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『グラズヘイム異界譚:羽音の王国』  作者: 南蛇井


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闇契暴走 ― “魂の逆流

夜がまだ明けきらぬ王国の空に、黒い月の残光が浮かんでいた。

その光はもはや天のものではなく、地上の深い闇に引かれて脈打つ影のようだった。


空気はわずかに震えていた。

風のせいではない。

大地そのものが、見えない波に撓んでいた。

耳を澄ませば、どこからともなく“羽音”が聞こえる――だが、それは音ではなかった。

鼓膜を通らず、心の奥底を直接叩くような、無音の羽音。


人々はそれに気づかぬまま、夜の眠りの中で身をよじる。

夢の底で、名も知らぬ声が囁く。

「戻れ」と。

「響け」と。


それは世界そのものの呼吸が乱れた証――魂波の震源が、再び脈動を始めていた。


王都では塔の鐘が鳴りもせずに崩れ、森では木々がざわめきを止めた。

草の先端に宿った露が宙に浮かび、淡い光を放ちながら震える。

その光が、まるで空気そのものの律動を可視化しているかのように、一定の拍で明滅する。


――魂が、地上を離れようとしていた。


黒い月の下、王国全域がひとつの巨大な共鳴器と化していく。

空も大地も、命あるものも、死せるものも、すべてが同じ拍で脈打ち始める。


遠く、旧封印地――“無響の穴”を中心に。

そこから放たれる波が、世界を静かに、しかし確実に侵していった。


そして夜明け前の薄光の中で、人々の影が一瞬だけ薄れる。

肉体から魂が剥がれ、淡い羽根の光となって空へと浮かび上がる。


その瞬間、世界は息を止めた。

音も言葉もない。

ただ、すべての存在が同じ無音の旋律に包まれていた。


それは――破壊の前触れでも、救済の始まりでもなく、

“再調律”という名の、世界の目覚めだった。


――王都の朝は、沈黙から始まった。


最初に倒れたのは、市場の片隅にいた老商人だった。

彼は声を上げることもなく、ただ穏やかに目を閉じ、

次の瞬間、胸の上から一枚の光の羽がふわりと浮かび上がった。


それは小鳥の羽にも似ていたが、どこか――“生きていた”。

淡く脈打ちながら空へと舞い上がり、すぐに消えた。


誰かが悲鳴を上げる前に、次の者が倒れる。

それは伝染のようでもあり、祝福のようでもあった。


王都の大通りでは、兵士たちが剣を支えに立ち尽くし、

修道女が祈りの最中に静かに崩れ落ちる。

辺境の集落でも、森の奥の小屋でも――

同じ羽音が、同じ律で鳴り響いていた。


肉体はなお温もりを保ち、息をしている。

だが、魂はそこにいない。

浮かび上がった光の羽根が風に舞い、

空を覆うように集まり、薄い雲のような光の層を作っていく。


やがて、空そのものが揺らぎ始めた。

光と影が交互に脈打ち、

世界全体がひとつの巨大な鼓動の中にあるようだった。


――それは、苦しみのない一瞬だった。

誰もが痛みも恐れも失い、

ただ“鳴っている”という感覚だけが、残された。


だが、ナレーションが静かに告げる。


「魂が肉を離れるとき、世界は一瞬、すべての“痛み”から解放される。

 だがそれは安息ではなく――再構築への前兆だった。」


光の羽音が遠ざかるたびに、大地が微かに軋む。

その律動はやがて、破滅の拍へと変わっていくことを――

まだ誰も、知らなかった。


――大地が、息をしていた。


だがそれは、生き物の呼吸ではない。

世界そのものが、脈打ち、呻いていた。


かつて封印の中心だった“無響の穴”。

その底に、黒い月の残光がまだ沈んでいる。

空は裂け、地は反転し、

音と沈黙が入れ替わる異界のような空間。


