表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『グラズヘイム異界譚:羽音の王国』  作者: 南蛇井


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

26/28

虫王の帰還 ― 再生と破壊の羽音

――その始まりは、ひとつの“沈黙”からだった。


群律戦争の終結からわずか十年。

世界の中心に聳えていた聖樹アルセイラが枯れたその日、

大地の鼓動は止まり、風さえも律を失った。


王国の地脈は崩壊し、空を流れていた魔力の潮が霧散する。

それは、まるで世界という楽曲から“音”が抜け落ちたような瞬間だった。


やがて、沈黙の隙間を縫うように――魔族の軍勢が地平から現れる。

黒い旗のもと、魂を燃やす獣たちが進軍を開始し、

王国の城壁都市は次々と陥落していった。


それは、もはや侵略ではなかった。

「終焉」という名の再編。

古い秩序が壊れ、新たな“拍”を求める戦い。


その只中に立つひとりの女がいた。


――レイラ・フォン・グラズヘイム。

羽音郷の学士にして、かつて封印儀式を生き延びた“魂律の継承者”。


彼女は人と虫が共に鳴る世界を提唱した。

だが王国の上層は、その思想を「異端」と断じた。

虫を“下等”とし、魂を分けて扱う彼らにとって、

レイラの言葉は秩序を壊す毒に他ならなかった。


追放。

沈黙。

そして孤独。


かつて聖樹が輝いていた森――今では黒い鱗粉が舞い、

羽音郷の虫たちは戦場の亡霊のように空を漂っている。


世界はもう、“命の律”を失いかけていた。

人も魔も虫も、ただ無音の拍の中で、

次の響きを待ち続けていた。


だがその中心に、

彼女の胸の奥には――まだ消えていない微かな音があった。


それは、かつて世界を繋いだ“羽音”の記憶。

そして、再び世界を呼び覚ますための、

最後の“拍”の予兆であった。



――それは、世界が再び“音”を失い始めた朝だった。


東の空を覆う黒雲の彼方から、無数の翼の影が迫る。

魔族の主力軍――彼らは炎でも刃でもなく、魂そのものを武器とする者たちだった。


その先陣をなすのは、“反羽音残滓アンチ・エコー”と呼ばれる兵器。

かつて封印地で散った魂の欠片を強制的に束ね、呪詛として放つ――

それは生命を殺すのではなく、“響きを奪う”攻撃だった。


王国軍は次々と沈黙した。

兵士たちは声を失い、指揮系統は途絶え、戦場にはただ風の音だけが残った。

その風さえ、どこか怯えているように聞こえた。


***


王都議会。

白金の円卓の上で、混乱と恐怖が交錯していた。


「魔族は“魂”を武器化している。群律の軍事転用以外に対抗策はない!」

「だが、群律技術は封印協定で禁じられていたはずだ!」

「禁じている場合か! このままでは王国そのものが――!」


声が飛び交う中、レイラ・フォン・グラズヘイムは静かに席を立った。

彼女の瞳には、議会の誰とも異なる“音”が宿っていた。


レイラ:「群律を武器にしても、世界の“律”は壊れるだけです。

     虫たちを支配するのではなく、共に鳴らす道を選ぶべきです。」


円卓の上に重い沈黙が落ちた。

だが、その沈黙は理解ではなく拒絶だった。


「虫に人の戦を任せるというのか? 理想論だ!」

「共鳴など幻想だ! 支配なき世界に秩序はない!」


レイラは何も言い返さなかった。

彼女はただ、掌を見つめていた――

その手のひらに、かつてロアが残した“黒い紋章石”が、静かに脈打っている。


***


数日後。


王都に“枯死宣告”が下った。

聖樹アルセイラ――王国の魔力循環を司る巨樹――が、完全に沈黙したのだ。


その枝葉は灰のように崩れ、空へと散った。

地脈は乾き、森の光は消える。

草花は枯れ、虫たちは飛ぶ力を失い、音のない世界が広がる。


レイラはその光景の前に立ち尽くした。

胸の奥で、微かに羽音が鳴る。


それはまるで、死にゆく世界が最後に残した呼吸のようだった。


レイラ(心の声):

