第一章 希望の朝
この空の下で、私達は生まれた。
そして私たちは今までの両親と、家族として血がつながっていると思っていた。
しかし知らない過去によって私たちの記憶は書き換えられていた。
今までこのことに気付かなかったのは、生活が普通の家庭と変っていなかったからだ。
私は千葉にある病院で生まれ、僕は埼玉の病院で生まれた。
そして私の両親は私を捨てて、僕の両親は僕を残してこの世を去った。
私は母を一人失い、僕は二人の母を失った。
「私が嫌いなの?」大地に問いかけても応えてくれない。
「何でいないの?」天に聞いても彼らは応えてくれない。
私達には実の親がいない。
だから養子としてある家族に引き取られたのだ。
彼らも私たちと同じように大事な人がいない。
彼らは人生のどん底にいたのだ。
だから私たちの気持ちは彼らがよく分かってくれ、察してくれた。
そして助けてくれた。
いつも、いつも。
なので、私たちは普通でいられた。
私たちも彼らのことを思った。
そして愛した。
しかし、その愛は突如変わった。
ある事件が起こってからだ。
養子である私たちは互いに支えあった。
その結果、私たちは…。
私たちはこの事実を知るまで大好きなお父さん、お母さんとして暮らした。
私たちは楽しく生きようと思った。
どんなに辛くても助けてくれる人がいることを分かっていたからだ。
そして、私たちは強くなると、深く心に刻んだ。
彼らのために、私たちのために。
「ウーン、アーッ」
扉の向こうから女のすさまじいうめき声が、この病棟の廊下を響かせた。それと同時に窓を撃つ雨も強くなってきた。外は大雨で、時々雷が鳴り響く。
古葉が来た時にはすでに出産が始まっていて、立会いには間に合わなかった。古葉が来る十五分前に始まったと看護士が教えてくれた。
仕事が終わる直前に病院から携帯電話にかかって、今日出産であることを早急に教えてくれたのだ。出産は結構長引いているようだ。今の古葉には、手を組んで無事生まれるように祈ることしかできなかった。
チッ、チッと時計の針の音が廊下を響かせた。
すると時計の音と共に、脳裏に記憶がよみがえった。
「ただいま」
玄関のドアを開けて、靴を脱いでスリッパに履き替え、狭い廊下を歩く。そして居間に通じるドアを開けた。
「お帰りなさい。あなた、いいニュースがあるんだけど、聞きたい?」
キッチンから出てきて、妻は甘い声で夫に言った。
「えっ、なんかいいことがあったのか。懸賞が当たったとか」
「違うわよ。なんか、私…妊娠したらしいわ」
「何?」
夫はすぐに妻のほうを見て、近づいた。
「このお腹の中にいるのか?」
夫は妻のお腹を見た。そして妻のお腹を円を描くように触った。そして妻は照れるように言った。
「ええ、そうよ」
妻は照れながらも平常心を保とうとした。
夫はお腹を見通すように見ると、視線を妻の顔に変えた。
「本当か、やったじゃないか。これで一つの命が生まれるのか…」
「違うわ、二つよ」
「えっ…ということは…」
「双子よ」
妻は満面の笑みで言った。
「ああ、本当にいい日だ。やったな…あっ、そうだ。名前、何にしよう。どんな名前がいいかな」
夫はソファーに堂々と座った。しかし妻には、夫が少し涙ぐんでいるのが分かった。
「ふふ、あなたったら」
妻は微笑んだ。そして妻は夫の隣に座った。
「で、妊娠何ヶ月なんだ?」
「ヒ・ミ・ツ」
「何だそれ」
二人の笑い声が居間に響いた。
そんなことを思い出しながら、少し照れて笑ったが、すぐに真面目な顔に戻って長イスに腰かけた。
時間が刻々と過ぎていく。時計は終わりをいつまでも迎えないようであった。雨もいつまでも、いつまでも降り続けるようであった。
その時、遠くからドーンと何か落ちる音がした。その音と共に、叫び声がなくなった。そして古葉は妻の無事だけを祈って、スッと立ち上がった。
