王女殿下は公爵令息をよしよししたい
勢いのまま一日で書き上げたので、誤字脱字諸々があるかと。一日仕上げでなくてもありますが。
「お前と婚約なんてしない!」
唐突に叫ばれるも、けれどロスヴィータは僅かに苦笑するに留め、読んでいた本を置いて大人にはなりきっていない青年を見上げる。
そうしてから立ち上がると、頓着の無い様子で両腕を広げた。
「なんだ。急に立ち上がったかと思えば、人間不信の発作か?
仕方ないな。ほら、よしよししてやるから、遠慮せずこっちに来るがいい」
途端に目の前の青年は驚きで目を見開き、次いで羞恥か顔を赤く染めていく。
まるで林檎のようだと思いながら、青年に近寄ろうとテーブルを回り込もうとする。
「破廉恥だ! お前、本当に王女かよ!」
こちらの腕を払いのけながら、憎々し気に言い返す青年はロスヴィータから逃げるように後ろへと一歩。
そのまま背を向けたかと思うと、部屋から走り去ってしまう。
婚約すらしていない相手とのお茶会なことから、扉は閉められることなく盛大に開けていたので、あっという間に青年の姿は消えていった。
青年の従者が慌てたようにロスヴィータに頭を下げると、追いかけるために走り去っていく。
いきなり起きた騒動は、何の解決もしないまま原因が逃げ出したことで、部屋の中は最初の静けさを取り戻した。
広げた両腕を見下ろし、それから自身の従者へと視線を向けながら、ロスヴィータはコテリと首を傾げる。
「なあ、これぐらいで破廉恥って言われたぞ。結構脈アリだと思わないか?」
「ザイフェルト公爵令息様は正しく良識を弁えており、対して王女殿下が欠片も恥じらいを持ち合わせていないだけです」
従者の辛辣な回答に笑みで答え、それから本の続きを読むかどうかを考えた後に、手紙の準備をするよう言い付ける。
「ザイフェルト公爵令息にですか?」
従者が尋ねてくるのは、宛先の確認の為ではない。
返事の一つもしない相手に、手紙を送るのかという問いであり、無礼者に対する対処を誤っていないかという見極めでもある。
ロスヴィータはこれにも笑みで返す。
「いいではないか。あれぐらい難易度が高い方が、やる気が出るというものさ。
ちょっと手を焼くくらい、可愛いものだろう」
それに、とロスヴィータは目を細める。
「それだけ思い入れが深い、愛情深い人間なのだろう。
今の状況を抜ければ、きっと良い王配になるさ」
「それは殿下次第かと」
従者の呆れた声色には、それでも仄かに柔らかな感情が滲む。
テーブルの上に置かれた便箋とペンとインク。
しっかりとした厚みの紙は指の滑りが良く、素材の上質さを伝えてくれるが、飾り枠すらないシンプルさは一国の王女が扱うにしては地味にも思える代物だ。
青年が別のことを思い出さないよう、友人同士のやり取りにすら使わないような無機質さは、くだらぬ過去のトリガーにならないようにと配慮されたもの。
さて、今日は何を書こうかと思いながら、ロスヴィータはペンを手に取った。
* * *
かつてアルドリック・ザイフェルトには、大事に想っていた婚約者がいた。
いや、いたと過去にするには受け入れられておらず、婚約を解消したのは昨日のことのようにだって思える。
幼い頃はお兄様と慕ってくれ、会うようになって少ししたら、相性も良いようだと婚約した一つ年下の伯爵令嬢クララ・リットマンだ。
まるで兄妹のようだと言われることも多かったが、どちらも貴族という立場の中でも比較的言いたいことを言い合える間柄だと思っていたし、実際誰よりも話しやすい相手であった。
ふわふわの柔らかなベージュの髪に、甘いお菓子を見つけるのが上手なチョコレート色の瞳。
少し甘ったれでワガママな、そんな彼女と結婚するのだと思っていたのに。
「アルドリック様、本日も王女殿下よりお手紙が届いております」
そう報告した従者が机に置いたのは白い封筒だ。
一見簡素なものだが、よく見れば模様が型抜きされた上質なものである。
以前は届いた手紙を読むのが楽しかった。
いつだって彼女が好む淡い花の色の封筒と便箋に、どこかで摘んだ色押し花が添えられて、勢いよく踊り出しそうな文字ながらも、日々を綴った永遠の日常だった過去。
