曇天気候
この小説に登場する地名、人名はいずれも架空のものです。
実在のものとは一切関係ありません。
覚えてる?
滝馬麻耶。
小学生の時の同級生。
今しがた会ったんだよ。
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春も終わりかけの頃。
大学にもようやく慣れ、代わり映えしない生活に安堵と軽い疲労感を感じ始め、雨と曇りの波状攻撃が続いていた頃。俺は相変わらず電車に揺られて、かれこれ一時間以上も車内の窓からそんな街を眺めていた。
暇つぶしというのもあったし、天気の確認という意味でもあった。
まあ、どちらにしても斜め前の怖そうな主婦や、隣のおっさんや、どこか後方の赤ん坊の泣き声よりは濡れた道路の水たまりや道を行く車のワイパーの動きの方が興味深かったのは確かだ。おかげで乗り換えの駅に着いた時にはホームの様子と合わせてせいぜい小降り程度くらいらしいことが分かっていた。走る電車の窓につく水滴はあまり当てにならない事は既に経験済みだ。
結果的として、俺は薄手のジャンパ−を着続ける事となる。最近の天気で上昇気味の湿度の中、できれば脱いでいたかったのだが、風でも引いて授業を欠席するのはもっと面倒だった。
乗り換えた電車は郊外へと向かうが、郊外とは言っても元が大きい都市である。俺の目的地はそこそこに乗り降りが激しい駅で、帰宅ラッシュのスーツやブレザーやコートの集団と共に十分程がたんがたんという響きを共有する。
改めて見る外の景色は灰色。
実に憂鬱なものだ。
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下車した所で携帯の着信音。
発信者は母親で、迎えに行くのでその場待機の趣旨。少々過保護ながら日々の通学にはこの上ない助け舟だ。勿論乗らせてもらおう。
小さな駅前にはタクシーや俺の様な人間、車が見える。自転車置き場は鉄の墓場、なんて格好つけた言葉を考えているとぽつぽつと他の利用客が駅から出てきて俺の横を抜けて行く。そんな中で突然、踵を返す女性が一人。忘れ物だろうか、と視界の端に捉えていた俺はただかかしの様に突っ立っていたのだが、あろうことか女性は駅ではなく俺の前で立ち止まった。
はて、私何かしましたかな。
とは表向きの思考。内心は恐ろしさのあまり取りあえず心の戸締まりを確認するので大忙し。そんな俺をよそに女性はしかと眼を合わせてきた。
「もしかして、新名君?」
「はい?」
ほとんど条件反射で出た「はい」はかろうじて疑問形に変更された。いやしかし何だって? 新名君? 新名君ってあなたねぇ。
「……そうだけど」
俺だった。
そんな名字滅多にいませんから。
俺の外見、あまりよろしくない方向で個性的だから。
女性はちょっと安心(あるいは納得)したような表情をしている。
「やっぱり! 私、滝馬だけど覚えてる?」
水を得た魚というか、女性の雰囲気は一気に明るくなった。無論、その立場になってみれば気持ちは分かるが。しかし、新たな問題。
滝馬………?
「………………………………………………………………」
「………………………………………………………………」
「………………………………………………………………」
「……………あの、藤岡小学校で一緒だった……よね?」
長い沈黙と共に首を捻る俺の様子に、一転して不安げな雰囲気にになった女性はそんな確認をした。確かにそれは俺の出身校だ。今までの事に加えて考えると人違いの可能性は激減、いやもう確実に俺の事だろう。更に俺の性格を踏まえて考えると彼女は当時「俺のクラスメイトで尚かつ数少ない女友達」だったと思われるのだが。後もう一押し。
「えーと。名前、もう一度聞いていいかな」
「滝馬。滝馬麻耶」
なるほど。
俺のクラスメイトで尚かつ数少ない女友達の滝馬麻耶、ね。
何となくあれだな。男女という奴を感じさせない位すぱっとした感じで、今思えば和田アキ子みたいにびしばしとしていた滝馬麻耶なら分かるんだが。ん?
