第2話 まともな道の外側で
東京は、田舎と全然違った。駅を出るたびに、人の流れと看板の量だけで目が忙しくなった。夜になっても街は明るくて、すれ違う人たちは誰ひとり僕を見ていなかった。
田舎では、通りすがりの人間が平気で顔をジロジロ見てくる。見てくるくせに、声はかけない。助けもしない。ただ、理由もなく視線だけを向けてくる。でも東京では、そういう視線を向けられることがほとんどなかった。
田舎では、東京のそういう無関心さを「冷たい」って言っていた。でも僕は、そうは思わなかった。無関心っていうのは、言い換えれば、干渉してこないってことだ。それが、ひどく居心地よく感じた。
誰にも邪魔されない。誰にも決められない。——自分の努力次第で、何にでもなれる。
そんな当たり前のことを、僕は十九歳にして初めて考えた。
……ただ、その『何にでもなれる』は、当時の僕にはまだ形がなかった。自由はある。けど武器がない。そのまま何かになれるほど、世の中は簡単ではなかった。
上京して最初に就いた職は、原宿のアパレルの会社だった。『原宿』『アパレル』——その二つの言葉は、当時の僕にはキラキラして見えた。ガラス越しの店内は明るくて、おしゃれな服がずらりと並んでいた。そこで働く人たちの立ち姿や服の着こなしまで格好よく見えて、田舎から出てきた僕には別世界だった。
持たざる者の僕みたいな人間が、何かになる方法は限られている。そのキラキラの中に入り込んで、自分も“そっち側”になる。それしか思いつかなかった。
でも数ヶ月で、その会社を辞めた。辞めたというより、逃げ出した。
キラキラしたその場所に、僕がいるべき理由が見つからなかった。スポットライトは、本来、何かを成し遂げたものに当てる光だ。何も特別なことをしていないのに、周りだけがキラキラと明るい。その光の中で勘違いして、ニヤニヤしながら過ごす。——その感じが、気持ち悪かった。
毎日、身体のどこかが『違う』と言い続ける。
「何やってんだ、俺」
言葉にした瞬間、背中が冷えた。どこにいても、僕は僕のままだった。何かを変えなければいけない。だけど、正解がわからない。ここで踏ん張るのが“正解”なのか。それとも、自分の違和感を掬い上げるのが“正解”なのか。判断はつかない。ただ、胃が拒否していた。
そして僕は、また逃げ出したのだった。
キラキラした場所に馴染めない人間は、結局どこへ行くのか。僕の場合、それが新聞配達の販売所だった。
理由は二つある。一つは金だ。正確には、短い時間で稼いで時間を作れること。僕が欲しかったのは、その“浮いた時間”だった。上京したのに、働いて寝るだけの生活に潰されたくなかった。だから稼ぎは確保して、残った時間を好きなことに回す。——そういう形にしたかった。
僕はその時間を、音楽に突っ込んだ。
もう一つは、自由だ。昼間の時間に彼らを見かけると、ふらっとカブに乗って、タバコを吸いながら、悠々自適に新聞配達をしている。あくせく働いている時間の真ん中で、あの姿だけが妙に軽い。なぜか分からないけど、それが魅力的に見えた。
——実際に入ってみると、職場は妙に居心地がよかった。事務所には古い作業机と灰皿があって、新聞のインクとタバコの匂いが混じっていた。きれいでも上等でもないのに、そこには変に人を緊張させる清潔さがなかった。
人の人生に干渉して、とやかく言ってくる人が滅多にいない。それは後になって分かったことだけど、みんなそれぞれ何かを抱えていたからだ。自分がうまくいっていないのに、人様に説教してやろうなんて気持ちにはなれない。
何かを抱えている人——言い方を変えるなら、まっとうな道から少し外れた生き方の人が多かった。そういう人たちの話は、やたら面白い。
「昔、暴走族で特攻隊長やっててさ。これは他のチームと抗争したときのケガだよ」
そんな話が、当たり前みたいに出てくる。
「金を稼いでフィリピンでバーを開く。さっさと日本から出て行きたい」
そう言って笑う人もいる。仕事以外は酒を飲んでいるか、絵を描いているか。まるで画家みたいな生活をしている人もいた。日に焼けた顔、少しつぶれた鼻、汚れの残った手にはそれぞれが歩いてきた道のりがにじんでいた。
ユニフォームもヘルメットもくたびれていたけど、妙にその人の体に馴染んでいた。
幸せって、なんなんだろう。
同級生の「いつになったらまともな職に就くの?」って声が、頭の中で勝手に響く。
地元から同じ時期に上京した同級生がいる。進学せず先に就職した連中は、朝早くから夜遅くまであくせく働く。休日は打って変わって、ダラダラと過ごす。昼間から飲みに行って、友達と一日無駄話をして終わる。自分の大切な時間を、何の生産性もない形で消費しているのだ。そんな生活に、何の不満もない様子だった。
月に何度か、そいつらに誘われて居酒屋で飲むことがあった。行くのは、いつも決まって田舎にはないチェーン店だった。大してうまくもないのに、あいつらはそういう店を妙に好んだ。
通された席は狭くて、テーブルにはジョッキの水滴と油の跡が残っていた。揚げ物の油の匂いと、酔った声の熱で、店の中はずっと少しだけ息苦しかった。
「新聞配達?まだそんなことやってんの?」
「……やってるよ」
「いや、なんで?普通に働けばよくない?」
「普通に、って言われてもさ。新聞配達なら短い時間で稼げる。昼が空くんだよ。夜も遅くまで働く必要はない。その空いた時間で音楽をやる」
「音楽?まだやってんの?」
「やってる。そこを捨てたら、東京に来た意味がなくなる」
奴は、呆れたような、少し気味悪がるような顔をした。
「意味って……お前さ、現実見ろよ」
「現実って何だよ」
「会社だよ。朝から夜まで働いて、週末はデートするなり家族に時間を使うなり。みんなそうしてんじゃん」
「みんな、って」
「それがまともってことだろ。いつになったらまともな職に就くの?」
へらへらしながら、ギリギリを狙ってくる。怒って終わらせることができない、そのギリギリの線を。だから言葉だけが体に残る。
「昔はかっこよかったのに」
「将来不安だわ」
「かわいそう」
言い方は軽い。だけど中身は、ずっしり残る。
僕もずっと言われっぱなしだったわけじゃない。黙って飲み込んでたら、体の中が腐る。
「逆にさ」
グラスを置いて、ちゃんと目を見た。
「その生活、何が面白いの?」
でも、返ってくるのは答えじゃない。
「面白いとかじゃない」「当たり前」「大人になれ」——そんな言葉ばかりで、会話が成立しない。僕が何を言っても、彼らには響くものが何もなかった。
そのうち、僕は誘いを断るようになった。一緒に飲んで、一緒に喋っても、何も面白くない。僕の方から離れていった。
離れた理由は、それだけじゃない。彼らの言葉に、普通に傷ついていた。どのぐらいかというと、僕はその頃、鬱になっていた。
親から逃げて、やっと自由になれたと思って、自分の人生を歩き始めたのに、その自由ごと否定される。思えばこの頃、僕の考えや生き方を肯定する人は、誰一人いなかった。自由に生きようと立ち上がった瞬間、いろんな人間が平気で踏みつけてくる。それでも「僕は悪くない」と反発する。反発し続ける。——その構造が、心身ともに僕を疲れさせた。




