代償と分岐 ― “沈黙の森の果て”
夜明けの光が、羽音郷の森を淡く照らしていた。
かつて無数の羽音が響き合い、命が交差していたこの地は、いまや半分が灰に沈んでいる。
中央には、ぽっかりと口を開けた“無響の穴”。
その周囲を境に、森は二つに割れていた。
東はまだ緑が息づき、微かな羽音が漂う。
だが西――黒く焦げた大地は、まるで世界そのものが音を拒んだかのように沈黙していた。
庵の中。
レイラは木製の机に寄りかかるように座り、薄い吐息を漏らした。
彼女の肌にはまだ光が残っているが、その指先は震えていた。
封印の代償で、群律を操るための“音核”――魔力の中心が大きく損なわれているのだ。
窓の外では、かつての仲間だった光虫たちが、静かに漂っている。
その数は少ない。
音の消えた森では、彼らさえも生き延びるのが難しい。
レイラ(心の声):「……羽音が消えると、世界はこんなにも静かになるのね。」
彼女の瞳が、遠くの空を見つめる。
そこには、黒と緑が交わる曖昧な境界線。
命と死、響きと沈黙――その狭間に、羽音郷はいま在る。
一方、森の外。
王国の再建軍が陣を張り、金属の足音が大地を踏み鳴らしていた。
群律士官として配属されたマリアが、部下に指示を飛ばしている。
彼女の胸には、王国の徽章とともに“群律技術局”の紋章が輝いていた。
マリア:「封印区画を第三防衛線に組み込んで。
森の再生波は安定してるけど、反律残響の監視は怠らないで。」
彼女の声は迷いがなかった。
だが、その横顔にはどこか影が宿る。
ナレーション:
「森は再び静けさを取り戻した。
だがその静けさは、命の安らぎではなく――音を失った世界の沈黙だった。」
レイラはその“静けさ”の中に、確かに聞こえた気がした。
――微かな、黒い羽音の残響を。
庵の扉が、朝靄の中で軋むように開いた。
湿った風とともに、かすかに金属の音が鳴る。
その音の主は、マリアだった。
白銀の軍服に包まれた身体。肩には新たな徽章――群律士官の紋章が淡く光を放っている。
その輝きは、どこか羽音郷の光虫を思わせながらも、同時に冷たく、整然としていた。
机に向かっていたレイラは、ゆっくりと顔を上げた。
一瞬、懐かしさが瞳に灯る。だが、すぐにそれは陰りに変わった。
「……来たのね、マリア。」
「はい、先生。」
マリアの声は、かつてのように澄んでいた。だが、その響きの奥に、鉄の律が混じっている。
「王都が群律の研究を正式に承認しました。」
彼女は誇らしげに報告した。
「これで、森の悲劇を繰り返さずに済みます!
