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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

その瞳が望むは?

作者: 天見酒

仕事の帰り道だった。終電に揺られ、既に家屋の光が消え失せて、街灯以外頼りの無い夜。自分の足音が響く事を邪魔するものは無い。自分の視界に入るのは、歩きながら自分の口元を朱色に辺りを仄かに照らすマナー違反な紫煙だけだった。


その時、暗闇に僅かな光を反射して光る二つの眼。自分の肩はビクリと上がり、口から煙草が溢れ落ちた。

痩せ細る身体に白いワンピース、髪を肩下まで伸ばし、決して健康的ではない青白い表情。自分と同じく深夜の遭遇者を見詰めているだけだった。


安堵の溜め息が漏らし、手前悪く地面に落としてしまった煙草の火を足で揉み消す。


「こんな時間に子供が出歩いて居たらいけないよ。早くお家に帰りなさい」


自分と違って暗闇の遭遇に全く動じない少女。こちらだけ大袈裟に驚いてしまった事実を払拭するように大人らしく優しく声を掛けたが、向こうは警戒でもしているのか、ただただじっと此方の顔を見つめていた。


「良いかい?おじさんもお家に帰るから、君もお家に帰るんだよ?」


また暫く沈黙の視線を受けたが今度は通じたようでコクりと首を縦に振った少女。

脇目も振らずに背を向け、一言を発する事なく走り去ってしまった。


その背を向ける前に見えた終始無表情だった彼女の口元は吊り上がり、彼女は笑っていた。



1LDK、家賃八万のアパートの一室。そこにたどり着いた時、壁に掛かる時計の針は今日が昨日に、昨日が今日に鳴った事を告げていた。ただいまを言う相手も居なければリビングの電気を付け、冷蔵庫の前へ足を向けた。


立ったまま、冷えたビールで一口喉を潤し、癖で意味の無い溜め息を漏らす。何気なく見つめたダイニングテーブルには普段自分の使う椅子と滅多に使われる事の無い来客用の椅子がある。


その一脚の座る人が居ない椅子が自分の孤独を物語っているようで嫌だった。


そんな嫌な孤独感を払うように、缶をわざと音を立ててテーブルの上に置いて、開かれたままの仕切りを越え、フローリングから畳の上に足を乗せる。


リビングから届く暗い部屋には敷き放しの布団。そして、一つのクローゼット。男が一人、寝る事と着る事以外にしないこの部屋には十分な設備。不必要なものは何も無い、味気無い部屋。クローゼットの扉を開くと、内側に付いた鏡にリビングから届く光に映し出された自分の顔が浮かぶ。暗く浮き上がった顔は、表情まで暗く映し、三十路になった疲れ顔が余計に老けて見えた。そんな真実を映す鏡が気に食わなく、それを見ないように、それから背を向ける。



ネクタイを緩める手が止まった。


室内は夏の外気と同じような暑さ。決して鳥肌が立つような気温じゃない。額からは汗が沸いて出ている。でも、自分の身体は得体の知れない寒さに震えている。


恐々と顔をゆっくり後ろへと向ける。さっき、眼を反らした真実を映す物に答えを求めて。


映ったのは、自分の顔が引き吊っている事実と、自分の後ろには畳以外、鏡に映る物が何も無いこと。そして、更に寒くなった背筋……。


それじゃあ、俺の瞳に映ったものは何なんだ?


時間を掛けて捻った首を元に戻す。


それは出会ったままの白いワンピース、感情は何も出さず、その黒い瞳でこちらを見つめ続けている。居るはずの無い此処で。


何で此処にいる。そう尋ねたかった。でも、震えるだけで声が出ない口。


逃げ出したかった。でも、震えるだけで動かない足。


ただただ、少女に見つめられ、固まったまま少女を見つめる自分。目まぐるしく動く頭と滴る汗がなければ時が経つ事すら分からなかった。


どれ程の時が経っただろうか。汗が眼に入り、眼を痛める。思わず手が動き、それを拭う。


そこで自分が動ける事に気付いた。そして、目の前のそれは全く動かない事に。


恐る恐る少女に向かって手を振って見る。何の反応も無い。ただ、そんな自分を見ているだけ。


今度は、それに近寄らないように、眼を反らさないように、横歩きに明かりが灯るリビングへと歩いて見る。今度は反応が合った。こちらの動きに合わせて首を振り視線を合わして来る。ただ、その場に立ったまま足を動かそうとしない。


リビングに入ると少女の視線の届かない位置へ移動した。すると、少女は足音を立てずにこちらを観察出来るところへやって来る。しかし、不必要に近寄ろうとはしない。ただ、こちらを見ているだけで危害を加えようとはしない。


「おじさんはお家に帰りなさいって言ったよね」


上擦り掠れた声を出せた。そして、そんな声に少女は無表情に小さく頷き、また無言で見つめ続けてくる。


「もしかして、お家が無いのかい?」


気味の悪さは変わらないが、全く何かしようとしてこない少女に、声の調子を戻す事が出来た。喋らない少女はまた肯定を意味する動作で示す。


考えるだけの余裕が出て来た。どうやってこの無害に見える不気味な少女にこの部屋から出て行って貰うかを。


君のお墓に帰りなさい。そもそも、この子にお墓はあるのだろうか?


