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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

脂と肉と、うっすら白く濁った水

作者: こますけ

 暗闇の部屋に突然明かりがともったような感じで、いきなり意識が回復した。

 ふだんの徐々に意識が浮かび上がる目覚めとは全く違う、ひたすら不快な目覚めだ。

 ぐわんぐわんと重く響く頭痛に顔をしかめながら、光紀はうっすら目を開き、辺りをうかがった。

(え、なに、これ?ここ……どこ?)

 すっかり塗装が剥げ、びっしり錆に覆われてはいるが、どっしり重く、頑丈そうな鉄の扉。

 あちこち染みの浮いたコンクリート壁には窓一つ無く、天井からたった一本吊り下げられた蛍光灯が、白茶けた頼りない光を放っている。

 他には、テーブルもいすも棚も、何もない。がらんとしているのに重苦しい部屋の中にあるものといえば、扉の前に置かれた、一台の液晶モニターだけ。

(何もない部屋に、液晶モニター?それって……!)

 光紀の頭に、ひらめくものがあった。

(そう、そうだよ!突然の目覚め、見覚えのない殺風景な部屋、重そうな扉、一台のモニター!あの恐ろしいホラー映画シリーズだ!)

 一時期世界中を沸かせた、こわい……というよりひたすらイタくてイヤな、あの映画。捕らわれ、拘束された登場人物たちが目覚めると、いきなりモニターに変なお面をかぶった顔が映る。「ゲームをしよう」という宣言の後、自分の手足を切り落とさなきゃいけないとか、同じように捕まった他の人を殺して体を切り裂き、胃の中にある鍵を取り出さなきゃならないとか、めちゃくちゃな条件を出される。登場人物たちは、結局皆、その条件をクリアできず、殺人装置で無残に殺されていく――あのシリーズだ。

(ちょっと、やだやだやだ!やめてよ、冗談じゃないって!)

 パニック寸前になりながら、光紀は大慌てで体を起こそうとした。

 だが、悪い予感のとおり、下半身がほとんど動かせない。

 椅子にようなものに座らされたまま、ドラム缶よりやや細い、透明な円筒の中にすっぽりと入れられ、両足を固定されているのだ(足首が重く冷たく、動かすたびじゃらじゃらと音がするから、おそらく両足首に金輪をつけられ、そこから鎖で床につながれているのだろう)。

 その上、ウエストの辺りと首の辺りが、分厚くつるつるした板で仕切られている――真横から見ると、ちょうど「目」の字のような形になっている――せいで、椅子から腰を浮かすことこそできるものの、それ以上は下の仕切り板が邪魔して、立ち上がれない。

 両手は自由に動かせるのだが、上下の仕切り板に阻まれ、いくら振り動かしたところで、せいぜい指先で表面をひっかくぐらいしかできない。疲れ果てて動けなくなるまで殴ったり蹴ったりもしてみたが、よほど頑丈な素材で作られているうえ、円筒そのものも背後の壁に丈夫そうなベルトでしっかりと固定されているため、円筒の内壁も仕切り板も、そして円筒自身もびくともしないのである。

(なんだよ、これ!どうしたらいいんだよ!)

 もがいてもあがいてもむだ、この「ゆるやかな拘束」からはどうあっても抜け出せない、と理解していくに従って、光紀の焦りもどんどん高まっていく。このままでは、例の映画の哀れな犠牲者たちと同じく、犯人の思うがままにいたぶられることになる。

 目をつり上げ、歯を食いしばり、どうにか仕切り板を壊そうと、首と板の間のわずかなすき間に指をつっこんで、爪が割れるまで思い切り力を込め……。

 そこへ、モニターの画面が白く光を放った。

(やだって!やめてよ!やだやだやだやだ……!)

 だが、光紀の願いも虚しく、一瞬後に画面一杯に浮かび上がったのは、べったり白塗りの面に赤い目と頬のグルグルが印象的な、おなじみのあの仮面だった。

「……無駄な努力はやめた方がいいですよ。そのアクリル円筒は特注品でしてね。水族館の水槽と同じ素材、同じ技術で作ってあるんです。人の力でどうこうできる代物ではありませんよ」

 ボイスチェンジャーを使っているのだろう、妙にこもった、人間離れした声だ。

(え、声までパクってるの!?それってどうなのよ……)

 あまりに映画どおりの展開に、思わず苦笑がもれそうになる……といいたいところだが、数分後に自分が無残な死体と化しているかもしれないという、あまりに大きい恐怖に直面していると、笑うことなどそうそうできはしない。

 せいぜい、片頬をひくつかせる程度だ。

「……ひょっとして、あの映画そっくりだ、なんて思っていますか?だとしたら、それは正解です。今回の計画を立てるに当たり、あの映画を大いに参考にしました。本当はオリジナルのプランを立てたいところですが、残念ながら、その種の創造力にはあまり恵まれていませんのでね」

 光紀のこわばった表情が見えているのかいないのか、モニター上に浮かび上がった仮面の人物は、あくまで淡々とした口調を崩さない。

「私を、どうするつもりなのよ!」

 ありありと怒りの表情を浮かべてモニターをにらみつけ、大声で怒鳴りつける。

 普通の女の子なら、ここは恐怖のあまりめそめそ泣きながら「お願いですから返してください!」とかなんとか懇願するところだ。ところが、光紀はそういう性格ではない。怯える気持ちももちろんあるが、それ以上に怒りの気持ちが強く、そして、「ムカつく」と思ったら最後、その気持ちを声や表情に出さないではいられないのである。

 昔からそうだった。この性格のおかげで友人をなくしたり、時にはクラスのイジメの標的になりかけたりもした。それもあって、どうにかもう少し穏やかな性格になれないものかと悩んだときもあったが、持って生まれた性格というのはそうそう矯正できるものではない。どれほど繕ったところで、傍若無人な気の強さは、言葉と体の端々からにじみ出てしまうのだ。

 今ではもう、性格の矯正はすっかり諦め、どのような不利益をこうむろうと――たとえ自分の生死がかかった状況であろうと――自分に素直に生きてやる、と覚悟を決めている。

 そんな覚悟のこもった「どうするつもりなのよ!」だったのだが……仮面の人物は完全に無反応のまま、ただじっと光紀を正面から見つめるばかりだった。

「なんとか言えよ、この卑怯者!」

 相手の小憎らしいばかりの冷静さに激昂し、さらに激しい言葉を叩きつける。

 そこでようやく、仮面の人物はゆっくりと口を開いた。

「ここまで例の映画そっくりの状況を用意したんですよ?ならもう、こちらが何をするつもりか、分かってるんじゃないですか?」

 光紀がはっと目を見開く。仮面の人物は、その反応を見定めたところで、おもむろに両手を大きく左右に開いた。

「さあ、ゲームをしましょう。命がけのゲームを!」

 やっぱり! 

 光紀の胸に、再び怒りの炎が燃えさかる。

「アンタが何たくらんでるか知らないけど、絶対思い通りになんかなってやらないから!最後の最後まで抵抗して、死んでやる!」

「ご自由にどうぞ」

「絶対、アンタを楽しませてやったりしないから!」

「ご自由にどうぞ」

「どうにかして、絶対逃げ出してやる!」

「せいぜいがんばってください」

「この弱虫!クズ野郎!」

「その通りです……」

「変態……」

「クソ……」

 それから小一時間ばかり、思いつける限りの罵詈雑言を浴びせ続けたのだが、仮面の男は決して言葉を荒げず、ひたすら冷静に受け流すばかり。

 喉が涸れ、声がどんどんガラガラになり、そして、か細いしわがれ声しか出なくなったところで、とうとう光紀はあきらめた。

 汗まみれになった体を大きく上下させながらゼイゼイと息をつき、それでも目だけはギラギラ光らせ、モニターをにらみつけたままの彼女に、仮面の人物ははじめと全く変わらぬ口調で再び語りかけた。

「気が済みましたか?それでは、ゲームのルールを説明しましょう。と、その前に……」 ここで初めて、仮面の人物は人間的な反応を示した。それまでの機械のような正確な口調を初めて崩し、口ごもったかと思うと、ややうつむき、体をすぼめて、もじもじとためらうような様子を見せたのである。

(なにこいつ、何を恥ずかしがってんの?)

