~人形化病~
「愛梨、は」
俺は腑抜けた声を出していた。
「よく聞け、修二。愛梨ちゃんの住む地区は――」
瞬間、父親を突き飛ばし家から飛び出していた。地面は雨のせいでぬかるんでおり、裸足のままでは走りづらい。壊れた建物、鼻腔に広がる血生臭さが体を震え上がらせる。足の裏になにかが刺さった。ぬかるんだ地面に足を取られて転んだ。関係ない。すぐに起き上がる。走る。道中に転がっている腕とか胴体とか泣く人とか、そういう景色が全部嘘だったらいいのに。爆発して消えてしまえばいいのに。
奥歯をかみ締めると、転んだときに口に泥でも入っていたのか、じゃりと音がした。がむしゃらに走り続け、ようやく村の西地区にたどり着いた。目の前に広がる光景をゆっくりと見渡して、俺はよかったと胸をなでおろす。
西地区はほぼすべての建物が昨日の状態のまま残っていた。道端で寝転がっている人間の体からも血は一滴たりとも流れていない。
「みんな、無事だ。愛梨も無事だ」
愛梨は生きている。よかった。無事だ。
降り注ぐ雨が体から熱を奪っていく。
寒い。
冷たい。
愛梨の家も他の家と同じように無傷だった。
「愛梨、愛梨」
鍵が壊されていたドアを開けて家の中に入る。愛梨の部屋は二階だ。部屋の右端にある階段の前で、愛梨の父親と母親が倒れている。血は流れていないから二人とも生きている。
ぴくりとも動かない二人の体をまたいで階段に足をかける。上っていく。ほのかな甘い香りが家の中に充満している。花畑の中を進んでいるみたいだ。
「愛梨。遊びに来たぞ」
愛梨の部屋の扉を、遊びに来たときと変わらないテンションで開けた。
「来たぞ。愛梨」
言いながら部屋の中を見渡す。
愛梨はベッドの上で寝ていた。
薄暗くて表情はよく見えない。
「昨日はありがとな。ケーキ、めっちゃ美味しかったぞ」
ゆっくりとベッドまで歩み寄る。返事はない。寝ていると思ったがどうやら違ったようだ。
「なに笑ってんだよ? なんか俺、おかしいこと言ったか?」
奇妙だ。
ただそれだけを思った。
それだけしか思えなかった。
「なあ? 愛梨?」
愛梨は異様なほど笑っていた。口角を吊り上げて、目を三日月の形にしたまま、表情が一向に変わらない。
「ケーキ、美味しかったぞ」
肩をゆする。反応してくれない。口元に耳を近づけると、呼吸音がしっかりと聞こえてくる。
「ちょっと、生クリームが多かったけどな」
笑顔の愛梨と目を合わせる。愛梨が笑っているとそれだけで嬉しかったはずなのに、今はそうではないとわかってしまう。愛梨が生きていることを確認したのに、頭が嬉しいと感じていない。笑顔のまま天井を凝視する愛梨のことを、脳細胞が人間だと認識してくれないのだ。人形だと認識するのだ。
「ケーキ、世界で一番美味しかったって……」
言って、愛梨に負けじと白い歯をむき出しにする。
俺は笑っているぞ、と。
それは誰に対してアピールしているのか。
愛梨のきめ細やかで滑らかな頬に、顎から滴った涙が一つ二つと落ちていく。
「これも嘘だって言ってくれよ」
ゆっくりと愛梨の体を持ち上げて抱きしめる。
「ドッキリだろ? 俺を驚かすための」
愛梨は決して抱きしめ返してはくれない。
照れてしどろもどろになることもない。
笑顔のまま、俺の肩にあごを乗せている。