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この空の下で  作者: kazuha
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第十五章 再会と歓喜

 芳江が死んでから、ちょうど一年が経つ。ふと空を見上げると、空はぽっかりと穴が空いたように、そこだけが青かった。

 わずか三十七年の小さな命は、去年、天に散った。

 この空の下には、どれだけ悲しんでいる人がいるのであろうか。そのことを知らずに、この空の下で、どれだけ歓喜に沸いているのであろうか。大切な人を無くした日の翌朝を知っている人は、この空の下にどれだけいるのであろうか。多分、半分にも満たない。泣きたくて、ベッドにずっと寝たくて、布団の中でうずくまりたくて、そのまま息を止めたくて、無性に気持ちが駆り立てられて…。あの人と最後に…いや、ずっと話したくて、ずっと抱き合いたくて、ずっと息を通い合わせたくて…。

 芳江の一周忌が終わり、仏壇の前で手を合わせると、そこで初めて芳江と心が通わせることができるような気がする。

 そろそろかな。芳江と話し終えると、勢いよく立ち上がった。


 明るい空の下。俺は自転車に乗って走っていく。深雪と並列して、家に向かっているのだ。

 今日は二人で水族館に行き、楽しい一日を送った。しかしこれは彼氏彼女という関係で、もう兄妹のような関係にはあれっきり戻っていない。父さんもその関係を知っているし、理解している。そんな保護下で俺達は暮らしている。

「ただいま」

 俺と深雪は居間に入る。

「お帰りなさい…深雪」


「要、ちょっと出かけるぞ」

 父さんは要を手招きすると、玄関へ出て行った。その後を要が追いかけると、家に残ったのはドアが閉まる音だけだった。

「お帰りなさい…深雪」

 その声は母さんの声に似ていた。温かく、よく透きとおって耳まで伝わり、まるで空気に染み込んでいるようであった。

 私は声のする方を振り向いた。

 するとそこには、見たこともないおばさんとおじさんがイスに座ってこちらを見ていた。二人とも優しく微笑んでいるかと思うと、突然顔をしわくちゃにして泣き出した。

 そしてイスから立ち上がり、私のもとに歩み寄ると、おばさんは私を抱いた。

「ごめんね…ごめんね…」

 突然のことに、私は戸惑った。ごめんと言われる筋合いや覚えはまったくない。

 私はそのおばさんを突き放し、少し後退した。

 するとおばさんは戸惑った顔をすると、すぐにもとの優しい微笑を作った。

「深雪…信じられないだろうけど…私達、あなたの…あなたを…産んだのよ」

 その言葉を聞いた時、私は目の前の人間を認めなかった。テーブルの近くに立っている男、私の目の前で泣きながら微笑んでいる女、どちらも認めなかった。

 こんなの、私の親じゃない。私の親は二人だけ。だから二人は私の親じゃない。

 私は首を振りながら、へばりつくように壁に寄りかかった。

「嫌…そんなはずない…私の母さんは…母さんは…死んだんだから。そんなこと、知らないくせに」

 おじさんとおばさんは困惑した顔をした。

 私はそんなことを気にせずに、今の気持ちをそのまま言った。

「もし私の親だったら…示してよ。なんかあるでしょ、証明するもの。出してよ」

 私はいつの間にか混乱していた。ここで言っている言葉の意味、まして何を言っているのかさえも分からなかった。

 そんな私を見て、おばさんは決して私を惨めそうな目で見なかった。代わりに、その目は私を温かく見守っているように見えた。

「ちょうど右肩の後ろにある、二つのほくろ、歯が二本少ない、へその横にある小さな傷、それに…利根川の川岸で拾われた」

 私はいつの間にか駆け出していた。居間に二人残して、そのまま出て行った。階段を駆け上がり、自分の部屋に飛び込む。そしてタンスを力ある限り押し、ドアの前まで運んだ。

「深雪…」

 下から切ない足音が聞こえた。そしてドアに手がかかる音がした。

「帰ってよ…ここは…私の家よ…出てってよ…」

「深雪…」

 ドアノブから手が離れる音は、むなしく廊下を響かせた。

 そして足音は次第になくなっていった。

 私は泣きじゃくった。ベッドの上で丸くなり、自分のことを責めた。確かに彼らは、私の本当の親らしい。しかし、私を捨てたという事実は、私自身は彼らを受け付けなかった。なぜ私を捨てたのだろうか。子供が生まれてうれしかったはずなのに、なぜ捨てたのだろうか。捨てる理由など、どこにもない。

 私も本当は心底うれしかったはずなのに、自分に素直になれなかった。そんな自分が憎かった。

 しかし、ただ素直になれなかっただけではない。彼らを親だと認めてしまうと、今まで共に暮らしてきた父さんと母さんがウソのようで、遠い存在になりそうで、それだけが嫌だった。

