表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

水槽の鏡

作者: 宵町あかり

夏のホラー2025企画に参加します。


『水槽の鏡』をお届けします。


ペットショップで出会った空の水槽と、そこに映る少女の物語。

美しくも恐ろしい、夏の幻想ホラーです。


お楽しみください!

八月の午後、私がペットショップに足を向けたのは偶然だった。


 いや、偶然ではなかったのかもしれない。最近、家に帰っても一人きりの部屋が息苦しく感じられて、どこか生き物の声が聞こえる場所に身を置きたくなっていた。


 商店街の奥まった場所にあるその店は、薄暗い店内に小さな生き物たちの声が響いている。犬の鳴き声、小鳥のさえずり、そして水槽から聞こえる微かな水の音。一人暮らしを始めて三年、こんなにも生命の音が恋しく感じられるようになった。母に最後に電話をしたのは、いつだったろう。


 私は水槽のエリアに向かった。熱帯魚たちが色とりどりに泳ぐ様子を見ていると、心が落ち着く。ガラス越しに見つめる小さな世界は、私の現実よりもずっと美しく見えた。


 しかし、奥の隅に置かれた大きな水槽だけが空だった。


 その水槽には水さえ入っていない。ただ、透明なガラスの箱が静かに置かれているだけ。照明も当たらず、薄暗い中でひっそりと佇んでいる。


 なぜか、その空虚さに心を奪われた。


「あの水槽、何も入ってないんですね」


 私は店員に声をかけた。


「ああ、あれですか」店員は振り返ると、少し困ったような表情を浮かべた。「あの水槽はもう使ってないんです。置き場がなくて、そのままになってしまって」


 店員の説明を聞きながら、私は再び空の水槽を見つめた。


 その時だった。


 水槽の向こう側に、人の影が映った。


 小さな影。子供くらいの大きさ。白い服を着た、細い輪郭。


 心臓が一瞬止まった。


 しかし振り返ると、水槽の向こうには誰もいない。ただ、薄汚れた壁があるだけだった。


「大丈夫ですか?」


 店員の声で我に返る。


「いえ、なんでもありません」


 私は慌てて店を出た。


 しかし心の奥で、あの影が私を見つめていたような気がしてならなかった。


 まるで、私を呼んでいるかのように。


◆◇◆


 次の日、私は再びペットショップを訪れた。


 なぜかあの空の水槽が気になって仕方がなかった。昨日見た影は、きっと錯覚だったのだろう。薄暗い店内で、何かの反射を見間違えただけ。


 そう自分に言い聞かせながら、私は水槽のエリアに向かった。


 空の水槽は、昨日と同じ場所にある。


 近づいて見ると、水槽の底に薄っすらと水垢のような汚れが付いていた。よく見ると、小さな貝殻のかけらや、色あせた水草の欠片が隅に残っている。昔は何かが飼われていたのだろう。


 水槽をじっと見つめていると、ガラスの向こうに再び影が映る。


 今度ははっきりと見えた。


 白いワンピースを着た少女が、水槽の向こう側に立っていた。年の頃は十歳くらいだろうか。長い黒髪が肩まで垂れ、大きな瞳で私をじっと見つめている。


 その瞳には、深い寂しさが宿っていた。


 そして、絶望が。


 私は息を呑んだ。慌てて水槽の裏側に回った。


 やはり、そこには壁しかない。


 戻って水槽を覗くと、少女の姿は消えていた。しかし、ガラスに小さな手形のような跡が残っていた。


 冷たく、湿っていた。そして、ガラスの表面に細いひび割れが走っているのに気づいた。


「また来られたんですね」


 店員の声に振り返る。


「あの水槽のことなんですが」私は震え声で尋ねた。「昔は何が飼われていたんですか?」


 店員は表情を曇らせた。


「あの水槽は……特別な水槽だったんです」


「特別?」


「人魚姫という名前の美しい魚が飼われていました。珍しい品種で、まるで人のような大きな瞳をしていたんです。お客様にも人気があって、特にお子様が喜んで見ていました」


 店員は水槽を見つめながら続けた。


「でも、その魚は……病気になってしまって」


「病気?」


「原因不明の病気でした。食欲もなくなって、いつも水槽の隅でじっとしていて。まるで、この世界に絶望しているような表情で」


 店員の声が小さくなった。


「最後の数日は、水槽のガラスに体をこすりつけるようにして泳いでいました。まるで、外に出たがっているように。でも水槽から出ることは……」


「それで?」


「ある朝、水槽の底で死んでいるのを発見したんです。でも不思議なことに、その時の人魚姫の表情は、とても穏やかで……まるで微笑んでいるようでした」


「それで、水槽を空にしたんですか?」


「ええ。でも時々、お客様から『あの水槽に魚がいるように見える』という報告があるんです。特に、一人でいらっしゃる方から」


 私の背筋が凍った。


「一人で?」


「人魚姫は、寂しがり屋だったんです。一人でいる人を見つけると、水槽のガラスに近づいて、まるで話しかけるような仕草をしていました。まるで、同じ寂しさを抱えた人を見分けているみたいに」


