水槽の鏡
夏のホラー2025企画に参加します。
『水槽の鏡』をお届けします。
ペットショップで出会った空の水槽と、そこに映る少女の物語。
美しくも恐ろしい、夏の幻想ホラーです。
お楽しみください!
八月の午後、私がペットショップに足を向けたのは偶然だった。
いや、偶然ではなかったのかもしれない。最近、家に帰っても一人きりの部屋が息苦しく感じられて、どこか生き物の声が聞こえる場所に身を置きたくなっていた。
商店街の奥まった場所にあるその店は、薄暗い店内に小さな生き物たちの声が響いている。犬の鳴き声、小鳥のさえずり、そして水槽から聞こえる微かな水の音。一人暮らしを始めて三年、こんなにも生命の音が恋しく感じられるようになった。母に最後に電話をしたのは、いつだったろう。
私は水槽のエリアに向かった。熱帯魚たちが色とりどりに泳ぐ様子を見ていると、心が落ち着く。ガラス越しに見つめる小さな世界は、私の現実よりもずっと美しく見えた。
しかし、奥の隅に置かれた大きな水槽だけが空だった。
その水槽には水さえ入っていない。ただ、透明なガラスの箱が静かに置かれているだけ。照明も当たらず、薄暗い中でひっそりと佇んでいる。
なぜか、その空虚さに心を奪われた。
「あの水槽、何も入ってないんですね」
私は店員に声をかけた。
「ああ、あれですか」店員は振り返ると、少し困ったような表情を浮かべた。「あの水槽はもう使ってないんです。置き場がなくて、そのままになってしまって」
店員の説明を聞きながら、私は再び空の水槽を見つめた。
その時だった。
水槽の向こう側に、人の影が映った。
小さな影。子供くらいの大きさ。白い服を着た、細い輪郭。
心臓が一瞬止まった。
しかし振り返ると、水槽の向こうには誰もいない。ただ、薄汚れた壁があるだけだった。
「大丈夫ですか?」
店員の声で我に返る。
「いえ、なんでもありません」
私は慌てて店を出た。
しかし心の奥で、あの影が私を見つめていたような気がしてならなかった。
まるで、私を呼んでいるかのように。
◆◇◆
次の日、私は再びペットショップを訪れた。
なぜかあの空の水槽が気になって仕方がなかった。昨日見た影は、きっと錯覚だったのだろう。薄暗い店内で、何かの反射を見間違えただけ。
そう自分に言い聞かせながら、私は水槽のエリアに向かった。
空の水槽は、昨日と同じ場所にある。
近づいて見ると、水槽の底に薄っすらと水垢のような汚れが付いていた。よく見ると、小さな貝殻のかけらや、色あせた水草の欠片が隅に残っている。昔は何かが飼われていたのだろう。
水槽をじっと見つめていると、ガラスの向こうに再び影が映る。
今度ははっきりと見えた。
白いワンピースを着た少女が、水槽の向こう側に立っていた。年の頃は十歳くらいだろうか。長い黒髪が肩まで垂れ、大きな瞳で私をじっと見つめている。
その瞳には、深い寂しさが宿っていた。
そして、絶望が。
私は息を呑んだ。慌てて水槽の裏側に回った。
やはり、そこには壁しかない。
戻って水槽を覗くと、少女の姿は消えていた。しかし、ガラスに小さな手形のような跡が残っていた。
冷たく、湿っていた。そして、ガラスの表面に細いひび割れが走っているのに気づいた。
「また来られたんですね」
店員の声に振り返る。
「あの水槽のことなんですが」私は震え声で尋ねた。「昔は何が飼われていたんですか?」
店員は表情を曇らせた。
「あの水槽は……特別な水槽だったんです」
「特別?」
「人魚姫という名前の美しい魚が飼われていました。珍しい品種で、まるで人のような大きな瞳をしていたんです。お客様にも人気があって、特にお子様が喜んで見ていました」
店員は水槽を見つめながら続けた。
「でも、その魚は……病気になってしまって」
「病気?」
「原因不明の病気でした。食欲もなくなって、いつも水槽の隅でじっとしていて。まるで、この世界に絶望しているような表情で」
店員の声が小さくなった。
「最後の数日は、水槽のガラスに体をこすりつけるようにして泳いでいました。まるで、外に出たがっているように。でも水槽から出ることは……」
「それで?」
「ある朝、水槽の底で死んでいるのを発見したんです。でも不思議なことに、その時の人魚姫の表情は、とても穏やかで……まるで微笑んでいるようでした」
「それで、水槽を空にしたんですか?」
「ええ。でも時々、お客様から『あの水槽に魚がいるように見える』という報告があるんです。特に、一人でいらっしゃる方から」
私の背筋が凍った。
「一人で?」
