地下水道の捕食者
俺たちの神は、再生数だった。
チャンネル登録者数三十五万人。動画投稿サイト『BuzzTube』において、「アーク・エンジェルズ」というチャンネル名で活動する俺たちは、世間的には成功者の部類に入るのかもしれない。リーダーで企画立案担当の俺、大神ダイキ。撮影と編集を担う、冷静沈着な拓也。お調子者のムードメーカー、翔太。そして紅一点で、この無謀な男所帯に絶妙なスパイスを加える、肝の据わった莉奈。大学の映画サークルで意気投合した俺たち四人は、卒業後も就職せず、この世界に全てを賭けていた。
最初は、よくある「やってみた」系の動画や、大食いチャレンジでそこそこの人気を得た。だが、この世界はレッドオーシャンだ。次から次へと現れる新しい才能に、俺たちの存在はあっという間に埋もれていく。再生数が伸び悩み、焦りが募り始めた頃、俺たちは一線を越えた。
心霊スポットへの潜入、廃墟探索、立ち入り禁止区域への不法侵入。いわゆる「ダークツーリズム」系の動画が、爆発的にヒットしたのだ。危険と隣り合わせのスリル、禁忌を犯す背徳感。それが、モニターの向こう側にいる安全な視聴者たちの心を掴んだ。再生数が跳ね上がり、コメント欄は熱狂的な賞賛で埋め尽くされ、広告収入の数字が面白いように増えていく。俺たちは、その麻薬のような快感の虜になっていた。もっと過激なものを。もっと誰もやったことのないものを。その渇望が、俺たちをさらなる深淵へと誘っていた。
「次の企画、決まったぜ」
いつもの溜まり場にしている安アパートの一室で、俺は三人にノートパソコンの画面を見せた。そこに表示されていたのは、都市伝説やオカルト情報を扱う、古臭いデザインのウェブサイトだった。
「『東京地下迷宮』…? なんだよこれ、ダッセェ名前」
翔太がポテトチップスをかじりながら、口を尖らせる。
「名前はどうでもいい。問題は中身だ」
俺は記事の一節を読み上げた。「…首都の地下には、公式の図面に記載されていない、広大な地下水道網が存在すると言われている。一説によれば、第二次世界大戦中に建設された秘密の防空壕が、その後の都市開発の中で複雑に連結し、巨大な空洞を形成したという。その最深部には、地底湖と見紛うほどの空間が広がっているという噂もあるが、その存在を確認した者はいない…」
「地底湖、か。ロマンはあんな」
拓也が、いつも通り冷静な口調で相槌を打つ。彼の指は、愛用のミラーレス一眼のレンズを丁寧に拭いていた。
「ただの噂話でしょ? こういうのって、大体ガセじゃん」
莉奈が、スマホをいじりながら興味なさそうに言った。
「それが、そうでもないらしい」俺はニヤリと笑い、別のウィンドウを開いた。そこには、Googleマップの航空写真が表示されていた。「この記事を書いた奴が、ご丁寧にヒントを残してくれてた。都心から少し離れた、再開発から取り残されたこのエリア。見てみろ、この不自然に草が生い茂った空き地。ここに、そのダンジョンへの入り口があるらしい」
画面に映し出されたのは、古い工場や雑居ビルに囲まれた、忘れ去られたような一角だった。その中央に、古びたマンホールの蓋が、辛うじて写り込んでいる。
「地下水道に潜るってこと? マジかよダイキ、汚ねぇし臭そうじゃん」
翔太が顔をしかめる。
「だからいいんだろ。誰もやりたがらないからこそ、価値がある。考えてみろよ。『東京の地下に広がる謎の巨大空洞、遂に発見!』ってタイトル。サムネは、ライトに照らされた広大な空間だ。これはバズる。絶対にミリオン再生いくぞ」
俺の熱弁に、三人の目の色が変わった。金、名声、そして何より、自分たちがシーンの最前線にいるという自負。それが、俺たちを突き動かす原動力だった。
