第二幕:戦火の兆し ― 魔族の侵攻
曇天の下、王国北境平原は、まるで世界の終わりを思わせる光景と化していた。
かつて雪に覆われた白い大地は、今や黒く焦げた灰の原。
空を覆う雲は渦を巻き、そこから降るのは雪ではなく、魔力の灰だった。
黒き軍勢が、地平線を覆っている。
その中心に立つのは、漆黒の鎧を纏った魔族の斥候たち。
彼らの背後には、異形の巨獣――**魂契獣**が咆哮を上げた。
その身体は鎖のような魔力線で魔族の術者とつながり、全身から立ち上る黒炎が風を裂く。
炎ではない。
それは「魔力の炎」、存在そのものを喰らい、世界を蝕む黒の呼吸だった。
黒炎が吹き荒れるたび、平原の地面は焼け、岩はひび割れ、草は塵へと還る。
空気が歪む。呼吸するだけで喉が焼ける。
その腐食の風の中、王国軍の残兵たちは、崩れかけた結界の背後で必死に耐えていた。
「結界、もう持ちません!」
「魔法障壁が溶けていく――後列、退避を!」
指揮官の叫びも、兵たちの耳には届かない。
恐怖に染まった瞳が、ただ前方の黒い軍勢を見据える。
誰もが理解していた。
このままでは、北境は落ちる。
王国の盾は、ここで砕けるのだと。
魔族の軍旗が、風を切った。
その瞬間、黒炎が再び地を薙ぎ払い、雪原を赤黒く焦がす。
結界が軋む。光が弾け、そして――音を立てて崩壊した。
魔導兵たちは次々に倒れ、空気が焦げる匂いと悲鳴が混ざり合う。
絶望の中、誰かが呟いた。
「……もう、終わりか。」
その時だった。
遠く、霧の彼方で――淡い光が、揺らめいた。
霞む地平線の向こうから、無数の光の粒が浮かび上がる。
それは炎でも雷でもない。
羽音と共に舞い、空を漂う光虫の群れだった。
夜明け前の闇を切り裂くように、その群れは光の帯を描きながら前進する。
そして、灰色の戦場に――新たな律動が、忍び寄っていた。
吹き荒れる黒炎が、雪と血と灰を一つに溶かしていく。
北境平原。
そこに残るのは、もはや“戦場”というよりも、滅びの光景だった。
王国軍の前線は崩壊していた。
焦げた甲冑、焼け落ちた旗、そして――
結界を維持していた魔導兵たちの身体が、灰となって風に溶けていく。
「退け! 後列、退避を急げ!」
王国魔導将校の声が、怒号と悲鳴の中で掻き消える。
だがその命令に従える兵は、もうほとんどいなかった。
盾を構えた兵士の腕は震え、視界を覆う黒炎の壁の向こうで、魂契獣の咆哮が空気を裂く。
その音は、獣の声ではなかった。
空間そのものを震わせ、魔力を吸い上げる“呪音”――。
逃げようとする兵士の身体から、淡い光が引き抜かれ、空中で霧のように散っていく。
魔力が喰われている。
生きたまま、存在を削がれていくのだ。
「駄目だ……魔法が通じない!」
「炎じゃない……これは“魔力そのもの”を喰ってる……!」
絶望が、前線を覆った。
地を這う黒い風が、焼けた雪を巻き上げ、兵士たちの足跡を消していく。
退路は閉ざされ、光は失われ、ただ灰と黒炎だけが世界を支配していた。
魔導将校が膝をつき、血を吐きながら呟く。
「ここまでか……我らの魔法では、抗えぬのか……」
灰が、風に舞う。
死者の影が溶けていくその時――。
――空気が震えた。
焼け焦げた空に、微かな音が混じる。
それは金属の軋みでも、呪詛でもない。
淡く、澄んだ羽音。
誰かが顔を上げる。
灰の空を切り裂き、遠く北の森の方角から――
光の群れが、こちらへと流れ込んでくる。
まるで夜明けそのものが、戦場に降りてくるように。
灰の風が止まった。
焦げた雪原の彼方――黒炎の渦の向こうで、
淡い光の粒がゆらゆらと揺らめきながら、こちらへと流れ込んでくる。
最初、それはただの蜃気楼のように見えた。
だが、光は徐々に輪郭を帯び、音を伴い始める。
かすかな――羽音。
「……虫の群れか?」
「この状況で……何のつもりだ……?」
兵たちは一瞬、恐怖と混乱に顔を見合わせた。
だが次の瞬間、彼らの瞳が見開かれる。
霧を切り裂き、黄金の波が押し寄せた。
数千、いや数万の光蟲が一斉に翅を震わせ、
まるで生きた陣形のように整然と空を舞っていく。
群れは音で動いていた。
一匹が鳴けば、周囲が共鳴し、
その波がさらに広がって、戦場の空気全体を律動させる。
光の中心に――少女が立っていた。
黄金の髪を風に靡かせ、
背には金属と羽を融合させたような小型魔装が展開している。
装甲ではない。
それは“翅”だった。
《群律装》――群体との魔力波を調律するための共鳴装置。
そこから放たれる微光が、空気に波紋を生み出している。
「見ろ……あれは……」
「あの紋章――羽音郷の部隊か!」
「まさか、“群律部隊”……!」
少女――マリア・ホーネットが、一歩、前へ出た。
彼女の瞳は、まっすぐに黒炎の軍勢を見据えている。
その姿に、逃げ惑っていた兵たちが息を呑んだ。
声を出す者はいない。
ただ、誰もがその光景に圧倒されていた。
