Mission1:おじさん、辺境の地へ行く事になる
「メンデス君、キミには明日からドナヘーラに新しくできる支店に行ってもらいたい。」
それは、青天の霹靂というにはあまりにも重く、鈍い響きを伴う通告だった。
デュナン・メンデス、32歳、独身。
アーデハルト王国の首都ルナラムに古くから根を下ろす老舗「カリオト商会」の暖簾を18歳でくぐって以来、早14年の歳月が流れていた。
埃っぽい帳簿の匂い、インクと羊皮紙の感触、積み上げられた商品と忙しく行き交う人々の活気。
それがデュナンの世界の全てだった。
商会のため、一心不乱に働いてきた自負がある。
帳簿の数字が動くたびに一喜一憂し、大きな取引がまとまれば胸を高鳴らせた。
数年前、中堅として認められ昇級した際には、気心の知れた人間の同僚だけでなく、寡黙だが仕事には実直なドワーフの仲間たちも、エールで満たされた杯を掲げて盛大に祝ってくれた。
あの夜の温かい喧騒が、昨日のことのように思い出される。
だが、今思えば、この不吉な通告に至るまでの予兆は、確かに存在していたのかもしれない。
ここ数年、カリオト商会の経営が傾いているという噂が囁かれ始めた時、デュナンは「馬鹿なことを」と一笑に付した。
長年ルナラムの経済を支えてきた老舗が、そう簡単に揺らぐはずがないと信じて疑わなかったのだ。
次に、遠く離れた辺境の地ドナヘーラに支店を出すという噂が流れた時も、「そんな採算の取れそうもない場所に作るわけがない」と、現実味のない話として聞き流した。
実際に商会がドナヘーラの土地を買い、建物を建て始めたと聞いた時でさえ、「物好きな人間もいるものだ。あんな僻地へ飛ばされる者はさぞ大変だろう」と、どこか他人事のように憐れんでいた。
まさか、その「憐れむべき人間」が、自分自身になろうとは、夢にも思っていなかったのだ。
「会長…、私はこれまで、このカリオト商会のために、全身全霊を捧げてきました。寝る間も惜しんで働き、売上向上に貢献してきたつもりです。なぜ、この私が、ドナヘーラのような場所へ行かねばならないのでしょうか…?」
絞り出すような声で問いかけるデュナンに、年老いた会長は重々しく頷いた。
「メンデス君、キミが我が商会のためにどれほど尽力してくれたか、それは私も重々承知している。キミの働きぶりは、誰よりも高く評価しているつもりだ。」
その言葉に、デュナンの胸に一縷の望みが灯る。
「では…!」と身を乗り出しかけたデュナンを、会長は静かに手で制した。
「だが、キミも聞き及んでいるだろう。ここ数年、カリオト商会の売上は、残念ながら下降線を辿っている。原因は明白だ。数年前に彗星の如く現れた『マーカット商会』…彼らの影響だよ。」
マーカット商会。
その名は、ここ数年のルナラムで聞かない日はないほどだった。
流行に敏感で、常に新しい商品を次々と市場に投入し、若者を中心に絶大な支持を集めている新興の商会だ。
彼らの斬新な販売戦略と豊富な品揃えの前に、伝統と格式を重んじるカリオト商会は、明らかに時代に取り残されつつあった。
古くからの顧客は離れ、新しい客足は遠のく一方。
老舗の看板だけでは、もはや立ち行かなくなりつつあるのが現実だった。
「しかし、会長! それならば尚のこと、私のような経験のある者をこのルナラム本店に残し、マーカット商会に対抗するための策を練り、売上回復に貢献させるべきではありませんか!なぜ、わざわざ私を本店から引き離すのですか!」
デュナンの声には、抑えきれない焦燥と不満が滲んでいた。
「メンデス君、落ち着いて聞いてくれ。」会長は諭すように続けた。
「我々は、もはやルナラムだけでマーカット商会と正面から渡り合っていくのは難しいと考えている。だからこそ、新たな活路を見出す必要があるのだ。ドナヘーラは未開拓の地だ。そこには、まだ我々が掴める商機が眠っているかもしれない。キミのこれまでの経験と知識、そしてその熱意を、私は信じている。キミの力で、ドナヘーラという新天地を切り拓いてほしいのだ。これは、落ちぶれゆくカリオト商会にとって…最後の挑戦なのだよ。」
会長の瞳には、悲壮な覚悟と、デュナンへの期待がない交ぜになった、複雑な光が宿っていた。
その真摯な言葉の重みに、デュナンはもはや反論する気力を失っていた。