「…まあ、面白そうではあるな。機材は防水仕様にした方が良さそうだ」と拓也。
「えー、私ウェーダーとか持ってないんだけど」と言いつつも、莉奈の口元は笑っていた。
「よっしゃあ! いっちょうデカいの当てて、焼き肉行こうぜ!」翔太は、もう気分が盛り上がっている。
反対する者はいなかった。俺たちの倫理観は、再生数という麻薬によって、とっくの昔に麻痺してしまっていたのだ。
「天気予報は、一応確認しとけよ」
拓也が、最後の忠告のように言った。
「もちろん。明日の夕方から少し降るらしいけど、撮影は昼過ぎには終わる。余裕だって」
俺は、スマホの天気予見アプリを一瞥しただけで、そう軽々しく答えた。その「少し降る」という言葉が、俺たちの運命を決定づける豪雨の予兆だとは、その時の俺たちは、知る由もなかった。
翌日の正午、俺たちは問題の空き地に立っていた。真夏の太陽がアスファルトを焼き、周囲の工場から聞こえる金属音と、どこからか漂う薬品のような匂いが、この場所の荒涼とした雰囲気を際立たせていた。空き地の中心には、噂通り、錆びついたマンホールの蓋が鎮座していた。その表面には、何かの植物の蔓が絡みつき、まるで長い間、誰にも開かれたことがないかのようだった。
「うわ、マジであったよ…」
翔太が、少し気圧されたように呟いた。
「よし、準備するぞ」
俺の号令で、各々が準備を始めた。胸まである防水のウェーダーを履き、頭には強力なLEDヘッドライトを装着する。拓也は、防水ケースに入れたメインカメラと、予備の小型アクションカメラのチェックに余念がない。莉奈は、非常食や応急セットが入ったバックパックを背負い、その手には護身用だと嘯く、ずしりと重い金属バットが握られていた。
「じゃ、開けるぜ」
俺と翔太が、バールをマンホールの縁に差し込む。固着しているのか、びくともしない。
「せーのっ!」
全体重をかけると、ゴッ、という鈍い音と共に、蓋がわずかにずれた。隙間から、むわりと、凝縮された闇の匂いが噴き出してきた。それは、下水と、黴と、そして何かもっと根源的な、腐敗したものの匂いが混じり合った、吐き気を催す悪臭だった。
「うっ…くっせぇ…!」
翔太が鼻をつまんで後ずさる。
蓋を完全にずらすと、そこには暗黒が口を開けていた。ヘッドライトの光が、垂直に伸びる錆びた梯子と、その先の見えない闇を照らし出す。反響してくる音から察するに、かなり深いらしい。
「よし、俺から行く。拓也、莉奈、翔太の順で続け。常に声を掛け合って、何かあったらすぐに知らせろ」
リーダーとして指示を飛ばし、俺は梯子に足をかけた。ひやりとした錆の感触が、グローブ越しに伝わってくる。
一歩、また一歩と下りていく。地上の光が急速に遠ざかり、代わりに、湿気と悪臭が全身にまとわりついてきた。数メートル下りたところで、足がコンクリートの床に触れた。
「第一陣、到着。全員降りてこい」
トランシーバーで地上に連絡すると、すぐに三人が続いて降りてきた。全員が揃うと、マンホールの蓋を内側から閉めた。わずかに差し込んでいた外光が完全に遮断され、俺たちのヘッドライトの光だけが、この世界の唯一の光源となった。
そこは、直径三メートルほどの円筒状の空間だった。壁からは絶えず水が染み出し、足元にはくるぶしほどの深さで、濁った水が流れている。そして、目の前には、巨大なトンネルが漆黒の口を開けていた。
「すげえ…マジでダンジョンじゃん…」
翔太が、興奮と恐怖が入り混じった声で言った。
「カメラ回すぞ」
拓也が冷静にカメラを構える。赤い録画ランプが、この暗闇の中で不気味な生命感を持って点灯した。