早く成仏しなさい。どうやって?自分が適当に念仏でも唱えてやれば出来るのだろうか?


少女の瞳を睨みながら、また暫く沈黙していた自分。足が痛くなる。壁に掛かった時計はかれこれ一時間は突っ立っていた事を知らせている。


相変わらず無言で見つめて来る少女。これでは拉致が明かない。


そう考えると、テーブルに置かれた温くなったビールを握り、寝室へ。電気を付け、布団の上で胡座を掻く。


そこで、また自分の後を追ってきた少女を観察する。


身体はもう寝たがっていた。しかし、寝た途端に目の前の少女に何をされるか分からない。責めて朝日が昇るまではこのまま……。



結局、睡魔に勝てず、胡座を掻いたまま寝てしまった為、身体の節々が痛む朝を迎えた。そして、電気が付け放しの部屋には自分一人。


結局、何もされなかった。そんな安堵と、同時に結局、杞憂に怯えさせられ、何をしに来たんだという僅かな怒り。


そんな複雑な想いを、昨日は入れなかった風呂場で流して仕事へ向かった。



そして、仕事終わりの夜。いつもの帰り道を避けた。そして、自宅の扉を開けるのを始めて戸惑った。一抹の不安。また来ているかも知れない。


今日は何処かに泊まろうか。そんな事を考えながらも鍵を差し込み、意を決して開いた扉。


それは暗闇に立ち尽くし、俺へ視線を向けた。背筋に冷たいものが走る。


「また来てたのかい?」


それでも、昨日と異なり声を発する事が出来た。そして、昨日と違い、少女の見つめる中で、コンビニ弁当を食し、ビールを飲み、寝巻きに着替え、布団に横たわる事が出来た。その間、少女は昨日と同じく一定の距離からこちらを伺うだけでだった。そして、朝になると昨日と同じで消せなかった照明の中に少女の姿は無かった。



「それで機械が駄目な課長がさぁ、コピー機壊しやがってさぁ」


そして、薦めた来客用の椅子に素直に腰掛け、目の前で管を巻く酔っ払いをただ見つめる少女が居た。


自分でもおかしいと思う。ただ行儀正しく椅子に腰掛けている少女。まるで、人形に話し掛けているようなものだ。人形と違うとすれば、一言も発しないもののコクリコクリと首を垂れる事。それがいつものビールを美味しく感じさせてくれた。


「もお、お前が来たけりゃ何時でもおじさん所に来い」


遂には上機嫌にこんな事を言っていた。当初、少女に抱いていた恐怖は既に消えて失せ、この無口な訪問者を受け入れていた。食事は食べないらしく出費は無い、何かを恵んでくれとも言わない、悪戯をするわけでもない。ただ黒い瞳で真っ直ぐ自分を見続けるだけ。今ではその恐れていた瞳に愛嬌すら感じる。


