第十四章 不幸
蒼空の下で、私は空を見上げた。そこには雲がある。その雲には、ある人が映っていた。身近な人であった。白く、柔らかい頬である。なんだろう、この懐かしい気持ち。なんだろう、この無性に胸が苦しい気持ち。
そして時々、私は太陽に照らされ輝いている川に向かって、石を滑らせる。波紋が、アメンボが水上を走った跡のように次々とできた。時々、土手に座ってその消えかかった波紋を見つめると、私は母さんのことを思い出す。果たしてあの人は幸せな人生を送っていたのだろうか。
私は手の平を重ね、高く空に掲げた。なぜそんなことをしたのかは分からない。しかしその時は確かに分かっていたのは、やりたかったという気持ちがあったということだ。
私は空を見続ける。いつまでも続く、青々とした海の水平線を見るように。
高校の入学式。誰だって不安と希望に満ち溢れた状態で望むことだろう。私たちの晴れ姿は、母さん達が見てくれた。
クラス分けは、要とは違うクラスで、少し安心した。中学校からの友人も多く、さらに安心した。しかしそこには、小さい頃からの幼馴染、親友がいない。それだけが唯一の不安であった。
そして時間は止まらずに流れていく。
梅雨が入る一ヶ月前のこと。母さんは体の異変を感じていた。私は母さんに分からない問題を教えてもらうために、主寝室へ向かったところ、主寝室から物音がし、ドアの隙間からそっと覗くと、胸を指であちこち押している母さんの姿があった。何をやっているのだろう。
その時はまだ、母さん以外は、その異変に誰も気付いていなかった。
梅雨を迎えるのと同時に、恐れていたものもやってきた。
外は起きたときから雨で、憂鬱な日は始まった。時間は刻々と刻み、そろそろ九時を回る頃だ。
そんな時、母さんは突然倒れた。胸を抑え、雨音をかき消すような悲痛な声を出し、痛みにあえぎながら床を転げまわった。額に汗を掻き、冷たい床の上でうずくまっている。母さんはテーブルに片手で寄りかかり、もう片方の手で胸を押さえながら方で息をしたと思うと、枯れた樹木が倒れるように、床に向かって勢いよく倒れた。
私は目の前で起きた突然の出来事にどうすることもできず、ただ立ちすくんで、その母さんの姿を見ていることしかできなかった。
「う…苦しい…」
居間に倒れていた母さんは、すぐに救急車に運ばれていった。
私と要も救急車に同伴しようとしたが、定員の理由で、父さんだけが救急車に乗り込んで行った。
それから長い間、私は要と居間で時計の時間を聞いていた。ゆっくりと進む時間は、まるで止まっているように思えた。居間は静寂に包まれ、その空間を丸呑みにした。しかし父さんは三時間で帰ってきた。しかしそこに母さんの姿はなかった。果たしてどうしたのだろうか。
私はソファーから立ち上がり、そのことを父さんに聞いてみた。そして父さんは枯れたような声で話した。
「…乳ガン」
父さんはイスに座り、テーブルにひじをついて、頭を抱えた。要はソファーの背もたれに身をまかせた。
私はいつの間にか、ソファーに座っていることに気が付いた。ガン、という言葉を聞いただけで、頭がクラクラする。そしてそのガンになった人は、死んだ人と同然だと感じていた。母さんはこの世にはいない。私は勝手にそういう呆気と喪失感に浸っていた。
ガンになるとはどんな気持ちだろうか。死ぬ前とはどんな気持ちだろうか。孤独とはどんな気持ちだろうか。
私は知りたかった。今の母さんは、今の私に似ていると思った。悲哀感、喪失感。絶望感に脱力感。
ふと私は今すぐ母さんに会いたいと思った。そしてそれをすぐさま実行に移した。
走って家を出て、自転車に乗り、雨が降っているにも関わらず、私はしとしとと降る雨を突っ切った。
ジメジメとする湿気の中、私は何も考えずに近くの病院へ向かった。すぐに家を飛び出したので、病院先を聞いていなかった。なので、病院を一つずつ回るしかなかった。
