2話「Peaceful Life ~平和な人生~」
「見ーつけた!」
キリエはそう言って、毒婦の街で最も高い建物の屋根の上に佇む「三日月の守護者」の後ろに立つ。
三日月の明かりに照らされる彼女の姿は、普通の人間のそれとは大きく異なるものだった。
両手足は屈強な鱗に覆われ、先端には鋭い爪が生えている。そしてその背中には、巨大な蝙蝠のような翼が生えているのだ。ーー尤もその翼膜にはいくつもの小さな穴が痛々しく開いており、月明かりが漏れる様はまるで星座のようだった。
「……なぜアタシを付け回すんだ?」
「貴女をこの街から助けに来たんだよ」
「助けなんか要らない。この街からは誰も逃げられやしないんだ」
少女が振り向いた姿を見たキリエは、息を呑んで言葉を失った。
顔立ちそのものは、キリエのベリーショートより更に短く切り揃えられた銀色の髪がよく映えており、とても美しい。しかし、顔面の左半分が醜く焼け爛れている。
「答えろ。一体誰の命令でアタシをこの街から連れ出そうとしてるんだ」
白く濁った左目をぎょろぎょろと動かしながら迫りくる少女に圧倒されながらも、キリエは口を開いた。
「私に依頼をしてきた人は……本当かどうかは知らないけど、貴女の父親だって名乗ってたよ」
その言葉を聞いた瞬間、少女は歩みをピタリと止めた。能面のようだった表情に俄に血が通い始め、やがて、左目と違いまともに機能しているであろう右目からは大粒の涙が溢れ始める。
「とう……さんが……?」
キリエは涙を溢す彼女の首に、小さなロケットがかけられていることに気がついた。
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アタシの名前はミティス=デリア。人間の男と竜族の女の間に産まれた、いわゆるハーフドラゴンだ。
人間と竜族の間には昔色々と揉め事があったらしいけど、今の時代はそれほどいがみ合ってはいないらしい。だからアタシみたいな存在も珍しくはなかったと思う。
確か6歳まではこれといって問題はない、平凡な人生を送っていた。
でもその年にスマイリーズの刺客の手でこの「毒婦の街」に攫われてから、アタシの人生は一変した。
訳も分からず両親から引き離されて、娼館の雑用を押し付けられる毎日が始まった。泣いても喚いてもどうにもならないって気がついてからは、只々食べるために、必死で働いた。それでも今よりは物騒なことからは離れた、だいぶマシな生活だった。
生理が来たら、娼館の主に客を取るように言われた。毎日の過酷な雑用には慣れっこだったアタシでも、知り合ったばかりの男とベッドを共にするのはゴメンだった。
だから、アタシは客を取れない姿になることにした。こっそり手に入れた硫酸を自分の顔にかけて、不幸な事故を装ったんだ。
子供の幼稚な作戦の意図はすぐに見透かされた。娼館から追い出されたアタシを待っていたのは、野良犬みたいにごみ漁りをして生きる、娼婦以下の日々だった。
ある日いつものようにごみ漁りをしていると、路地裏の奥で娼婦が男に殴られている現場に出くわした。アタシは無我夢中でその男に殴りかかると、気がついたときには男は地面に横たわって、死にかけのカエルみたいにピクピクしていた。それでようやく、アタシは自分の腕っぷしが強いことに気がついたんだ。
それからアタシはこのクソみたいな街で自警団の真似事を始めた。娼婦たちが少しでも希望を持って働けるようにね。叩きのめしたクズの金品や、助けた娼婦からのお礼で、ごみ漁りをする必要はなくなったけど、辛い人生であることに変わりはない。
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「……でも、やっとこの街から抜け出せる気がしてきたよ。父さんが、『ゴールド・ブレイド』を送り込んでくれるなんて」
ミティスは瞳から涙を流しながら、ロケットの中の写真を見つめていた。たくましい男性と美しい竜族の母親。そして二人の間にはきれいな肌の女の子。全員幸せいっぱいの笑顔で写っている。
「父さんがこのロケットをくれた時、言ってたんだ。『お前がこいつを大切にしてくれる限り、父さんはいつでもお前の味方だ。辛いことがあっても、必ず助けに行ってやるからな』って」
「いいお父さんだね。うらやましいな」
キリエは腰を下ろして呟いた。
「……あんたのところはそうじゃないのか?」
「お父さんは普通にいい人だった。問題は母親の方。気に入らないことがあると、愛人と一緒になって、お父さんに暴力を振るうような奴だった。ゲラゲラ笑いながらね」
「……そう……か……」
「でもそこで黙らないのがアタシっていう人間なの。16の夏にとうとうブチ切れてやった。家宝の刀でクソアマの顔面とブランド品をずたずたに切り裂いてから、捨てられてたバイクを自分で修理して夜の街を走り出したの。そしたらトラックに轢かれそうになって……気がついたらこの世界に転生してたってわけ」
「ワイルドだな……」
「この街から出たら、親を大事にしてあげてね。それで、私のことは信じてくれる?」
キリエがミティスに尋ねる。
「勿論だ。でも一つ問題がある」
「問題って?」
「ついてきてくれ。実際に見たほうが早い」
そう言うとミティスは屋根から飛び降りて翼を広げ、ムササビのごとく滑空していく。キリエは慌てて建物の屋根伝いに飛び移ることで、ミティスの後を追いかけた。