「人魚姫は、寂しがり屋だったんです。一人でいる人を見つけると、水槽のガラスに近づいて、まるで話しかけるような仕草をしていました。まるで、同じ寂しさを抱えた人を見分けているみたいに」
店員は続けた。
「でも……最近、その報告をしてくださったお客様が、その後いらっしゃらなくなることが多いんです」
私は再び空の水槽を見つめた。
その時、水槽の底で何かがきらりと光った。
小さな鱗のような、真珠のような光。
そして、かすかに聞こえた。
水の音が。ざわめくような、囁くような。
◆◇◆
三日目。
私は仕事を早めに切り上げてペットショップに向かった。
あの空の水槽が頭から離れない。少女の姿も、店員の話も、すべてが心に引っかかっていた。そして何より、あの瞳に宿っていた深い寂しさが、私自身の孤独感と重なって見えたのだ。
同じ孤独を抱えた存在。
私を求めている存在。
店に着くと、いつものように水槽のエリアに向かう。
空の水槽の前に立つと、すぐに少女が現れた。
今度は、少女も私の存在に気づいているようだった。彼女は水槽のガラスに手を当て、私を見つめている。その表情には、昨日までの寂しさに加えて、何かを訴えかけるような切実さがあった。
救いを求めるような、必死さが。
少女の口が動いた。声は聞こえないが、その言葉は分かった。
「あなたも、寂しそうな目をしている」
私の胸が詰まった。
私も、恐る恐る水槽のガラスに手を近づけた。
不思議なことが起きた。
私の手とガラスが触れた瞬間、水槽に水が満たされ始めた。
透明で美しい水が、音もなく水槽を満たしていく。しかし、その水は冷たかった。死者の体温のように。
そして水の中に、少女がいた。
彼女は水中で息をしているようだった。髪が水に揺れ、白いワンピースがふわりと広がっている。美しい光景だった。まるで本当の人魚のように。
しかし、その美しさには死の影が宿っていた。
「人魚姫……」
私は呟いた。
少女は微笑んだ。しかしその微笑みは、どこか悲しげだった。そして、口を動かして何かを言おうとしている。声は聞こえないが、その口の動きから言葉を読み取ることができた。
「さびしい」
私の胸が締め付けられた。
「ずっと、ひとり」
「いっしょにいて」
「いっしょに、しんで」
最後の言葉に、私は身震いした。
それでも、私は水槽に両手を当てた。ガラスが温かく感じられる。いや、冷たいのは私の手の方だった。
水槽のガラスに、さらにひび割れが広がっていく。
そして私は気づいた。水槽の水が、私の手を通して体の中に流れ込んでくることに。
最初は指先から。ひんやりとした水が血管を通って腕を上り、肩を通って心臓に届く。
怖かった。でも、同時に安らかでもあった。
肺の中にも水が入ってくる。
水が耳の中で囁いている。
溺れる。
死ぬ。
そう思った瞬間、なぜか息ができることに気づいた。
水の中でも、呼吸ができる。
死んでも、生きていられる。
私は水槽の中にいた。
少女の隣で、透明な水に包まれながら。髪が水に揺れ、服が水流に舞っている。肌が青白く、唇が紫色に変わっていく。
でも、もう怖くなかった。
もう、どちらが水槽の中で、どちらが外なのかわからない。
ただ、とても静かで、とても美しい世界に私たちはいた。
二人だけの、境界のない世界に。
遠くで誰かが呼んでいる声が聞こえる。でも、その声はもうとても遠い場所からの声のようだった。生者の世界からの声のようだった。
私たちは手を取り合い、透明な水の中を泳いでいく。
永遠に、一緒に。
もう、寂しくない。
もう、生きていなくても。
◆◇◆
次の日の夕方、ペットショップの店員は空の水槽の前で佇む女性を見つけた。
彼女は水槽のガラスに両手を当てたまま、穏やかな微笑みを浮かべて立っている。肌は青白く、唇は紫色に変わっていた。
店員が救急車を呼んだ時、女性の体は既に冷たくなっていた。
その表情はとても穏やかで、まるで求めていたものを見つけたかのように。
そして水槽の底で、新たな鱗が光っていた。
次の客を、静かに待ちながら。
『水槽の鏡』、いかがでしたでしょうか?
水槽という身近な存在を通して、境界の向こう側への恐怖と憧憬を描きました。
主人公の孤独感と、少女の寂しさが重なり合う瞬間が、この作品の核心です。
夏のホラー企画にふさわしい、ひんやりとした恐怖を込めました。
ガラス越しの世界は、時として現実よりも美しく見えるのかもしれません。
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