ロアはその中央に立っていた。

胸に刻まれた黒い紋章が脈打ち、

彼の身体を通して、闇の波が世界へ放たれていく。


そのたびに、空気が歪み、森が軋む。

木々の葉は逆さに震え、

地面の影が光へと反転していく。


陣の外、レイラは膝をつきながらも詠唱を続けていた。

光の律――

それはいつも、癒しと秩序の象徴だったはずなのに。


彼女の放つ旋律は、音にならない。

放たれた瞬間に、裏返り、

まるで“闇の拍”に呑み込まれるように消えていく。


レイラ(震える声で):「ロア……このままじゃ、世界が……!」


その叫びに応じるように、ロアはゆっくりと顔を上げた。

瞳の奥には、光と闇が同時に燃えている。


ロア(苦しげに笑いながら):「理解してくれ、レイラ……これは破壊ではない。

 再調律だ――この世界を、もう一度正しい“拍”に戻すための……!」


その声は、二重に響いた。

ひとつは彼自身の声。

もうひとつは、世界の奥底から響くような“群律の声”。


レイラの胸の奥で、心臓がその声に共鳴する。

鼓動が乱れ、呼吸がうまくできない。

まるで、魂そのものが引きずり出されそうだった。


空に黒い波紋が広がる。

それは夜ではなく、“裏側の昼”。

かつての封印陣が、世界全体を覆いはじめる。


レイラ(息を詰めながら):「あなたは……自分を犠牲にしてまで、均衡を取ろうとしているの……?」

ロア(静かに):「犠牲ではない。これは……回帰だ。

 魂はもとより、光と闇の境など持たなかった。

 ただ――我々が“名付けて”しまっただけだ。」


その瞬間、陣の底から黒い波が吹き上がる。

レイラの詠唱が途切れ、

光の律が闇の旋律に完全に反転する。


世界の音が、一度、止まった。


そして――

“魂の逆流”が始まった。


――闇と光がせめぎ合う中心で、世界が軋んでいた。


陣の紋はもう原形を保てず、

大地の底から響く“魂の律”が、

悲鳴にも似た振動となって空間を裂いていた。


シオンは必死に補助陣を展開し、

崩壊する符をつなぎ合わせようと奔走する。

だが、群律そのものが反転してしまった今、

それは穴の空いた竪琴で旋律を奏でるようなものだった。


「だめだ……兄さんの律が……世界の根幹まで反転してる!」

シオンの声が掻き消される。

空間そのものが“音”を拒絶していた。


そのとき、ドロセアが静かに立ち上がった。

黒い羽音が彼女の髪を揺らす。

その目には、恐怖ではなく――覚悟が宿っていた。


ドロセア:「やはり……自由は制御できぬのね。

 けれど、だからこそ――この魂は、器として残す価値がある。」


レイラが息を呑む。

ドロセアの周囲に、淡い青白い光が広がり始める。

封印陣の符が、彼女の足元に集まっていく。


シオンが叫ぶ。

「ドロセア! その術は……自分の魂を核にする禁式だ!」


だが、彼女は振り返らなかった。

むしろ穏やかな微笑みさえ浮かべ、

手にした群律器を胸に押し当てる。


ドロセア:「禁忌なんて、誰が決めたのかしら。

 秩序? 光? ――そんなもののために、私は生きてきたわけじゃない。」


その声は柔らかく、しかし確かな響きを持っていた。


彼女は指先で空をなぞり、封印呪式を紡ぐ。

魂封陣法ソウル・シール・マトリクス”――

魂そのものを媒介に、世界の反律を押さえ込む最後の術。


レイラが駆け寄る。

「やめて、そんなことをしたら――!」


ドロセアは微笑みのまま、彼女を制した。


ドロセア:「貴女が生きて、見届けて。

 均衡とは、ただの調和ではない。

 “痛みと静寂の共鳴”なのよ。」


その瞬間、風が止まる。

闇と光が一点に集まり、ドロセアの身体を包み込む。

黒い羽音が舞い上がり、

彼女の姿が、音もなく“光”に溶けていった。


封印陣が咆哮する。

幾重もの紋が重なり合い、