病院の前に着くと、自転車を乗り捨て、病院の入り口に向かって走った。そしてロビーに入り、受付まで歩く。
私は息を荒くしながら言った。
「母さん…古葉芳江さんは何号室ですか」
「古葉さんですか。ちょっと待ってください」
そう言うと看護士は名簿をめくり、一つ一つの名前に目を走らせた。そしてすぐに顔を上げた。
「古葉さんはこちらの病院に入院されていないみたいですね…それにしても、その格好、大丈夫ですか」
私の服はぬれていた。体は変に温かく、ジメジメとしていて気持ち悪い。前髪は垂れ、後ろ髪はきれいにそろっていた。
「大丈夫です…ありがとうございます」
そう言った私はすぐさま受付を離れ、再びしとしとと降る雨の中に飛び込んだ。
そしてその雨に打たれている自転車を起こし、すばやく飛び乗ると、私はペダルを思い切り踏んだ。
私は風を切るように走っていたが、雨を全身で受けていた。そして渾身の力を振り絞ってペダルをこぎ続けた。もう疲れた。しかしここでこぐのをやめるわけにはいかなかった。私の中の何かがそれを抑制したのだ。しかし私の意識は朦朧としていた。朝からいろいろあって、もう何も考えていられない。
そして角の店を右に曲がる時であった。
私は思い切りハンドルを切った。そして視界は角の店から目の前にある大きなトラックに変わった。トラックはクラクションを鳴らしながらこちらに突進をしてくる。トラックは止まることもなく、大きく歪んだ。私もハンドルが切れず、そのまま地面にすべるように転倒した。
そして私は自転車と一緒に頭から電柱にぶつかった。
「バカヤロー、危ね…お、おい、大丈夫か」
私は触角をつまれたアリのように、まったく動かなかった。というより、動けなかったのが本当の話だ。
トラックの運転手は急いだ様子で降りると、私におそるおそる近づいた。
「おい、大丈夫か。死んでないか」
私はしばらく黙って何もしたくなかったが、それは運転手に悪い。
「…大丈夫…です」
話した時、口の中に血の味と痛みが残っているのに気が付いた。どうやら切れているようだ。そういえばわき腹も痛い。強くこすりつけたようだ。
私はゆっくりと立ち上がると、私の足はがくがくと震えて、膝からは血がにじみ出ていた。そして頭から、目に血が流れ込んできた。
「そのケガ、本当に大丈夫か。病院に連れて行こうか」
病院、そうだ、病院だ。
私は目的を思い出し、自転車を起こすために腰を下ろそうとした。しかし痛くて下ろせない。その時に、顔に出てしまったのが悪かったのか、運転手はさらに顔を曇らした。
「本当に大丈夫か」
「お気遣い…ありがとうございます。できれば、その自転車とってくれませんか」
「…分かった」
いつの間にか、雨は豪雨に変わっていた。滝のように雲から地へ降り注いでいる。
私は肩で息をしていた。前髪は垂れ、服は肌に密着し、靴の中には水溜りができていた。
そして運転手は自転車を起こし、私はそれを受け取った。
「…ありがとうございます。では、これで」
私は軽く会釈をし、自転車を押し始めた。自転車のチェーンは切れ、スポークは何本か折れていた。もうそんな自転車に、乗ることなどできなかった。一歩一歩進むたびに膝は曲がった。この坂を上れば、病院はすぐそこにある。私は自身を励ましながら歩く。
私は私の背中を見届ける運転手を想像した。その顔は、不安と腐心でいっぱいだった。
「古葉…芳江さんは…この病院に…入院して…いますか」
「え…ちょっと、大丈夫?すぐに診てもらったほうが…」
「それより…古葉芳江さんは…」
「…分かったわ。それはあとで教えるから、まず手当てをしましょう。それから…」
「早く…古葉芳江さんを…早く」
受付の看護士は不審そうな目でこちらを見たが、すぐに名簿に目を走らせた。