「おい、早くしろ…」
厚い牢獄のような扉の向こうから、そんな声が聞こえた。古葉は不安になり、扉の前をウロウロした。そのため、古葉の履いていたスリッパの音が時計の音に負けずに廊下を響かせた。雨脚もさっきよりいっそう烈しくなっていった。
古葉の顔がだんだん険しくなる。
扉が開いたと思うと、看護婦があわただしい様子で、なにやら見たことがない機材を持って出たり入ったりしていた。
あれから何分経っただろうか。古葉は時々、暗い外をチラッと見た。古葉はひたすら安産のお守りを持って願った。
その時である。再び扉が開いて、まぶしい光が目に飛び込んだ。そしてその扉の向こうから、一人の医師が出てきた。
そして古葉は心配そうに問い出す。
「どうだったのですか。子供は、子供は無事ですか?」
古葉は気が動転していたが、医師は冷静にマスクを取り、古葉の顔を見て言った。
「生まれたことは生まれたのですが、何て言えばいいのでしょうか…残念ですが、生きていません。早産のうえ、十分に成長していなかったためで、死産に…」
古葉はその時、冗談だと思った。まさか自分たちに限ってと、そう思ったのだ。
「えっ、嘘ですよね、冗談ですよね。さっき電話ですぐに産まれます、って聞きました」
医師は鋭い目つきで古葉を見る。
「医者は冗談なんか言いません。しかし、あなたが混乱しないように私から伝えておくように言ったのです。そのことは謝罪します。お気持ちは分かりますが…本当に残念です」
「本当…なのか?」
あれからもう八ヶ月が経っていた。だからもう安心だと思っていた。なぜだ。
古葉は聞きたくないように、医師から目をそらして言った。
「じゃあ、なんで私を呼んだんです。別に呼ばなくても…」
「奥さんが来てほしいといったのでお呼びしました」
その時、古葉は足が棒になっているのに気付いた。そしてさっきまで座っていた長イスに、どっと沈んだ。意識が朦朧としている。きっと今の古葉では、さっきまで話していた医師の話が分からないだろう。もしかしたら、小学校で習ったことでさえも分からないかもしれない。
医師はその場でしゃがみ、追い詰められた古葉に励ますように言った。
「残念ですが、あなたの子供は死んだというわけではありません。あなたの子供は確かに生まれたのですが、その小さな体に命が宿らなかっただけなのです。あなたのお子さんはこれから、天国で元気に過ごすと思います。気休めでしかこれぐらいのことを言えないですが、すみません」
古葉はその時、医師を殴りたいという感情に襲われた。その医師の言葉は、古葉を逆上させたに過ぎなかったからだ。子供を育てている者、育てようとしている者ならば、誰でも想像をするだけで分かる悼みを、こんなにやすやすといってしまう医師に対して、お前に何が分かる、と思ったのだ。
しかし古葉には仕事の身体的疲労と待ち時間による精神的疲労によって、体が押さえつけられて、殴りかかることも、立つことさえもできなかった。ただ、背もたれに持たれかかりながらボーッと座って、医師の話を聞いていることしかできなかった。
そして医師が話を続けた。
「ですが、あなたに子供ができる方法が一つだけあります。今、話ができる状態ではないのでやめときますが、明日の午前中に私が203号室に行きますので、その時、お話し致します」
そう言うと、医師はもとの手術室に戻っていった。そして先程のまぶしい白い光が、古葉の目の前からだんだんと細くなって、ついに消えた。
廊下じゅうに、時計の音が響いた。窓を叩いていた雨は弱まった。
古葉はまぶたが、だんだん重くなるのを感じた。そして古葉は時計の音を耳にしながら、深い眠りに落ちた。
「あなた、あなた」
遠くから女の優しい声が、耳に入ってきた。その声はきれいで、良く聞きなれた声であった。そして声は朝食のにおいを持ってきた。
男は寝返った。
「あなた、起きているの」
