4話「Great Father ~偉大な父~」
「なるほどね。確かにここは良い隠れ家」
キリエは廃墟となった教会の屋根裏に作られた、ミティスの隠れ家の中で感心していた。最低限度の生活環境も整えられており、湿気たカビの匂いと、ネズミの糞と、その落とし主の足音と、蜘蛛の巣と、所々が腐って抜け落ちそうな天板さえ気にしなければ、生活できないことはないだろう。
つまるところ、快適さとは無縁の場所である。
「それで……ミティスはあのカノンフェイスとかいう化け物に喧嘩を売った記憶はある?」
「まさか。あんなヤバそうなやつに狙われるのは初めてだよ。アタシが戦ってきたのは、娼婦相手にしか強気に出れないような、つまらないチンピラだし……いつつ!」
ミティスは苦悶の声を上げた。キリエが彼女を助けるために突き飛ばした際にぶつかった脇腹が、大きな痣になっていたのだ。
「ごめん! 痛かったよね」
「これくらい何ともないよ。大体あの時キリエがぶつかってくれなかったら、アタシは今頃ぺちゃんこだ」
ミティスはそう言いながら桶の中の水に布巾を浸して、その布を患部にあてがう。
「それじゃあ……あいつを何とかする作戦を考えようか。あんな奴に追い回されたんじゃ、とてもじゃないけど故郷になんて帰れなーー」
キリエのスマリトがけたたましい音を響かせたせいで、二人は屋根に穴を開けてしまいそうな勢いで飛び上がった。
「こんな時に……!」
キリエはすぐさまスマリトを取り出し、通話機能を開始した。
「今取り込み中! 誰だか知らないけど後にしてくれる!?」
[おや? これは意外だな。すでに死んでしまったものかと思っていたのだが……]
「は!? どういうこと!? あんた一体何者なの!?」
[君はリディーマーズに協力したことがあるだろう、ゴールド・ブレイド。それなら『血塗れの導き手』の名を聞いたことは?]
その声を聞いたキリエの顔は、カノンフェイスを前にした時以上に真っ青だった。
「あんた……スマイリーズの長の……!?」
[如何にも。毒婦の街を見張らせている部下から事情はすべて把握してるよ。どうやら君とミティスは二人揃って命の危機に瀕しているようだね」
「……!]
キリエは「導き手」の他人行儀な振る舞いに絶句する。しかし、すぐさま隠れていることも忘れ、スマリト越しに怒鳴りつけ始めた。
「ふざけんな!! とっととあの殺し屋を引き下がらせてミティスと娼婦たちを解放しろ!! この子をどれだけ苦しませれば気が済むってんだよ!!」
「……!」
ミティスは口を手で塞ぎ、嗚咽が零れてくるのを抑えていた。この街に来てから、自分のために本気で怒ってくれる人間を見たのは初めてだった。
[あー。残念だがそれは無理だ。事態は君が考えているより複雑なんだよ、ゴールド・ブレイド]
「どういうことだ! 説明しろ……!」
[いいだろう。ただ、少し時を遡ることになるぞ]
「導き手」は友人相手に気軽な世間話でもするかのような態度で話し始めた。
[昔々、あるところに竜族と人間の夫婦がいました。二人は子宝にも恵まれ幸せでしたが、旦那の方は家族にあまり知られたくない過去がありました]
「導き手」は話を続ける。
[旦那は若い頃、少し『やんちゃ』だったのです。やんちゃといっても学校の授業をサボるくらいのものなら良かったのですが、気に食わない同級生に過激な『スキンシップ』をしたり、遊ぶ金を『借り』たりしていたようです]
キリエはこの話の結末が碌でもないものであることを察し始めたが、「導き手」は構わず話し続けた。
[彼にとって『少々手荒に接した』同級生が、苦悩の末に自ら命を絶ったことなど、すぐに忘れるくらいどうでもいい話でした。でも、身内を自殺に追い込まれた遺族にとってはどうでもいい話ではありません。その同級生の兄は彼が家族を持ったタイミングを見計らって、スマイリーズに復讐の依頼を出しました。しかし、ここで一つ問題が発生します]
「導き手」の口調が過去を懐かしむような雰囲気に変わる。
[依頼人は当事者ではなく、ハーフドラゴンの娘の命を奪うことを要求したのです。当時の『導き手』は穏健派であり、人殺しの娘に産まれただけの、罪のない女の子を巻き込むことを躊躇いました。『導き手』は依頼人を説得しようとしましたが、上手くいきませんでした。業を煮やした依頼人はとうとうスマイリーズとは別の殺し屋と契約を結んでしまいます]
キリエがミティスの方を見ると、彼女はキリエ以上に真っ青な、もはや死人のような顔色で「導き手」の話を聞いていた。
[当時の『導き手』は決断を迫られました。復讐の神の教えに背き、人殺しの娘を守るために殺し屋を始末するべきか。それとも人としての道に背き、娘が理不尽に殺されるのを黙って見過ごすか。最終的に『導き手』は中庸の道を取りました。ひとまず6歳になった娘を『檻』と呼ばれる、認識妨害の効果も持つ結界に覆われた場所ーー『毒婦の街』に匿ったのです。『導き手』は娘の安全を確保してからその後の対応を考えるつもりでしたが、程なくして命を落としました……気の毒に。この死は周囲の人間はおろか、本人にとっても予想外だったため、娘の存在に後任の『導き手』が気づく頃には9年の月日がーー]
「嘘だ!!」
とうとう我慢できなくなったミティスが、キリエの手からスマリトを奪って怒鳴りつける。
「あんたの言ってることは全部デタラメだ!! まるで父さんのせいでアタシがこの街に閉じ込められたみたいじゃないか!!」
[信じられないなら、実際に本人に聞いてみればいいじゃないか]
導き手は反論する代わりにそう告げた。
「え……?」
[君の父親とは既に連絡がついている。今から彼のスマリトに繋ぐとしよう]
ミティスはあ然とした表情で立ち尽くす。
少しの沈黙の後、スマリトから壮年の男性の声が聞こえてきた。
[ミティス……なのか?]
