可愛い。雄治はため息をついた。
「どうやら、もう大丈夫みたいですね」
医師はまだ強ばった表情をしている。
「急いで薬を投与しましたからね…これからですよ、来るのは。この子がどこまで頑張れるか…心配です」
医師はようやく雄治の方を見た。
「古葉さん、この子は一体、どこの子なんですか」
雄治はポケットから一枚の手紙を取り出し、医師に渡した。
「何ですか、これ」
手紙を受け取り、読み上げる。
その手紙にはたったの一文と名前が記されているだけであったが、医師には何か分かっていたようだ。
「松林清治って…」
医師は立ち上がり、雄治の横を足早に通った。そして医師がいなくなると再び、雄治は部屋に取り残された。しかし今度は一人ではなかった。
雄治は寝ている乳児を見つめて、疲れが吹っ飛んでいくかのように、心が和まされていた。赤ちゃんは小さな呼吸をしている。雄治は乳児が寝ている寝台の上に手を乗せ、さらにその上に顎を置いた。そして雄治はまぶたが自然に閉じてきているのも気付かずに、別の世界に移っていた。そしてその世界で、幼い頃の自分を見ることになった。
地震が起こったので夢の世界から脱した。すると医師が背中をゆすっているだけであった。
「起こしてすいません。ちょっと聞きたいことがあるのですが…」
医師は不安そうに言った。
「何ですか」
雄治は目をこすりながら眠そうに答えた。そして腕を上げて体中の各部を起こした。
「あのですね、いきなりですけ、この子はどこにいましたか」
医師は苦々しい顔で聞いた。雄治はその顔に疑問を持ちながら答える。
「えーっと、利根川の…河川敷です」
「そうですか…」
医師はため息をついた。そして医師は続ける。
「続いてですね、まあ、どうでもいいのですが、松林清治っていう人を知っていますか」
「いいえ」
医師はさらにうつむいた。松林清治は有名人なのだろうか。雄治はそのままその疑問を聞き返す。すると意外な答えが返ってきた。
「今日の新聞の二・三面あたりに書いてあったと思いますが、見ませんでしたか」
雄治は考え込む。そしてすぐに朝のことを思い出した。
「もしかして、ベンチャーのやつですか」
「そうです」
医師はやっと微笑んだ。そして医師は続ける。
「その会社の社長が松林清治なのです」
「で、なんの関係が…あっ」
雄治は気付いた。この乳児の父親がそのベンチャー企業の社長であり、会社が倒産したこと、そしてその夫妻が何らかの理由でこの子を捨てなければならないこと。雄治の頭では、二人が借金取りに追われていた。なぜなら起業の際、莫大なお金を使うために闇金まで手を出したと思ったからだ。そして雄治は言う。
「つまり、この子は…」
「そうなりますね」
医師は腰をかけた。そして天井を仰ぐと体を脱力させた。雄治はそのだらしない格好を見て、少し困惑した。その無様な格好のまま、医師は言った。
「この子、昨日の夜に産まれたんですって。古葉さんの子供…と同時に産まれたらしいです。同じ時刻に。ちょうど大きな雷が落ちた直後ですね」
「ウソ」
「ウソじゃないです。本当のことですよ」
雄治はその事実に呆気を取られている。そして医師は大きなため息をつくと、勝手にぼやき始めた。
「で、どうしましょう。このことはまだ、私と古葉さん、それに松林夫妻しか知らないです。多分、松林夫妻は親権を破棄…どころではないと思います。まぁ、あらゆる法律によって裁かれますと思いますが、とりあえず今、この子の親…保護者はいないってことになりますね。普通なら孤児院行きなのですが…」
医師は横目でチラッと雄治の方を見た。雄治はその視線の意味は分かったが、あまりにも無茶苦茶すぎる。明らかに今の医師には、どうでもなれ、バレなければいいといった気が強くなっている。雄治はなんて答えればいいのか困った。
普通なら、そんなことしたらだめだ、とはっきり言うべきなのだが、この子を見捨てるわけにはいかない、といった別の本心があった。どうもこの小さな赤ん坊とは、何らかの縁があるらしい、と思うだけで、別の感情が駆り立った。
雄治がそんなことを考えていると、医師はさらに拍車をかけるような一言を言った。
「実は古葉さんがもらう養子の件なのですが、あの子も実は言うと、同時刻に産まれましてね。なので…」
「…なので、双子にしろと」
「そうです。この子の未来を考えてあげるのであれば、そうすることをお勧めします。考えればの話ですが」
医師は楽しそうに笑った。完全に雄治のことを遊んでいる。昨日、医師は冗談を言わないと言ったので、本気で言っているのだろうと思った。雄治は憂鬱そうな顔をしたが、すぐに真剣な顔に戻った。しかし、内心は心配であった。