焦げた雪原を照らす、羽音の群れ。
それはまるで、滅びの夜に差し込む**黎明**のようだった。
マリアは、焦げた雪原の風の中で静かに立った。
足元には溶けた氷の粒が転がり、空には黒炎の煙が渦を巻いている。
それでも彼女の瞳は、澄んでいた。
ゆっくりと右手を上げる。
杖の先端に宿る金色の紋章が微かに輝き、
空気が――“音”を孕み始める。
彼女は息を吸った。
その唇がわずかに震える。
だが、声は出ない。
かわりに、彼女の心拍が――群れの羽音と重なった。
「……群律、第一段階。」
その囁きは風と混ざり、波紋のように広がる。
瞬間、空が光で満たされた。
無数の光蟲が応じて舞い上がる。
彼らの軌跡が幾何学的な線を描き、
それぞれが一つの旋律を奏でるように結びついていく。
螺旋、波紋、円環――音と光が重なり合い、
やがて戦場全体を包み込む“天空の魔法陣”となった。
マリア:「――共鳴陣形・螺旋の律!」
杖を振り下ろした瞬間、螺旋が回転した。
羽音が爆ぜるように響き、
光の波が黒炎の渦を呑み込んでいく。
魔族たちの陣形が崩れた。
魂契獣が苦鳴を上げ、黒炎が軋みながら弾け飛ぶ。
空気を満たしていた暗黒の波動が乱れ、
その余波に触れた魔族の影が一瞬で灰に散った。
兵士たちは息を呑んだ。
見上げれば、空を覆う光の螺旋が回転しながら輝きを放ち、
その中心で、マリアの髪が風に舞っている。
バルド(観測塔から):「……これは、戦術じゃない。」
「ひとつの“生命”が歌っている……。」
羽音は止まらない。
それは命そのものの律動――
群れの意志と、少女の心がひとつに重なった、**戦場の交響曲**だった。
マリアの眼が、蒼白く光を宿した。
その瞳の奥で、群れの意志が脈打っている。
空では光蟲たちが、完璧な律で羽ばたき、
その羽音が戦場全体をひとつの巨大な楽器に変えていた。
マリア(小声で):「――響け。命の律動。」
彼女が右手を振り上げた瞬間、
群れのすべての羽音が一拍、沈黙した。
そして――世界が“鳴った”。
轟音ではない。
それは、震えるような純粋な波。
空気が、雪が、岩が、魔族の黒炎さえも震わせる。
無数の羽音が一点に収束し、
やがて――**共鳴衝撃波**が放たれた。
光が奔る。
目には見えぬ音の奔流が、大地を走る稲妻のように走り抜けた。
その一瞬、黒炎が形を失い、霧散した。
魂契獣の装甲が軋み、身体の内側から砕けていく。
魔族将:「音……だと? 我らの魔力が――“歌”に飲まれるだと!?」
彼の叫びは、衝撃波に呑み込まれて消えた。
爆音もない。
ただ静かに――光だけが、世界を覆った。
倒れた魂契獣たちの身体はゆっくりと崩れ、
そこから立ちのぼる灰を光蟲たちが包み込む。
彼らの翅が震え、柔らかな旋律が戦場に流れた。
それは哀悼と、浄化の歌。
マリアは息を吐いた。
彼女の頬に、一筋の涙が伝う。
マリア:「……終わったのね。」
風が静かに吹く。
黒煙の代わりに、金色の光が空に舞い上がっていく。
その光の中心で、少女と群れが静かに呼吸を合わせた。
戦場は、命の**調和**に包まれていた。
雪と灰の入り混じる戦場に、ようやく静寂が戻った。
崩れ落ちた魂契獣の巨躯が、風に溶けてゆく。
黒炎が消えた後に残ったのは、淡い光と、羽音の名残――命の余韻だけだった。
兵たちは、ただ立ち尽くしていた。
恐怖でも驚愕でもない。
“祈り”にも似た静けさが、戦場を包んでいた。
その中心に、マリア・ホーネットが立つ。
黄金の髪を風に揺らし、杖を下ろすと、ゆっくりと空を仰いだ。
光蟲たちは彼女の周囲を舞い、柔らかな螺旋を描いていた。
マリア:「戦いとは支配ではない。
音を合わせ、命を響かせること――それが群律。」
その声は風に乗り、戦場全体に染み渡る。
倒れていた兵士たちが次々と立ち上がり、
彼女の背に広がる光を見上げた。
――その姿は、もはや人の将ではなかった。
森の王たる“虫王”の弟子、
生命の律を統べる“調律者”としての風格があった。
遠く、観測塔の上。
魔力観測装置の円環に、巨大な共鳴波形が映し出される。
その中心――群律陣形の心臓部に、ひとつの少女の名が刻まれていた。
バルド(独白):「……あれは、戦術というより――ひとつの生命体だ。」
彼は息を呑み、しばしその光景から目を離せなかった。
その夜。
王国の報告書に、新たな称号が記された。
『群律女帝 マリア・ホーネット』
彼女の名と、その“羽音の戦術”は瞬く間に大陸を駆け抜け、
敗北を重ねてきた人類に、新たな希望をもたらした。
だが同時に、それは――
「生命を武器にする時代」の始まりでもあった。
「その日、北境の空に“羽音の光”が走った。
それは勝利の歌であり、新たな戦乱の序章であった。
森の律が戦場へと降りた時、大陸は再び――変調を始める。」
そして、空に散った光蟲たちの羽が、
ひとひら、ひとひらと雪に溶けていく。