 店員は続けた。


「でも……最近、その報告をしてくださったお客様が、その後いらっしゃらなくなることが多いんです」


 私は再び空の水槽を見つめた。


 その時、水槽の底で何かがきらりと光った。


 小さな鱗のような、真珠のような光。


 そして、かすかに聞こえた。


 水の音が。ざわめくような、囁くような。


◆◇◆


 三日目。


 私は仕事を早めに切り上げてペットショップに向かった。


 あの空の水槽が頭から離れない。少女の姿も、店員の話も、すべてが心に引っかかっていた。そして何より、あの瞳に宿っていた深い寂しさが、私自身の孤独感と重なって見えたのだ。


 同じ孤独を抱えた存在。


 私を求めている存在。


 店に着くと、いつものように水槽のエリアに向かう。


 空の水槽の前に立つと、すぐに少女が現れた。


 今度は、少女も私の存在に気づいているようだった。彼女は水槽のガラスに手を当て、私を見つめている。その表情には、昨日までの寂しさに加えて、何かを訴えかけるような切実さがあった。


 救いを求めるような、必死さが。


 少女の口が動いた。声は聞こえないが、その言葉は分かった。


「あなたも、寂しそうな目をしている」


 私の胸が詰まった。


 私も、恐る恐る水槽のガラスに手を近づけた。


 不思議なことが起きた。


 私の手とガラスが触れた瞬間、水槽に水が満たされ始めた。


 透明で美しい水が、音もなく水槽を満たしていく。しかし、その水は冷たかった。死者の体温のように。


 そして水の中に、少女がいた。


 彼女は水中で息をしているようだった。髪が水に揺れ、白いワンピースがふわりと広がっている。美しい光景だった。まるで本当の人魚のように。


 しかし、その美しさには死の影が宿っていた。


「人魚姫……」


 私は呟いた。


 少女は微笑んだ。しかしその微笑みは、どこか悲しげだった。そして、口を動かして何かを言おうとしている。声は聞こえないが、その口の動きから言葉を読み取ることができた。


「さびしい」


 私の胸が締め付けられた。


「ずっと、ひとり」


「いっしょにいて」


「いっしょに、しんで」


 最後の言葉に、私は身震いした。


 それでも、私は水槽に両手を当てた。ガラスが温かく感じられる。いや、冷たいのは私の手の方だった。


 水槽のガラスに、さらにひび割れが広がっていく。


 そして私は気づいた。水槽の水が、私の手を通して体の中に流れ込んでくることに。


 最初は指先から。ひんやりとした水が血管を通って腕を上り、肩を通って心臓に届く。


 怖かった。でも、同時に安らかでもあった。


 肺の中にも水が入ってくる。


 水が耳の中で囁いている。


 溺れる。


 死ぬ。


 そう思った瞬間、なぜか息ができることに気づいた。


 水の中でも、呼吸ができる。


 死んでも、生きていられる。


 私は水槽の中にいた。


 少女の隣で、透明な水に包まれながら。髪が水に揺れ、服が水流に舞っている。肌が青白く、唇が紫色に変わっていく。


 でも、もう怖くなかった。


 もう、どちらが水槽の中で、どちらが外なのかわからない。


 ただ、とても静かで、とても美しい世界に私たちはいた。


 二人だけの、境界のない世界に。


 遠くで誰かが呼んでいる声が聞こえる。でも、その声はもうとても遠い場所からの声のようだった。生者の世界からの声のようだった。


 私たちは手を取り合い、透明な水の中を泳いでいく。


 永遠に、一緒に。


 もう、寂しくない。


 もう、生きていなくても。


◆◇◆


 次の日の夕方、ペットショップの店員は空の水槽の前で佇む女性を見つけた。


 彼女は水槽のガラスに両手を当てたまま、穏やかな微笑みを浮かべて立っている。肌は青白く、唇は紫色に変わっていた。


 店員が救急車を呼んだ時、女性の体は既に冷たくなっていた。


 その表情はとても穏やかで、まるで求めていたものを見つけたかのように。


 そして水槽の底で、新たな鱗が光っていた。


 次の客を、静かに待ちながら。

『水槽の鏡』、いかがでしたでしょうか?


水槽という身近な存在を通して、境界の向こう側への恐怖と憧憬を描きました。

主人公の孤独感と、少女の寂しさが重なり合う瞬間が、この作品の核心です。


夏のホラー企画にふさわしい、ひんやりとした恐怖を込めました。

ガラス越しの世界は、時として現実よりも美しく見えるのかもしれません。


感想やご意見、いつでもお待ちしております。

評価・ブックマークもとても励みになります!


今後ともよろしくお願いいたします。


Xアカウント: https://x.com/yoimachi_akari

note: https://note.com/yoimachi_akari

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