この子も自分と同じでただ独りが寂しかっただけでは無いか?それならば、お互い様。別に構わない。


そう思っておけば、彼女の不気味な訪問を肯定的に考えられた。何より、答えはなくとも此処に話を聞いてくれる者が居ることが嬉しかった。



久々に早く帰宅をしたいと思えた次の日。こういう日に限って部長に飲みに誘われる。


部長への周囲の返答に、自分一人が断る事は出来ずに流されて着いて着てしまった。


部下への慰安と言っていた部長も一時間も立てば酒が回り、何時もの口上を始める。


「それでな、その物語何だけどな」


文学部出を傘に、自分の気に入った小説について愉しげに語る。こちらは聞きたくも無い話を愛想笑いを浮かべながら聞かなくてはいけない。


「昔、病気で亡くした娘がな。幽霊になってな。毎晩、父親に自分の成長した姿を見せに来るっていう話で……」


いつもならば適当に聞き流して曖昧な感想を言い、これだから本を読まない奴はと軽く馬鹿にされるだけだった。


「おい、どうした。顔色悪いぞ?」


自分の顔色は悪かったらしい。


「すいません。少し調子が悪くて。帰らして貰っても良いでしょうか?」


頭に巡る想いに、本当に調子は悪かった。だから、素直に周囲の了承を得て、周囲の心配の声を得て、その居酒屋の有る雑居ビルから出た。


出て直ぐに電話を掛ける。


七年間、忘れようと思っていた、無理に忘れていた女性へ。七年間、携帯のアドレス帳に何故か残っていた、今なお通じるか分からない番号へ。


そして、七年前、自分の子を堕ろしてくれと頼んだ女性。それから、自分の前から姿を消した女性。


無情にも留守電サービスに繋がった。まだアドレスは変えていないらしい。


何故、彼女が電話に出なかったのかは分からない。ただ、電話を取れない事情が有ったのか。今更、捨てた男の電話に取るはずも無かったのか。


自宅に走りながら考える。


仕方無かったと。


あの時は酒に酔っていた。デキてしまうとは思って居なかった。あの時はまだ大学二年、妻子を養っていく自信が自分には無かった。自分の行き先すら分からなかった。


自分を正当化し続けた。アパートの鍵を開けて、自分のやった現実を見るまで。自分が正当と思った理由でこんな姿にした少女を見るまで。


暗闇に静まったその部屋、今では数え年七歳に見える少女はそこに当然の様に居た。本来なら彼女が居てもおかしくないこの自分の家に、少女は当然の様に居た。


その少女は見つめて来る。まるで、その瞳で責めている。


怖かった。ただの幽霊だった時よりも、その瞳が自分を見つめる理由が分かった今は。


「お前は、俺の子なのか?」


玄関を閉め、暗闇の中絞り出した震えた声だった。窓から入って来る光に照らされた少女は首を振らず、ただ、自分を瞳で責め続ける。父親の顔も見ずに殺された事を責めてるのか。


「なぁ、お前は何が欲しい。何でもやるよ」


あの時は自分の行為の尻を拭くことすら出来ない貧乏学生だった。

今なら、普通の父親が娘に買ってやる事の出来るものなら、欲しい物を何でもくれてやれる。だから、許してくれ。



「……パパが欲しい」


初めて少女は口を開いた。とても小さい声だった。でも、はっきり聞こえたそれに、初めて抱いた本当の後悔の念に涙が出た。


立ち尽くす少女に駆け寄り膝まずき抱いていた。無表情な少女を前に大人げなく泣いた。泣くしか出来ない。少女の身体はとても冷たい。血が通っていない。


こんな冷たい身体にしてしまったんだ。何も食べられない。何も喋れない身体に。


「俺がお前のパパに成る。俺が、お前のパパなんだ」


もう遅い事は分かっていた。こんな姿になってしまった娘を救う事は出来ない。でも、少しでも父親として何かをしてやりたかった。自分の犯した罪を償いたい。


分かっているつもりだ。もう、普通の少女としては育てられない。自分のやってしまった事も取り返しが付かない。


でも、少女は笑った。無表情だった口だけを綻ばさせた。自分を父親と認めてくれるように。少女を理不尽に殺した人物。子供に抱き付き、情けなく泣きじゃくる男を父親として認めてくれた。


眼がまた痛くなる。認めなかった自分を認めてくれる存在が嬉しくて哀しくて悔しくて、声を出して泣いた。


暗闇の中、初めて娘を抱いて。



経っていく時を思い出させてくれたのは、鳴り出した携帯電話だった。単調な音と振動と共に携帯のディスプレイに浮かんでいるのは、一人の女性。


少女に話を聞かれたく無かった。これからする懺悔を聞いて欲しく無く、暗闇の中、逃げ込んだユニットバス。洗面台の鏡に窓明かりを負った男の泣き顔を映っていた。


「急にどうしたの」


不機嫌そうに聞こえた声。当然だ。自分を捨てた男からの電話。折り返して来ただけで彼女は善人だ。


「何、もしかして泣いてんの?」


責める様な口調が妙に優しく聞こえる。一層のこと罵倒してもらえた方が有り難かった。


「三人で……暮らしてくれないか?頼む、一緒に暮らしてくれ」


やっと出せた弱々しい声。自分が我が儘なのは分かっている。一方的にあの子を殺せと言ったのは自分だ。この女性が堕ろす決断をしたのだとしても罪は無かった。


だからこそ、この女性にも罪を償いたい。彼女にも自分の罪がどんな罰になったかを見て欲しかった。自分が彼女の子供をどんな姿にしてしまったのか。


中々、返答が無かった。また嗚咽を漏らし出した三人で暮らそうなど、彼女が理解出来るはずもない。彼女にとっても、娘は七年前に死んでいるのだから。


「……そっか、やっと気付いたんだ」


そう、今まで、自分の娘がこんな姿で現れるまで、何食わぬ顔で生きてきた。ここまで自分の犯した罪を適当に正当化してきた。


「貴方は簡単に言ってくれるけど、此方は大変だったんだよ。一人での子育て」


何かが可笑しい。頭で沸いていた血が冷めていくのを感じる。


「ユウキにパパはどうしたのとか聞かれるし、『ママ、これも食べて良いのぉ?』あっ、それは駄目!明日、ナカムラさんに」

雷が落ちた。急に激しく降りだした雨が屋根を喧しく叩く。突然切れた携帯電話が最後に伝えたのは、彼女がユウキと呼んだ男の子の声だった。


呆然と立ったまま、鏡に映る自分の顔を見詰めていた。届くはずのない白く冷たい腕が首に巻き付いていた。


そして、頭の後ろから肩に覗いた小さな顔。白い歯を見せながら笑っている。そして、鏡越しに見える少女の瞳は全くぶれずに鏡越しに顔を蒼白にした男を見つめてくる。


彼女が口を静かに動かした。雨音に掻き消され音とならなかったそれは、パ、パ、と思えた。


そして、息が苦しくなった。堪えられない恐怖に。絞まってくる首に。


自分を見つめる瞳。これは罰か?自分の子を殺そうとした事が行けなかったのか?それともあの時、この少女に声を掛けてしまった事か?


教えてくれ。その瞳は何を望む?

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