今は封を開けるのすら億劫だ。
「後で読む」
「読むのは後でも構いませんが、今日こそは殿下にお返事を」
「返事もしないのに書いてくる。
届いているとわかれば十分だろう」
アルドリックの言葉に、従者が嘆息交じりの言葉を返す。
「書いた手紙の返事が届かない、苦しい時期を体験されたあなたが、同じことをしてどうされるのですか」
胸の深くに刺しこまれた正論に、思わず読んでいた本を取り落とし、慌てて拾い上げながら長い付き合いの従者を睨みつけた。
「あの時と状況が違う」
「確かに状況は違いましょう。
ですが、不誠実な対応をしているのは元婚約者様と同じです。
そして殿下は、アルドリック様と同じような境遇にいらっしゃっても、腐らずにいらっしゃいます」
目の前で起きた昼間の悪夢。
何度手紙を送ろうとも届かぬ返事。
それを思い出して黙り込むと、澄ました顔の従者が便箋やらペンやらを準備し始める。
「おい、待て。まだ書くなんて言っていないぞ」
アルドリックの拗ねた口振りに、横目でチラリと見た従者が微かに笑いを零す。
「アルドリック様の読まれている本は、先日王女殿下が読まれていたのと同じ作品ですよね。
感想を送るのにちょうどよいでしょう」
「そんなつもりで選んでいない!」
再び癇癪玉が破裂した声を気にせず、従者は用意を終えると昼下がりを迎えた部屋から出て行った。
従者が部屋を覗き込んだ時、本を横に置いてペンを握る若い主の姿に、安堵しながらお茶の支度でもしようと静かに扉を閉めたのは、暫く後のことだ。
* * *
「こうして晴れやかな陽射しに恵まれるとは。
さては、私の婚約者殿は強運の持ち主だな?」
快活な笑い声と同時に言われた、意味も分からぬ賞賛の言葉に、アルドリックは苦笑しながら手を差し出す。
「ほら、次は公園だろ? そんなペースじゃ日が暮れてしまうぞ」
照れ隠しかぶっきらぼうな物言いを気にせず、陽射しを遮る日傘をさしたロスヴィータが、そっと手を重ねる。
そうしてお忍びデートのつもりの二人が本屋を出て、花が咲き誇って見所らしい公園へと歩き出した。
周囲で隠れながら見守っている二人の従者と、他の護衛達が生温かい目で見守っているのも素知らぬ顔で。
結局のところ、どれだけアルドリックが過去を引き摺ろうとも、ロスヴィータとの婚約は避けて通れぬ道ではあったし、アルドリックだって理解していた。
ただ、どうしても信じることができなくて、不安で、不敬と知りながらも王女であるロスヴィータを試していただけだ。
本人には言っていないが、アルドリックの態度を真に受けず、そして義務による婚約だからと流しもしなかったことに感謝はしている。
二人の距離が縮まったきっかけは、ロスヴィータが読んでいた本が思いがけず面白かったことからだ。
古典文学であるそれは、高位貴族なら教養として学んでいるので読めるものだったが、冒険譚ともなれば人の好みが出てくる。
文体は堅苦しいくせに荒唐無稽な物語にグイグイと引き込まれ、気づけば感想を書いていた。
最後に「王女の癖に、なんてものを読んでいるんだ」という一言も添えて。
けれどロスヴィータは気にした様子も無く、同好の士ならば歓迎しようという一文と共に、同じ作家の本を貸してくれたのだ。
これがまた奇想天外な物語に引き込まれて瞬く間に読み終わり、気づけば次のお茶会では、双方が自慢の本を携えて登場することになった。
王女と公爵令息としては大変行儀の悪い、本への情熱から早口で語り合う二人は、気づけば持ってきた本を交換し、次の本を用意することを約束していたのだ。
そこからお茶会が開催される回数は増え、気づいた頃には気楽にものを言い合う仲になっていくのはすぐのこと。
勿論、他の参加者が姿を見せた時には、澄ました顔で他愛のない話をしていたが、立ち去った瞬間にテーブルの上へと本を出して語り合う。
それだけではない。
ロスヴィータに唆されて王城の池で魚釣りを楽しんだ時には、二人して怒られたものだ。