群律を軍の力として管理すれば、暴走も防げるんです。」
レイラの瞳がわずかに揺れた。
「……それを、誰が奏でるの?」
マリアはきょとんとした顔をする。
「誰って……私たち群律士官が。民を守るために。」
レイラは静かに息を吐き、外の沈黙した森へ視線を移した。
「命の波を、軍の命令で鳴らすというの?」
その問いに、マリアは返す言葉を一瞬失う。
けれど、拳を握りしめて言い返した。
「守るためです。先生が命を懸けて守った、この羽音郷を――」
レイラはその姿を見つめ、ほんの少しだけ微笑んだ。
けれど、その笑みは悲しみに濡れていた。
「……その音が、人を守るために鳴るうちはいい。」
彼女の声は穏やかだったが、どこか決定的な響きを持っていた。
「けれど、誰かを傷つけるために鳴る日が来たら……」
マリアは唇を噛みしめる。
庵の中に、かすかな沈黙が落ちた。
その沈黙の中で、外の森が風に鳴る――まるで二人の心を隔てる“断音”のように。
ナレーション:
「師の理想と、弟子の使命。
音が交わることのない、ふたつの律。
その日、羽音郷の調べは再び――分かたれた。」
王国歴の記録に、その日は“群律陣式正式採用”と刻まれた。
祝典の鐘が王都中に響き渡り、人々はそれを“新時代の調べ”と呼んだ。
だが、森の民だけが知っていた――その音が、何を喰らって響いているのかを。
マリアは群律研究局の中央制御塔に立っていた。
制服は新調され、胸の徽章は黄金に輝いている。
その輝きは、かつてレイラから教わった“命の調和”の象徴のように見えた。
けれど、実験場の窓の向こうに広がる光景は、まるで別の世界だった。
群律陣式――それは森を包み込むほど巨大な魔導陣。
螺旋状の光が地表を這い、音の波紋が空を切り裂く。
美しい。だが、その美しさは“死”を内包していた。
「起動確認。群律波、安定域に入ります。」
助手の声が響く。マリアは無意識に息を呑んだ。
耳に届くのは、かつて森で聴いた羽音の旋律――
だが、その裏に、低く、冷たい“反音”が混ざっている。
地表が震えた。
実験区画の樹々が、一瞬、白く輝き――次の瞬間、灰となって崩れた。
虫たちが飛び立つこともなく、音もなく、ただ“消えていく”。
マリアは駆け寄り、指揮盤に手を伸ばす。
「出力を落として! 群律波の干渉が――!」
だが、制御盤の音声が冷たく答える。
《規定通り。安定稼働中》
光が止み、風が戻る。
だが、森はもう、沈黙していた。
マリアは膝をつき、土に触れた。
その指先に、かつてレイラと聴いた“命の波”はもうない。
そこにあるのは、整然と管理された――無音の秩序。
ナレーション:
「命のための音が、戦のための音へと変わっていく。
それは静かで、美しく、そして――致命的な旋律だった。」
マリアは立ち上がる。
遠く王都の方角で、群律兵団の試験演奏が鳴り響いていた。
その音は、完璧に調和していた。
――“生命”を必要としない、無機の調和として。
夜は深く、風は冷たい。
封印の戦いから、季節がひとつ巡ろうとしていた。
羽音郷の森はまだ半ば眠りの中にあり、月光さえも黒い枝の間で砕ける。
レイラは小さな庵の扉を静かに閉じた。
杖も、記録石も、もう手にはない。
封印の代償として群律の波を感じる力は失われ、声に宿っていた響きも薄れていた。
それでも彼女は、足を止めずに森の方角を見上げる。
その先に、まだ微かに残る“命のざわめき”があると信じて。
レイラ:「羽音は、命の歌だった……
いつから、戦の号令に変わってしまったの?」
その呟きは、風の中に溶け、どこへも届かない。
だが、森の奥底で眠る群れが一瞬だけ羽を震わせた。
まるで、答えの代わりに“音の記憶”を思い出すように。
――同じ夜。
遠く離れた王都・群律研究塔。
黒曜石のような装置の中心に、マリアが立っていた。
その姿は凛として、幼き頃の面影をほとんど残していない。
肩の徽章には“第一群律士官”の文字。
そして彼女の前には、完璧に組まれた巨大な群律中枢装置。
マリア(小さく):「でも先生……守るためには――音を鳴らすしかないのです。」
指先が操作盤に触れる。
瞬間、群律装置が起動。
無数の光の線が空へと走り、王都の上空に光の陣が咲いた。
その音は、どこまでも澄み渡る――人工の調和。
だがその光の下で、花弁がひとつ、黒く崩れ落ちる。
街路の草が、音もなく枯れ始めていた。
ナレーション:
「ひとつの調べが終わり、ふたつの羽音が別々の空へ散った。
ひとつは命を守るために、もうひとつは命の意味を問い続けながら。
そして、世界は再び――沈黙と響きの狭間へと向かっていった。」