男は上を向いて、ゆっくりと目を開けた。そこには真っ白な天井が広がって、窓からもまぶしい白い光が目に飛び込んだ。まったく見慣れない部屋だ。そして男がベッドから立ち上がった。勝手に体が動く。
スリッパを履き、部屋を出て、光が行き届いていない暗い階段を降りた。そして見知らないリビングに入った。
そこには、キッチンでキャベツを千切りにしている女性がいた。スリッパのこすれる音で分かったのか、手を止めてこちらを見た。
「あら、起こしに行こうかと思ったのに、早いわね」
その声は先程の声と同じだったが、逆光によって顔は特定できなかった。
「パパー」
かわいらしい子供の声だ。その声の主は誰かと振り向くと、二人の小さな子供がこちらに向かって歩み寄ってきた。
かわいいスズメの声を耳にして、両手を上げて、あくびをしながら体を起こした。その拍子に肩にかかっていた掛け布団が床に落ちた。きっと夜中に看護婦さんが風邪を引くと思って掛けていったのだろう。古葉は落ちた布団を取って、ソファーの上にのせた。
古葉はゆっくりとソファーから立ち、頭とひげを生やした顎を掻いた。
あの夢は何だったのだろうと思いながら、また頭を掻いた。そして頭に刺激されて、昨日の出来事が脳裏によみがえった。
「あれ、手術は…」
昨日のことなどすっかり忘れていた。そして古葉は上を見た。手術中の文字は寂しそうに消えていた。
古葉はソファーに乗った布団を四つ折りにして、上着を肩に担いで、203号室へ向かった。
203号室まで行くのに何分かかっただろうか。手術室の前から普通に歩けば一分もかからなかっただろう。
古葉は直接203号室に向かわず、まずトイレへ向かった。朝一番だったため、電気はついていなかった。自分で電気をつけると、トイレはなかなか清潔感にあふれていて、さすが病院、と言えるほどきれいであった。
用を足して手を洗い、ついでに顔も洗った。ついでといっても、古葉にとっては手を洗う事の方より、顔を洗う方が本来の目的であった。なぜかというと、顔を洗う時に手を使うからである。手を洗って顔も洗う、これすなわち一石二鳥である。それをすることで、朝一番の顔洗いは気持ちいいと感じる瞬間であった。
「ふぅー」
古葉は天井を見上げて、思いっきり首を下ろして、顔の水滴を落とした。しかし、まだ水滴が残っていたので、残りはハンカチで拭いた。トイレを出る時、自分が電気をつけたのを忘れて、何気ない顔でそこを通過した。
次に古葉は待合室へ向かった。待合室のすみに設けられている、冷水気のあるところへ向かうためである。
冷水機のボタンを押して、水を口に含んでうがいを始めた。そしてそっと水を吐いて、また同じことを繰り返す。このことはトイレでやればいいのだが、さすがにトイレの水は口に含みたくない。古葉はうがいを終えると、今度は水をがぶがぶと飲んだ。水がのどを潤すのが、気持ち良くてたまらなかった。
待合室を離れ、今度こそ203号室に向かおうと階段を昇ると、中庭の大きな木が目に入った。それを見ながら廊下を歩くと、中庭の向こう側にある、一階の廊下に設置されている自動販売機に目がついた。古葉はついでに、とよく目に付く所に寄る癖があった。
そして古葉は向きを変えて、もと来た廊下を通り、階段を降りた。しかしあと三段というところで、古葉の目からは涙が溢れ出てきた。自分でも無意識のうちに、自然に目の奥から涙が次々と出てきた。古葉はポケットから、誕生日の日に妻から貰ったハンカチで目を拭いた。その時、古葉は自分に対して心の底から叫んだ。
なんて、なんてオレは馬鹿なんだ。オレは、おれは…オレはこんな大事な時に、何をやっているんだ。大事な人のそばにさえいることができないなんて。
本当は自分の声で叫びたいのだが、それが言えない。涙を拭きとって、残り三段の階段を、ゆっくりと降りた。