これまで自分が捧げてきた忠誠心と、商会への愛着が、会長の言葉を拒絶することを許さなかった。
「会長…、これは…決定事項、ということでよろしいのでしょうか…?」
か細い声で尋ねるのが精一杯だった。
「…すまないが、決定だ。」
会長は短く、しかし断固として告げた。
「ドナヘーラまでは、馬車で2週間はかかるだろう。道中の費用と馬車は商会で手配する。明日の朝一番で、出発してくれたまえ。」
そう言うと、会長はデュナンの顔をまともに見ることなく、踵を返し、重い扉の向こうへと消えていった。
残された執務室には、重苦しい沈黙だけが漂っていた。
周囲で事務作業を続けていた他の職員たちの視線が、痛いほど突き刺さる。
同情、憐憫、そして安堵。自分ではなかった、という安堵の色。
それらの無言の視線に耐えきれず、デュナンはその場に力なく崩れ落ちた。
14年間積み上げてきたものが、砂上の楼閣のようにガラガラと崩れ去っていく音を聞いた気がした。
――――――
翌日の早朝、空が白み始めた頃、デュナンは最低限の身の回りの品を詰め込んだ革袋一つを肩にかけ、まだ人影もまばらな街の広場へと足を運んだ。
夜露に濡れた石畳がひんやりと冷たい。
広場には朝の静寂を破るように数羽のハトが飛び交い、日課の散歩を楽しむ老人の杖の音が小さく響いていた。
そして、その広場の一角に、これから始まる長い旅路の相棒となるであろう、一台の幌馬車が停まっていた。
馬車の横には、手綱を握りどこか所在なさげに立つ男がいた。
デュナンより少し年上だろうか、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。
おそらく、商会が手配した馬車の御者兼従者なのだろう。
「すまない、カリオト商会の者だが。」
デュナンは努めて平静を装い、男に声をかけた。
「おお、ひょっとしてメンデスさんですかい? お待ちしておりやした。」
男は少し驚いたように顔を上げ、愛想笑いを浮かべた。
「ああ、そうだ。これからドナヘーラまで、貴方と二人、長い旅路になるな。まあ、道中退屈せずに済みそうだ。」
少しでも気を紛らわせようと、デュナンは無理に明るい口調で言った。だが、男の返事は予想外のものだった。
「へ? いえ、あっしは行きませんぜ?」
「…何!?」
思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。従者がついてこない?そんな馬鹿な話があるだろうか。
「まさか…私一人でこの馬車を? ドナヘーラまで?」
「へえ。ドナヘーラなんて好き好んで行きたがる人間なんていやしませんよ。あんな辺境の地、正直言ってゴメンですぜ。」
男は悪びれる様子もなく、肩をすくめた。
その言葉には、辺境への侮蔑と、面倒事に関わりたくないという本音が透けて見えた。
「まあ…そうだよな…」
デュナンは力なく呟いた。
商会の人間でさえ、誰も行きたがらない場所なのだ。見ず知らずの御者が同行を嫌がるのも、無理はないのかもしれない。
「旦那、道中お気をつけて。ご武運を祈ってますぜ。」
男は形ばかりの激励の言葉と共に、デュナンに軽く頭を下げると、まるで厄介払いでもするかのように、そそくさと広場を後にしていった。
後に残されたのは、デュナンと、一台の馬車、そして繋がれた二頭の馬だけだった。吹き抜ける朝の風が、やけに肌寒い。
「…仕方ない、行くか。」
他に選択肢はなかった。
デュナンは重いため息をつき、覚悟を決めて馬車の運転席によじ登った。革の手綱を握る手に力を込める。
「ヒヒンッ」
馬が小さく嘶いた。デュナンは馬の背に軽く鞭を入れた。
ギシリ、と車輪がきしみ、馬車はゆっくりと動き出す。
慣れ親しんだルナラムの街並みが、少しずつ後ろへと遠ざかっていく。
生まれ育ち、青春の全てを捧げたこの街を、32歳にして初めて離れる。
行く先は地図の端に記された、名も知らぬ辺境の地、ドナヘーラ。
不安と孤独、そしてほんのわずかな、未知への好奇心。様々な感情が入り混じる中、デュナンの長い、長い旅が、今始まった。
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