「まだ……聴こえる。

 この世界は、終わってなんかいない――

 “再び鳴る時”を、待っているだけ……。」

――夜の森が、呼吸を止めた。


聖樹アルセイラの枯死から七日。

世界は沈黙に支配され、音はもはや“記憶”となっていた。

だがその静寂の奥、羽音郷の深淵では――

新しい律が、胎動を始めていた。


***


レイラは、かつて群律師として使っていた円環陣の中心に立っていた。

周囲を取り巻くのは、数百万の虫たち――

羽根の透光、体表の光沢、触角の震えが、まるで祈りのように彼女の周囲で共鳴していた。


レイラ:「……この声を、聴いて。

     あなたたちの中に眠る“拍”を、今ここに解き放つ。」


足元の陣がゆっくりと輝きを取り戻す。

それはもはや人の詠唱ではない。

群れそのものの呼吸が、儀式の詩となって世界を震わせていた。


禁術――変態召喚・真形態(Metamorphosis Summon – True Form)。


空気が裂ける。

重力が反転する。

レイラの背中から、透明な翅が生えた。

その翅は光ではなく“振動”そのものを纏い、

あらゆる音を共鳴に変える。


体表には、虫たちの神経紋様が浮かび上がる。

フェロモンの光が血潮のように流れ、

その身体は、人の形を保ちながらも、

すでに“個”を超えた群体存在へと進化していた。


レイラ:「――私はもう、一人ではない。」


虫たちの羽音が爆ぜる。

それは風でも音でもない――

存在の波。


彼女の周囲に、蜂、蝶、蛍、甲虫、無数の生命が陣を描く。

その中心に立つ彼女の名は、もはやレイラではなかった。



「その瞬間、“虫王レイラ=羽音体”が誕生した。

 それは人と虫、理性と本能、光と闇――

 あらゆる拍を統べる“律の化身”であった。」


***


同時刻、魔族軍が羽音郷へ突入を開始する。

魂兵と呼ばれる反羽音群が黒い雲のように押し寄せ、

森全体が呻き、震える。


だが、森の奥でひとつの光が走った。


翅が震え、空が裂ける。

無数の音波が空中を渦巻き、黒い群れを呑み込んでいく。

反羽音群の魂がひとつずつ分解され、

“無”ではなく“共鳴”の中へと還っていった。


レイラ(虫王体):「――帰れ、あなたたちもまた、この世界の音。」


***


森全域が共鳴する。

虫たちが一斉に羽ばたき、

夜空に巨大な波紋を描いた。


それは――羽音大合唱(Symphony of Resonance)。


空気そのものが音楽となり、

光が拍に合わせて脈動する。

遠く離れた都市の鐘が、封印地の石が、

失われた命たちの魂までもが、同じ律で震え始めた。



「破壊ではない。これは再調律。

 虫王レイラが奏でたのは、滅びの歌ではなく――

 生命が再び鳴り始めるための前奏曲だった。」


そして、空。

黒雲を突き破り、光が差す。

その光の中で、羽音が天に昇る。


まるで、世界そのものが“羽ばたく”かのように――。

――王都は燃えていた。


黒煙が天へと昇り、崩れた尖塔が悲鳴のように軋む。

魔族の軍勢は城壁を越え、魂兵の咆哮が夜を裂いていた。

人の祈りも、群律の詠唱も、すでに届かない。


だがその時、空が震えた。


風が逆流する。

黒雲を割って、無数の羽音が降り注いだ。

群れとなった虫たちが王都の上空を覆い、その中心から一つの存在が舞い降りる。


――虫王レイラ=羽音体。


翅が光を纏い、彼女の身体から柔らかな拍が放たれる。

それは戦の音ではない。

大地を呼び覚ます、命の律。


レイラ(虫王体):「聞いて……この世界は、まだ息をしている。」


彼女の背後で、虫王群が陣形を取る。

羽音が波となり、魔族の闇を押し返していく。

だが――敵の数はあまりに多い。

闇はなお王城を包み、聖樹アルセイラの枯れた根は動かない。


その時、声が響いた。


ルシア:「レイラ――あなたの音に、私の歌を重ねる!」