「オーライ! アーク・エンジェルズの諸君、ついに我々は、東京の地下に眠る未知の領域、『トーキョー・ダンジョン』への潜入に成功した! この先には、一体何が待っているのか? チャンネル登録、高評価よろしくな!」
俺は、カメラに向かっていつもの決め台詞を叫んだ。反響した自分の声が、やけに空々しく聞こえた。
俺たちは、水の流れる方向、つまり下流へと向かって歩き始めた。足元の水はヘドロのように粘り気があり、一歩進むごとに「ずぶり、ずぶり」と嫌な音を立てる。壁には、緑色の苔や、正体不明の菌類のようなものがびっしりと張り付いていた。時折、俺たちの気配に驚いた巨大なドブネズミが、甲高い鳴き声と共に暗闇に消えていく。
「うわ、今の見た!? 猫くらいのデカさあったぞ!」
「莉奈、大丈夫か?」
「平気。それより、あっちの壁、見て」
莉奈が指差す先を、全員のライトが照らし出した。コンクリートの壁に、幾筋もの深い傷跡が刻まれている。それは、まるで巨大な熊手が引っ掻いたかのようだった。
「なんだこれ…重機でも入れたのか?」
「いや、傷が新しい。それに、この間隔…機械にしちゃ不規則すぎる」
拓也が、壁に近づいて傷跡を接写する。
言いようのない不安が、胸をざわつかせた。だが、俺はそれを振り払うように、わざと明るい声を出した。
「いい絵が撮れるじゃねえか! 『謎の巨大な爪痕発見!』ってテロップ入れとけよ、拓也!」
さらに奥へと進む。水路は、まるで巨大な生物の腸内を進んでいるかのようだった。いくつかの分岐があったが、俺たちは最も太い本流を選んで進んだ。三十分ほど歩いただろうか。翔太が、何かに躓いて短い悲鳴を上げた。
「うおっ! なんだこれ…」
ライトを向けると、水中に、何かの塊が沈んでいた。棒でつつき、引き上げてみると、それは、夥しい量の毛が絡まり、ヘドロで固まった、バスケットボールほどの大きさの塊だった。
「うげぇ、気持ち悪ぃ…」
「何の毛だ…? ネズミにしちゃ、太くて長いな」
拓也が、眉をひそめながらカメラを回す。
俺は、その毛の塊の中に、何か、黒以外の色――赤や、青の繊維のようなものが混じっていることに気づいた。それは、まるで、衣類の切れ端のように見えた。
その時、遠くの、さらに地下の奥深くから、ゴロゴロ…という低い地響きのような音が聞こえてきた。
「今の音、なんだ?」
莉奈が、不安そうに呟いた。
「雷じゃね? 地上は天気、崩れてきたのかもな」
翔太が、楽観的に言った。
その言葉に、俺は胸騒ぎを覚えた。まさか。天気予見では、夕立はもっと後の時間のはずだ。
「やばいかもしれん。少しペースを上げるぞ。噂の空洞を見つけたら、すぐに引き返す」
俺は一行を急かした。地響きは、断続的に、そして徐々に大きくなっている。それは、地上で鳴り響く雷鳴が、分厚い地盤を通り抜けて、俺たちのいるこの暗黒の世界にまで届いている音だった。
危機感を覚えた俺たちは、歩くペースを速めた。地響きは、今や絶え間なく鼓膜を揺さぶり、足元の水面が微かに震えている。地上の天気が、予報よりも早く、そして激しく悪化していることは明らかだった。
「ダイキ、マジでやばいって! 戻ろうぜ!」
翔太が、半ば泣きそうな声で訴えた。彼の顔は、ヘッドライトの光に照らされて青ざめている。
「もう少しだ! ここまで来て、手ぶらで帰れるか!」
俺は、自分自身に言い聞かせるように叫んだ。再生数への執着が、正常な判断力を完全に麻痺させていた。この先に「お宝」が眠っている。その確信だけが、俺を前へと突き動かしていた。
その時だった。
ゴオオオオオオオオオッ!