「………ああ、滝馬麻耶か」
「そうそう! 思い出した?」
よかった、と再び安堵する女性、もとい滝馬。
改めて見る滝馬の服装はなんと言うか実に女性らしい印象で、顔つきも別人。男か女かと言われれば間違いなく女だし、綺麗かどうかと言われれば綺麗だろう。いずれにしても小学校時代の滝馬からは想像しがたい位の変化を遂げている。こんな会話ではなくもっと形式的な会話だったら俺に気付く術はなかったに違いない。
対比的に、俺の外見はあまり変化していないことが伺える。嬉しいやら悲しいやら、まあ今後は気を付けるとしよう。
「迎え待ち?」
「んー………まあ、ね」
「電車で大学に通ってるの?」
「………ああ」
基本的に秘密主義者らしい俺はその手の情報は流さない。よって口が開かないのだが、しかしこの場合の一番の問題は相手が女性という事と完全に予想外の展開である事。生徒相談室に駆け込む方がよっぽど楽に違いない。
「私、江崎市の大学に通ってるんだ」
江崎市はここの隣、車でも一時間程度で行ける街だ。
何と言うか、へぇとしか返せない。小学校の頃から延々と遠い俺の通学人生は大学になってついに片道二時間を突破している。よって少々の距離は俺の守備範囲内だし、何よりもまずその術を知らないのだから仕方がない。しかし。
「……俺は比華川だよ」
相手にだけ言わせるというのも気持ち悪い。対等である必要はなくとも誠意は持っているべきである。
「比華川? 遠いね。通ってるの?」
「ああ」
「へえ。私の友達にも比華川からこっちに通ってる子がいるよ。結構できるもんなんだね」
………意外な反応だ。
期待していた訳ではないがこうもあっさり返されるというのは予想外だった。この話をしてこの反応は過去に前例がない。一種、耐性と言えるだろう。まあなんにせよ、深い話にならなかったのはありがたい。
ふと、滝馬は表情を曇らせた。
「………なんか元気ないね」
「まあ、長旅なんでね。疲れるのさ」
「そっか。大変だね」
滝馬の返答は先程の俺のそれに似ていた。勿論、それの抱える思いは大分異なるだろうが。傲慢にも、もしそれが俺に対する何かしらの遠慮だったとしたら申し訳ない。
しかし今日はフル回転の日、滝馬云々以前に俺は疲れている。既に慣れたこの疲労も滝馬の登場によって加速度的に増量しているし、この曇天の空気も悪かった。日差しがないのはありがたかったがね。
諸々の要素は現在、話のネタがつきた男女二人を駅前に演出している。
—–————っと。
駐輪場の向こうに見えるのは家の車だ。時間にして五分くらいか、正真正銘救いの船だった。
「………じゃ、これにて」
俺は軽く別れの挨拶の様なものをする。
「あ………うん。じゃあね」
俺の目線を察してか滝馬の理解は早い。
その竹を割った様なサッパリ感は相変わらずで、本来ならもっと違う展開があったのだろうが俺にできるのはせいぜいこんなもの。
車へと向かう間際、視界の端に映った滝馬はまだ動かない。
親の迎えを察した辺り滝馬も待っているかもしれないし、そうでもないのかもしれない。
何にせよ、善くも悪くもさっさと次の事に向かってくれるのを願うばかりだ。
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不覚にも掛けていた眼鏡はその役割をしっかりとこなし、滝馬麻耶を思い出す足枷となったが、それを俺の脳に焼き付けるのは些か失礼な話だろう。彼女の為にも、俺の為にも。悪い芽ははやく摘んでしまうに限る。いばらに触るのは思い出の中だけでもう十分だった。
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「雨降ってる?」
助手席に乗り込むと母はそう尋ねてきた。
走る電車のなんとやらは自動車にはあまり当てはまらないが、会話の種だろう。カテゴリーは天気。曇天の空に加え、黒く染まったコンクリートや即席の湖はあたかも大雨の証拠のようだが、現在はぽつぽつとおとなしい。
「小雨だよ」
シートベルトを締める。
「そういえばさ、覚えてる? 滝馬麻耶」
「? 誰だっけ」
なんとなく母に尋ねると案の定母は覚えていない雰囲気だった。
「小学校の時の同級生。今しがた会ったんだよ」
たまたまね、と付け加える。
華の大学生生活真っ最中、浮いた話の一つもない息子の口から女性の名前が出れば母が興味を示すのは当然。最小にして最大のボーダーラインを設けた上で俺はそう話を切り出した。
「えっ、そうなの!? もしかして邪魔しちゃった?」
「いいや。ちょっと話をしただけ。ちょうど良かったよ」
「えー、何かもったいない」
母は駐輪場向こうの駅前に眼を向けるが、分かる筈もない。同級生の俺でさえ分からなかったものがどうしてその親に分かろうか。程なくして母は諦めた。
「どんな娘なの?」
「さあね」
ここで美人だったというのは宜しくないし正しくない。
かといって普通というのもまた然り。記憶に残る滝馬麻耶は既にぼやけていて再生不可だ。
そんな俺の淡白な回答に対して、母は運命の出会いがどうのこうのとぼやきながら車を発進させる。俺はとにかくさっさとこの嫌な汗を流したかった。
最後にちらっと見た駅前。
滝馬麻耶の姿は見当たらない。もう帰ったのか場所を変えたのか、いっそ人違いだったとするのも一興だろう。
天候は曇天。
憂鬱になるには文句無しの湿度だった。
少々記憶が曖昧なため、所々に矛盾等があるかもしれません。気になった方はどうぞご指摘ください。