 相手の見慣れない様子に、光紀は眉をひそめる。

 そこへ、やや早口の言葉が響いた。

「その……あなたが眠っている間、あなたの下半身に触れたことをお詫びします。といっても下劣な目的からの行動ではありません、あなたの健康を維持するためのやむを得ない措置ですので、どうかご容赦いただければと思います」

 そう言われて初めて、光紀は自分の最もデリケートな部分に――それも、前と後ろ両方に!――何かが挿入されていることに気がついた。というか、目覚めてまず最初にその違和感に気がついていたのだが、その後、相手に対する嵐のような激情に呑まれ、すっかり忘れ去っていたのである。

(うわ、何、寝てる間にコイツにあたしの、その、ヤバいところ見られたの!?ひょっとして、それ以上にヤバいこと……)

 光紀の愕然とした表情に慌てたのか、メニター上の人物はさらに早口になった。

「あの、誓って申し上げますが、決して、断じて、あなたに、その、みだらな事をしたりはいたしておりません!ただその、おそらくはかなりの長期間、そちらで過ごしていただくことになりますので、その間下半身が汚物まみれになるのはさぞかし不快でしょうし、不衛生にもなりますので、カテーテルを挿入させていただいただけなんです!もちろん、消毒などはしっかりさせていただきましたし、それにその、作業の最中はお体を傷つけないことに集中していましたので、あの、その、下劣な欲情などを抱いたりすることはなかったと断言できますので、どうかその点はご安心を……」

 ますます饒舌に、早口になる相手。明らかに照れて、恥ずかしがっている。

(こいつ、男だ。それも、全然女慣れしてない、くそ真面目で照れ屋な)

 直感的にそう悟ると同時に、光紀は頬に皮肉な笑みを浮かべていた。

(それなら、なんとかなるかも)

 笑みの色をますます濃くしつつ、やや細めた目でじっと画面を見つめる。

「なんだ、欲情してくれなかったんだ。ちょっとぐらいいたずらしたってよかったのに」

 ねっとりそう言った途端、画面の男はびくりと肩をすくめる。

「や、やめてください!そんな失礼なこと、できるはずないじゃないですか!」

「へえ、まじめなんだ。あ、それとも、どうやったらいいかよく分からなかったとか?」

「そ、そ、そんなことは……」

「なんなら、今から教えてあげようか?ね、どう?この変な入れ物から出してくれたら……」

 男の気持ちが明らかにぐらついているのを見て取り、光紀はここぞとばかりにぐっと言葉に力を込める。

 が。

「ダメです……そんな下劣な行動で、あなたを穢すわけにはいきません……」

 男は胸中に湧き上がる「下劣な欲情」を振り払うように、強く頭を左右に振りながら、そう言葉を絞り出した。

(ちっ、乗ってこなかったか……)

 光紀はにこやかな笑顔を引っ込め、先ほどまでと同じギラギラとした目で、思い切り男をにらみつける。

 だが、こういう「負の感情」には強い耐性があるのか、仮面の男は全く動じない。

「寄り道が長くなってしまいました。そろそろ話を戻しましょう。ゲームの詳しいルールを説明します」

 はじめの頃と同じ、感情を感じさせない声音となり、じっと光紀を見つめる。

(くそっ!絶対助かってやる!助かって……ボコボコにしてから、警察に突き出してやる!)

 怒りと憎しみに燃える目で、光紀も男を見つめ返す。


 「……今回私が確かめたいのは、忍耐力です。人はどこまで不快な状況を耐え忍び、心折れずに生き延びることができるか。私は、それが知りたいのです」

 仮面の男がそう切り出したのを聞いて、光紀は「ん?」と首をかしげた。

 例の映画であれば、被害者に多くの時間は与えられない。せいぜい五分とかそれくらいだ。でもって、その制限時間が過ぎれば、無残に殺されてしまう。だが、この男は「忍耐力」を確かめたいと言った。ということは……。

「……変な機械であっという間に私を殺すつもりじゃないの?」

「殺戮機械は使いません。あっという間になるかどうかは、あなた次第です」

「どういうこと?」

「はい。これから一定期間、あなたには毎日2回、強制的に食事が与えられます。それらを完食できればあなたの勝ち。あなたは解放され、再び自由となります。逆に、気持ちが折れ、完食できなければ、あなたの負け。あなたは無残な屍をさらしながらここで朽ち果てていくことになります」

「……それだけ?」

「はい。ちなみに、食物には毒になるもの――あなたの健康を損なう成分は一切含まれません。栄養価とそのバランスをしっかり考えた献立になりますので、むしろ、ふだんあなたが食べている食品以上に健康的なものになることを約束します。さらに、食べ尽くしていただくのは食べ物だけでなく、一緒に供される飲み物も含んでいることを忘れないよう、お願いいたします」

「食べ物だけじゃなく、飲み物も全てお腹におさめる。でないと死ぬ。そういうこと?」

「はい」

「ひょっとして、一度にものすごくたくさんの量食わせるとか、逆にほんのちょっとしか食べさせないとか、そういう嫌がらせをするの?」

「いいえ。成人女性の食事量として、毎回ほぼ適量を提供いたします」

「食べられないぐらい辛いとか、しょっぱいとかは?」

「味については、残念ながらそれほどおいしいとはいえないかもしれません。ですが、決して食べられぬほどにまずくはないと思います。味付けも、どちらかというと薄味で、ほんのり塩気を感じる位にする予定です」

「毒にも薬にもならない、うまくもまずくもない食事を適量、毎日2回、全て食べ尽くす。それだけ?他には?」

「ありません。そのまま一定期間が過ぎれば、それで終了。あなたの勝利です」

「ほんとに?」

「ええ。本当です」

 光紀は、彼女のトレードマークといってもいい、傲慢なほど余裕のこもった笑みを、拉致されて以降初めてその頬に浮かべた。

「なあんだ。それなら余裕じゃん」

「そうですか」

「絶対クリアしてやるよ」

「がんばってください」

「ああ、がんばる。がんばるともさ」

 がんばって、自由になった後で、たっぷり復讐してやる。

 光紀のひそかな決心に気づいた素振りもなく、仮面の男は満足げにうなずいた。

「合意が得られたようですね。それでは、ゲームを始めましょう」

 男がそう宣言すると、点いたときと同じく唐突にモニターの画面が消える。そして、背後から何やら機械の作動音がしたかと思うと、首の真後ろからせり出してきた禍々しい装置が、ガチャリと光紀の頭部全体を包み込んだ。

「ちょっと、なによこれ!」

 いきなり視界が奪われ、パニックを起こし、無我夢中で身を振り動かそうとした。が、プシューッと空気が排出される音と同時に、ゴムのような柔らかいものが顔の輪郭に沿って吸盤のようにぺったりと貼り付き、固定。体こそ動かせるが、顔は一ミリたりとて動かせなくなる。

「助けて!やめて!殺さないで!いやあ……むもごがむぐ……」

 意識のある限り、ずっと続いて止まらない、止められないと思っていた悲鳴がいきなりやんだのは、大きく開いた口の中に、なにかがにゅるにゅると絞り出されたからだ。

 反射的に吐き出そうとするが、その心地よい温度と舌に感じる脂肪の濃厚さ、ヒリヒリとした塩味に加え、鼻に抜ける芳醇な香りに、思わず口の動きが停止する。

(これは……お肉!?ちょっと柔らかめのハンバーグみたいなもの?)

 そこへ、

「吐き出さないで。そのまま飲み込んでください。しばらく時間をおいてもうあと何回か、同じ量のペーストが出てきます。それを全て食べておかないと、その次には飲み物、つまり液体を流し込みますから、混じって顔中にベタベタひっつき、悲惨なことになりますよ」

スピーカーが仕込んであるのか、耳元で仮面の男の声がささやくように響く。

 こんなもの、絶対食べてなんか……と言いかけて、光紀ははっと気がついた。

 両目をぎょろぎょろと左右に動かして確認する限り、どうやら今の自分は、顔の輪郭全体を吸盤のようなものにぴっちりと覆われ、密閉されている状態のようだ(空気の出入りだけはできる造りになっているのか、息苦しくはないが)。もしこんな、大きめの水中マスクをつけているような状態で、中にドボドボと水が注ぎ込まれたら……。

(マスクの中の水で溺れて、死んじゃうじゃん!)