見つかった時には罪の擦り合いをしていたが、いざ怒られるとなると二人して庇い合った。
これといった大きな切っ掛けがあったわけではない。
ロスヴィータが根気よく向き合った結果であり、風変わりなロスヴィータを受け入れるだけの寛容さがアルドリックにあっただけだ。
ただ日々を重ねるだけの交流でも、積み重なるものだってある。
王家も公爵家もこれなら大丈夫だろうと胸を撫で下ろして、婚約に関係した書類に名前を書いたのは一月も前のこと。
今日の二人は下位貴族の令息と令嬢という設定でのお出かけだ。
デートコースも決められて、そこかしこに騎士や公爵家が手配した護衛やらが何食わぬ顔で潜んでいるので、間違ってもお忍びではない。
城を出る時も十分に注意していたし、城内にロスヴィータの影武者も立ててはいるが、やはり誰もが警戒する。
そんなこと知ったことではない二人は手に抱えた本について議論しながらも、鮮やかな景色に誘われるようにして花々へと目をやる。
周囲に無関係の一般市民は多いが、特に怪しそうな者もいない。
これは何事もなく外出が終われそうだと誰もが思う中、その平和は二人の視界に躍り出た少女によって崩されることになるのだった。
「アル!」
聞き慣れた声。
よく呼ばれていた愛称。
アルドリックを愛称で呼ぶ女性は限られている。
家族と、それから懐かしい思い出に変わったはずの少女だ。
ロスヴィータをエスコートしながら歩く道の数メートル先で、パステルブルーと白のストライプに彩られたワンピースのスカートが翻った。
奇しくも今日のロスヴィータの装いも、淡いバラ色に染まるストライプのドレスだ。
「クララ」
錆びて軋む音にも似た掠れた声のアルドリックを気にせず、その胸に飛び込もうとしたが、駆け寄るクララを制したのは隠れていた従者達だ。
間に入った従者の眼光の鋭さに、クララがたじろぐ。
「クララ・リットマン伯爵令嬢。こちらの方々は、貴女が声をかけて良い方々ではありません。
自身の愚行を思い返し、弁えなさい」
低く、冷酷さと僅かな怒りを潜ませた通告は、それが物質的な刃を持っていたら、クララの身に容赦なく刺さっていただろう。
けれど、クララは胸の前で指を組み合わせ、祈るような姿でアルドリックを見つめる。
「聞いて、アル。あの人は、ラースは私を利用していたの」
そう言ったクララの視線がアルドリックの横へと移る。
「王女様の婚約者でいるのが嫌で、婚約解消するために私は利用されていたのよ!」
ほろほろとクララの頬を伝い落ちていく透明な雫。
泣いていても可愛らしい、アルドリックの大切な、妹のような存在。
「私は騙されていたの。だからお願い、私の話を聞いて」
そっとアルドリックから手が離れる。
「ロスヴィータ」
引かれた手を目で追いかければ、クララから視線を離さないロスヴィータの横顔があった。
「婚約者殿の思うままに」
言葉少なに返されて、少し黙ってから再びロスヴィータを見る。
「少し話を聞くだけだから」
頷くだけで返したロスヴィータが、横目でアルドリックを見て、そうしてからゆっくりと視線を逸らした。
「婚約者殿がそうしたいのなら」
「彼女は妹のような存在だったから」
言い訳のように並べ立てたアルドリックの言葉に、ロスヴィータは唇の端を上げる。
「わかっておる」
返された言葉に安堵しながら、従者の横を通り抜けてクララの前に立った。
「アル」
ほろりと一つ涙を零した顔が、あっという間に満面の笑みを作る。
それはいつだって我儘が通った時に、クララが見せる笑みだ。
アルドリックのお菓子を欲しがって、譲ってもらったとき。
他の令嬢のドレスが可愛かったからと、それよりも豪華なドレスが欲しいと強請ったとき。
デビュタントの夜会で、よりによってロスヴィータの婚約者と意気投合して、強引に婚約破棄をしようとしたとき。
あの時と同じ笑みだ。
そんなクララを見て、アルドリックはこぶしを握り締めながら口を開いた。
「三分だけなら話を聞くから、さっさと言え」
え、という言葉がクララから漏れ、え、という言葉がアルドリックからも吐き出される。
「いや、だから話を聞いてほしいんだろ?