「古葉さんは…203号室です。あなたは…お子さんですか」
「いえ…いや、そうです」
私はゆっくりと階段に向かった。足を引きずるその姿は、まさに負傷者であった。膝からこぼれる血は、白い床に点々と跡を残した。
そして階段の前まで来ると、目の前がうっすらとぼやけて見えてきた。階段に足をかけようとするが、思うように膝が曲がらない。しかし私は手すりにつかまって、やっとのことで踊り場まで上った。あと半分、と私は心の中で唱えた。が、視界は次第に薄れていった。そして二段目を上ろうとしたその後、私は覚えていない。
「ん…ん…」
私は目を開けると、目の前には白いが、薄暗い天井が一様に広がった。
そして隣から声が聞こえた。
「深雪…起きた?」
母さんの声だ。
私は体を起こそうとしたが、全身に痛みが走った。そして再び柔らかいベッドに落ちた。
「無理よ。もうちょっと寝てなさい」
「…うん」
私は頭を枕に沈め、そのまま動かなかった。
そして目だけを動かして辺りを見回した。周りは静寂に包まれ、誰もいないように思えたが、実際に見てみると、本当に誰もいなかった。隣のベッドに母さんが本を読んでいるだけであった。
倒れる直前、そこだけ記憶が霞んでいた私は、母さんに聞いた。
「母さん。私、どうしたの」
「倒れたの、階段で」
「…ふーん」
母さんは本を閉じて、電気を消そうとした。
「待って、消さないで」
「…分かったわ」
電気スタンドのスイッチから手を放した母さんは、布団にもぐりこんだ。
「ねぇ、要と父さんは?」
「家でお留守番」
「え、何で」
「だって女同士のほうが、いっぱい話せるじゃない」
「…ふーん」
私は流し目で母さんを見ると、母さんは自分と反対のほうを向いて寝ていた。
「私、ところで何でここにいるの」
「だってアンタ、軽い全身打撲をしたのよ。あと、ちょっと出血のしすぎで」
母さんはこちらに寝返ると、うれしそうに微笑んだ。
「…久しぶりね」
久しぶりだった。母さんがこんな笑顔を私に見せるのは。ここ最近、恐怖と苦しみのどん底にいたような顔をしていた。しかしその理由はすぐに分かった。
私は母さんとたくさん話がしたくなった。
「母さん、覚えてる、あの赤い巾着」
「赤い巾着…あー、母さんからもらったあのやつ。覚えてるわよ」
「あの時、おばあちゃんも母さんも教えてくれなかったけど、そんなに大切なものなの、あれ」
「うん、そうらしいわ。母さんからは少ししか聞いたことないけど、母さんはずっと大切にしてきてたわ」
「聞かせてよ、その話」
「…うん、いいけど…長いわよ」
「いいよ、寝ないから」
「分かったわ。じゃあ、話すわよ」
「うん」
母さんは布団を掛けなおした。
「実は、その巾着、母さんのじゃないのよ」
「え、そうなの」
「うん…それで、私のおばあさんになるんだけど、私のおばあさん、第二次戦争に入る前に、ある大学生に恋したの。なんか、映画館へおばあさんのお母さんと一緒に行ったみたいなんだけど、その映画、恐かったみたいで、つい隣の人の手を握っちゃったんだって。それが恋の始まり。それでその人、大学生でおばあさんの一歳年上だったの。それで、二人はすぐに恋に落ちちゃって、すぐに結婚の話まで来たの。しかもおばあさん、妊娠までしたのよ。だけど、第二次世界大戦が始まって間もない頃、その大学生についに赤紙が来たわ。その後はもう大変。家族、親戚、近所が大忙しだった。その中でおばあさんは、徴集の穴を見つけようとしたんだけれど、大学生はその運命を素直に受け入れたの。おばあさんが見つけただけ提案しても、全部断ったの。それで月日は流れ、見送られる日になったわ。プラットホームには煙と共にたくさんの大学生がいて、みんな別れが辛かったみたいだったって。おばあさんも例外じゃないわ。だけどその大学生は違ったの。笑ってたの。大学生は別れ際に赤い巾着をおばあさんに渡して、ゆっくりと微笑んだわ。