 そう気づいて、光紀は慌てて口の中に注ぎ込まれたペーストをもがもがと激しく咀嚼し始める。

 液体に溶けたペーストが顔中にへばりつくのも嫌だが、それよりなにより、ペーストを吐き出したら、その分液体がかさ増しされ、窒息死する可能性が高くなる。誰もいない倉庫のような中でただ一人椅子に座ったまま、ハンバーグ臭い水で満たされたマスクをつけてこときれるなんて、悲惨にもほどがある、と思ったのだ。

 なんとか口の中一杯のペーストを飲み下し、ほっと一息ついたところで、再びささやき声が耳を襲う。

「全て食べられましたね。では、次が出ますので、口を開けて待っていてください」

 言われたとおり、口をあんぐり開けたマヌケな姿で待っていると、耳元で涼しげなチャイムの音がし、その直後にノズルが突き出し、先ほどと同じようにペーストを吐き出した。

 さっきはパニックで気づかなかったが、ペーストが出る前にきちんと合図がされていたらしい。

 なんだ、落ち着いてさえいたら、特に難しいことないじゃん。

 もしゃもしゃとペーストを咀嚼しながら、そんなことを思う。

 確かに味は、それほどよいとは言えない。混ぜ込まれた香味野菜の匂いに混じって何やら嗅ぎ慣れない匂いはするし、味もごくあっさりした塩味以外はほとんどしない。なにより、ハンバーグのおいしさの中心である肉汁のうま味がほとんどなく、単なる油漬けを食べているような食感だ。

 だが、食べられないほどまずくはない。

 その後3回、同じようにペーストが絞り出された。が、光紀はそれら全てを首尾よく飲み込むことに成功した。

(これならなんとかなるかも……)

と、希望をほのかに抱き始めたところで、

「無事完食なさったようですね。では、次は液体です。準備お願いします」

仮面の男のささやき声が再び耳朶を打った。

(ハンバーグの出来損ないみたいなものが飲み込めたんだ、水みたいなものなら、多分いけるはず!)

 かすかな作動音とともに突き出されたノズルに向け、余裕シャクシャクであんぐり大口を開く。

 が、これが間違いだった。

 思った以上に強い勢いで噴き出してきた水に喉を直撃され、光紀は思わず、むせてしまったのである。

 うぇほうぇほ、ぐぇほぐぇほと咳き込んでいる間も、ノズルから水は噴き出し続ける。すぐに、密閉されたマスクの中に水がたまり始め、首筋からあごまで、あごから下唇までと、かさを増していく。

(やばい、やばいって!このまま鼻のところまできたら!)

 だが、咳き込みはいまだ止まらず、ものが飲み込める状態ではない。それどころか、咳き込んだ拍子に満ちてきた水を吸い込んでしまい、再びぐぇぼぐぇぼとむせかえる。

(死ぬ、死ぬって!死んじゃう!)

 ついに水位が鼻の頭を越える、というところで、からくも咳の発作は治まり、光紀は息をつくときに再び吸い込まないよう、慎重に鼻の穴から空気を取り込んだ後で、小さく唇を開き、周囲に満ちた水を少しずつ、少しずつ飲み下し始めた。

 シャンプーと整髪剤、それといまだに顔にへばりついていた化粧品の苦い味が、ほのかに舌を刺激する。が、そんなことに構ってはいられない。目を見開き、ごくりごくりと喉を鳴らしながら、水量を減らしていく。

 やがて、下唇の下、安全な位置まで水位を下げたところで、光紀はほうっと大きく息をついた。

(危なかった……もうちょっとで二度と戻れない場所に旅立っちゃうところだった……)

 そこへ、再びぷしゅーっと空気の排出音が響いたかと思うと、顔の圧迫感が消え、顔の周囲を覆っていた装置ががちゃんがちゃんと音を立てて離れていく。代わり映えのしない光景しか目に映らないが、視界が戻ったことにとりあえず安心し、もう一度、はあーっと大きく息をついたところで、正面のモニターが鈍く光った。

「危ないところもありましたが、どうにか一回目の試練を乗りこえられたようですね。とりあえずはおめでとうございます。その調子で、この先もがんばってください」

 例のふざけた仮面をつけた男が、両手をあごの下に置いたまま、声をかけてくる。

 先ほどとほぼ変わらぬ淡々とした口調ではあるが、言葉と仕草の端々から、上半身をぐっしょり濡らした――マスクが顔から外れたときに、残っていた水がこぼれたのだ――こちらの姿を面白がっているのが、ありありと伝わってくる。

「液体を飲み下すときには、くれぐれも注意してくださいね。さもないと、今のあなたのように、服が乾くまでの数時間、かなり居心地の悪い思いを味わうことになりますから」

言わずもがなの忠告を口にする男を、光紀は無言で思い切りにらみつける。

 憎しみと悪意、殺意のこもった、とびきり剣呑な目つきでにらみ据えたはずなのに、仮面のとこは、うはは、うはははは……とどこかうつろな笑い声をを響かせたのみで、ぷつりとその姿を消したのだった。


 それからの日々は、24時間を無理に48時間に引き延ばしたかのように退屈でパサパサした、それでいて、過ぎ去ってしまえばあっという間のように感じる、無為で空虚なものだった。

 朝、鳴り響くチャイムの音とともに明々と照明がともり、目が覚める。

(朝か……)

 ぼんやりしたまま、そうっと体を動かし、どこか痛むところがないか、固まっているところはないか確認。椅子に座ったまま眠らなければならない関係で、たいがいどこかに不調が出ているから、気づき次第、そこを(可能な限り)伸ばし、マッサージしていく。

 と、まもなくモニターに仮面の男が映る。

「ねえ、あと何日?」

そう尋ねるが、

「それを教えたら忍耐力を試す実験になりませんよ」

とすげなく返される。

 毎日毎日全く同じやりとりをくり返しているのだが、それでもやはり、同じ事を尋ねてしまうのだ。

 その短いやりとりが終わると、「それでは始めましょうか」と仮面の男がつぶやき、同時に背後から飛びだした拷問装置が顔面にへばりついて……味気ない食事となる。

 ペーストの味は全く同じだ。塩味仕立てでスパイスが強く香り、そして、ひたすら脂っこい。

 そして、ペーストの後に噴き出す液体も、毎回全く同じ。初回は気づかなかったが、ただの水ではなく、ややねっとりとして、ごくごくうっすらと白濁し、あまりに薄味なので何の味なのかはっきりしないていどの味がついている(「けちくさい人間の作ったカルピスかよ」と言ってやろうと思ったが、あえてそれは口にしなかった。「なぜ、ごく薄いカルピスと同じ味だと分かったのです?」と尋ねられたら口ごもってしまいそうで、嫌だったのだ)。

 眉間に眉を寄せ、苦行のようにあごを動かし,喉を動かしして食道から下へ口の中の物体を送り出すと、後は、夜までの長い、長い空き時間となる。

 その間、体がなまり切ってしまわないよう、腰を浮かしたり、回したり、腕を曲げ伸ばししたり、背中を反らしてみたりする(ドラム缶から首だけ出しているような状態だから、動ける範囲もたかがしれているのだが)。もっと激しい運動もしようと思えばできるのだが、なにしろ風呂に入れず、シャワーも浴びられないため、あまり動くと汗臭いし、体がかゆくなっていやなのだ。

 せめて数日に一回はシャワーぐらい浴びさせろ、と仮面の男に要求したこともあるのだが、「無理ですね。それをしてしまうと、忍耐力を試す実験になりませんから」と、あえなく切り捨てられてしまった。

 仕方がないので、身につけていたジャケットとカッターシャツを脱ぎ、それらで時折ごしごしと体をこするようにした。汚れが落ちているかどうかは分からないが、体のかゆみだけは、それで落ち着かせることができる。

 ただ、下半身のかゆみや汚れは、どうしようもない。腰のあたりで円筒に仕切り板が入っているせいで、どうがんばっても手が届かないのである。だから、尻やら太ももやらつま先やらにかゆみが走るときは、もぞもぞ尻を動かしたり、足をこすり合わせたりして、なんとかごまかすより他に方法がない。

 さらにつらいのは、手も届かない上にこすりつけるものもない、首から上のかゆみだ。

 この辺りにかゆみが出たら最後、収まるまでひたすら耐えるしかない。だが、刺激を与えない限り、かゆみとはなかなか治まるものではなく……どうにもしようもない状況だというのに、かさかさ、じんじんと気に障る皮膚信号が、長時間情け容赦なく続く。

 ちょっとした地獄である。

 なんとかならないのかと狂おしい努力をさまざま続けた結果、唯一、かゆみを抑えられる方法を、光紀は見出した。

 勢いよく頭部を振り動かし、かゆい場所に風を当てると、かゆみがややましになるのである。

 以来、頭部にむずがゆさが巣食うたび、ぶんぶん、ぐるんぐるんと気が触れたかのように激しく頭を振り動かしてしのぐようになったのだが……風呂には入れず、頭も洗えないせいで、体の各部で一番かゆくなりやすいのが、他ならぬ頭なのである。ということで、少なくとも日に数回、光紀は突然、髪に火でもつけられたかのような勢いで、頭を振り動かさなければならない(はじめこそ、どう見ても気が触れたとしか思えない姿を披露することに抵抗を覚えたが、それもすぐに消えた。体裁程度の理由では、狂おしいかゆみ発作に耐えることなどできなかったのである)。