燃える瓦礫の上に、白い衣を纏った歌姫ルシアが立っていた。

その瞳には涙と光。

胸に手を当て、彼女は歌い始める。


――《ルミナ・アリア(Lumina Aria)》


それは、かつて群律塔で歌われた原初の調べ。

人の声と虫の羽音、魂と律の境界を越えて響く“純音”の詩。


レイラの羽音が共鳴する。

ルシアの声と溶け合い、天空に巨大な波紋を描く。

黒い雲が裂け、遠くで何かが呼吸を取り戻すような音がした。


――聖樹アルセイラ。


枯れ果てていた幹が、微かに光る。

地中深くで止まっていた魔力循環が動き出す。

根が脈動し、枝が震え、眩い新芽が夜空へと伸びる。


ナレーション:

「光は再び、大地を貫いた。

 それは秩序の再臨ではなく――生命の再誕であった。」


魔族の軍勢が崩れる。

魂兵たちは光に溶け、静かに大地へ還る。

人々が泣き、祈り、そして――歌った。

虫たちがそれに応え、羽音の合唱が広がる。


ルシアの歌が最高潮に達し、

レイラは王都の中央塔へと舞い上がった。

全身が光に包まれ、翅が音を放つ。


レイラ:「この拍を――すべての命に!」


空と大地がひとつになる。

虫、鳥、人、魂、樹、風。

すべてが同じ律で鳴き始めた。


――羽音と歌の大合唱。


聖樹の頂が輝き、王都を包むように黄金の波紋が広がる。

それは滅びの光ではなく、再生の光。

音が風に乗り、大陸中へと届いていく。



「虫王の羽音は、もはや恐怖の象徴ではなかった。

 それは生命が自らを再び見出した瞬間――

 “調和”ではなく、“共鳴”の奇跡だった。」


空には二つの光が浮かぶ。

白く輝く聖樹の光と、羽音の群れが描く黄金の円環。

それが重なり合い、ひとつの“命の拍”となって世界を包み込んだ。


――世界が再び、鳴り始めた。


――戦は終わった。


かつて焦土と化した王都に、今は草が芽吹いている。

崩れた塔の根元には新たな蔦が絡み、街を覆っていた灰は静かに光を反射していた。

聖樹アルセイラは再び緑の枝を伸ばし、その葉は微風と共に微かな羽音を奏でている。


王国は再建を始めた。

だが、それはかつての支配の秩序ではない。

人と虫、森と街――それらが互いを尊び、響き合う新たな“群律憲章”が制定された。

議会の広場に集う民の前で、ひとりの影が立ち上がる。


――レイラ・フォン・グラズヘイム。

もはや“異端”ではない。

彼女は人であり、虫王であり、世界の新たな“拍”そのものとなっていた。


広場の中央に、聖樹の若枝を模した演壇。

そこに立ち、レイラは静かに両手を掲げる。

背中の翅が光を反射し、無数の小さな羽虫たちが彼女の周囲を舞う。


レイラ:「我が王国は、森と羽音と共にある。

そして――虫と人の響き合いが、新たな世界の拍を刻む。」


彼女の声が空へと昇ると、羽虫たちがいっせいに飛び立つ。

金色の粉が風に乗り、広場を包む。

人々はそれを浴びながら、まるで聖歌に耳を澄ますように目を閉じた。


そのとき、空がわずかに揺らぐ。

朝の光の中――高空を掠めるように、黒い羽音の影が通り過ぎた。

それは恐怖ではなく、予兆。

この世界が再び、“変化”の律に触れようとしていることの兆し。


レイラはその影を見上げ、微笑む。


レイラ(心の声):「拍は終わらない。

音は、いつか次の拍へと渡される……。」


聖樹の葉がざわめき、風が森を渡る。

その風の中で、虫たちの羽音が混ざり合い、遠くまで響いていった。


――命の音。

それは世界が生きている証であり、

再び歩み始めた“調和と変化”の物語の序章だった。



「羽音は永遠に続く。

それは滅びの記憶ではなく、再生の拍。

世界は今日も、静かに――鳴っている。」


――《羽音の書 第4章 虫王の帰還 ― Fin》


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