おばあさんはもちろん受け取ったわ。そして大学生は中を開けるように言ったの。おばあさんは夢中で巾着を開けて、手にひとつの銀の輪を落としたの。それは指輪だったわ。そして、おばあさんは顔を上げると、大学生はすでに列車に乗ってて、しかも汽車は汽笛をあげて動き出してたの。そして大学生はこう言ったわ。それは僕の親父の工場で、僕が削って僕が磨いたものです。僕は指輪も買えませんでした。箱さえも買えませんでした。だけど、その気持ちを受け取って欲しい。僕は死にません。絶対あなたのもとへ、手足がなくても、はいつくばってでも戻ってきます。僕の赤ちゃんが生まれるまでには、絶対この戦争を終戦に迎えさせてやります。僕を信じて、僕を思って、それを僕だと思って、生きる喜びと笑う楽しさを、いつまでも、忘れないでください。あなたには、ふくれっつらが似合いません。僕はあなたといつも一緒です。そう言った時、おばあさんはもちろん汽車を追っていったわ。最後には手を出して大学生を汽車から引きずりおろそうとしたんだけど、大学生は手を引っ込めて、おばあさんに背を向けたわ。それが最後だったわ、おばあさんがその大学生を見たのは。おばあさんは戦争が終わった後、その大学生が戻ってこなかったから、日本各地、あらゆるところまで行ったわ。世界の果てまで行こうとしたんだけれど、お金がなくて、そこで打ち切りになったわ。まだおばあさんはその大学生のことを信じていたの。だけど、十年、十五年経った時、おばあさんは悟ったわ。もう彼がいないって…」
「…ひいおばあちゃん…かわいそう」
私の目からは、ぽろぽろと涙が溢れ出ていた。そして一呼吸置いてから、何気ない口調で母さんに聞いた。
「それで、どうなの、調子は」
母さんは寝返り、反対のほうを向いた。
「…知らない。お休み」
母さんは鼻をすすった。
なんか悪い事を聞いたようで、私の気持ちは良くなかったが、今までの疑問がひとつ解けて、なぜだか気持ちはすがすがしかった。
私は今日たまって、今まで隠されていた疲れがどっと出てきたような気がした。そして私が目をつむると、眠気は夢の中へと誘った。
「…いつから、胸のしこりが出てきましたか」
「分かりません。多分、二ヶ月ぐらい前だと思います」
「困りましたね…今患っているガンは、転移を続けて、腋窩リンパ節…失礼、脇の下、肝臓まで広がっています。このままだと、間違いなく…死ぬでしょう」
「…そうですか」
私は眠りから覚めていたが、目は開けていなかった。白いカーテンは、光で純白になっていた。うっすらとまぶたを開けてみると、カーテンには隣のベッドで母さんと医師らしき男の影が映っていた。
「驚かないんですね」
「だって、行き着けの病院ですもん。安心しますよ」
「そうですか…」
医師はカルテを閉じ、ひっそりと朝を迎えている外を見た。
「で、どうするのですか。古葉さんにはなんて言いましょう」
「死にますといっておいて下さい。そうすれば安心するでしょう。誰だって死ぬって分かったら、へこたれるから。死ぬか分からないとか、死ぬか生きるかの瀬戸際だとか言ったりして、大騒ぎしたまま死ぬより、私はひっそりと死ぬことを望みます」
「はは…そうですか。分かりました。伝えておきます」
そう言うと、扉に向かって歩き始めた。しかし私のベッドの前まで来ると、いったん歩みを止めた。
「それにしても、よくここまで育て上げましたなぁ」
「それはそうですよ。だって私たちの自慢の娘ですもん」
私はその言葉をベッドの中で、ずっと噛みしめていた。その一言が、私を存在証明させたからだ。何のために生きているか、私はそれを考えたことがあるが、その時は分からなかった。
医師は部屋を出ると、病室は静まった。
そして母さんはカーテンを開け、澄みきった目をこちらに向けて言う。