 ストレッチやかゆみへの対処の他は、ただひたすらぼんやり考え事をしたり――考えることといえば、ここから逃げ出せたらなにをするか、どうやって仮面の男に復讐してやるか、ということばかりだ――うつらうつらと居眠りしたり。

 そうこうするうちに、やがてモニターに仮面の男が映り、再び食事の時間となる。

 目をつり上げ、がふがふとペーストを貪り、液体を一滴余さず口に受けて――下手にこぼして頬についたりしたら最後、後からかゆくてたまらなくなるのだ――じゅるじゅるとすすり込む。

 むせることなく、なんとか無事に食事を終えれば、数分と経たぬうちにチャイムの音と同時に照明が落とされ、「夜」がくる。

 窓のない部屋の中は真の暗闇だ。

 そんな状況では、できることも自然限られる。

 眠るか、考え事をするかだ。

 拉致され、この理不尽な状況下に置かれてからというもの、「夜」になるたび、つい考えてしまうことがある。

 ここから――というより、この状況から逃れる方法についてだ。

 円筒の中に閉じ込められているとはいえ、上半身はかなり自由に動かすことができるのだ。思い切り背筋を反らせ、その反動で一気に両手を突き出し、同時に体重をかければ、この重たい円筒を壁に固定している丈夫そうなベルトも、きっと、少しは緩むはずだ。

 それをくり返し、何度も根気よく行えば、ベルトはどんどんゆるみ、やがて地面にだらりと垂れ下がるだけとなり果てる。

 そうなったら、しめたものだ。後はタイミングを合わせて背後に、そして前方にと繰り返し体重をかけ、円筒を揺すぶってやれば、そのうちばったり横倒しになる。

 その衝撃はかなり大きいはずだから、きっと円筒のどこかが壊れ……脱出できるはずだ。

 よしんばどこも壊れず、ひび一つはいらなかったとしても、ゴロゴロとローラーのように転がって移動することはできるはず。

 そうなれば、様子がおかしいことに気づいた仮面の男が、確認のために扉を開けた、その隙に逃げ出せるはずだ……きっと。

 「はずだ」ばかりが続く、かなり楽天的な予想なのだけれど、なにしろ前向きな光紀のことだ。繰り返しアイデアをもてあそび、細かい部分に修正を加えてはまた考え、としていくうちに、どんどん「脱出計画」はリアルに、具体的なものとなり……やがて、100%成功する「はずの」完璧な計画が立ち上がる。

 すっかり自信をもち、善は急げ、今こそ実行のとき、とばかり、思い切り胸をはり、背筋を反らせたところで――それどころか、実際何度か両手を円筒に思い切り打ちつけるところまでいくことも、稀ではない――ふと、不安が頭をもたげる。

 もし、仮面の男が様子を見に来なかったら、どうなる?

 考えてみれば、仮面の男とはモニター越しに話すだけで、実際にその姿を見たことは一度もない。もし、本人はどこかちがう、遠いところにいて、こちらには、例えば週に1、2度機械の様子を見に来るだけだとしたら。そして自分は、首尾よく円筒を転がすことはできたものの、壊すまでには至らず、ただ転がることができるだけの状態にしかなれなかったとしたら。男がのこのこ姿を現すまで、かなり長い間、極めて不自由な体勢で、飢えと渇きにさいなまれつつ、じっとたえなければならなくなる。

 いや、そもそも、そのような「脱出」に成功したとして、男は様子を見に来るのだろうか?

 脱出を目論んだ、ということは、自分の置かれた状況に耐えられなくなった、ということだ。それはつまり、男が仕掛けた「忍耐力を試す実験」に対し、自分は敗北した、ということであり……そして、この種のゲームでは、敗北はすなわち死を意味するのではなかったか?

 そこで、光紀の脳裏に、未来の光景がありありと思い浮かぶ。

 床に転がったまま、まるで身動きが取れず、腹を空かせ、すぐ目の前で水と食料がむだに噴出されるのを、空しく見つめている自分。

 床に落ちたペーストをなんとか口に運ぼうにも、昭和に流行したおもちゃ「黒ひげ危機一髪」の海賊よろしく、円筒のど真ん中に空けられた穴から首だけ出している状態なのだ。いかに首を傾け、舌を伸ばしても、床にまでは決して届かず、ますますひもじい思いをするばかり。

 やがて、心身ともに衰弱し、骨と皮に干からびて、目の前に転がる食料を血眼で見つめながらこときれ……朽ち果てていく。 

 そうなって初めて、仮面の男はこの場に姿を現し、

「やれやれ、あれほど大口をたたいていたというのに、このざまですか」

そう言って、薄笑いを浮かべつつ、肩をすくめるのだ。 

(ムカつく!ものッすごいムカつく!絶対そんなマネ、させるもんか!最後まで耐えきって、そして、こっちがアイツをあざ笑ってやるんだ!)

 怒りの気持ちそのままに、ひとしきり両拳を仕切り板に打ちつけ、座ったまま地団駄を踏んだところで、光紀は荒い息を徐々に整えながら、眠りにつくのである(その胸の奥の奥に、自分の命を自ら大幅に縮める無鉄砲をせずに済んで、大いに安心している自分がいることに、彼女自身、全く気づくことはなかった)。


 こうして、1日1日、全く代わり映えのしない日々が過ぎ去っていった。

 いつの頃からか、光紀は、仮面の男に「あと何日?」と尋ねることはやめた。

 どうせ尋ねてもろくな答えは返ってこないし、それに、毎日極端に代わり映えのしない日々を送るうちに、だんだん意志も希望もすり切れてきたのか、「解放」そのものが、淡い夢のように感じられるようになってきたのである。

 自分はこのまま一生、この生活を続けるのではないか。

 ……それもいいかもしれない。

 食事の味は、かなり前から、全く気にならなくなった。

 時間が来れば自動的に口を開き、放り込まれるペーストと液体をただ機械的に咀嚼し、嚥下するだけだ。

 体のかゆみだって、もはやまるで気にならない。ときおりふっと、長いこと洗っていない犬のような香りが体から立ちのぼり、鼻をつくこともあるが、それも一瞬のこと。すぐにどこか遠い忘却の彼方へと去ってしまう。

 ストレッチもやめたし、身動きすらも、ここのところ、最小限しかしていない。そのせいか、たまに体をねじったりすると、節々がギシギシ痛む。が、その痛みすらも、遙か遠く、一光年も向こうから脳に届けられているような気がする。

(ひょっとすると、自分、もうとっくに死んで肉体は滅び、残った霊魂だけが、閉じ込められ、食事を与えられ、飼われている夢をぼんやり見ているだけなんじゃ?)

……それならそれで、いいではないか。

 ぼんやり鈍った頭でゆっくりうなずくと、後はひたすら、なにも思うことなく、ただただ壁を見つめ続ける。

 人間であったはずの光紀が、いつからか人間であることをやめ、ただの抜け殻へと変貌しつつあった、そんなある日。

 いつものように、チャイムとともに照明がともり、いつものようにマスクを圧着させられ、いつものように射出されるペーストを咀嚼、いつものように水のような液体を飲み下す。そして、いつものようにマスクが外れ、再び視界が開けた後は、いつものように長い空き時間を空白の心で過ごすはずが……そうはならなかったのである。

 いつもマスクが外れた後はスイッチが切られ、真っ黒になっているはずのモニターが、今日はまだ点灯し、仮面の男を映し出していたのだ。

「さて。今回の忍耐力を試す実験は、これで終了です。あなたは、困難な状況にめげることなく、私の思っていた以上の忍耐力を発揮し、試練を乗り切りました。おめでとう、あなたの勝利です」

 淡々とそう告げる言葉に、だが、光紀はただただ、ぽかんとするばかりだった。

「終わり?……終わりって、じゃあ、あたし、どう……」

「これから、あなたを解放します。巻き込まれて怪我をなさらないよう、できるだけ体を円筒の前の方に寄せるようにしてください」

 光紀の言葉を最後まで聞かず、かぶせ気味にそう言ったかと思うと、その直後、バチン、バチンと大きな音がして円筒を固定していたベルトと、光紀の足首にはまっていた足かせが外れる。