それまでの地響きとは比較にならない、耳をつんざくような轟音が、トンネルの奥、俺たちが進んできた方向から猛烈な勢いで迫ってきた。それは、まるで巨大な獣の咆哮のようだった。
「伏せろっ!!」
俺が叫ぶのと、それが来るのは、ほぼ同時だった。
次の瞬間、茶色く濁った水の壁が、俺たちの身体を暴力的に打ち据えた。鉄砲水だ。地上のゲリラ豪雨によって、マンホールから流れ込んだ雨水が、この地下水道に一気に流れ込んできたのだ。
「ぐっ…ああっ!」
立っていることなど不可能だった。俺たちは、木の葉のように濁流に揉まれ、壁に叩きつけられた。くるぶしまでだった水位は、ほんの十数秒で腰の高さまで達し、さらに勢いを増していく。
「みんな、掴まれ! 流されるな!」
俺は、壁から突き出ていた錆びた鉄パイプに必死にしがみつき、叫んだ。拓也と莉奈も、すぐ近くの壁の凹凸に身体を固定し、激しい水流に耐えている。
「翔太! 翔太はどこだ!」
俺たちの少し後ろを歩いていた翔太の姿が見えない。ライトの光が、荒れ狂う濁流の表面を虚しく滑る。
「翔太ーっ! 返事しろ!」
莉奈の悲痛な叫びが、轟音の中に響き渡る。
その時、少し下流で、水面から必死に腕を伸ばしている翔太の姿が見えた。彼は、何とか体勢を立て直そうともがいていた。
「翔太! そっちに行くぞ!」
俺はパイプを離し、壁伝いに翔太の方へ進もうとした。だが、水の勢いはあまりに強く、一歩進むのがやっとだった。
「ダイキ! 無理だ!」
拓也が、俺の腕を掴んで制止する。
「翔太! 掴まれ!」
莉奈が、バックパックから取り出したロープの端を、翔太に向かって投げた。だが、ロープは激流に弄ばれ、彼の手には届かない。
翔太の顔が、絶望に歪んだ。
「助け…」
彼が何かを言いかけた、その瞬間だった。
翔太の身体が、不自然に、真下へと引きずり込まれた。まるで、水面下にいる巨大な何者かが、彼の足を掴んで引っ張ったかのように。
「え…?」
一瞬の出来事だった。彼は、悲鳴を上げる間もなく、ごぼり、という水音と共に、濁流の中に完全に姿を消した。
「翔太…?」
何が起きたのか、理解できなかった。流されたのではない。明らかに、「引きずり込まれた」。
水面には、彼がいた場所を中心に、大きな渦が巻いていたが、それもすぐに濁流の勢いにかき消された。後には、ただ、荒れ狂う水の轟音だけが残された。
「……………嘘だろ」
俺は、その場に立ち尽くした。拓也も莉奈も、言葉を失い、ただ翔太が消えた水面を呆然と見つめていた。
陽気で、臆病で、いつも俺たちを笑わせてくれた仲間が、目の前で、消えた。
退路は、完全に断たれた。俺たちが下りてきたマンホールは、今や激流の底だ。戻ることは不可能。進むしかない。この、仲間を飲み込んだ、得体の知れない闇の奥へと。
翔太の死は、それまでの俺たちのちっぽけな冒険ごっこを、紛れもない現実の、そして絶望的なサバイバルへと変貌させた。俺たちの足元に広がるこの濁った水の中には、ただの急流だけではない、何か別の、悪意に満ちた何かが潜んでいる。
その事実が、氷のように冷たい絶望となって、俺たちの心に突き刺さった。
翔太を失った衝撃と、濁流の恐怖で、俺たちはしばらくその場から動けなかった。轟々と流れる水の音だけが、この世の終わりのように響き渡っている。仲間が死んだ。それも、事故ではなく、明らかに「何か」によって。その事実が、俺たちの精神を根元から揺さぶっていた。
「…行くぞ」
最初に沈黙を破ったのは、俺だった。声が、自分でも驚くほど、乾いて掠れていた。
「どこへ…?」莉奈が、虚ろな目で俺を見る。
「前に進むしかない。このままここにいても、水が引く保証はない。別の出口を探すんだ」
それは、半分は本心で、もう半分は、この場から一刻も早く離れたいという一心から出た言葉だった。翔太を飲み込んだこの場所は、呪われている。
拓也が、無言で頷いた。彼は、翔太が消えた方向をじっと見つめていたカメラを、ゆっくりと前方に向け直した。そのファインダー越しの瞳には、冷静さの仮面の下に、激しい動揺と恐怖の色が浮かんでいた。
俺たちは、壁に身体を預けながら、慎重に下流へと進み始めた。水位は胸のあたりで安定していたが、流れは依然として速く、一歩一歩が命懸けだった。濁った水の中には、何が潜んでいるかわからない。俺たちは、水面下で足を動かすたびに、何かのぬるりとした感触が肌を撫でるような錯覚に陥り、そのたびに心臓が凍りついた。
三十分ほど、無言で歩き続いただろうか。水路は、やがて少し開けた場所に出た。そこは、いくつかの水路が合流する、広大な円形の空間だった。天井はドーム状に高く、俺たちのライトの光も届かない。中央には、巨大なコンクリートの柱が何本も林立し、まるで古代神殿のようだった。
そして、その空間には、水と共に、夥しい量のゴミが溜まっていた。ビニール袋、ペットボトル、錆びた自転車、壊れた家電製品。都会が排出した汚物の、巨大な墓場だった。その全てが、ヘドロと混じり合い、強烈な腐敗臭を放っていた。
「ここが…噂の巨大空洞、なのか…?」
俺は、目の前の光景に圧倒され、呟いた。だが、そこには地底湖のような神秘性はなく、ただ、文明の行き着く果ての、汚穢に満ちた光景が広がっているだけだった。
「ダイキ、あれ…」
拓也が、声を震わせながら柱の一本を指差した。ライトの光が、その表面を照らし出す。柱には、先ほど見たものと同じ、巨大な爪痕が、さらに深く、生々しく刻まれていた。そして、その根元のゴミの山の中に、何かが見えた。
それは、見覚えのある、派手なスニーカーだった。翔太が、今日履いてきたものだ。片方だけが、ゴミの間に突き出すようにして、そこにあった。
俺たちは、吸い寄せられるように、その柱に近づいた。足元のゴミをかき分けると、スニーカーと共に、ズタズタに引き裂かれたジーパンの切れ端が見つかった。そして、その近くのヘドロの中に、赤黒く変色した、肉片のようなものが、いくつも散らばっていた。
「あ…あ…」
莉奈が、口元を押さえて嗚咽を漏らした。俺も拓也も、そのおぞましい光景から目を逸らすことができなかった。
翔太は、流されたのではなかった。ここで、あの「何か」に、喰われたのだ。
その事実を認識した瞬間、俺たちの背後で、水音がした。
バシャッ!