「とう……さん?」
ミティスは震える手でスマリトを耳に押し当てる。とてもではないが、十年以上待ち望んでいた家族との会話をしている様子ではない。
[本当に生きてたのか!? 今どこにいーー]
「それより……『導き手』の言っていたことは本当なのか……?」
[え……]
ミティスは父親に尋ねた。金色の瞳の中の瞳孔が開いている。
「父さんが昔人を自殺に追い込んだって……そのせいでアタシがスマイリーズに拐われて、『毒婦の街』に閉じ込められたって……」
スマリトの向こうから息を呑む音が聞こえた。
「なあ、嘘だって言ってくれよ、父さん……アタシ、信じるからさ。『導き手』の言っていたことは全部デタラメだって。言ってくれれば、アタシ、父さんの方を信じるから」
ミティスは藁にもすがり付くような表情で、スマリトの向こうの父親に問い掛ける。
数秒の間、沈黙が続いた。
もしこの時、彼に過去の過ちを隠し続ける覚悟があれば。あるいは過ちを認め、娘に赦しを乞う素直さがあれば、ミティスはほんの少しでも救いを得られたかもしれない。
だが、スマリトの向こうから帰ってきたのは、強く正しい父親の救いを信じ続けてきた少女にとって、残酷過ぎる言葉だった。
[ちがう……俺は、俺は何も悪くない! 俺は……そうだ。あ、あいつが悪いんだ! いつもビクビク人の顔色伺いやがって、ムカついたんだよ……! 俺をムカつかせたあいつが悪いんだ! 俺は無実だ! 畜生、死んでからも人に迷惑かけやがって……! あいつもスマイリーズもみんなクズだ! 俺だけがまともなんだ! なあミティス。お前なら分かってくれるだろう! 父さんの娘なんだもんな……?]
ミティスは無言だった。側にいたキリエが何も言えなくなるほど冷たく、重い沈黙が、隠れ家の空気を支配していた。
ミティスにとって毒婦の街での9年間は、それが例え苦痛と絶望に満ちあふれていたものだとしても、彼女自身の人格形成に大きく関わっていることは否定のしようがない。
この街でごみ漁りとして這いつくばりながらも生き延び、やがて「三日月の守護者」として理不尽な暴力と闘ってきた彼女にとって、弱者への理不尽な暴力は最も許しがたいものだった。
だからこそ、その理不尽な暴力を用いた過去の因果で娘を危険に晒し、あまつさえその事実に向き合おうともしない、他責性の塊のような父親に対して、ミティスが返す言葉は一つだけだった。
「二度と」
鉛のような重々しさを纏った声。
「二度と私の前に姿を現すな」
ミティスは父親との通信を切断し、糸が切れた操り人形のようにがくんと俯いた。
[ふむ……君の父親は実に人間味あふれる男だな]
代わりに、スマリトから導き手の人を喰ったような声が聞こえてくる。
[そういうことだ。悪いがうちの優秀な人材を、このまま死んでくれたほうが丸く収まるような者のために、危険に晒すきにはなれんよ。ああそれともう一つ。君の守ってきた『罪のない哀れな』娼婦たちについてだが……彼女たちは主に自身の魅力によって男性の財産や尊厳を搾取してきた、『スマイリーズ』の標的だ。復讐の対象であることに変わりはないが、殺されるほどの罪ではないとされた女性はこの『毒婦の街』に閉じ込められーー]
ミティスはスマリトの通信を切断してキリエに押し返すと、隠れ家の出入り口である縄梯子の方へと歩いていく。
「ちょっと、どこにいくつもり!?」
キリエはミティスの腕を掴んで止めた。
「カノンフェイスとかいうやつのところだ」
「独りで言ったら死んじゃうよ!」
「死ぬべきなんだよ!」
ミティスはキリエの腕を振り払って叫んだ。
「キリエも聞いてただろ! あの殺し屋はアタシの命を狙ってきてるんだ! アタシが殺されれば解決する話だ!」
「なんでミティスが死ななきゃいけないの!? そんなのおかしいよ!」
「なんでって……決まってるだろ! アタシがあのクズ男の血を引いているからだ! アタシが……アタシが死ねば全部……おさま……る……」
耐えきれなくなったミティスの両目から、大粒の涙が零れ落ちる。
「……死にたい……」
顔を抑えて咽び泣くミティス。いつか、助けに来てくれると信じていた存在に裏切られた少女を前にして、キリエは何も言うことができなかった。
「ねえミティス……とにかく早まっちゃだめ。なんとかあの殺し屋を出し抜く方法をーーうぶっ!」
キリエが手を差し伸べるのと同時に、彼女のみぞおちにミティスの拳がめり込んだ。完全に不意を突かれたキリエは為す術なく意識を手放す。
「……この隠れ家にいれば安全だ」
ミティスは真っ赤に泣き腫らした目で気絶したキリエを見下ろした。
「こんな茶番に巻き込んでごめん。あんたが目を覚ます頃には、全て終わってるから」
ミティスはそう言って縄梯子の方へと歩いていく。そして、最後に振り返り、倒れているキリエに向かって、精一杯の泣き笑いを浮かべた。
「ありがとうキリエ。大好きだよ」