 が、それ以上はなにもおこらない。

「なんだ、やっぱりこのまま死ねってことじゃん。この中から出してくれないんじゃ……」 と、これも光紀の言葉の途中で、仮面の男はゆっくりかぶりを振る。

「助からないんじゃないか、と思っていますね?いいえ、あなたはもう既に解放されています。重たいのでちょっと力はいりますが、両手両足で、思い切り円筒の前面を押してみてください」

 男に促され、半信半疑で円筒を思い切り押す。と、あろうことか、筒の前半分と、それにくっついた天板、仕切り板が、あっさりと前に動くではないか。

 あまりの意外さにただただ呆然としていると、そこへまた、仮面の男の声が響く。

「ええ、そうなんです。円筒の前半分と後ろ半分は、ベルトで固定しておいただけで、接着してなかったんです。とはいえ、ベルトは貨物を固定するための頑丈なものですから、あなたの力では到底動かせなかったとは思いますけれどね。ともあれ、これでおわかりですね。あなたは解放されました。自由です。ああ、ちなみにここは、かなり前に廃棄された山の中腹にある廃工場で、舗装された道がすぐ前を走ってはいますが、人里にたどり着くまではかなりの距離、下らなければなりません。長い拘束で体も弱っていらっしゃるでしょうし、女性の脚で、真夜中に――ああ、ちなみに今は午前2時を少しまわった時刻なのですが――人里まで歩くのは少々無理があるだろうと思いまして、僭越(せんえつ)ながら、自転車を用意させていただきました。あれに乗っていけば、ほんの15分ほどで麓の町までたどり着けると思います。自転車の前かごの紙袋には、拉致したときにあなたがお持ちだった身分証明書やスマホなどが、まとめて入れてあります。麓の町の道沿いに警察署がありますので、そこに駆けこんで、これらの品を見せれば、後は万事取り計らってくれるはずです。ああ、それから」

と、仮面の男はここで、打ち明け話でもするかのように、カメラに向かってぐっと身を乗り出し、声をひそめた。

「この廃工場なのですが、もう後数分もしないうちに発火装置が作動し、何もかも跡形なく燃やし尽くしてしまう予定です。巻き込まれないうちに、行動を開始した方が、身のためではないかと思いますよ」

 光紀の大きく見開いた目の中で、瞳が小さくすぼまり――次の瞬間、あちこちギシギシとひどい痛みを訴えてくる体を無理矢理引きずるようにして、彼女はよろよろと歩き出す。

「実験への協力、本当にありがとうございました。それでは、ごきげんよう。うはは、うははははは……」

 背後から、この上なく上機嫌な仮面の男の笑い声が追いかけてくる中、必死で脚を動かし、自転車に取りすがる。そして、つんざくような痛みに顔をゆがめながら、ろくに動かぬ脚を無理矢理動かして、光紀は町を目指し、闇に沈む道を必死でたどり始めたのだった。


 都内で一人暮らしをしていた女性(25)が、会社からアパートへと帰る途中で何者かに拉致されたあげく、2ヶ月半もの間拘束され、非人間的な扱いを受けた後、ようやくの思いで生還した、というこの事件は、各メディアで――特にセンセーショナルな記事ばかり掲載する男性週刊誌で――大々的に取り上げられた。

 被害者である光紀は一躍「時の人」となり、犯人の異常な行動と、その粘着質な拷問のいやらしさをよく詳しく知りたいという世間の願いを受けた記者たちから、取材が殺到する。

 が、彼女が「事件のことは話したくない」と強い拒絶をくり返したこと、そして、この事件よりもさらに猟奇的な事件がほんの一月後に起こったことにより、世間の興味は急速に薄れ、光紀はようやく、落ち着いて療養とリハビリに励む日々を送れるようになった。

 その間も、事件を担当した県警は、大々的な捜査本部を立ち上げ、廃工場や、光紀の誘拐現場を中心に、徹底的な捜査を実施した。が、なにぶん誘拐からはかなりの日数が過ぎていたために、そして、廃工場は放火の際、高温を発する薬剤でも使用したのか、建物も機材も徹底的に溶解していたために、ろくな証拠が見つからない。

 捜査はすっかり暗礁に乗り上げ、犯人の「仮面の男」の正体はおろか、光紀の誘拐方法すら判明しないまま、捜査本部は解散となった。

 そして、2年が過ぎ去った。

 

 階段に右足をかけた途端、つんざくような痛みが走り、光紀はとっさに手すりをつかんだ。

 顔をしかめながら太ももをさすり、固まった筋肉を優しくほぐす。

 「あの事件」後、半年近くもの間リハビリに通い、身体機能の回復に努めたものの、残念ながら、すっかり元通りとはならず……冬の寒さが近づけば腰が鈍く痛んだり、湿気の高い初夏の時期には、今のように関節や筋肉が突然固まったりする。

(どうして、今もこんな、つらい目にあわなきゃいけないのよっ!)

 反射的に怒りが脳裏を駆け抜ける。が、それも一瞬のことで、光紀のつり上がった目尻はすぐに平坦に戻る。

(あの救いのない緩慢な地獄から抜けだし、こうしてほぼ支障なく日常生活が送れるようになったんだ。ひどい目に遭わずに済めばそれが一番だけど、それでも、あそこで命を落とすことなく帰ってこられたことを、むしろ喜ばないとね)

 普段彼氏からいつもいわれている言葉を、心の中で反芻(はんすう)する。

 と、不思議なくらい心が静まり、胸にはかすかな喜びまでが芽ばえた。

 優しく理解力があり、包容力にあふれた、理想の恋人。

 担当理学療法士として、光紀に常に寄り添い、励まし、根気よくつきあってくれたことがきっかけで知り合い、交際し……そして、数ヶ月後には挙式を控えている。

(あの人と知り合えたのも、あの事件がきっかけなんだものね。そう思うと、なにがいい方に転ぶかなんて、本当に分からないよね)

 いつしか光紀の頬には、かすかな微笑まで浮かんでいる。

 彼氏直伝のマッサージが効いたのか、柔らかさが戻ってきた右足をおそるおそる踏みしめ、痛みが来ないことを確認すると、光紀はゆっくり階段を上りはじめた。


 部屋のドアを開け、電気をつけたところで、玄関に転がった、一通の封筒に気がついた。

 拾い上げてみると、確かにここの住所と、光紀の名前とが明記されている。

 裏返して確認したが、差出人の名前はない。

 消印からして、投函されたのは都内のようだ。

(都内……高校や大学の友達が、今も結構たくさん住んでるはず。でも、あたしがここにいるって知ってる人、そうたくさんいないはずなんだけど……)

 いぶかしげな表情のまま、ともかくその封筒を手に部屋の中に入り、リビングのソファーに身を沈める。

 傍らにある引き出しからはさみを取り出し、封を切って逆さに振ると――以前「時の人」だった頃、迂闊に封筒の中に手を入れ、中に仕込んであったカミソリの刃で、指をざっくり切ったことがあるのだ――中からケースに入ったDVDと、1枚の便せんが滑り出てきた。

 とりあえず、便せんを手に取ってみる。

「拝啓 まずは突然お便りを差し上げたこと、お詫び申し上げます。事件後、お体を悪くなさっていたとお聞きしましたが、その後いかがでしょうか?幾分なりと回復なさいましたでしょうか?」

ワープロソフトの個性のない明朝体で印刷された書き出しは、穏やかでありふれたものだったのだが……そこからさらに読み進めると、いきなり内容がきな臭くなった。

「こうしてお便りを差し上げましたのも、実はあの事件のことで、あなたにお伝えしたいことがあったからなのです。端的に言いますと、同封したDVDですが、あれをご覧になれば、あの事件で謎とされていること、つまり、犯人は誰か、今どこにいるのか、どうしてあんな事件を引き起こしたに至るまで、全て分かります。私は、犯人の友人に当たり、事件から数日後に彼から郵送されてきたこのDVDを、今まで預かっていた者です」

 それならどうしてさっさと警察に証拠の品として提出しなかったのよ!事件の証拠になると知っててそれを提出しないと、確か罪に問われるはず……といらつきながら、光紀はさらに読み進める。

「なぜ警察にこれを証拠品として提出しなかったか、なのですが、正直申し上げて、このDVDを提出したところで犯人逮捕にはつながらない上、余計な騒動を引き起こすこと間違いないと思われたからです。なぜそう思ったかは、これもDVDを見ればすぐに分かるかと思います。」

 よく分からないこと言って、結局早く見てみろってこと?