家族ぐるみの付き合いだった誼から仕方なく時間を取ったけれど、今は婚約者とデート中だから三分が精々だ」
「え、なんで三分、え」
身も蓋もないアルドリックの物言いに、クララの目が大きく見開かれて、同時に涙の存在が消え失せる。
「どう見ても、こっちは婚約者とデート中なのにふつうは気づくだろうが。
いつも空気が読めないと思っていたが、今日は特に酷いな」
「残り二分です」
アルドリックの態度から色々察したのか、従者が容赦なく過ぎる時間の残りを告げる。
「そんな、酷い……!」
泣き崩れながらアルドリックに縋ろうとするクララだったが、傾倒姿勢のまま止まった。
アルドリックが精一杯に腕を伸ばし、クララの頭を押し戻すように掴んだからだ。
なお、アルドリック本人は体を仰け反らせ、クララとの接触を全力で拒否している。
「ほら、ぐずぐずと泣いている暇があるなら言うこと言っておかないと、そろそろ時間切れになるぞ?」
同時に聞こえるロスヴィータの笑い声に、クララが羞恥で顔を赤く染める。
「なによ、その態度!アルのくせに!
地味なお兄ちゃん枠でも仕方ないって、こっちが我慢してあげているのに!」
怒りからか、クララの本音がぶちまけられても、アルドリックの表情が変わることはなかった。
「俺が地味な兄貴枠ならば、お前は見た目重視の生意気妹枠だろうが」
呆れの混じる声と同時に、「時間です」という従者の無情な通達が響き、それに合わせて数人の護衛がクララを取り押さえる。
「レディに手荒な真似をするなんて最低! 離しなさいよ!」
きいきいと喚くクララを見ながら、いつの間にかアルドリックの横に立っていたロスヴィータが日傘をクルリと回した。
「この娘をどうしようか?」
「彼女の立場に準じた扱いと、念のため、彼女の家に連絡だけ」
悩むことなく返されたアルドリックの言葉に、ロスヴィータも淡々と指示を出し、すぐに煩わしいだけの声は小さくなっていた。
「この調子だと、また誰か乱入しそうではあるし、今日のところは解散だな」
クララの声が聞こえなくなり、護衛達がまた姿を隠した頃、ロスヴィータが少し寂しそうに宣言する。
時間はまだまだあるが、クララの邪魔が入ったということは、もう一人、クララとの愛を宣言したロスヴィータの元婚約者も乱入してきそうだと判断したのだろう。
確かにこれ以上の騒動は避けたい。
僅かに眉尻を下げたロスヴィータの顔が、可愛いじゃないかとちょっぴり思いながら、視線を逸らしつつもぶっきらぼうに手を差し出す。
「喉が渇いたから、どこでもいいからお茶でも飲みたい」
途端に護衛の一人がガッツポーズをしながら茂みから飛び出して、一度盛大に転倒するも再び起き上がって走り出した。
王城まで知らせに行った仲間を見送りながら、他の護衛達は生温かい目で二人を見守る。
近くで見ていた従者達もやたらと頷き合いながら、「すぐに城内のどこか適当な場所を押さえます」と口にすれば、ロスヴィータがクララと遭遇する前に浮かべていた笑みに戻しながら再び手を重ねた。
* * *
牢の中、クララは親指の爪を噛んでいた。
幼い頃から怒りが我慢できなくなるとしていた癖だが、アルドリックと婚約してからは全くなかったものだ。
クララのいる部屋は狭いが、貴族牢であることから最低限の家具は完備され、寒くないようにと柵の前すぐに暖炉が誂えられている。
起毛のカーペットが石床を隠し、贅沢ではないが食事も三食出された。
机に何冊かの本を用意されていたが、読む気にはならない。
クララの身の内で燃え盛る怒りは、自身に不利益を生じる全てのことに向いている。
見た目は地味だけど、クララの我儘を何でも聞いてくれた兄のような存在。
だから彼なら婚約破棄したところで、クララを許して妹のように大事にしてくれると思っていたのに。
あの王女のせいだ。
婚約者から捨てられる王女だと馬鹿にしていた。
クララが捨てた男を婚約者にしかできない王女だと見下していた。
地位だけしかない女が、クララから有用なアルドリックを奪おうとするのだ。
伯爵令嬢であるクララが謹慎するという屈辱を味わわせておいて、なお。
王になろうという者が臣下に寛容でないなど、あってはならないことなのに。
