邂逅 ― レイラとロア
夜の底で、森の心臓が静かに腐っていた。
枯樹の根下洞――《ルート・サンクタム》。
かつて羽音郷を潤し、生命の律を世界へと流していた巨樹の根は、いまや異形の姿を晒している。
無数の根が黒く膨張し、脈動する管のように大地を這い、腐蝕した魔素を吐き出しては、空気を濁らせていた。
滴る黒露が、天井から静かに落ちる。
その雫が地を打つたび、音は吸い込まれ、世界から一瞬の“間”が奪われる。
まるで、空間そのものが呼吸を忘れたかのようだった。
微かに、低い反響が鳴る。
それは波ではなく――逆流する音。
羽音郷の生命の旋律がここまで届くことはない。
ここに満ちているのは、ただ“音の裏側”の静寂。
中央の岩盤には、黒い陣が広がっていた。
それは魔導陣ではなく、根そのものが変質して描いた有機的な紋。
その中心に、一人の男がいた。
ロア・ノクターン。
白髪は煤のように色を失い、黒衣は塵と灰で覆われている。
だが、その瞳だけはかつての哲学者の輝きを宿していた――狂気と確信の狭間に光る、探求者の眼。
周囲を包むのは、黒い羽音の波。
その律が静かに脈打ち、枯れた空洞全体を支配している。
ここが、反羽音群の心臓部。
ロアが“命の裏側”を見つけた果て、世界の理が歪み、
羽音の調べが“死の音”へと変わった場所だった。
レイラは、震える指先で波動観測器の針を見つめた。
針は限界を越えた周波数を示し、金属音を立てて震えている。
森の奥――“黒域”の中心。そこに、異常波の源がある。
彼女は深く息を吸い込み、枯れた根の迷路をくぐり抜けた。
かつて聖域と呼ばれたこの地は、いまや黒い腐蝕に満ちている。
根の表皮はひび割れ、そこから滴る黒露が、足元の岩肌を焦がしていた。
そして、洞窟の中央。
朽ちた大樹の心臓部に――彼がいた。
ロア・ノクターン。
白髪は煤にまみれ、痩せた頬にはかつての威厳の残響がわずかに見える。
だが、その背後に蠢く黒い群れが、彼がもう“人”ではないことを告げていた。
無数の虫の影が呼吸のように膨らみ、縮み、洞窟の空気そのものを震わせる。
音が――逆さに流れていた。
レイラは杖を握りしめ、低く問いかける。
その声は、恐怖よりも痛みに近かった。
レイラ:「ロア……あなた、命を“逆さま”にしたのね。」
ロアはゆっくりと顔を上げ、かつて教壇で講義していた時のように、穏やかに微笑んだ。
だが、その微笑みの奥にあるのは、理想ではなく、完成した狂気。
ロア:「君の“羽音”が、すべての始まりだった。
生命を共鳴でつなぎ、死さえ調和の中に取り込もうとした――美しい理論だ。
だが、君は知らなかった。“共鳴”の裏に、必ず“反響”があることを。」
レイラの瞳が揺れる。
ロアの声には、懐かしい理知の響きが混じっていた。
狂気と知性――その境界が、いまや見分けられないほどに溶け合っている。
ロア(微笑しながら):「ならば、私の“反羽音”が世界を終わらせる。」
黒い虫たちが一斉に羽ばたいた。
洞窟全体が低く唸り、まるで森そのものが逆再生されるかのように音が歪む。
その中心で、レイラは息を呑み――かつての友を見つめ返した。
レイラは、静かに息を整えた。
目の前に立つロアは、もはや学者ではない。
だが、その瞳の奥に残る光は――かつて共に追い求めた理論の、名残だった。
彼女の胸に、遠い記憶が蘇る。
王立魔導院の研究室。
夜更けまで交わした議論。
命の波動、魂の構造、そして――「音で世界を測る」という夢。
その夢の果てに、彼は辿り着いてしまったのだ。
“命の反位相”という禁忌の理へ。
レイラは唇を噛み、問いを投げる。
レイラ:「命を反転させても、それは“命”じゃない。
それは……響きの残骸よ。」
ロアはゆっくりと微笑んだ。
それは、かつて彼が学生に講義を始める前の、あの穏やかな表情に酷似していた。
ロア:「違うよ、レイラ。死は“終わり”ではない。
音が空に消えても、波はどこかで反射している。
魂も同じだ――ただ、形を変えて在るだけだ。」
彼は黒い群れを見上げる。