 一階からさびしくドアが閉じる音が響いた。

 私は起き上がり、二階の窓から彼らを見送った。角を曲がるまで、彼らは振り向かなかった。おじさんはおばさんの肩に手を回し、自分のもとに寄せている。

 私はその後ろ姿を見て、何も感じなかった。さびしい、悲しいという感情は感じられなかった。ただ、その後ろ姿を、窓に頬をつけて見送ることしかできなかった。

 二人の姿が見えなくなると、二人の感情がやっと分かった。それは喜びであった。

 私はまだ、窓越しから二人が曲がった角を見ていると、突然、こちらに走って戻ってくる二人の姿が見えた。顔は恐ろしく、何か恐いものに追いかけられているような顔であった。

 すると、その二人の後ろから二つの黒い車がやってきた。そして二人を車が挟んだと思うと、車から黒服の男が現れた。そして逃げ惑う二人を捕まえ、車に詰め込んだ。

「母さん、父さん…」

 私の声はむなしく部屋に消えた。

 そして部屋を出て、階段を降り、靴も履かずに外へ出た。

 そこには、もう車も母さんと父さんの姿はなかった。残ったのは、車が走り去った音だけであった。

 何が起こったかは分からない。一体彼らは何者なのか、そんなことはどうでもいい。彼らにまた会って、謝りたい。そしてたくさん話をしたい。

 私はその場で立ち尽くすことしかできなかった。

 そして暗闇は迫り、私の影を消した。


「ねぇ、まだお盆じゃないけど…」

「分かってる」

 車に乗って三十分。俺は父さんに連れられ、墓石所までやってきていた。

 墓石所に着くなり、父さんは速い足取りで、墓の間の道を進み、その後を俺が歩く。辺りはまだ夕焼けできれいに赤く染められていた。

 そして毎年来ている、古葉家の墓の前まで来た。そこには母さんの骨も納められている。しかし父さんはその墓を通り過ぎ、さらに奥へ進んだ。

「え、どこ行くの。通り過ぎちゃったよ」

「いいんだ。いいからついて来い」

 十秒も経たないうちに、父さんは知らない墓の前で足を止めた。

「ここだ」

 それは今まで見たことがない墓だった。

「何ここ」

 父さんは無言で墓の前まで歩き、手を合わせた。そして顔を上げ、俺の方を振り向かずに言った。

「ここはお前の…本当の親の墓だ」

「え…」

 そこには「新藤家」と書かれていた。

「父さん…母さん…」

 俺は墓の前にひざまずき、墓をなでた。墓は夕焼けのせいなのか、まだ温かみがあった。父さんと母さんはこんなに温かかったのだろうか。俺は父さんと母さんに抱かれた時を想像した。そして俺は墓を抱いた。温かかった。しかしその温かさは、さっき触った時とは違った。肌に感じる温かみではなく、体の芯まで伝わる温もりであった。

 死んでいたのには驚いたが、そんなことよりも、再会できた喜びの方がはるかに上回っていた。父さんの強さ、母さんの優しさが遺志として、墓から伝わってきた。

 俺はそのままその温もりから離れたくなかったが、今日は会えただけでよかった。どんな形でも、会えたことはうれしかったのだ。

「また来ます。待っていてください」

 そう言うと、俺は立ち上がり、墓に背を向けた。


 その帰り、俺は父さんから、本当の父さんと母さんの死について教えてもらった。父さんは交通事故、母さんは肺がんによる死。それは衝撃であったが、俺はそれを聞けてうれしかった。それは、二人とも俺を思っていたことであった。死んでしまったことは悲しいが、俺を死ぬまで大事にしてくれていたことが、なんともうれしかった。

 そして深雪は、連れて行かれた実父と実母の話を聞いた。二人は昔、闇金からお金を借りて会社を興したが、すぐに倒産してしまったらしく、それでその際生じた借金がだんだん大きくなり、今は返しきれなくなって逃げていたが、今日、捕まってしまった。

 そして深雪は自分が捨てられたわけを、そこで初めて知った。深雪の目からは次々と涙が出てくる。しかしその涙は悲しみなんかではなかった。喜びであった。自分を思っての思い切りのある決断は、そうはできない。しかもその上、深雪を見つけてくれるまでは、川岸のススキに身を隠していて、それまではずっとそこで見守っていたということだ。

 深雪はまた会えることを信じて、仏壇の前で何かつぶやいていた。

 俺はその日の夜、なかなか寝付けなかった。つい父さんと母さんの顔を想像してしまう。父さんの話だと、父さんは一流の実業家だったらしい。しかしそんなことよりも、今まで実親がいたかいないかという心配が吹っ切れて、今は喜びに浸っている。

 しかし深雪のことを思うと、そんな気は無くなってしまった。

 風が去った後のように。



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