「深雪、起きてるでしょ」
「うん」
私はゆっくりと体を起こすと、昨日ほどの痛みはなかったが、チクチクと全身に痛みが走った。そして私は続ける。
「いきなりだけど、約束してくれる?」
「え、何を」
「母さんが全快したら、五年前のアンケートのこと、教えてくれる?」
母さんは少し戸惑ったような顔をしたが、太陽に照らされた部分が微笑んでいるように見えた。
「うん…いいわよ、約束ね」
その後、父さんと要は母さんの見舞いに来た。私はついでだ。医師から父さんにあのことを話すと、父さんはみるみるのうちに真っ青な顔になった。
そして父さんにゆとりを持たせてから、私は父さんに支えられながらも退院した。私が病室を出て行こうとすると、母さんはつぶやいた。
「深雪…ありがとう」
その後、母さんは診察を繰り返し、体調が良くなったと思われたが、六月下旬、再び体調は悪化した。
私たちも何度か見舞いへ行ったが、その度に顔色は悪くなっているように見えた。しかし私達は最後まであきらめずに、母さんのお見舞いへ行った。
そして梅雨が明けたころである。
私は霊安室で静かに寝ている母さんの姿を見た。唇は青く、しわ一つなかった。ピクリともしない上に、小さな息吹さえも感じられない。目は閉じられていた。母さんの蒼白な頬をなでたとき、私は初めて知った。母さんはすでに死んでいる。つまりもう目を開けない。つまりもう呼吸をしない。つまりもう生きていない。
母さんは誰にも見守られず、病室で一人ひっそりと死んだのだ。
私は母さんの頬から手を離すと、要は母さんにすがりついた。そして、母さん、と連呼する。
そんな要の姿を見ると、母さんの言葉を思い出した。
「要、やめな」
私は母さんの残した言葉を尊重したかった。そして要の肩に手をかけると、すぐに振りほどいて母さんの体を大きく揺らした。
その姿は無邪気そのもので、私にはどうすることもできなかった。ただ、その姿を見守ることしかできなかった。
しかし、母さんの顔は微笑んでいた。要を励ますように。
葬式の日になった。
母さんは棺の中で、静かに眠っていることだろう。
私と要は、斎場の前席でボケーと座っていた。まだ信じられないような感じで、母さんの死を完全に受け止めてはいなかった。
会場には人が集まり、すぐにでも始まりそうな雰囲気だった。
その時だった。要は席を立ち上がり、涙を流しながら会場を出て行った。
私は要のことを呼んだが、要は夢中になって走って行った。この緊張感の中、どうやら強い感情に襲われたようだった。
私は父さんを探し、そのことを告げて、すぐさま要の後を追っていった。
どこに行ったのだろうか。私は要の行きそうなところを探したが、どこにもいない。なぜか今は土手の上を歩いていた。風に押されてこの土手を歩いていたら、ここにたどり着いたのだ。
今頃、葬式はどうなっているかなぁ、なんて思いながら、辺りを見晴らす。すると土手の中腹に、一人の人が座っていた。風が吹くと、学ランが、川に流される太陽のように揺れた。
そして私は土手の中腹に下り、要の横に座った。
「どうしたの」
「何か…あそこにいるべきじゃないと思った」
要は足の中に埋めてた顔を上げた。
「俺…なんか生きていく自身なくしちゃったな…」
「馬鹿、あんたがそんなに弱くてどうするの。母さんだって天国に行くにも、まともに天国に行けたもんじゃないよ。成仏できないじゃない。もっと強くなりなよ。母さんはきっとそんな要の姿を望むよ」
「…そうかもな」
要は足を投げ出し、風が走る草の上に寝た。
「んん…気持ちいいな…お前もやってみろよ」
「うん」
私も要に続き、大きく腕を伸ばし、足を投げ出す。
「本当だ、気持ちいい」
しばらくそのままでいると、葬式のことを忘れていった。
「ところで、なんか俺達、血縁がないみたいだな」
「うん」
「昔のこと思い出すと、なんか恥ずかしくなるよな」