 いらつきを引きずりつつも、相手の意図がつかめず、思わず眉をしかめる。

「そして、このように申し上げ、あまつさえこうして現物のDVDまで送りつけておいてなんなのですが、あなたにこのDVDを見ていただいた方がいいのかどうか、実のところ、私は全く分からないのです。」

 え……?なに?なに言ってるのこの人?

 さらに深まる困惑。だが、目は文章を追うのをやめようとはしない。

「このDVDの元の持ち主、つまり犯人は、あなたにこれを見てもらうことを望んでいました。そして、事件の被害者であるあなたには、このDVDを見る権利があると思います。そればかりか、ある意味で、あなたにはこのDVDを見る義務すら存在すると、私は思っています。ですが、それでもなお、私は、あなたにこのDVDを見ていただくべきかどうか、判断がつきかねているのです。そのせいで、事件からかなり日数が過ぎた今まで、あなたにこのDVDをお渡しすることができずにいました。それなのになぜ、今回あなたにこれをお送りすることにしたのかと言えば、あなたがご婚約なさったと風のうわさで耳にしたからです。おそらくあなたはこの先、ご結婚、ご懐妊、ご出産と順当に幸福な道を歩まれるのでしょうが、その途中、なにかの弾みでこれを手にすることになるよりは、今、まだその幸福を味わう前にあなたに起こったことの意味をお知りになっておいた方が、幾分なりとも衝撃は少ないのではないかと愚考したのです。とはいえ、ご覧になるかどうかをお決めになるのはあなたです。どうか、よくお考えの上、見るかどうかを慎重にお決めいただければと思います……」

 後は時候の挨拶やら結びの言葉やら、よくある表現の羅列。そして最後に、「あなたの一友人より」という署名で、手紙は終わっていた。

(ここの住所を知っている人間が一握りしかいないんだから、これを投函した人も、その「一握り」か、一握りににつながる人ってことになる。まあ、友人のうちの誰かで間違いないよね。となると、犯人――あの仮面の男も、ひょっとして、私の知り合いの誰かってこと?)

 あの事件に遭うまでの自分の性格からして、誰かから嫌われたり、疎んじられたりすることは多々あっただろうと思う。そういう意味での「身に覚え」は、むしろありすぎて数え切れない。

(けど、数ヶ月もの間拉致監禁して苦しめるほどの恨みを私に抱くなんて、一体誰が……。)

 時折じっと、テーブルに置かれたケースの中に鎮座するDVDを見つめながら、光紀は数時間、悩みに悩み続けた。手紙の送り主があれだけ見せることをためらっていたのに、それを見てしまって大丈夫なのかと、かなり不安だったのである。

 が……結局、「知りたい」気持ちが最後には勝った。

 光紀はケースから銀色に輝く円盤を取り出すと、震える指先でそれをプレーヤーに押し込んだのである。


 「……これを見ているということは、無事にゲームをクリアしたようですね。おめでとうございます。あなたならきっとやり遂げると思っていました」

 いきなり、あの時モニターに映っていたのと同じ姿、同じ音声が再生され、光紀は画面に釘付けになった。

 間違いない。2年も経つのにいまだ時折夢に現れては私を苦しめる、あの姿、あの声。まさしく、仮面の男だ。

「できればゆっくり、今日に至るまでのことを語り尽くしたいのですれど、あいにく、あまり時間がないんです。ですので、手短に話しましょう。まずは私の……僕の正体ですが」

と、仮面の男はここで、頭頂部あたりに右手をかけると、無造作に仮面を引っ張り、それを脱ぎ捨てる(思わず光紀は、身を乗り出していた)。

 その下から現れたのは、どこといって特徴のない、ひいき目で見ればややイケメンといえないこともない、見覚えのない顔だった。

「見ても分かりませんか?あの頃からだいぶ変わりましたからね。じゃあ、名前はどうでしょう?僕は、木崎。木崎義信です。……まだ分かりませんか?」

 分からなかった。かすかに聞き覚えがあるような気がしないでもないが、決して友達でも、近い知り合いの名前でもない。

「やはりまだ、分かりませんか。じゃあ、ヒントを出しましょう。『左足を引きずって歩く』『青デブ』これで、いかがです?」

(青デブ!)

 背筋に電気が走ったような気がした。それなら、確かに覚えがある。

 小学生時代。放課後同じ学童に預けられていた、体の大きな男子。体の動きが鈍くて、いつもすぐに息を切らせていて……。

「思い出していただけましたよね?学童で、いつもあなたと一緒だった青デブです。初めて会ったときあなたは五年生で、僕は三年生でした。とはいえ、私はその頃からかなり体が大きかったから、小柄だったあなたよりずっと背が高くて、横幅も合って。だから、初めて会うなり、あなたは言ったんですよね、「まあ、なにコイツ、こんだけでかいくせに顔色青白い!青デブじゃん!」って」

 そうだった。すっかり思い出した。

 青デブは、ぐずで、無口で、弱虫で、場所ばかりとって邪魔で、そのくせ先生にいろいろ世話してもらってばかりの生意気なヤツだった。だから私は……。

「それ以来あなたは、なにかというと「いよっ、青デブ!」とか言って尻を叩いたり、「青デブ、どけ、邪魔だ!」と蹴ったり、なにかと僕を目の敵にして、いじめてきましたよね。それも、周囲の目からはぎりぎり「いじり」「かわいがってる」と見えるよう、巧妙な手を使って。そして、まわりに大人の目がないときに限って「死ねよ、うざいんだよお前」とささやいたり、プラスチックバットやホウキなんかを使って、思い切りぶったたいたり。痛くてこわくて、僕がめそめそ泣き出すと、「やーい、弱虫!」とからかい、ますます強く叩いたりする。あの頃、僕は本当に不思議でした。どうしてなにもしていないのに、この人はいつも、僕を叩いたり、悪口を言ったりするのかと。遠慮して、いつも端の席に座り、口も聞かず、おとなしく自習してるのに、どうしてその僕の背中めがけて、思い切り輪ゴムをぶつけるのかと。今ならまあ、分かる気もします。体が大きいってだけで気の弱い僕は、格好の獲物だったんですよね?僕をいじめることで、自分が強く、えらくなったような気がした。まあ、言ってみれば、猛獣狩りに興じるお金持ちみたいなものですよね。狩られる方としては、たまったものではありませんでしたが」

 いつの間にか、光紀はうなだれていた。確かに、青デブの――木崎の言うとおりだったからだ。

 あの頃の自分は、学年で一番背が低く、その事で、同級生や先生、親戚、果ては親兄弟からもからかわれてばかりいた。勉強や運動、それ以外でもなにか他の人よりすぐれたところでもあれば、まだそれをつっかい棒にできたのかもしれないが、残念ながらなにをやってもせいぜい人並み。それで、毎日鬱屈(うっくつ)した思いを……。

「それまで僕は、それなりに幸せに暮らしていたんですよ。なにしろ、周囲の皆が、いろいろ配慮してくれてましたから。体が大きいのは生まれつきだし、顔色が青くて動きが鈍いのは、持病のせい。好きでこうなったわけではないのだから、デブで巨大で暑苦しくても、動きがのそのそして目障りでも、表情がうつろで気持ち悪くても、全く気にしていないように――腫れ物にさわるように接してくれてたんです。そこへ、あなたが現れ、僕の手にしていたちっぽけなプライドや自信、自尊心を粉々に打ち砕いてくれた。そりゃあ、当時はわけが分からず、本当に混乱しました。一体どうしたらこの人はいじめるのをやめてくれるのかと、一生懸命頭をひねったりもしました。それで、少ないお小遣いをはたいてプレゼントを買ったり、おやつを貢いだりとか、いろいろやってみたんです。けれど、プレゼントを渡せば「こんな気持ち悪い消しゴム寄越しやがって!」と頭にぶつけられ、おやつを渡せば、「お前の手垢のついたお菓子なんか食えるかよ!」と頭からぶっかけられた。そう……結局何をしても、あなたからのイジメはやむことがなかったんです」

 はじめはただ、自分のいらいらを解消するためだけに、青デブを殴っていた。けれど途中からは、純粋に、いじめること自体が楽しくなっていた。自分の姿を見かけるだけで青デブが怯えるのが快感で、どんどん手口をエスカレートさせ、でかい尻に画鋲を突き刺したり、シャーペンを思い切り投げつけてやったり、相当ひどいことをしていた。そのくせ、罪悪感などまるでなく、ただただ、おもしろくて楽しくて……。

「なにをしても、どれだけ努力しても、決してイジメをやめてくれない。一体どうしたらいいのか、悩みに悩んだ末に、とうとう僕は、一つの結論にたどり着きました。「そうか、あなたになったらいいんだ」とね。たとえどんなにじめが好きだろうと、あなたがあなた自身をいじめることは、おそらくあり得ない。だったら、自分であることをやめて、あなたになればいいんじゃないか……そう思うようになったんです」

 でも、自分があの青デブと一緒だったのは、ほんの2年ほどだけだ。小学校を卒業し、中学に入ってからは、あれほどいらついていた気持ちも自然に治まっていき、ずけずけとはっきりものを言う癖だけは残ったけれど、誰かをいじめることなんで決してない、むしろ正義感の強い人間になった!クラスのイジメをやめさせたり、泣いている迷子を助けたり、電車の中で痴漢に遭っている子を救ったりだってした!それで十分、罪滅ぼしは終わっているはずでしょ!?

