闇の予兆
沈黙の夜から、すでに数日が経っていた。
羽音郷の森は、いまも息を潜めたままだ。
風は吹かず、葉は揺れず、
かつて世界を満たしていた生命の調べは――音を失っていた。
森の上空を薄い霧が覆い、朝日でさえ届かない。
かすかに聞こえる羽音は、まるで迷子のように震えている。
それは命の証ではなく、ただの残響。
羽音郷そのものが、まだ“夜の静寂”の中に閉じ込められていた。
庵の中。
レイラ・グラズヘイムは、机の上に並べた記録石を見つめていた。
魔導器に浮かぶ波形は、彼女の知る“群律”とは異なる。
規則の中に、わずかに混じる“歪み”――
まるで音が、どこか別の次元から干渉を受けているかのようだった。
「群律の周期が……ズレている。」
彼女は震える指で、波形のピークをなぞる。
光が一瞬、黒く濁った。
まるで、波そのものが“影”を持っているように。
(レイラ・心の声)
「微細な反位相が、まだこの地に残ってる……。」
沈黙の夜に滅びたはずの反羽音。
それは確かに、彼女の目の前で脈動していた。
記録石の表面を、見えない波が撫でていく。
光と闇が交互に点滅し、音なき“鼓動”が空気を震わせた。
レイラはゆっくりと目を閉じる。
その耳には、もう一度――あの夜の“裏返った羽音”が、蘇っていた。
「まだ……終わっていないのね。」
庵の外では、ひとひらの黒い翅が、静かに霧の中を舞っていた。
沈黙の中で、記録石がかすかに震えた。
机の上に置かれた透明な結晶の奥で、淡い光が脈打つ。
それは生命の輝きではなく――冷たい、黒の脈動。
音は、ない。
だが、空気がざらついた。
肌を撫でる感覚が、まるで“逆流する呼吸”のように不自然だ。
庵の壁がきしみ、棚の上に並ぶ標本瓶が微かに共鳴した。
瓶の中で眠っていた光虫の翅が、ひとりでに震える。
その羽ばたきは、光を放つ代わりに、かすかな影を生んだ。
部屋の明かりが、音もなく沈む。
レイラ(息を呑みながら):「……呼吸している。
世界そのものが、まだ“反共鳴”を続けてるのね。」
彼女の声は、震えを隠せていなかった。
沈黙の夜に封じたはずの“死の律”が、なおも息づいている。
それは静寂の奥で、再び形を得ようとしていた。
レイラは筆を取り、手元の記録帳を開く。
ページの上に震える文字が、淡い灯りの中で滲む。
『群律異常報告・第零式:負共鳴波
― 沈黙の夜以降、自然界に未知の律動が残存。』
筆先を走らせる手が止まる。
その瞬間、インク壺の表面が“波立った”。
筆の先端から、ぽたり――と黒い雫が落ちる。
紙に広がる黒の染み。
それは、まるで闇そのものが文字へと溶け込んだようだった。
染みはじわりと広がり、波形のように震え、
まるで“何か”が、そこから見つめ返しているように見えた。
レイラ(心の声):「……これは、ただの残響じゃない。
“呼吸”してる――まるで、生きている波。」
庵の奥、記録石の表面に一瞬だけ浮かぶ、黒い紋。
それは――あの夜、ロアの杖に刻まれていた“反律の印”と同じ形だった。
窓の外が、ふと光を帯びた。
薄闇の森に、夜明けの息吹が差し込む。
庵の外では、無数の光虫たちが静かに舞い上がっていた。
彼らの羽音は、ようやく戻りつつある“生命の調べ”。
沈黙の夜以来、初めて森が小さく息を吹き返していた。
レイラは筆を置き、窓辺に歩み寄る。
青白い朝霧の向こう――群れが空に円を描きながら昇っていく。
その光の中心に、ひとつだけ異質な影があった。
それは黒。
漆黒の翅を持つ、たった一匹の虫。
光の群れの中で、逆光のように羽ばたき、
まるで**“死の調べ”の再誕**を告げるかのように舞っていた。
レイラ(心の声):「……まだ、終わっていない。」
呟きと同時に、机の上の記録石が淡く鳴動した。
結晶の中に走る波形が、ひとりでにうねり始める。
表示された光の線――その端に、これまで存在しなかった符号が現れた。
それは“群律”でも、“反羽音”でもない。
正も負も交わらぬ、第三の波。
新たな律が、世界の底で“息を始めた”ことを示していた。
レイラ(息を詰めながら):「これは……新しい調律……?」
窓から吹き込んだ風が庵を通り抜け、
棚に積まれた書簡がばらりとめくれる。
その紙の束の中、最後のページだけが静かに開いた。
黒いインクが淡く光り、
古びた羊皮紙に、ひとつの語が浮かび上がる。
『再律』
レイラの瞳が、その言葉を映す。
外の空では、黒い翅が最後の一度だけ羽ばたき、光の彼方へと消えた。
その瞬間――森の奥で、誰も知らぬ“新しい羽音”が生まれた。
章間ナレーション:闇に生まれた第二の羽音
羽音が生を奏でるなら、
反羽音は死を謳う。
光と影。
響きと沈黙。
その二つの律が交わる時、
世界は静かに、新たな調律を求め始める。
沈黙を取り戻したはずの森。
だがその深奥では、
まだ微かな“音の種”が息づいていた。
霧の中、ひとつの翅が震える。
それは、光ではなく影の色。
黒い翅が夜明けの風を切り、
誰にも聞こえぬ第三の旋律を紡ぎ始める。
「これは、“生命の音楽”の裏面。
闇に生まれた――第二の羽音の物語である。」