そして廊下を歩いて、一分足らずで自販機に着いた。
古葉は自販機に着くなり、深いため息をついた。そして持っていたカバンを開け、財布を取り出した。
「えーっと、どれがいいかな…」
そんなことを言って、自販機をボーッと眺めた。この自販機の飲み物の種類は少なかったが、あまりマイナーな種類の飲み物がなかった。
そして適当に目に付く飲み物のボタンを押した。
今度は中庭に立っている木を見つめて、深く深呼吸をした。その木には青々しい葉が数枚しかなく、枯葉が枝から風に揺られて舞い散ったが、なかなか枝から離れないものまであった。その葉を見て古葉は、もう秋か、早いものだな、とほんわかな気持ちでいた。さっきまで泣いていたのが嘘のように、優しく澄んだ気持ちであった。そして古葉は、迷わずに203号室へ向かった。
部屋の前に着くと、ドアの前で止まった。部屋に入って妻にかける言葉を考えているのだ。しかし古葉は特に思いつく言葉が見つからなかったので、出会い頭に任せた。
部屋に入ると、六つのベッドのうち、カーテンが二枚閉まっていた。その中のうちで奥にある、窓側で左側のベッドが、妻のベッドである。
古葉はゆっくりとベッド間を歩き、奥のベッドの前まで歩いた。そして古葉は一呼吸もせずに、カーテンを開けて入った。
そこには妻の芳江が水色の服を装い、布団をかけて、枕を背に窓の向こうの空を眺めて座っていたが、カーテンの音で古葉に気付いた。
「あら、雄治、起きたのね。風邪を引かないかなーって、心配だったのよ」
雄治はいつも座っている椅子に座って会話を続けた。
「芳江こそ大丈夫なのか」
「まだ後腹っぽいけど、大丈夫よ」
そう言うと、芳江は少し照れくさそうに微笑んだ。
「あっ、そうそう、コレ買ってきたんだ。どっち飲む」
雄治はカバンから、さっき買った飲み物を取り出した。そして芳江はそれを見た途端、嬉しそうな顔で言った。久しぶりに芳江の笑った顔を見た。
「ありがとう…でも、雄治が選んでよ」
「じゃあ、お前に両方とも進呈しよう」
「そう、ありがとう」
芳江はまた微笑み、飲み物を両手で受け取った。
この間に二人は、死産した子供がどうなったかの話題には、絶対に触れなかった。
二人は外を見て、空をぼんやり眺めていた。雄治は何気なく腕時計を見て、ふと思い出したように言った。
「あっ、忘れてた。工場に電話しないと…悪い、芳江、ちょっと公衆電話を探してくる」
その時芳江は、飲み物を飲み終わっていなかった。そして空いているほうの手で、雄治に手を振った。その素振りに、雄治の顔は緩んだ。雄治はカバンを持って、その場を後にした。
203号室から出ると、雄治は大きく深呼吸をした。多分、芳江も同じ事をしているだろう。
そして雄治はさっきの自動販売機の横にある休憩室の中に、公衆電話があるのを思い出した。そこで雄治は自動販売機のところまで、さっきと同じ道を通って戻ることにした。
休憩室に着くと、もうすでに八十を過ぎているおじいさんが、長椅子の上にちょこんと座っていた。どうやらテレビを見ているようであったが、目がテレビの上を見ていた。そういえば、どこの部屋にもテレビがないことを思い出した。テレビは待合室と、この休憩室しか設けられていない。
おじいさんは片手につえを、もう片手にはお茶を持っていた。しかしそのお茶はまだ開栓されていなかった。多分、指がタブにかからないからだろう。雄治は気の毒に思いながらも、休憩室の奥にある公衆電話に向かった。
受話器を持って、財布の中からテレフォンカードを取り出して入れる。会社の名刺を取り出し、その名刺に書いてある通りに電話番号を押した。
電話のコールが耳に鳴り響く。
待っている間、雄治は辺りを見回して、その間の時間を費やした。おじいさんはまだ、タブに苦戦している。
電話の向こうから聞き覚えのある声がした。
「はい、長岡製作所ですが、どなたですか」