「まだ、芳江とも話さなければならないし…」
医師のほうをチラリと見ると、医師は微笑んでいた。そして医師は問題がないような、晴れた顔で言った。
「まぁ、どうにかなるでしょう。このことは奥さん以外には、話さないで下さい。明日には返事を下さい。今日はこちらで預かっておきますので…」
「明日までですか」
雄治の目には、決断を急かす医師が少し憎く見えた。なぜそんな早くに決めなければならないのか、それが不思議でたまらなかった。しかしそんな雄治をよそに、医師は気にしないで続ける。
「いい返事を待っています」
完全に医師の流れに飲み込まれた、と感じた。医師はドアの方に向かって歩くと、そのまま何も言わずに行ってしまった。が、すぐにまたドアが開くと、医師が顔をこちらに覗かせた。
「言い忘れましたが、その子はそのまま寝かせといてください」
再びドアがバタンと閉まると、その音で乳児が目を覚ました。そして辺りをきょろきょろすると、突然泣き出した。凄まじい泣き声が部屋中に響く。雄治はこの泣き声を止めるべく、乳児を抱いた。そして腕の中で優しく揺らす。すると乳児はだんだんと泣くのをやめて、笑顔を見せた。乳児は雄治に手をさしのべた。その手はもみじのように赤く、小さかった。雄治はその手を優しく握ると、乳児は幸せそうに喜んだ。そして安心したのか乳児は雄治の腕の中で、ゆっくりと眠った。雄治は眠った乳児をもとのベッドの上にゆっくりと戻した。
何の夢を見ているのだろうか。今、彼女は別の世界にいる。
蛍のような星の光に照らされている廊下を通り、203号室に戻った。そして芳江のベッド近くまで歩くと、すぐにこちらに気が付いた。
「どうだった」
芳江は待ち望んでいたかのように言った。雄治はイスに座り、孤児院での出来事を話した。孤児院での再会、養子の両親、そしてその家族関係。芳江はそんな話に一生懸命になって耳を傾けた。そして話が終わると、ベッドに寄りかかり、小さな声でぼやき始めた。
「私達に彼らのようなことができるかしら」
「オレもそれ聞いたとき、そう思ったよ」
雄治はイスから立ち、窓を通して外を見た。
「でも俺たちが育てなきゃ、その子は一生、一人ぼっちだ。永遠に孤独の人生を生きるのと同じような人生を歩まなけばならなくなる。俺はその子の人生をサポートしたい」
「保護者がいなくたって、その子はその子なりの人生を見つけられるはずよ。たった一つの道が、人生じゃないわ」
雄治は芳江の方を振り向いた。
「自分の命を犠牲にしてまでも産んだ子供だぞ。その遺志を受け継いで、オレたちはその子を大切にして、幸せな人生を歩ませなければならないと、オレはこう思う」
「だから私には自信がないんじゃない」
芳江の顔は必死であった。二人は目が合い、しばらく見つめたままでいた。しかし芳江の目から、ほろりと涙が頬を流れた。その姿を芳江は隠すように雄治から目をそらすと、袖で涙を拭いた。その姿を見た雄治は、その気持ちに共感した。そして雄治は優しく言った。
「明日までゆっくり考えてくれ」
雄治は泣き続けている芳江を残して、そそくさと部屋を出て行った。
芳江はまだ泣いているだろうか。とりあえず、そっとしておいた方がいいかな。そう思いながら、雄治は暗闇に包まれた廊下を静かに歩く。風は窓を叩き、窓は激しくゆさぶられる。廊下の奥の方では、火の玉のような赤い明かりがぼんやりと揺れていた。
この後はどこへ行こうか。それは自分でも分からない。頭の中には他のことですでに埋め尽くされている。雄治は知らずにため息をする。今日一番の深い深いため息だった。
いつの間にか、雄治は待合室まで来ていた。待合室はすっかり静まり返り、遠くで非常口の明かりがさっきと同じようにぼんやりと浮いていた。そしてゆっくりとした歩調で外へ出て行った。
外に出ると、風は先程より弱まっており、時々吹く風が、一番体にこたえた。しかし、その中で、風の優しさも感じられた。まるで昔のあの時のように。腕を天に伸ばし、そして空を仰いだ。するとそこには満天の星が、今でも落ちてきそうなほどとても近くに感じられた。子供のように空へと手を伸ばしたが、星まで届くわけがない。しかし頭の中が空に吸い込まれて、今まで感じたことがない気持ちよさが感じられた。大きく息を吸ってみると、胸の中が新鮮な気持ちと一斉に入れ替わった、と同時にお腹が鳴った。そしていつの間にか、一人で笑っていた。よくよく考えてみると、昨夜から何も口にしていない。唯一口にしたのが、今朝の水ぐらいであった。
雄治は再びゆっくりとした歩調で歩き出す。
夜の道は、朝とは全く違う姿が雄治の目に映った。しかし雄治の脳裏には、ある人が映し出されていた。




