第一節:追放の日 ― 沈黙の王都
王都リュミナリア。
白亜の石で築かれた魔導院の中央議事堂は、光を閉じ込めたように冷たく輝いていた。
七本の光柱が天井へと伸び、空気は凍りつくほどの魔力で張り詰めている。
その中心に、ひとりの令嬢が立たされていた。
鎖に繋がれ、膝を折りもしない姿勢で立つ――レイラ=フォン=グラズヘイム。
淡い金の髪が光柱の反射を受けて揺れ、白い肌の上に影を落とす。
その瞳は澄んでいるのに、誰も見ようとはしなかった。
壇上には三名の審問官が並び、その中央で王国審問官セルヴァンが杖を掲げる。
「――魂術暴走事件により、魔導院は十名の尊き学徒を失った。
この罪、重く、深し。レイラ=フォン=グラズヘイム、お前に弁明の余地はあるか。」
静寂。
光の柱がわずかに脈打ち、鎖の音が微かに鳴る。
「私は……破壊のために研究していたのではありません。魂と生命の――」
言葉は最後まで届かなかった。
審問官の杖が閃き、空気が弾ける。
レイラの唇に封印の印が刻まれ、声が霧のように掻き消える。
「黙れ。異端の呪術師よ。
貴様の唱えた“魂共鳴術”は、古き禁忌の残滓。
自然魔法に傾倒する思想は、王国の秩序を蝕むだけだ。」
セルヴァンの声は、冷たい刃のようだった。
その背後で、王国魔導院長ヴァルドレンがゆっくりと首を縦に振る。
決定は下された――彼女を“王国から排除する”という決断。
傍聴席には、彼女の家族がいた。
父、エルンスト・フォン・グラズヘイム。王家顧問貴族にして、魔導院の支援者。
妹、ミリア=フォン・グラズヘイム。王太子に仕える未来の王妃。
レイラは必死に視線を求めた。
だが、父は沈黙を貫き、妹は目を伏せたまま微動だにしない。
「父上……妹よ……」
声にならない声が、唇の奥で震えた。
やがて、エルンストが短く息を吐き、静かに言葉を落とす。
「……王国のためだ。すべて、忘れよ。」
その一言で、世界が音を失った。
光柱がふっと弱まり、空間全体が薄暗く沈む。
白い塵が羽のように舞い、レイラの頬をかすめた。
鎖の擦れる音だけが、残酷に響く。
(――世界の音が消えた。
その沈黙の中で、私は初めて“羽音”のない世界に怯えた。)
閉ざされた空間に、誰の息遣いも残らない。
ただ、ひとつの命の終わりを告げる鐘の音だけが、遠くで鳴り響いていた。
そして、冷たい石床に膝をついた令嬢の背に、誰も近づこうとはしなかった。
夕陽が王都の尖塔を赤く染めていた。
白砂の丘に延びる城門前の街道は、静寂の中にざわめきを孕んでいる。
列をなす騎士団の銀の鎧が反射し、まるで沈みゆく太陽を拒むかのように光を返していた。
その中央に、ひとりの影。
白い衣に黒い外套を羽織り、首には魔導抑制の首輪。
レイラ=フォン=グラズヘイムは、淡々とした足取りで歩いていた。
形式上の「国外追放」――
だが、実際には“名誉ある処刑”と変わらぬ儀式だった。
群衆の列が、道の両側を埋め尽くしている。
貴族、商人、街の子供、そして……かつての研究仲間たち。
誰もが目を伏せ、唇を噛み、声を発しない。
「これより、レイラ=フォン=グラズヘイムを国外追放とする!」
兵士の声が丘に響く。
群衆は一斉に叫びを上げた。
「異端者め――!」
「王国に仇なす魔女!」
「魂を弄ぶ者は地に堕ちよ!」
言葉が石のように飛んでくる。
レイラはただ、まっすぐ前を見ていた。
風が外套を揺らし、金色の髪が光を返す。
(……人の声は、なぜ羽音よりも醜いのだろう。)
その心の呟きは、誰にも届かない。
けれども、空の彼方で一羽の鳥が鳴いた。
まるで彼女の代わりに、失われた声を取り戻すかのように。
父エルンストは遠くの馬車の中で沈黙を守っていた。
その隣で妹ミリアが小さくささやく。
「これで……私たちは救われますね。」
その声を、レイラは確かに聞いた。
しかし振り返らなかった。
涙は、とうに乾いていた。
城門の向こうには、灰色の荒野が続く。