こんな聞き返し方をするのは同期の加藤しかいない。いまだに電話の対応の仕方が分かっていないようだ。もしこの電話の相手が長さんだったら、すぐにでも斬られるかもしれない。
「あっ、俺だ、古葉なんだけど、今日、休ませてもらうって、長さんに言っておいてもらいたいんだけど、頼める?」
「あ、古葉か、うん、分かった、伝えるよ。で、どうだっ…」
雄治はすぐに受話器を置いた。その後、テレフォンカードをすばやく引き抜いて、名刺とカードを財布にしまい、カバンの中に突っ込んだ。そして雄治は足早に立ち去ろうとしたが、苦戦しているおじいさんに引き止められた。
「ちょっと待ってくれないかのう。この缶ジュースの…フタが開かないのじゃ。開けて欲しいのじゃが、お願いできるかのう」
おじいさんは優しく、明るい声で古葉に言った。
「あ、はい、いいですよ」
雄治は快く引き受けた。そのおかげなのか、おじいさんはやさしく微笑んだ。そしておじいさんの手から雄治へお茶が渡された。
開栓の音を出して、缶は気持ちよく開いた。今度は雄治からおじいさんの手へお茶は渡された。
「ありがとう」
おじいさんはまた微笑みながら、心の奥底からそう言った。
「いいえ、困っている時はお互い様です」
雄治も笑顔を返しながら言った。その後、雄治はその場を足早に立ち去った。
雄治がもとの203号室に戻ると、もうすでに八時を回っていた。起きた時間から既に一時間以上が経過しているのだ。雄治は急いでカーテンの内側に入った。
そしてすぐに目に入ったのは、昨日、雄治と話した医師だった。医師は雄治がさっきまで座っていた椅子の隣の椅子に座っていた。そのすぐ側に芳江がさっきと変わらない状況で座っていた。医師が雄治に気付いた。
「あっ、来ましたね」
そう言うと、医師は雄治に座るよう、隣の椅子を見た。
雄治が椅子に腰をかけると、医師は話を始めた。
「古葉さん。昨日の話を覚えていますね」
「…はあ」
雄治は期待できないような声で、ため息と一緒に出た。
「えー、まず…話はそれますが…本当に申し訳ありません」
医師は深々と頭を下げた。芳江は聞いていないような顔で、ボーっと外の雲を見つめていた。しかし、芳江が雄治に強い口調で言った。
「違うわ、私が悪いの。私が早産なんかするから…だけど嬉しかった。雄治があそこまで喜んでくれたんだもの…これは産まなきゃって思ったけど、無理だったわ。私、体だけは昔から弱かったでしょ。いつもより健康に気をつかったけど…」
芳江はチラッとこちらを見る。そして話を続けた。
「けど、耐えられなかった、私には。突然腹痛を感じたら…」
芳江は一つ呼吸をつく。
「私、そのまま破水したの…二人の子供を中に入れたまま。私、二人も殺したの、未熟児の状態で。出産した時は既に生き絶えていたわ。あの時出さなかったら私の方が…死んでいたかもしれないの。どうしても私達の子供が、欲しかっただけなの」
その時、芳江の目から頬へ、白い一筋の光が走った。
「ごめんなさい…本当にごめんなさい。こんなんじゃ、天国の子供達に顔を合わせられないよね」
雄治は唖然としたまま、じっとその話を聞いていた。医師は首の後ろを掻く。
しばらく病室内に沈黙が流れたが、その均衡を雄治が破った。
「…どういえばいいんだか分からないが、このことは誰も悪くないと思うけど…ただ運が悪かっただけじゃないのか。ただ、オレたちの子供がこの世に早く生まれたかったから、お腹の中で暴れたんじゃないか…こんなのやっぱ、気休めだな」
芳江はまた潤み始め、少し微笑んだ。そして雄治は続ける。
「まあ、終わったことはしょうがないが…もとに戻れるわけでもないし。また挑戦すればいいじゃないか」
芳江は雄治の言葉を聞いて泣くのをやめた。自分の思いが吹っ切れて、少し元気付けられたようだ。しかしそれに代わって、医師は険しい顔で言った。
