反羽音の誕生 ― 闇の律動
夜の森は、まるで世界そのものが息を潜めていた。
羽音郷の外縁――“沈黙の境界”と呼ばれるその地帯は、
ふだんなら光蟲たちの微かな囁きで満ちているはずだった。
けれど今夜、その音は途絶えていた。
群れの光はまだ漂っている。
だが、それは生命の輝きというより、
冷たく、ゆらめく残光のように見えた。
まるで森そのものが、どこか遠くから届く夢を見ているかのようだった。
葉の裏に潜む虫たちは羽を閉じ、
風の流れすら止まったように動かない。
夜気には湿った重さがあり、
吐息のたびに、冷えた霧が肌を撫でていく。
空を覆う雲は厚く、月明かりは届かない。
だがそれ以上に不気味なのは――
その暗さの底に漂う、言葉にできない“黒い気配”だった。
目には見えぬ霧が森を包み、
まるで空間そのものが“音”を吸い取っていくように、
あらゆる響きが、次第に沈黙へと溶けていく。
ナレーション:
「その夜、森は呼吸を忘れた。
光が止まり、羽音が沈黙に溶けた。」
その瞬間、遠くでかすかな震えが響いた。
それは風ではなく、命でもなく――
“何かが音の奥で、目を覚まそうとしている”気配だった。
マリアは足を止めた。
森を渡る風が頬を撫でる――だが、その風が運ぶ“音”が違っていた。
羽音郷の森は、夜になればいつも柔らかな旋律で満たされる。
無数の羽が重なり、光の粒が舞うような、生命の調べ。
けれど今夜、その響きには温度がなかった。
聞こえるのに、何も“感じない”――
それはまるで、生を模した虚ろな音。
マリア:「……先生、聞こえますか? この羽音……温度がない。」
隣を歩くレイラが目を細め、
森の奥に向かって耳を澄ませる。
その表情が、わずかに険しくなった。
レイラ:「群れの調律域が歪んでいる。
まるで“波形が反転”してる……?」
ふいに、空気が震えた。
大地の下から、何かが“共鳴”とは異なる力で脈打つ。
音ではない――それは“音の裏側”だ。
羽音が静まり、森全体が吸い込まれるように沈黙したかと思うと、
次の瞬間、冷たい圧が押し寄せた。
木々が一斉にざわめき、枝葉が震える。
夜霧の中で、光の欠片が黒く滲み、
その隙間を這うように――影が蠢いた。
形は、虫。
だがそれは光を持たず、
羽ばたくたびに“音を奪う”。
マリア(震える声で):「先生……あれは……生きてない……!」
レイラは無言のまま杖を構えた。
その瞳に映るのは、
命の調べを逆位相で蝕む――“反羽音”の胎動だった。
地面が、低く呻いた。
ひび割れた大地の隙間から、黒い液体のような影が滲み出す。
それはゆっくりと蠢き、やがて――形を持った。
翅。
脚。
触角。
だが、その全てが闇に溶けている。
かつては羽音郷を照らしていた光虫たち――
今、彼らの身を包むのは光ではなく、影だった。
その翅が震えるたび、夜気が軋み、音そのものが裏返るように歪む。
レイラ:「……反響してる。いいえ――“反相”してるわ。」
その羽音は“音”ではなく、“欠落”だった。
響くたび、空気に宿る“生の波”が削ぎ取られていく。
森の律動が、少しずつ、確実に失われていくのが分かる。
マリア:「先生……この音、まるで――“死んだ命”が鳴いてる。」
レイラ:「そんなはずが……これは、生態音の“鏡像”よ。」
マリアの足元で、光蟲が一匹、羽を震わせながら落ちた。
続いて、二匹、三匹――
触れた瞬間にその光を失い、地に伏す。
“反羽音”が触れるたび、命の律動が消えていく。
森の呼吸が止まり、夜の温度が凍る。
その中心で、黒い群体はゆっくりと姿を伸ばしていった。
まるで――この森そのものを、喰らおうとしているかのように。
マリアは杖を構え、呼吸を整えた。
胸の奥に灯る律を――群れの音を――呼び起こす。
マリア:「群律、展開――共鳴陣形・螺旋の律――!」
だが、光が立ち上るよりも早く、空気が“軋む音”を上げた。
放たれた波が、途中で霧のように掻き消える。
まるで、何かに打ち消されたかのように。
マリア:「律が……響かない?! 共鳴が、消えていく……!」
その瞬間、耳の奥にノイズが走った。
バルドの声が、通信魔導石の向こうから飛び込んでくる。
バルド(通信越しに):「マリア、後退しろ! それは群律に“反応する”波だ!
お前の音を――“逆位”で喰ってる!」
マリアは息を呑んだ。
目の前の黒い群体が、まるで一つの意志で動き出す。
翅の震えが整列し、暗黒の陣形を組む。
それは、群律そのものの模倣だった。
マリア(震える声で):「……彼ら、学んでいる……?」
群れは、音を“聴いて”いる。
そして――それを“逆算”して、同じ波で打ち消してくる。
森が沈黙した。
風が止み、草のざわめきが消え、
虫たちの羽音さえ、ひとつ残らず奪われていく。
夜の底に残るのは、ただ――“反羽音”の低い震えだけ。
生の音を呑み込みながら、闇の律が支配を広げていく。
レイラの森が、ゆっくりと死の静寂へと沈んでいった。
夜が、完全に“音”を失った。
空気の粒ひとつさえ震えを止めたその静寂の中で、マリアは唇を噛む。
彼女の胸に響くのは、自分の鼓動と――微かに滲む、冷たい波の気配。
マリア:「これは……律ではない。
音の“死骸”が鳴ってる。」
その言葉は、冷気のように夜を裂いた。
遠く、羽音郷の中央塔。
レイラは観測器の前で硬直していた。
水晶板に刻まれた振動波形――通常なら滑らかな弧を描くはずの共鳴波が、
今は上下反転し、負の領域へと沈んでいる。
レイラ:「この波は……“命の逆位”。
誰かが――反共鳴の陣式を発動させたのね……。」
声が震えた。
モニター越しに伝わるその波動は、まるで世界の裏面が鳴っているかのようだった。
森の地表が、じわりと黒に染まる。
木々の根が枯れ、葉が落ちる音すら吸い込まれる。
やがて――夜空に、光なき群れが浮上した。
無数の影の翅が波打ち、音を“喰らいながら”羽ばたく。
マリア(呟く):「来る……“死の群れ”が、森を食べに……。」
反羽音群。
それはもはや生命ではなく、生命の記憶を模倣する死そのものだった。
羽音郷へ向けて、闇の律動がゆっくりと進軍を始める。
章間ナレーション
「それは、生を喰らう羽音だった。
命の律に呼応しながら、それを塗り潰す音。
森が聴いた“二つの羽音”――
ひとつは生を導き、もうひとつは死を奏でる。
そしてこの夜を境に、大陸の音律は“二重化”した。
調和と反調――共鳴と反響。
世界は、ふたつの旋律に裂かれたのだ。」




