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『グラズヘイム異界譚:羽音の王国』  作者: 南蛇井


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第一幕:群律の誕生 ― 羽音の戦術理論

朝の靄が、森の外縁をやわらかく包んでいた。

羽音郷の外れ――湿地と草原が入り混じる広大な平原。

光虫たちが漂うその空気は、まだ夜の名残をわずかに留め、

草の露がわずかに輝きを反射している。


足元には、緻密な幾何学模様の魔法陣。

音共鳴陣式レゾナンス・サークル》と呼ばれるその陣は、

空気の振動を魔力へと転化し、群体の意識を一つに束ねるためのものだ。

その周囲には、無数の虫たちが整然と待機していた。


黒く光る甲殻の重甲虫が、地を震わせるように翅を鳴らす。

その低音に重なるように、蝶の羽音が細く高く響き、

羽蟻たちが一定の間隔でリズムを刻んでいく。

――それはまるで、まだ始まっていない交響曲の“チューニング”のようだった。


中心に立つ二人の姿。

一人は、薄青の衣を纏った女――レイラ・フォン・グラズヘイム。

深界森の“虫契者”にして、羽音郷の創設者。

そしてその隣に立つのは、まだ年若い少女――マリア・ホーネット。


彼女は王国の名門出身でありながら、

その家名を棄て、この森に身を投じた弟子だった。

白金の髪をひとつに結び、貴族らしい凛とした立ち姿を崩さない。

だがその瞳には、かつての宮廷では見られなかった強い熱が宿っている。


マリアは周囲の虫たちを見渡した。

翅の微かな震え、魔力の揺らぎ、

それらすべてが――まるで“言葉”を持っているように感じられた。


「……先生、彼らは本当に、わたしたちの声を理解するのですか?」


問いかける声に、レイラは穏やかに微笑んだ。

彼女の指先が朝靄をなぞると、淡い光が走り、

音のような波が空気を震わせた。


「声ではないわ。――“波”で感じるの。

感情を響かせることで、彼らは答えるのよ。」


虫たちが、まるで応えるように一斉に羽を震わせた。

その音が、地を、空気を、そして心臓を打つ。

マリアの胸の鼓動が、その羽音とわずかに重なった。


彼女は息を吸い、目を閉じる。

世界のざわめきが遠のき、代わりにひとつの律動が胸の奥に生まれた。

それは命の音。

――“群れ”が奏でる、まだ名もない調べだった。


レイラの声が、その律に重なる。


「感じて。恐れずに。

あなたの呼吸が、この群れの“拍”になるの。」


その瞬間、マリアの魔力が小さく震え、

共鳴陣式の紋が淡く光を帯び始めた。

湿原の朝が、ひとつの旋律に染まりゆく。


――群律法、誕生の朝であった。


朝の靄がまだ地を覆う中、湿原の中央に広がる《音共鳴陣式》が淡く光を帯びていた。

その光は、まるで呼吸するように脈動しながら、周囲の虫たちの羽音と共鳴している。


レイラは陣の中心に立ち、静かにマリアへ視線を向けた。

彼女の声は、風に溶けるほど穏やかで、それでいて不思議な力を帯びていた。


「マリア。群律とは“命令”ではないの。

それは、音でつながる意識。心と魔力を、ひとつの旋律に整えるの。」


マリアはその言葉を胸の中で何度も繰り返しながら、前方の虫群を見つめた。

光虫が浮遊し、甲虫たちが列をなし、蝶が風に乗って舞っている。

それぞれが異なる羽音を持ちながら、どれも微妙に乱れていた。

――まるで、それぞれが異なる言葉を語ろうとしているように。


「音で……つながる……? でも、私の声は届かない。」


呟いた声に、レイラは小さく首を横に振った。

その瞳には確信の色が宿っている。


「声ではなく、“波”で感じるのよ。

感情を放つ。――優しく、けれど確かに。

ほら、息を合わせて。」


レイラは両手を胸の前で組み、静かに息を吸い込む。

次の瞬間、彼女の指先から淡い光が広がり、空気が細かく震えた。

その波動に呼応するように、虫たちの羽音が一斉に揃っていく。

低く、柔らかく、まるで遠い地の心臓が打つような律動。


マリアはその音を胸で感じながら、ゆっくりと目を閉じた。

風が頬を撫で、彼女の髪が微かに揺れる。

胸の奥で鼓動が響き、その拍が――羽音と重なる。


初めて、音が“自分の外”からではなく、

“内”から響いていることに気づいた。


息を合わせるたび、羽音が少しずつ澄んでいく。

甲虫の低音、蝶の細音、羽蟻の律動が重なり、ひとつの調べを形づくっていく。


レイラは静かに目を閉じたまま、微笑んだ。


「そう……それが“群律”の始まり。

あなたの心が、群れの中心に在る限り――彼らは応えるわ。」


マリアの頬を光が撫で、