「残念ですが…奥さんは今回の出産で、妊娠、ともに出産ができない体になってしまいました」
「えっ」
雄治はびっくりした。芳江もこのことは知らなかったようなのでびっくりしていた。
「なぜですか、何でそんなことになったのですか」
雄治は興奮したように言ったが、医師には冷静さがあった。
「えー、実はですね…お子さんが出てきたとき、妊娠する際に必要な中枢器官がやられまして、なので…」
「つまりもう子供は…オレたちの子供はできないということ何ですか」
雄治は医師を問い詰めた。答えは聞きたくなかったが、真実は知りたい。これからの人生に、子供がいないなんて、考えられない。
すると医師は深刻な表情をして二人に告げた。
「…はい、そうです。奥さんは、もう二度と妊娠することはないでしょう」
医師は言い終わると、さらに表情が険しくなった。もう誰とも目を合わせようとはしない。芳江は魂が抜けたように、強くベッドにのしかかった。雄治はというと、石像のように硬直して、ぴくりとも動かなかった。二人は黙った。芳江の目からは、丸く太陽に照らされ光っているパチンコ玉のような、大粒の涙が溢れ出た。そのしずくは頬をつたって、芳江の手に滴り落ちた。
そしてその間、長い沈黙の均衡に閉ざされていた。時間はゆっくりと流れているように感じられた。
しかし医師が思いもよらないことを言った。
「しかし、一つだけですけれども、子供ができる…いや、育てられる方法があります」
雄治と芳江は顔を上げた。
「すみませんが…」
二人は同時に言った。そして雄治が質問を続けた。
「すみませんが、方法とはどういった方法なのでしょうか」
雄治は恐る恐る小声で聞いた。そして医師はゆっくりと口を開いた。
「それは養子を貰うことです」
「養子?」
雄治は大体予想をしていたが、そのとおりになったので驚嘆した。
「養子ですか」
芳江は眉間にしわを寄せて、口をぽかんと開けている。
「はい、そうです。私の知り合いに、孤児院で働いている鎌塚という人がいるのですが、ちょうど昨日生まれた子供がいるらしいのです。その子の両親はもう他界していて…どうでしょう?」
医師は馬鹿に冷静に話した。この場に及んで、雄治の答えは一つしかなかった。
「ぜひ、お受けします」
雄治はつい大きな声を出してしまった。そしてそのとき、カーテンの外から、シーッと言う声が聞こえた。雄治は頬を赤らめた。
そして芳江は反論でもあるような顔をして、強く言った。
「ちょっとあなた…いくらなんでも、検討もしないで返事を返すのは…」
芳江が言い終わらないうちに雄治が言う。
「そんなこと言ってもしょうがないだろ、お前はもう…悪い、口が滑った」
芳江の目が鋭くなり、雄治を見た。
「そうね、なら、それでいいんじゃない」
芳江は冷たい視線でツーンと人を突き放したように言った。雄治から外へと、目を向けた。雄治は悪いと同じ言葉を繰り返し言ったが、芳江の表情は変わらなかった。
そして今度は医師が困ったような顔をして、二人に言った。
「どうしますか」
二人にとってこれが最後の選択肢だった。どうしても自分の子供がほしい。どうしても自分たちの手で子供を育てたい。たとえ、本当の自分の子供でなくても。そんな気持ちが二人を一つにした。そして二人は声を合わせて、同じことを言った。 「はい、お願いします」 医師はきょとんとした顔で二人を見た。さっきまで喧嘩をしていたはずなのに、息はぴったりだったことに驚いたからだ。
雄治と芳江は顔を見合わせて微笑んだ。しかしその中で、医師は二人に強く、そしてくどく忠告をした。
「しかし、これは単なる遊びではありませんよ。命のやり取りですから…本当にいいのですね」
「お願いします」
今度は雄治だけが言う。