「その頃ちょうど、小学校を卒業し、中学校に入ったあなたを、僕はこっそり観察するようになりました。と言っても、あとをつけたりとかはしていません。中学入学後、あなたはかなり「目立つ人」になりましたからね。特になにもしなくても、うわさが耳に入ってきたんです。曰く、弱い者を助けるいい子だ。曰く、はっきりものが言える強い子だ。曰く、悪いことを決して見過ごさない、正義の味方だ。そんなうわさを聞くたび、僕の心はざわつきました。あなたがもし、皆の言うように正義の味方ならば、その正義の味方にいじめられた自分はなんなのだ、とね。悪いことをしていないのにあれだけ正義の味方にいじめられたのなら、ひょっとして、自分は、存在自体が悪なのかもしれない、この世に存在してはいけない人間だったのかもしれない……自尊心が粉々に打ち砕かれた僕にとって、存在自体が悪である、というその思いは、すんなりと吸い込まれ……しっかりと定着しました。そう……僕は、存在してはいけない人間だと、今でも強く思っているんです」

 慌てて光紀は首を振った。何度も何度も強く。だが当然、青デブに――木崎にその思いは届かない。

「ああ、ごめんなさい。短くまとめるつもりが、つい長くなってしまって。さて、そういう子ども時代を過ごした僕なんですが、幸いなことによい薬と出会って病気が寛解、やせて人並みの容姿になれたこともあって、どうにか引きこもりまで行き着くことはなく、なんとか大学を卒業、就職もしました。ずっと理系で、仕事は機械設計、趣味はネットですから、完全に理系オタクにはなりましたがね。それで、今から1年ほど前になりますが、小学校の同窓会に参加したんです。数少ない友人の一人で、中高時代すごく仲よくしてくれた子が「参加する」とネットに書き込んでいたので、久々に会って、昔話でもしようかと思ったんです。ですが……当日行ってみると、彼は体調不良で不参加。仕方なく、会場の体育館をうろついている時に目にしたのが、あなただったんです」

 びくり、と体が震える。なぜかは分からない。だが、すごく悪い予感がする。

「あなたは、久々に会ったとおぼしき友人たちに囲まれ、すごく楽しそうでした。彼氏がどう、結婚がどうと話に花を咲かせ、輝くような笑顔と開けっぴろげな物言いとで、常に皆の中心になって……こそこそと隅っこにたたずむ僕とは大違いでした。そうか、相変わらず人気者なんだな、そうか、そうなのか……と、わずかな引っかかりを覚えながらも、それ以外別段思うところなく、そっとその場を離れようとした、その時です。あなたの発したある言葉が、鼓膜を切り裂き、脳髄を直撃したんです。そう……「青デブ」と言うあの言葉が」 

 違う、違うって!あの時自分は久しぶりになつかしい友達に会って、しかもかなり酔っ払ってた。自分が一番ちやほやされてた、あの一番いい時代を思い出して、有頂天になってて……。

「ああ、いたねそういえば学童に、青デブ!気持ち悪いヤツだったよね、本当!いるだけで雰囲気悪くなってたのに、アイツ、ちっとも気づかなくてさ、ホントムカついた!まだ生きてんのかなあの青デブ、さっさと死んだ方が地球のためだよね、本当にさあ!……あなたは、あの時確かにそう言いましたよね。その言葉で、あの頃の悪夢が一気によみがえると同時に、なんだか、すうっと納得できたんです。ああ、そうか、やっぱり僕はこの世にいちゃいけないんだ、正義の味方が言うのだから間違いない、さっさとこの世からいなくなるべきだったんだ、どうして今まで生きてしまったのだろう、森羅万象、ありとあらゆるものに申し訳ないことをしてしまっていた、とね。できる限り早くこの命を絶たなければと、どこか手近にナイフでもないかと探し始めた、その時です。もう一つの考えが、忘却の彼方から(よみがえ)ってきました。そうだ、ただ死ぬだけなどおこがましい、どうせなら、今までの罪滅ぼしに、生まれ変わってこの世のあらゆるものに尽くすべきだ、そうだ、正義の味方に、光紀さんに生まれ変わって、誰からも後ろ指指されることなく生きるんだ、それがお前の昔からの夢だったじゃないか……ええ、まさしくその通り、それこそが、僕のずっと昔から、かなえたくてたまらない夢だった……」

 違う!あたしは正義の味方なんかじゃない!あたしは、口が悪くておっちょこちょいの、ただの……。

「光り輝く正義の味方である光紀さんと同化し、正義の味方として新たな生を歩む。なんて素晴らしい目標でしょうか。あの頃は幼すぎて、どうやってそれを実現していいか分からなかった。けど、今なら分かる。ええ、僕にはすぐ分かりました!そう、食べてもらえばいいんです!人の体は、毎日次々新しくできた細胞と入れ替わっている。なにを材料に入れ替わるかといえば、当然その日に口にした食物だ。だったら、その食物として食べてもらえば、やがて分解された僕の体は血となり肉となり、光紀さんの体を駆け巡ることになる。それはすなわち、僕が光紀さんになることです。光紀さんと同化し、光紀さんとともに正義の味方として生きて行けるってことなんです!」

 た、食べてもらう!?なに言ってるのこの人、食べてもらうって、うそ、ばかでしょ、え、なに……?

「天使のささやきのような、神の啓示のようなこのアイデアに、僕は夢中になりました。その日、どこをどうやって家まで帰ったのか、さっぱり分からないぐらいにね。なのに、何かの予感が働いたのか、家の留守電のランプが点滅していることには、家に帰り着いてすぐに気がついたんです。録音を再生すると、警察からでした。その日両親は旅行に出かけていたのですが、旅先で居眠り運転のトラックに正面衝突された、というんです。できるだけ早くこちらまで来てほしいというので、僕はすぐさま電車に飛び乗り、そちらへ向かいました。ですが、ダメでした。というか、二人とも即死で、僕はただ、本人確認の為だけに警察に呼ばれたんです」

 それまで木崎はずっと、頬にかすかな笑顔をたたえたまま、かなり淡々と話を続けてきた。が、あまりにも不幸な内容を当たるうち、ついに感極まったのか、やにわにうつむいたかと思うと、く、く、く、と絞り出すような声をもらした。

 その姿に身の千切れるような後悔と罪悪感を覚え、光紀は思わず、両手の爪を立てるようにして、頭を抱える。

 が……違った。

 く、くく、くくく、くくくくくくく……と、絞り出すような声のピッチとトーンが徐々に上がり、性急に、狂おしくなっていく。それと同時に、木崎もゆっくりと顔を上げ、画面の外で固まっている光紀をじっと見つめる。大きく見開いたままの目をつり上げ、裂けたのかと見えるほど大きく横に口を引き開いた――明らかに「一線を越えてしまった」と分かる、凄絶な笑みをたたえた顔で。

「ねえ、光紀さん。これって、天啓だと思いませんか?十数年ぶりにあなたと出会い、ウジ虫以上に価値のない僕ができる「最上のこと」を思いださせてくれた、そして、そのアイデアを実現できるアイデアを思いついたその当日に、万が一計画が途中で露見し、僕が逮捕されたときに悲しむ二人が――この世界にたった二人だけの近しい親族が――死ぬんですよ!?しかも、そればかりか、計画を実行するのに必要な数千万円のお金まで、僕に残してくれたんですよ!?こんな偶然、ありません。まさにこれは天啓です。天啓以外のなにものでもありません!」

