愛と平等
ここではアガペーを専門的な神学用語(神学的定義)として扱っておらず、私個人の一般的な感覚・解釈に基づいて扱っています。
そのアガペーの解釈ですが西洋の個人主義から見たものと日本の一般的な感覚から大きな違いが生じる可能性がございます。本稿は日本の一般的な感覚でしかも個人的なもので書かれている点をご了承ください。
「愛」という言葉がある、その言葉の定義としては「相手を思いやり、大事にする気持ち」と言ったところだろうか、これは人間が持つ普遍的な価値観と言って良いと思う。
いや、これは人間という枠に収まらない生物の自然な本能とも言えるものにさえ思える。
さすがに原始生物のようなものにまで適用は出来ないとは思うが、我が身を子に差し出して食べられる昆虫なども、ある種の『愛』と表しても差し支えはないだろう。
西洋のキリスト教の哲学では『愛』はエロス、フィリア、ストルゲー、そしてアガペーに分かれているが普遍的な愛をアガペーと捉えていいと思う。
ここで一つの問題が起こる。
「普遍的な愛とは平等な愛である」としたとき、それは愛と呼べるものなのか?という疑問だ。
それはどういう事かと言うとエロス(恋愛)、フィリア(友愛)、ストルゲー(家族愛)には愛を向ける(受けとる)『対象』が存在していることだ。
ところがこのアガペーは対象が曖昧でハッキリしない。強いて言うなら『みんな』である。
愛は対象者がいて初めて強く作用するものだと思う。
・エロス(恋愛)においては「君だけを誰よりも愛する」と愛の強さ、重さを持たせる。
・フィリア(友愛)においては「俺たち友だろお互い助け合おうぜ」と価値観、信念など共有し、そ価値観なでの中で絆(愛)を深める。
・ストルゲー(家族愛)は意識せずとも「大事にしたい」という自然な湧き起こりからくる衝動。
この三つは明らかな対象者がいるのに対し、アガペーは存在しない、いや、存在しないと言うよりは「対象者が多すぎて『対象者』と呼べるほど存在を特定出来なくなってしまう」と言った方が正確かも知れない。
これはエロスで考えると分かりやすいと思う。
あなたが恋人から「愛してる」と言われたとしよう、それによって有頂天にもなる気持ちになったとき、相手(恋人)が自分とは別の人に「愛してる」と言うような行為を目撃したらアナタはどう思うだろうか。
おそらく「裏切り者」「浮気者」などが浮かび相手の言った「愛」など微塵も信用ならないと思う。
実は相手はアガペーの行為を行っているだけだったりするのだ。
後にアガペーの行為だったことがわかったとしよう。しかし、実際のところとても自分に対する愛が本物に思えるはずがない。
頭で理解しても心で納得できないことはあるのだ。
このようにアガペーは他の三つの『愛』の構造を否定しかねないーー言い換えれば、自分という個を無価値化しかねないのだ。
このように『人間の愛』は二面性を持っている。
一つは対象者に向けての愛、これはその対象者に向ける“特別な”感情の爆発であり、対象者を最大限に推す衝動でもある。
もう一つは平等の愛、これは人類に向けた普遍的で特定の人物などに固定しない人間の“存在”のみを肯定(人権)そして否定(人の死)するようなもので、キリスト教的に言えば『神の愛』と言うべきものだろう。
ここでこのエッセイのタイトルでもある『愛と平等』をどう見るかである。
エロス、フィリア、ストルゲーのいう「愛」を言い換えるなら、これは『美しい差別』である。
だが、この差別は種を保存しようとする生物の本能と言っても良い、安易に否定するべきでは無い部類の差別だろう。
そしてアガペーの愛は『平等』であり、平等である以上『個』を無価値にし、人間性を除外し単純に“もの”とみなした『神の愛』と言えるのではないだろうか。
『美しい差別』という『愛』がなければ人間性を失い、『平等』という『愛』がなければ人間の存在する場所がなくなる。
『愛と平等』、言い換えるなら『差別と人間性の消失』ーーこの狭間で私たちは生きているのだろう。
感想は受け付けますが専門的神学的な見解の反論は返答にガチで困窮し、あっさり逃亡することは筆者の性格からして容易に考えられます。
そのことを了承・留意のほどよろしくお願いします。