暴走していた“魂契の波”がゆっくりと鎮まっていく。


空が一瞬、静寂に満たされる。

まるで世界が息を潜めたかのように――。


レイラは膝をつき、震える声で呟いた。

「ドロセア……あなたは、自由を……この形で選んだのね……」


封印陣の中央、

黒い光が一粒だけ残り、

淡く脈打っていた。


それは、彼女の魂の残響。

そして――まだ終わらぬ“均衡”の予兆だった。


――封印の光が、世界の裂け目を覆い始めていた。


無響の穴の中心、崩れかけた陣の上で、ロアは片膝をつく。

彼の周囲には、闇と光が渦を巻きながらせめぎ合い、

それらが触れ合うたびに“存在”の輪郭が削り取られていく。


黒い紋章が胸の奥で激しく脈打つ。

鼓動のたび、体がわずかに透けていく。

肉体が崩れるのではない。

魂そのものが、拍として分解されていくのだ。


レイラが叫ぶ。

「ロア――! もうやめて! あなたが消えてしまう!」


彼は顔を上げる。

その瞳には、もはや苦痛も迷いもなかった。

ただ、何かを見届けようとする静かな光が宿っていた。


ロア:「均衡は……まだ……不完全だ……

 この世界には……まだ“片拍”しか……ない……」


その声は風に溶け、

やがて、どこからともなく“二つの律”が応える。

ひとつは光の旋律――かつての群律の調べ。

もうひとつは闇の拍――彼が生み出した新たな律動。


それらが一瞬だけ重なり合い、

世界がかすかに震える。


次の瞬間、すべての音が――止んだ。


風も、炎も、命の気配すらも。

ただ静寂だけが、世界のすべてを包み込む。


レイラは立ち尽くし、目を閉じた。

頬を伝う涙が地に落ち、

その波紋さえも音を立てない。


封印が完了する。

光と闇の柱が収束し、空がゆっくりと閉じていく。

黒い月が沈み、無響の穴にただ一つ――

小さな黒い紋章石が残された。


ロアの姿は、もうどこにもなかった。


けれどその沈黙の奥で、

誰かがまだ、世界の拍を数えている気がした。

――世界は、ひとつの深い呼吸を終えたように静まり返っていた。


崩壊した陣の上に、シオンは膝をつく。

掌の中には、小さな黒い封印石。

それは冷たく、しかしどこかで微かに――脈打っていた。


彼の頬に、灰混じりの風が吹きつける。

視界の端では、封印陣の紋がまだかすかに明滅している。

それはまるで、消えきれぬ心臓の鼓動。

生の名残とも、闇の囁きともつかない震えだった。


レイラはゆっくりと立ち上がり、

崩れた空洞の天井――その向こうの空を見上げた。


黒い月の名残が、薄明の中に溶けていく。

代わりに、そこには**“逆光”のような白い輝き**が差していた。

夜明けではない。

光が闇の影を通して滲んだ、世界の裏側の朝だった。


風が止む。

空気の震えの奥で、かすかに羽音が響く。

それは幻聴のように柔らかく、

耳ではなく、魂の奥に届く音だった。


シオンが封印石を胸に抱きしめ、

低く呟く。


シオン:「兄さん……あなたは、まだ――この拍の中にいるのか。」


答えはない。

だが、沈黙の中で一度だけ――

“ドン”。


地の奥から、心臓のような音が鳴った。


レイラが息を呑み、

シオンが目を見開く。


陣の残光が一瞬、世界の輪郭を照らし、

その光がすぐに夜明けの空へと吸い込まれていく。


ナレーション:


「均衡とは、破壊と再生のあわいに生まれる“痛みの音”。

闇契は封じられた――

だが、その響きは、まだどこかで鳴っていた。」


――静寂。


風が、羽音の記憶を運び去る。

封印の地は再び眠りにつき、

世界は、新たな律を待つ。


そして画面はゆっくりと暗転。




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