それは、俺たちが立てている音とは明らかに異質な、もっと大きく、重いものが、水をかき分ける音だった。
三人が、同時に振り返る。
俺たちのライトが、合流してくる別の暗い水路の方を照らし出した。その暗闇の奥で、二つの光点が、ぬらり、と光った。それは、猫の目のような反射光だった。だが、その大きさは、猫のそれとは比較にならないほど巨大で、そして、二つの光点の間隔は、一メートル以上も離れていた。
それは、巨大な生物の、目だった。
ゴポ…ゴボボ…
水の中から、気泡が湧き上がる音がする。そして、ゆっくりと、それが姿を現し始めた。
水面が盛り上がり、まず現れたのは、巨大な頭部だった。それは、魚類と爬虫類と、そして、どこか人間を混ぜ合わせたかのような、冒涜的な形状をしていた。皮膚は、色素が抜け落ちたように蒼白く、ぬめりのある粘液で覆われている。目は、光のない世界で生きてきたせいで完全に退化し、白く濁った薄い膜が張っているだけだった。俺たちが見た光点は、その退化した眼球が、俺たちのライトの光をわずかに反射したものだったのだ。
鼻はほとんどなく、代わりに、巨大な口が、顔の半分近くを占めていた。その顎は、まるでワニのように前方に突き出し、唇のない歯茎からは、大きさも形も不揃いな、無数の黄色い牙が、凶器のように剥き出しになっていた。
その生物は、ゆっくりと、水からその全身を現した。体長は、三メートル以上はあるだろうか。胴体は、巨大なオオサンショウウオのように太く、ぬめっている。だが、そこから生えている四肢は、おぞましいことに、人間のそれに酷似していた。長く、しかし、ありえない方向に関節が曲がった腕と脚。その指の先には、壁に刻まれていたものと同じ、黒く、湾曲した長大な爪が生えていた。
「………な……に……あれ……」
莉奈のか細い声が、震えていた。
それは、突然変異か、あるいは、神の悪戯か。この、太陽の光も届かない、都市の汚水と廃棄物の中で、何世代にもわたって、独自の進化を遂げた、未知の捕食者。俺たちの常識が、目の前の現実を拒絶していた。
怪物は、俺たちの存在に気づいているようだった。退化した目で俺たちを「見て」いるわけではない。おそらく、水中の振動や、匂いで、俺たちの位置を正確に把握しているのだ。その巨大な顎が、カチリ、と鳴った。
その音で、俺たちは金縛りから解き放たれた。
「逃げろぉぉぉっ!!」
誰が叫んだのか。俺たちは、パニックに陥り、蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げ出した。
俺は、空間の反対側にあった、別の水路へと向かって、必死で水をかき分けて走った。背後で、バシャアアン!という巨大な水しぶきの音と、莉奈の絶叫が聞こえた。
振り返る余裕はなかった。振り返れば、喰われる。恐怖だけが、俺の足を動かしていた。
第四章:巣と女王
俺と拓也は、別々の水路に逃げ込んだ。莉奈の絶叫を最後に、彼女の声は聞こえない。おそらく、もう…。その事実を認めたくなくて、俺はただがむしゃらに、暗闇の中を走り続けた。
どれくらい走っただろうか。息が切れ、足がもつれて、俺はその場に崩れるように倒れ込んだ。濁った水が口に入り、思わず嘔吐く。しばらくして、少しだけ冷静さを取り戻した俺は、トランシーバーのスイッチを入れた。
「拓也…! 莉奈…! 聞こえるか!?」
ノイズが響くだけで、応答はない。
「クソッ…!」
俺はトランシーバーを壁に叩きつけようとして、思いとどまった。これが、唯一の命綱かもしれない。
