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『グラズヘイム異界譚:羽音の王国』  作者: 南蛇井


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レイラとの再会

森は、ゆっくりと息を吹き返そうとしていた。

枝先に若葉が芽吹き、焦げた幹の隙間から新しい命が顔を覗かせている。

だがその緑の下には、まだ灰が眠っていた。


羽音庵――かつて群律の中心であり、祈りの音が絶えなかった場所。

今は崩れた礎石と焦げた柱の影だけが、風にかすかに軋んでいる。

そこに、ひとりの女がいた。


レイラ・ヴァレンティア。

封印戦ののち、彼女はほとんどの群律を失った。

その代償として、胸の奥に深い“静音”が刻まれている。

心の奥で常に響いていた羽音は、もう聴こえない。

耳を澄ましても、残るのは風の流れと、森の遠いざわめきだけ。


それでも、彼女はここを離れなかった。

焦土の中に残された群律器の残骸を拾い集め、

かつての調べを思い出すように、指で弦をなぞる。


音は出ない。

だが、空気がわずかに震え、彼女の指先にその名残が伝わる。

音のない世界でも、波は消えていなかった。


――封印戦から数日。

森の上を渡る風には、まだ“群律の残響”が漂っている。

それは祈りの名残であり、痛みの記憶でもあった。


レイラは瞳を閉じる。

風の震えが頬を撫で、遠くで枝葉が擦れ合う音がした。

それがまるで、沈黙の中に埋もれた旋律の欠片のように思えた。


彼女は小さく息を吐く。

「……まだ、聴こえる気がする。」


かつての音楽は失われた。

だが、その静けさの奥で、世界は確かに――まだ響いていた。


夕暮れの森は、金と灰のあわいに沈んでいた。

かすかな風が羽音庵の跡を渡り、崩れた柱の影を揺らす。

そこに座るレイラは、膝の上に壊れかけた竪琴を抱えていた。


弦は三本しか残っていない。

それでも彼女は指先でその欠けた音を探すように、静かに触れていく。

音は鳴らない。

ただ、指の腹に――震えだけが伝わった。

それはかつて無数の羽虫たちが奏でた群律の名残。

消え去った旋律の、最後の呼吸のような震えだった。


レイラは目を閉じる。

音のない世界の中で、彼女はなお、かつての調べを聴こうとしていた。


――そのとき。


背後の空気がふと沈む。

風が止まり、森のざわめきさえも消えた。

代わりに、何かが「在る」という確信だけが、空間の奥から押し寄せてくる。

それは音ではなく、律。

存在そのものが鳴動するような気配。


レイラはゆっくりと振り向いた。


そこに、ひとりの男が立っていた。


黒衣の裾が風にも揺れず、まるで影そのもののように静止している。

ロア・ノクターン。


かつて封印されたはずの彼。

その瞳には、光と闇が渦を巻いて共に瞬いていた。

片方は黎明のように淡く、もう片方は深淵のように暗い。


二つの極が、ひとつの人間の内に宿っている。

その姿はもはや人ではなく――“律”の化身。


レイラの胸の奥で、失われたはずの群律がかすかに共鳴した。

それは懐かしさではなく、恐れでもなく。

ただひとつ、世界が再び鳴り始める前触れのような震えだった。


「……あなた、まだ生きていたのね。」


夕光の名残が森を染める中、レイラの声は震えていた。

恐怖ではない。

それは、封印の夜から幾度となく夢で見た“終わらなかった問い”が、

いま目の前で形を取ったことへの戸惑いだった。


ロアは静かに微笑んだ。

その笑みには、人の温度があるようでいて――どこか遠い。


「生か死か――それを問うことに、どれほどの意味がある?」

その声は穏やかでありながら、深く、空気を震わせる響きを持っていた。

「私は今、“その間”に在る。」


レイラは眉を寄せた。

「封印の犠牲を忘れたの?

 あなたが生と死を曖昧にしたせいで、あの森は――」


言葉を遮るように、ロアはゆっくりと首を振った。

怒りも悔いもない。ただ、事実を見つめる者の静けさだけがあった。


「光が世界を治めるなら、闇はその隙間に自由を宿す。

 どちらかが欠ければ、存在は崩壊する。

 均衡こそ、世界を正しく奏でるための“調律”だ。」


その言葉が、レイラの胸の奥に触れる。

光の律に仕え、調和を信じ、戦を止めようとした日々――

それは彼女のすべてであり、同時に、多くを失わせた理想でもあった。


彼の声の奥に、かつて自分が追い求めた“真の群律”の響きが、

微かに、しかし確かに共鳴していた。


「……あなたはまだ、均衡を夢見ているのね。」

レイラの呟きは、拒絶とも理解ともつかぬ音色を帯びる。


ロアはわずかに目を細めた。

「夢ではない。魂と闇を一つに結ぶ――それが次の群律、“魂契ソウル・コンダクト”だ。」


風が二人の間を抜け、灰の葉を舞い上げた。

音のない森に、ただ二人の律だけが響いていた。


レイラの表情が、夕闇の中でゆらめいた。

拒絶の影と、理解の光――その狭間で、心が軋む音を立てている。


かつて信じた“群律”は、命を調和させるための理だった。

だが封印の戦いのあと、王国はそれを兵器とし、

光=秩序という名のもとで世界を統べ始めた。


王都に響く群律は、祈りの歌ではなく、命令の号令。

それが本当に生命を守る音なのか――

レイラは、ずっと心の奥で問い続けていた。


そんな彼女の迷いを見透かすように、ロアは静かに語る。


「闇は破壊ではない。」

彼の声は、風と共に森の奥へと溶けていく。

「光が照らしきれぬものを抱く、もう一つの器だ。」


その言葉は危うい。

だが、同時に――美しかった。


レイラは唇を震わせ、かすかに笑う。

「……あなたの言葉は、いつも危うい。

 でも――それでいて、美しい。」


ふたりの間に、音のない沈黙が流れた。

だがその沈黙こそが、いま最も純粋な“音楽”のように感じられた。


森の奥で、ひとつ、光虫が淡く瞬く。

それは、まるで世界が再び息をする瞬間のようだった。


ロアは静かに背を向けた。

その歩みは影のように淡く、けれど確かに“律”を刻んでいる。

死者の冷たさではなく、生命の裏側に宿る静かな拍動。


彼の声が、風の中で最後の残響として響いた。


「いずれ君も聴くだろう。

 光と闇が共に鳴る、真の群律を。」


言葉が森に溶け、空気が再び静まる。

レイラはただ、その背を見送っていた。


しばらくして、彼女は胸に手を当てる。

そこには確かに心臓の鼓動がある。

だが――そのさらに奥。

もうひとつ、かすかな震えが共鳴していた。


それは恐れだったのか。

それとも、理解の芽吹きだったのか。

答えはまだ、音にならない。


遠くで、夜風が枝を鳴らす。

その微かなざわめきが、まるで彼の残した律をなぞるように続く。


ナレーションが、静かに幕を下ろす。


「光に傷つき、闇に触れた者だけが、

 真の調和を知る。

 レイラの心に芽生えたそれは、まだ名もない“共鳴”だった。」


――羽音が消えた森の奥で、世界は次の調律へと息を潜めた。



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