そして医師は一回咳払いをして開き直ったように言った。 「分かりました。では、紹介状を書きますので九時半ごろにロビーで待っていてください。その時お渡ししますので」 医師は立ち、頭を下げた。 「では、これで」 そう言うと、医師はカーテンの向こうへと消えていった。 「で、どうするの、本当に…今のうちなら、取り返しがつくわよ」 芳江は不安そうに言った。だが、雄治は自分の気持ちを、そっくりそのまま芳江に言った。 「俺だってそんなに簡単な気持ちで子育てなんてするつもりなんかない。ただ、自分の子供が幸せになるのを見たいだけなんだ。お前も同意してくれたじゃないか。この気持ちがあってからこそじゃないのか」 その時また大声を出したにも関わらず、カーテンの外からは何も聞こえなかった。
そして芳江は納得したように一息ついた。
「まあ、そうだけど…」
芳江は手で口をふさぎ、少し思いつめたように少しうなった。そしてすぐに頭を起こした。 「…分かったわ。あなたなら、信じられる。でも、これだけは約束してちょうだい。絶対に、子供を正しい道へ導くって、そして必ず幸せにするって、ね」
芳江は頭を傾けて、甘ったるい口調で言った。 「ああ、分かっているさ。絶対に俺達の子供を幸せにして見せる。もちろんお前も、な」 雄治は芳江の手を握った。芳江は雄治の目を見つめた。もちろん雄治も芳江の目を見つめている。そして二人は目をつむり、顔を近づけた。 その時、カーテンの外でこんなことを耳にした。 「いいわねえ、やっぱり若いって」 「そうよねぇ、うらやましいわ。うちの旦那も見習って欲しいぐらいだわ」 それは近隣に住む、峰倉さんを見舞いにきていたおばさん達の声だった。
そしておばさん達は一斉にねぇーと声を合わせた。雄治ははちきれそうに恥ずかしくなった。そして耳がかっと熱くなるのが分かった。芳江も同じように赤くなっていた。二人は手を離し、しばらく頬の熱がひくのを待った。 二人を察したのか、峰倉さんがおばさん達の会話を止めた。そしておばさん達は納得したかのように、峰倉さんに笑って言った。 「じゃ、お大事に。早く元気になってね」 おばさん達は静かに通路を歩いて退室した。 今、この部屋にいるのは、雄治と芳江と峰倉さんだけだ。
静かにゆっくりと時間が流れていく。その間、病室には、病院独特の薬品のにおいが、その空間を漂った。 しばらくすると、耳に時計の音が入ってきたので、雄治はふと時計を見た。すると、既に九時十分前だった。ボーっとしている時間が非常に長かったのだ。 「あっ、もうこんな時間。そろそろロビーに行かなくちゃ。じゃ、俺、行くから」 そう言って、カバンをすばやく持ち、カーテンを途中まで開けた。すると芳江が強い口調で雄治を引き止めた。 「ねぇ、ちょっと待って」 雄治が振り向くと、芳江が不安そうな顔をしていた。 「本当にこれでいいんだよね、きっと」 芳江が静かにも、悲しい声で言った。 「いいもダメもあるわけないだろ。オレがお前を幸せにする。もちろん、オレたちの子供も。約束しよう」 そう言うと、雄治は芳江の隣まで行き、親指と小指を立てて右手を差し出した。それを見た芳江に微笑みが戻った。 「約束、ね」 そう言って芳江も親指と小指を立てた左手を差し出した。そして二人は、折り曲げた指同士をコツンと乾杯するように当てた。その拍子に親指と親指、小指と小指同士が触れ合った。その時、何かを感じた。まるでこれからのことを予言しているかのように。 「これで成立だな。じゃあ行ってくるから」 「うん」 そう言って雄治はカーテンの向こうへと消え去った。 カーテンを抜けると、左斜め前のベッドに峰倉さんが寝ていた。二人は目が合うと、軽く会釈をした。そして真っ白な廊下を歩き、ドアを引いて廊下に出た。ドアは勝手に戻っていき、ゆっくりと閉まった。 外は病室内に比べて明るく、木の葉は風に揺られてざわざわと語り合っていた。とても気持ち良さそうに日光を浴びて、その上心地よい風に吹かれるなんて、そんな贅沢を木の葉達は味わっていた。 雄治はその光景をボーっと見つめながら深く息を吸い込み、ゆっくりとその空気を吐き出した。 その時、雄治は突然自分について思った。何のために生まれてきたのか、なんでオレ達だけこんな悲惨な事態を体験せねばならないのか、と。