誰も知らぬ森と、誰も帰らぬ夜の国。
そこが、彼女の新しい墓場であり――やがての聖地となる場所。
ふと、足元で何かが動いた。
白砂の上を、小さな黒甲虫が這っていた。
艶のある背中に夕陽が映え、まるで漆黒の宝石のように輝く。
レイラはしゃがみこみ、その虫を掌にすくい上げた。
鎖の擦れる音が、静かに鳴る。
「……あなたは、私を裁かないのね。」
甲虫がわずかに翅を震わせた。
羽音――
それは、あまりにも小さく、しかし確かに響いた。
まるで彼女の心臓の奥に届くような、柔らかな震え。
(その音は、世界でただひとつ――私を責めなかった。)
その瞬間、レイラは微笑んだ。
初めて、心の底から穏やかな笑みを浮かべた。
太陽が沈み、城門の影が長く伸びる。
その影の中へ、レイラ=フォン=グラズヘイムは静かに歩き出した。
振り返らず、言葉も残さず。
ただ、その手の中で黒甲虫が小さく鳴いた。
――それが、彼女の新しい旅の始まりを告げる羽音だった。
――夜が降りていた。
王都リュミナリアの灯が、遠く丘の向こうに滲んで消える。
灰色の石畳は霧に濡れ、月光を映して淡く輝いていた。
道の両脇に立つ黒樫の木々が、まるで影の壁のように旅人を見下ろしている。
ひとりの少女が、その静寂を踏みしめていた。
白衣の裾を黒外套で覆い、背に小さな木箱を背負っている。
その中には、彼女の過去――標本瓶と、震える筆跡で満たされた研究記録が収められていた。
首には、なお鈍く光る銀の輪。
王都で嵌められた“魔導抑制の首輪”だ。
だが、王都の結界を離れるにつれ、その光は次第に弱まり、ついには完全に消えた。
「……ああ、ようやく、息ができる。」
レイラ=フォン=グラズヘイムは静かに呟いた。
冷たい夜風が頬を撫で、白い息が空へと溶けていく。
そこにはもう、王都の硬質な魔力の匂いも、監視の視線もなかった。
代わりに――耳に届くのは、かすかな羽音。
はじめは風の音と区別がつかないほど微弱で、それでも確かに「生きている」音だった。
レイラは足を止め、そっと耳を澄ます。
「……羽音?」
音は消え、静寂が戻る。
それでも、彼女の胸の奥には温かな響きが残っていた。
レイラは木箱を降ろし、古びた手帳を取り出した。
表紙は焼け焦げ、いくつもの魔導印が黒ずんでいる。
最後のページを開き、震える手でペンを走らせた。
『魂と生命の共鳴実験――失敗に終わる。
だが、もしも“虫”がこの理を知るなら。
私はもう一度、世界に触れたい。』
インクが乾く前に、風がページをめくった。
標本瓶の中の羽が、月の光を受けて淡く輝く。
その光は、まるで瓶の中の命がまだ生きているようだった。
「静かな羽音のように消えたい――」
レイラは小さく笑い、言葉を続ける。
「――そう願ったのに、世界は私を見捨てなかったのね。」
その瞬間、霧が裂けた。
夜空に星が浮かび、無数の光が彼女を包む。
風が流れ、羽音が再び響く。
――今度は確かに、耳の奥で震えていた。
レイラが顔を上げる。
森の方角から、光が舞い上がる。
青白い光が、夜を割くようにゆっくりと飛んできた。
それは蝶だった。
翅が淡く光を放ち、闇をやさしく照らす。
《ルミナ・モルフォ》。
王都では絶滅したとされる幻の蝶。
それが今、静かな羽音を響かせながら、彼女の前に降り立った。
レイラは息を呑み、震える手を伸ばす。
「……あなたは、どこから来たの?」
蝶は何も答えない。
ただ、その翅を震わせ、光を広げる。
その光が彼女の頬に触れ、涙の跡を淡く照らした。
そして、蝶はゆっくりと舞い上がる。
夜空へ、森の奥へ――まるで「来い」と誘うように。
レイラは木箱を背負い直し、足を踏み出した。
灰色の街道を抜け、黒い森の入り口へと向かう。
足音が消え、代わりに羽音だけが響く。
それはまるで、彼女を導く旋律のようだった。
夜の果てに響く羽音は、滅びの歌ではなく――
新たな生命の前奏だった。