それでもアルドリックのことだから、生家であるリットマン伯爵家には連絡しているはずだ。
じきに釈放されるだろう。
親が迎えに来たならば、アルドリックと王女の不遜な態度を伝え、公爵家に慰謝料を請求するように訴えよう。
クララを小さな屋敷に押し込めた両親もさすがに反省し、クララを伯爵家に連れて帰って、まずは公爵家と話し合うための手紙を送るはず。
そこまでしたら、次は女として自分より下の王女だ。
王家側は王女の婚約者を奪われたと勘違いしているが、クララは王女の婚約者を騙る男に騙された被害者でしかなく、金も地位も失った相手と添い遂げる気もない。
その辺りの誤解を解いて安心させ、アルドリックとの婚約解消を無かったことにしてもらうのだ。
そうすれば、必然的に王女の婚約は解消され、二度もクララから婚約者を奪われたと笑われることになる。
王家も名誉を失墜させる王女など不要だろう。
王位継承権は無効とされ、ああ、それならば弟王子の婚約者はどうだろうか。
久しぶりに会ったアルドリックは、やっぱり地味だった。
どこにでもある栗色の髪と、同じように国民の大半が持つ輝きの無い緑の瞳は、周囲の気を引くことさえできない、さえない外見だ。
それに比べて、弟王子は蜜を溶かしたような金と、確か淡い冬の空の瞳で綺麗だったはず。
とにもかくにも、先ずは両親に会うことだ。
手櫛で髪を整えて、悲しそうな表情を作るだけで、クララは自身が儚げな美少女になるのを知っている。
きっと慌てて会いにくる両親に掛ける言葉を考えながら、肌触りの良いベッドに腰掛ける。
小さな窓から見える景色の遠く向こう側、リットマン伯爵家では娘を除籍する手続きで奔走していると知らずに。
** *
「まったく、随分といらぬことをしてくれたものだ」
自身の執務室で、ロスヴィータは書類に目を通しながら、珍しく言葉を漏らす。
それを拾い上げた従者は手を動かすのを止めないまま、「とはいえ、無事に片付きましたね」と返事をする。
「終わりよければ、とは誰が言ったものやら」
手元の書類にさっと目を通して承認の名を入れる。
内容についてはリットマン伯爵家との話し合いの場で決めているが、何か書き足していないか疑うくらいの慎重さは必要だ。
事前に決めた通り、クララはリットマン伯爵家を除籍され、修道院に入れても反省は見込めないだろうからと、伯爵領外にいるという彼らの親戚の家に出されることになった。
あちらも娘がここまでの大事を起こすとは、少しも思っていなかったらしい。
そもそもの話、最初の婚約解消に至る「婚約破棄」という茶番劇については、自分達で始末するよう、クララの処断を伯爵家に任せたのだ。
誰も許していなければ、甘い罰で済ませていいなど言っていない。
善良な夫妻だとは思うが、貴族としては失格だ。
今更娘を切り捨てることで伯爵家自体に罰が及ばないよう奔走していたようだが、既に王家とザイフェルト公爵家の不興を買っている。
いずれは没落していくだろう。
「ザイフェルト公爵令息が知ったら、気にされるでしょうかね」
「情の深いところがあるから、知ったら暫くは落ち込むかもしれんな」
アルドリックも善良な人間の部類だ。
けれどリットマン伯爵夫妻と違うのは、貴族としての立場を自覚できているところだろう。
手を差し出したい気持ちを堪え、諭すことすら抑制し、きちんとクララに線引きができた。
「まあ、その時は一緒に部屋に籠って、本の世界にでも耽るさ。それか、よしよしでもしてやるかな」
懐かぬ猫のような婚約者は、最近だと挿絵の多い本や図鑑を見繕ってはロスヴィータの部屋を訪れる。
公務が終われば読もうと言って、公務の手伝いをしながら終わるのを待ってくれ、実に甲斐甲斐しく健気だ。
最近では両手を広げたロスヴィータを見て「破廉恥」とか言いながらも、ギュッと抱きしめてくるのでよしよしと撫でるのがマイブームである。
「早く結婚したい」
臆面もなく欲望を口に出し、従者に窘められる。
「後一年はお待ちください」
はいはい、と言ってロスヴィータはリットマン伯爵家に関わる書類を束ねると、それを承認済の箱に投げ入れた。