 先ほどまでとは打って変わった、震え、うわずる声。言葉には頻繁に喉から湧き上がる歓喜のため息が混じり、見開いた目には炎のような狂気が揺らめく。

「早速僕は、手にした金を惜しみなくばらまいて、準備を始めました。まずは例の工場を買い取り、そこを根城に部品や、材料を買い集めては組み立て……ああ、もちろん、人目につかないよう、搬入も作業も夜中に行いました。機械部品やアクリル板を大量に買い集めていると分かれば足がつくかもしれないので、全て扱っている店まで直接足を運びましてね。苦労しましたが、それもやがて大きな喜びに変わると分かっているんです。つらいだなんて、一瞬たりとも思いませんでしたよ。ええ、全ては生涯の夢を実現させるためなんですから!」

 感極まったように天を仰ぎ、ほうっと息を吐きだしたかと思うと、木崎は再び「がっ」とカメラをにらみつけた。

「1年の時間をかけて、構想したとおりの完璧な装置を組み上げ、残業で遅くなる帰り道を狙ってあなたを拉致し、容器に閉じ込めて……いよいよ,待ちに待った計画発動です!あなたが目が覚ますのを見計らってマスクをかぶり、異常者が興味本位で行った犯行であるかのように見せかけつつ、あなたをあおり立てて……ええ、見事に成功しました。怒りに駆られたあなたは、僕の体を材料に作ったペーストをガツガツと食べ、僕の体から絞った体液に骨をくだいた粉末を混ぜた液体をすすり込んでくれた!」

 再び天を仰いだ木崎は、次の瞬間、とろけるような笑顔をカメラに向ける。

「ほら、光紀さん。見てください。初日にあなたが食べたのはね、僕の、右脚なんです」

 のけぞるようにして上半身をカメラから離し、代わりに腰から下の部分を映し出してみせる木崎。

 その右の太ももは、根元から何かで断ち切られ、固く縛った傷口からは、いまだに血がしたたり落ちている(光紀はその光景のあまりの凄惨さに、思わず両手で口を覆った)。

「ね?こんな状態ですから、最初に言ったとおり、長くは持たないんですよ。今はまだ麻酔が効いてるからいいんですが、もう後しばらくしたら、痛みのあまり気絶するか、でなきゃ、出血多量でショック死してしまうと思います。だから、そうなる前に、僕は、ミートチョッパーの中に入らなきゃいけないんですよ。ご存じですか、ミットチョッパーって。巨大な円筒形の中で刃のついたプロペラが高速回転しているような……要は、巨大なフードプロセッサーみたいなものだと思ってください。着てるものを全部脱いでその中に入って、笑気ガスを思い切り吸い込めば、計画は完了です。後は、タイマーで作動したチョッパーが僕を粉々にしてくれる。その後で、肉と血と脂はペーストの材料として冷蔵タンクに貯蔵され、絞り出された水分も別のタンクに。残った骨は、さらに細かく粉末状にされた後で液体のタンクに混ぜられ、あなたが毎食、僕の肉体を味わった後の口をすすぐために供せられる。こうして、少しずつ少しずつ、あなたに食べられ……僕はあなたの血肉となっていく。ああ、僕が死んだら、どうやってあなたを解放するのか、ご心配なさるかもしれませんが、大丈夫。解放の手順は既にプログラムしてありますから。そこに至るまでのあなたとのやりとりも、すでにAIに教え込んでありますしね」

 少し意識が混濁してきているのか、木崎は、拉致されている最中の――つまり、木崎から見てリアルタイムの――光紀に話すような口調になっている。

 光紀自身も、まるで自分があの「事件」初日に戻り、円筒の中で声を聞いているような、そんな錯覚に陥っている。

「僕は思うんですよ。こうして肉体が同化していけば、当然、精神だって同化していくのではないかとね。いや、物理的に体が同化したからといって、精神は、意志は、感情は変わらない、と思うかもしれません。しかし本当にそうでしょうか?同化したい、一つになりたい、もはや決して分けられないほどに溶け合い、混ざり合って、ともに生きて行きたいと強く、強く願いながら食べられれば、きっと、気持ちも残ると思うんですよ。ええ、もちろん僕はそう願いますよ。願いながら……この上なく幸福な気持ちでミンチになっていくんです。あなたの口に入り、あなたの一部になることをこの上なく楽しみにしながら。……ああ、少し気が遠くなってきました。そろそろ最後の仕上げに入らないと。それでは光紀さん、とりあえず、さようなら。次は、あなたの心臓の、脳髄の、肝臓の、脊髄の中でお会いしましょう……」

 木崎はふらふらと立ちがると画面の外へと消え……それから数秒して画面がブラックアウト。

 動画は、終了した。

 あまりのことに、光紀は身じろぎすらできず、小さく口を開いたまま、じっと画面を凝視していたのだが、終了と同時に自分を取り戻し、はじかれたように立ち上がるとトイレに直行。そこで、胃袋がひっくり返るほどの勢いで、一気に内容物を吐き出し始めた。

(ダメですよ、いくら吐いたところで、僕はもう、とっくにあなたに同化しているんですから)

 耳の奥でそんな言葉が響く。が、それでも吐いて吐いて、胃の中がすっかり空っぽになって、黄色い胃液の一滴まで吐きつくさなければ、とてつもない嫌悪感は治まらなかった。

 あたしが……食べた?人を?

(ええ。そして、同化したんです、僕と)

 またしても聞き慣れない声が耳元に響く。

 いや、本当に耳元から聞こえたのだろうか?

 もっともっと深い、自分の芯に近いところから、今の声は響いてこなかっただろうか?

 とにかく……警察に言わなきゃ。そして,このDVDも見せて……。

(そんなことをして、なんになるんです?犯人はもう「死んで」「ここにいる」んですよ。また、週刊誌におもしろおかしく書き立てられるだけです)

 スマホを手に取ろうとして、光紀の手が止まる。なるほど、「声」の言うとおりかもしれない。犯人が「生きて」「木崎として」この世に存在しているのならば、警察に知らせる意味もあるだろう。だが、「こうなって」しまっては、今さらもう、どうしようもない。

(そうですよ。黙っておくのが一番です)

 そうだね、そうしよう。ついでにこのDVDも割って、捨ててしまえば……。

 そこまで考えて、光紀ははっと気づいた。

 一体自分は、誰と相談してるのだ?

(僕ですよ。同化した、あなた自身です)

 違う!あなたはもともとの私――私自身じゃない!

(なにを言ってるんです、あなた自身ですよ。同化したんだから)

 違う!絶対に違う!あなたは、後から入ってきた、侵入者だ!

 光紀はいきなり立ち上がると台所に走り、手にした包丁で右耳を――声の聞こえてくる辺りを、一気にそぎ落とそうとした。

 が、すんでの所で思いとどまる。

 むだだ。木崎が私の血肉に溶け込み、混じり合っているのだとしたら、切り落とした後から,他のところで声が響くようになるに決まってる。

(ええ、その通り。同じ本人なんですから、今さら切り離すなんて出来ませんよ)

「うるさいな!」

 思わず怒鳴ったところで、光紀ははっと口をつぐんだ。

 今怒鳴ったのは、本当に自分自身の意志なのだろうか?

 ひょっとして、同化した木崎があたかも自分の意志のように振る舞い、よけいに光紀を怯えさせるため、わざと怒鳴らせたのではないか?

 いや違う、今のは本当に自分の意志でそうしようと思った、そのはずだ!

 今や明確におびえの混じり始めた目で、光紀は部屋の扉を振り仰いだ。

 とにかく、誰かと相談しなくちゃ。こんな状態のまま一人でいたら、ますます混乱するばかりだもの。そうだ、彼氏に……。

 スマホに手をのばしかけたところで、光紀は凍りついたように動きを止める。

 今の、彼氏に電話をかけようというのは、本当に自分の意志なのか?

 伸ばしかけた手をだらりと下ろそうとして、またしても光紀は動きを止める。

 いや、電話をかけようというのが自分の意志で、それを阻止しようと止めたのこそが、木崎に操られた「意志」なのではないか?

 ますます思考が混乱し、錯綜する。見開いた目に自然と涙がたまり、やがて一粒、したたり落ちようとしたその瞬間、

(今泣こうと思ったのは誰?)

 そんな思いが脳を突き刺し、そしてまた次の瞬間、

(今なくのを止めたのは、一体誰の意志?)

 正反対の思いが目をくらませる。

 自らの欲求も、感情も、意志も、本能すらも信じられなくなった今、光紀は、行動する自由すらない。ただ顔をこわばらせ、立ち尽くすことしかできない。

(待って!今立っているのは誰の意志?なぜ座らないの?座るのは誰の欲望?顔がこわばっているのは誰の本能?誰の感情が唇をわななかせているの?お願い、誰か助けて!いや、助けないで……!)


 光紀の長い長い夜は、今始まったばかりだった。











 

 


 

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