無数の反羽音群が、まるで天井に逆さに張り付いた星のように脈打っていた。
その一つ一つが、かつて命だったものの反響。
ロア:「君の“群律”が“調和”を描いたなら、
私はその**対位**を奏でよう。
世界の片面を君が担い、もう片面を私が担う。
それが、真の共鳴だ。」
レイラの表情が険しくなる。
その言葉には、破壊ではなく――創造の意志があった。
狂気の奥で、彼はまだ「理想」を追い続けている。
ロア:「命が無限に反響し、消滅も再生も区別されぬ世界こそ――
**神の構築**だ。
生も死も区別されぬ、完全な波の世界。
そこで、すべての音は永遠に鳴り続ける。」
レイラは、震える声で呟く。
レイラ:「それは……命の永遠じゃない。
それは“終わりのない死”よ。」
沈黙が、ふたりの間に落ちた。
ただ、反羽音群の低い唸りだけが――森の奥で、世界の秩序を軋ませていた。
ロアがゆっくりと杖を掲げた。
その動きに呼応するように、根の洞窟全体がうねり始める。
黒い壁が液体のように震え、反羽音群が蠢きながら共鳴を起こした。
低く、鈍く、空気の底を這うような音――それは“死そのものの旋律”だった。
ロア:「聴け、レイラ。これが――“反共鳴”の完成形だ。」
音ではない音が、世界を満たす。
空気が歪み、光がねじれ、根の内側に黒い波紋が広がった。
レイラは咄嗟に防御陣式を展開する。
手のひらの上に、淡い蒼光の魔法陣が咲いた――しかし、それが形成される前に。
──世界が裏返った。
空間の波形が反転し、陣の線が闇に溶けていく。
共鳴陣式が“反位相”を喰らい、瞬時に崩壊した。
レイラの身体に、圧倒的な反動が襲いかかる。
レイラ(苦悶しながら):「……音が……逆流してる……!
まるで、世界そのものが――反射してる……!」
彼女の耳の奥に、悲鳴にも似た羽音が押し寄せた。
光蟲たちの鳴き声が悲痛な歪みを帯び、ひとつ、またひとつと音を失っていく。
空中を漂う光が、灰のように砕け散った。
ロア(静かに):「美しいだろう? これが、**死の調和**だ。
生は死へと移り、死は生を包む。
それは破壊ではない――完全な“対称”だ。」
レイラは膝をつき、崩れかけた陣式の残光に手を伸ばした。
掌の上で、微かに光る“生の波”がまだ息をしていた。
彼女は歯を食いしばり、震える声で呟く。
レイラ:「……それでも……音は死なない。
波が途絶えても、心が響く限り――命は続くのよ……!」
その瞬間、ふたりの波がぶつかり合った。
生と死、共鳴と反共鳴――
二つの律が絡み合い、森の根の底で、世界そのものが震える音が響き渡った。
ロアは崩れかけた根の洞の中心に立ち、両手を広げた。
闇が彼の身体を撫で、空気が重く沈む。
その背後で、黒い群体が蠢き、やがて一つの巨大な“影の翼”を形成する。
それは光を拒絶し、夜そのものを形にしたような存在だった。
ロア:「見よ、レイラ。
君が“命を束ねた”ように、私は“死を束ねる”。
二つの律が揃って、世界は――**完全な音楽**になるのだ。」
彼の声は穏やかで、それがなおさら恐ろしかった。
言葉が波動となり、空間そのものを震わせる。
レイラは崩れゆく森を見渡した。
根が崩れ、木々が音もなく折れ、虫たちの羽音が消えていく。
レイラ(悲嘆の声で):「それは、調和じゃない……!
あなたが奏でているのは――**沈黙の支配**よ!」
その叫びが届く前に、反羽音群が吠えた。
空気が切り裂かれ、世界から“音”が失われる。
葉の擦れる音も、風の流れる音も、全てが吸い込まれていった。
残ったのは、ただ低く脈打つ“闇の律動”だけ。
ロアは目を閉じ、まるで祈るように呟いた。
ロア:「ようやく――始まるのだ。」
闇の翼が大地を覆い、森の根全体が震動する。
光が消え、生命の気配が凍る。
その奥底で、確かに“何か”が鼓動を始めていた。
章間ナレーション
「その夜、森の根にて二つの理が交わった。
生を導く“羽音”と、死を喚ぶ“反羽音”。
それは世界の双極――共鳴と反共鳴の出会い。
そしてその震えが、やがて大陸全土を包む“群律戦争”の
第一の震動となった。」