再び立ち上がり、歩き始めた。もう、方向も、時間も、何もわからない。ただ、あの怪物がいないであろう方向へ、遠くへ。それだけを考えていた。
水路は、さらに狭く、複雑になっていった。まるで、アリの巣のように入り組んでいる。そして、気づいた。壁に、先ほどよりもさらに夥しい数の爪痕が刻まれている。そして、水の中に、白く、細長いものが、いくつも転がっている。
それは、骨だった。動物のものか、あるいは…。
この先は、まずい。引き返すべきだ。そう頭ではわかっているのに、足は、まるで何かに導かれるように、奥へ、奥へと進んでいく。
やがて、水路は、信じられない光景の前に行き着いた。
そこは、ドーム状の巨大な空間だった。先ほどのゴミ捨て場よりも、さらに広い。そして、その空間の壁一面が、何か、白と黒のまだら模様のもので、塗り固められていた。
近づいて、それが何なのかを理解した時、俺は腰が抜けそうになった。
それは、骨と、ヘドロと、そして、正体不明の粘液で塗り固められた、巨大な「巣」だった。
人間の頭蓋骨が、オブジェのように壁に埋め込まれている。肋骨が、アーチを描いている。大腿骨や腕の骨が、無数に突き出している。そして、その骨の隙間を埋めるように、衣類の切れ端や、錆びた金属片、ビニールゴミなどが、黒いヘドロと粘液で塗り固められている。
巣全体が、まるで生きているかのように、ゆっくりと、不気味に脈動していた。そして、その表面のいたるところに、白い、半透明の卵のようなものが、何百、何千と産み付けられていた。
ここは、あの怪物たちの、繁殖場所なのだ。
そして、その巣の中心部、まるで玉座のように一段高くなった場所に、ひときわ巨大な影が、とぐろを巻いていた。
それは、先ほど遭遇した個体よりも、さらに二回りは大きい、女王とでも呼ぶべき存在だった。その腹部は、無数の卵を孕んでいるのか、異常に膨れ上がっている。そして、その女王の足元には、見覚えのあるものが転がっていた。
莉奈の、バックパック。そして、彼女がいつも手にしていた、金属バット。
女王は、俺の存在に気づくと、ゆっくりと、その巨大な頭部をもたげた。退化した瞳が、俺の方を向く。そして、その巨大な顎が、ゆっくりと開かれた。
その瞬間、俺は見た。
女王の、剥き出しになった歯茎の間に、何かが挟まっているのを。
それは、長い、黒い髪の毛の束だった。
「う…ああ……あああああああああああっ!!」
恐怖と絶望が、俺の理性の箍を完全に破壊した。俺は、赤ん坊のように泣き叫びながら、その場から逃げ出した。背後で、女王の、地獄の底から響くような、低い咆哮が鳴り響いた。
俺は、もはや自分がどこをどう走っているのか、全くわからなかった。ただ、巣から離れたい一心で、無数の分岐を、勘だけを頼りに駆け抜けた。途中、何度か、別の個体と思われる怪物とすれ違った。そのたびに、狭い横穴に身を隠し、奴らが通り過ぎるのを、心臓を止めんばかりの思いで待ち続けた。
疲労と恐怖で、意識が朦朧としてくる。ヘッドライトのバッテリーも、点滅を始めていた。これが消えたら、終わりだ。完全な闇の中で、奴らの餌食になるだけだ。
もう、ダメかもしれない。翔太、莉奈、そして、はぐれてしまった拓也の顔が、次々と脳裏に浮かぶ。俺が、こんな企画を立てなければ…。後悔だけが、波のように押し寄せてきた。
その時だった。
前方の、ずっと先の方に、微かな光が見えた。
幻覚かと思った。だが、それは消えない。明らかに、自然光ではない、人工的な光だ。
まさか、出口か…?