「うん」
「一緒にスイカを食べたり、一緒の部屋に寝たり、一緒に風呂に入ったり…そんなことより、お前、中一の頃に、一緒に映画に行ったろ。その時さ、お前、俺の手握ったんだぜ。覚えてるか」
「え…」
「お前…俺のこと好きなのか」
「馬鹿、なんてこと言うのよ」
私は急に顔が赤くなったのが分かった。しかし横で笑う要を見て、必死に冷静さを保とうとした。
「そんなことより、母さんは何で死んじゃったのかなぁ」
「さあな。ただ、素直に死を受け入れたんじゃねぇの。もし、生きてたとしても、きっとろくな人生がなかったと踏んだんだろ、きっと」
要は空を眺めながら、大きなあくびをした。
母さんは死んだのに、地球は変わらずに回る。どうやら人一人死んだところで、この世には関係がないようだ。私達にはあれほどの影響を与えたのに、この自然界なんかにはまったく影響を及ぼさない。母さんは死んだのに、私が生きているなんて、なんか変に思える。母さんの生きている時間は永遠に止まり、私の生きている時間は止まらない。
私は信じられない気持ちで、果てしないほど続く空を見つめた。
「なぁ、母さんって、幸せだったのかなぁ」
「当たり前じゃない。生まれてきたら、幸せな家族に囲まれて生まれるし…」
「なぁ、俺達の家族って、どんなのだろう」
要の目は切なく、さびしい雰囲気をもたらした。
「きっと…いい人だったのよ、私と要の親って。ところで、要の幸せって何?」
要は一時、戸惑った顔を見せた。突然そんなことを言われると、誰だって何と言おうか考えてしまう。
そして要は思いついたように言った。
「変な回答だけど、俺の幸せは、もし地球の滅亡する日が分かった時、最後に何をしようかって考えるときが幸せかな。後は…お前やみんなの幸せかな、いや、俺の幸せかな。ほら、よく言うじゃん。自分の幸せがみんなの幸せって。そうだったらその逆も言えるだろ。俺の幸せはみんなの幸せって」
なぜだか私の体が熱くなった気がする。背中に熱いのが過ぎると、急に寒くなった。そして、いつしか心のどこかで、要に対しての好感が生まれていた。鼓動が高鳴り、再び熱が襲ってきた。
私はすぐにでもこの場を離れたかった。
「ねぇ、早く斎場に戻ろうよ」
要の手をつかむと、要の手は今までと違う暖かさで包まれていた。
葬式が終わったことを知り、火葬場に移動すると、ちょうど煙突からは白い煙が出始めた頃であった。私と要はその白い煙を、鷹のような鋭い目で、じっと見ていた。最後まで見なくてはならない、そう感じたのだ。白い煙は雲に溶け込むように青々とした空に消えていった。上空で風が吹くと、雲は笑った。
陶器の骨壷に、会葬者は次々に骨を入れていった。細長いものや弱々しく小さいものもあった。しかしその骨には、新たなる生命の息吹さえ感じられた。
私達は後から来て、本来は最後方のはずなのだが、親切な人が私達を前に入れてくれた。そしてそこから、一つ一つ丁寧に入れられる瞬間を、まじまじと見ていた。
私達の番に来ると、右手に鉄の箸を持ち、骨を両バサミして、骨壷に入れる。骨壷は母さんを誘うように底が暗かった。骨を入れる時、私は少し躊躇した。それと同時に要も止まった。やはり要も同じ気持ちであった。この骨を入れると、もう母さんとは会えない、そう思ったのだ。
しかし入れないわけにはいかなく、結局は入れてしまった。もう母さんとは会えない。そう思うと、私の頬には涙が滴っていた。しかしもう会えるわけではない。また会えることを信じて、最後に骨壷を見つめた。火葬場を出るまで、私は歩みを止めなかった。
火葬場を出ると、要は私を抱きしめた。
その時、この空の下で生きている喜びと愛を感じられた。今、私たちの他に抱き合っているのは何組いるのだろうか。
私はそう思いながら、要の腕の中で眠るように息をした。