その周囲で、虫たちが初めて“ひとつの音”を奏でた。


それはまだ小さな、しかし確かな命のハーモニーだった。


靄の中、風が流れを変える。

演習地に満ちていた羽音が、次第に不協和音を奏で始めた。


蝶の音が甲高く空を裂き、甲虫の低音が地を唸らせる。

羽蟻たちのリズムも乱れ、波のようにうねる魔力が空気を震わせた。

陣式の光が歪み、共鳴は崩壊の兆しを見せる。


「駄目……! 音がばらばらに……!」


マリアが苦しげに叫ぶ。

彼女の髪が風に舞い、魔力の奔流が身体の周囲で渦を巻く。

彼女の意識は虫たちへと伸ばされるが、掴もうとするたびに離れていく。

統べようとする力が、逆に波を乱していた。


レイラは一歩、前へ出る。

その瞳には、嵐の中にあっても微動だにしない光が宿っている。


「恐れないで。

群れは“統率”ではなく、“共感”で動く。

あなたが心で歌えば、彼らは聴くわ。」


マリアはその声を聞き、はっと息を止めた。

彼女は自らの胸に手を当て、閉じた瞳の奥で――

乱れた音を、ひとつずつ、心の中で拾い上げていく。


恐れ、焦り、そして願い。

そのすべてが胸の中で混ざり合い、ひとつの“音”となって震えた。


「……聞いて。私は、ここにいる。」


それは言葉ではなかった。

人の声を超えた、魂の“波”だった。


瞬間、空気が変わった。

湿原を覆う霧がわずかに揺れ、虫たちの翅が同時に震えた。


低音が地を這い、高音が空を満たす。

重なる振動が幾重にも広がり、まるで見えない水面に波紋が走るようだった。


一匹、二匹、十、百――。

羽音が重なり、響き、融合していく。


やがて、それは一つの旋律となった。

規律でも命令でもない、調和の音。

命と命が互いを感じ取り、共に呼吸する音。


陣式が光を強め、黄金と蒼の波がマリアの足元から広がった。

風が優しく流れ、湿地に差す朝の光が反射してきらめく。


レイラは静かに微笑む。


「そう……それが、“群律”の響きよ。」


マリアの肩が震えた。

彼女の頬に朝の光が触れ、微かに笑みがこぼれる。


その周囲で、虫たちが祝福するように舞い、

森全体が――ひとつの“楽器”のように、柔らかく鳴り始めた。


湿地を包む朝靄の向こう、光が震えた。

マリアの身体から、静かに、けれど確かな波が立ち上る。

それは熱ではなく音――目に見える、純粋な律動の光。


彼女の指先がかすかに動いた瞬間、空気が共鳴した。

淡い輪紋のような音波が指先から走り、

それに応えるように周囲の虫たちが一斉に翅を震わせる。


蝶が旋回し、甲虫が地を這い、羽蟻が列を成す。

それぞれが異なる生命でありながら、

ひとつの意思を持つ存在のように動き始めた。


その光景は、まるで“森が呼吸している”かのようだった。

朝靄が震え、草原が波打つ。

命が、ひとつの旋律に束ねられていく。


レイラ(囁くように):「……できたのね、マリア。

それが――“統率のコンダクト・サウンド”。

群律の心臓部よ。」


彼女の声には、驚きと、深い喜びが混じっていた。


マリアは息を荒げながらも、確かな笑みを浮かべる。

その瞳は、初めて何かを掴んだ者の光に満ちていた。


マリア:「命令ではなく……響かせる。

私は、“群れ”と共にある。」


その言葉に応えるように、虫たちの翅が一斉に鳴った。

音が風を導き、風が森を震わせ、森が空へと声を放つ。


羽音は旋律となり、天空へと昇る光の道を描いた。

無数の光虫がその軌跡を追い、空に円環を描く。

群れの中に、新たな律――群律の誕生――が刻まれた。


レイラはその光景を見上げながら、

まるで世界の深奥で響く心音を聴くように、そっと目を閉じた。


風の中に、彼女の声が溶ける。


「……森が、歌っている。」

夜明けの霧が晴れ、湿地の上に黄金の光が差し込む。

虫たちは静かに翅を休め、風の中に余韻の羽音だけが残っていた。

マリアの足元には、淡い光の紋が草を照らしている。

それは、群れと心を結んだ証――“群律”の印。


レイラはその光景を見つめながら、静かに息を吐いた。

彼女の胸の奥で、確かに何かが芽吹いたのを感じていた。

それはただの魔法ではない。

意志と意志が重なり合い、命と命が共鳴する、まったく新しい理。


──風が止み、遠くで光虫がひときわ明るく瞬いた。


ナレーション:

「その日、森にひとつの戦術が誕生した。

それは軍律ではなく、生命の調和を戦略に昇華した技。

群律法――後に大陸を震わせる“羽音の戦術”の原型である。」


朝の陽光が森を満たし、空を渡る羽音が一つの旋律となる。

その音は、まだ誰も知らない戦いの時代を告げていた。


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