最後の希望が、尽きかけていた身体に、再び力を与えた。俺は、その光に向かって、最後の力を振り絞って走った。
水路を曲がると、その光は、よりはっきりと見えた。垂直に伸びる梯子。そして、その上にある、マンホールの蓋の隙間から漏れる、地上の光。
「拓也っ!」
梯子の下で、懐中電灯を振っている人影がいた。拓也だ! 彼も、生きていた!
「ダイキ! 早くしろ!奴らが来てる!」
拓也の絶叫が、トンネルに響く。彼の背後、俺が来た方向とは別の水路から、複数の怪物が、バシャバシャと水を立てながら迫ってきていた。
俺は、拓也と合流し、二人で梯子を駆け上がった。
「俺が先に行く! 蓋を開ける!」
拓也が先行し、俺が続く。背後からは、奴らの、獲物を前にした興奮したような、奇妙な鳴き声が迫ってくる。
拓也が、マンホールの蓋を下から押し上げる。だが、びくともしない。
「クソッ、開かねえ!」
「代われ!」
俺は拓也を押し退け、全体重をかけて蓋にショルダータックルを喰らわせた。ガコン!という音と共に、蓋がわずかにずれる。光が、一筋の希望となって、俺たちの顔を照らした。
もう一度、もう一度だ!
渾身の力でぶつかると、蓋が完全に外れ、俺たちの身体は、アスファルトの上に転がり出た。
そこは、見覚えのない、工場の裏手のような場所だった。降り続いていたはずの雨は、嘘のように上がっていた。夕焼けのオレンジ色の光が、目に染みるほど眩しかった。地上の、当たり前の風景。行き交う車の音。普通の日常。
俺たちは、ほんの数時間、地下にいただけなのに、まるで何十年ぶりに地上に戻ってきたかのような、途方もない感覚に襲われた。
ハッと我に返り、マンホールの下を覗き込む。暗闇の中で、無数の濁った目が、ぎらぎらと光っていた。奴らは、光が苦手なのか、それ以上は上がってこようとしなかった。俺たちは、慌てて二人でマンホールの蓋を元に戻した。
助かった。
その事実を認識した瞬間、俺たちは、その場に崩れ落ち、ただ、嗚咽を漏らし続けた。
俺と拓也は、警察に保護された。仲間二人が行方不明になっていると聞いた警察は、大掛かりな捜索隊を組織して地下水道を捜索したが、ゲリラ豪雨による増水と、内部の複雑な構造に阻まれ、結局、翔太と莉奈の遺体はおろか、その痕跡すら見つけることはできなかった。
俺たちは、怪物について必死で証言した。だが、誰も信じてはくれなかった。極限状態での集団幻覚。あるいは、再生数を稼ぐための、悪質すぎる自作自演。それが、世間の見方だった。拓也が命懸けで持ち帰ったカメラのデータも、大半が破損しており、証拠となるような決定的な映像は残っていなかった。ただ、断片的に記録されていた、仲間たちの最後の悲鳴と、暗闇に蠢く巨大な影の映像が、「悪質ないたずら動画」としてネットに出回り、俺たちは、ヒーローになるどころか、日本中から非難を浴びる炎上系配信者として、その名を残すことになった。
アーク・エンジェルズは、解散した。
俺は、もう二度と、カメラを手にすることはなかった。拓也とは、あれ以来一度も会っていない。
俺は、今、実家の部屋に引きこもっている。精神は病み、水に対する異常な恐怖症に悩まされている。シャワーを浴びるたびに、排水溝の奥から、あの、何かを引きずるような音が聞こえる気がする。トイレの水を流すたびに、便器の水の向こう側から、無数の濁った目が、俺を見上げているような気がして、絶叫する。
東京の、あの華やかな大都市の、ほんの数メートル足元には、今も、あの地獄が広がっている。誰にも知られず、誰にも信じられず、文明の汚物を喰らい、繁殖を続けている、悪夢のような生命体が。
そして、俺は知っている。
いつか、次の「渇水」か、あるいは、次の「豪雨」が訪れた時。奴らは、腹を空かせて、俺たちが開けてしまったあの蓋から、地上へと這い出してくるだろう。
その日、東京は、本当の「ダンジョン」になるのだ。再生数などでは決して測れない、本物の恐怖に、喰い尽くされるその日まで、あとどれくらいの時間が、残されているのだろうか。俺は、ただ、震えながら、その日が来ないことを祈るしかできない。