雄治は自分の思いから抜け出すと、ロビーに向かって歩き出した。ロビーに向かう一歩一歩が重くなってきた。そのため、階段を降りる時はかなりの重労働だった。 ロビーに着くと、時計はすでに九時をまわっていた。心の中で、あと二十分と唱えながら、誰も座っていない長イスに腰をかけた。ロビーには三人いるだけで、がらんとしている。その三人は前の方の長イスに座っていた。その中には、先ほど休憩室にいた老人もいた。 老人は雄治に気付いたのか、後ろを見て、軽く微笑んでから軽く頭を下げた。と同時に雄治も頭を下げた。 そして雄治はテレビの方に視線をやり、やがて玄関の近くに置いてあるスタンドに目をやった。そこには新聞がスタンドに洗濯物のように吊るされている。 雄治はゆっくり立ち、スタンドに足を向けた。そして今日の新聞を手に取って、その場で一面だけを読んだ。しかし、新聞というものはなんとなく開いてしまうものだ。そして二面、三面と見た。そこには中小企業に多大な影響を及ぼしていた、ベンチャー企業の倒産の話題が載っていた。しかしその他には、相変わらずくだらない内容が書かれていた。
雄治は新聞紙をスタンドに戻し、再び長イスに戻った。 腰を下ろすと、雄治はなんとなく受付に目を向けた。そこには忙しそうに働いている看護士がいた。彼女は電話の対応をやっているらしく、ここからは見えないが何かの資料を見ながら対応をしていた。雄治は大変そうだなと思った。 今度は朝に使った冷水機に目を向けた。朝には気付かなかったが、冷水機はガ―という音をこの待合室中に鳴り響かせた。その音はテレビの音を掻き消すまではいかないが、自動販売機と同じくらいうるさかった。 そしてその冷水機に一人の男性患者が歩み寄り、ボタンとペダルを同時に押して、ゆっくりと水を飲んだ。雄治はその姿を見届けるとまた視線を変えた。 今度はどこを見ようと、辺りをきょろきょろ見ると、奥の廊下から、医師がひとつの封筒を持ってこちらに歩いてきた。 そのとき雄治は時計を見た。するとすでに九時半の三分前だった。雄治は襟元を正し、姿勢を良くした。まるで小学生の正しい座り方のように。 「ああ、そこですか」 そう言うと医師は雄治のほうに歩み寄った。そのとき皆の視線を一瞬だけ感じた。 「では、これがそのものなので、頑張ってくださいね」 何を頑張ればいいんだ、と思いながらも、雄治は封筒と地図を受け取った。 「ありがとうございます。でも本当にこれでいいのでしょうか」 医師はまじめな顔で雄治を見つめた。そして雄治は続けた。
「このまま私達の思い出っていうか、子供のことについて、心の中に閉じ込めたままの方がいいのではないでしょうか」 そう言うと雄治は暗い顔をしたが、医師は優しく微笑みかけた。 「古葉さん、あなたが決めたことでしょう。ここまできたら、人に相談するのではなく、自分で決めなさい。その判断が正しかったかは未来に聞きなさい」 医師は振り返った。そのとき医師が着ていた白衣が非常に輝いているように見えた。そして医師はもと来た廊下を歩き、一番奥の部屋に入っていった。 雄治は決心したように顔を上げて、外の方を見た。外は太陽の光で、葉がダイヤモンドが輝いているように見えた。葉に滴る水さえも透けてるような感じであった。 雄治はゆっくり立つと、地図はポケットにしまい、封筒を片手に玄関の方に向かって、ゆっくり歩いた。その際、足を引きずって歩いたため、スリッパと床に摩擦が起こって、シュッ、シュッと音を立てた。 スリッパから靴に履き替え、雄治は勢いよく病院から出た。




