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人形化病 ~ハピネスシンドローム~  作者: 針乃筵
第一章 復讐 古谷修二
6/9

~その日~

 その夜。

 眠りにつこうとしたのだが、まだ口の中が甘ったるくてなかなか寝つけなかった。やはり生クリームの量が多かったのか。愛梨の手作りケーキはそんなこと関係なく美味しかった。サプライズに協力してくれた母さんと……まあ妹にも感謝しないといけない。

 

 頭の中に広がるケーキの残像を振り払おうと寝返りを打つ。隣の布団で寝ている母さんも、そのまた隣で寝ている妹も、気持ちよさそうに寝息を立てている。父さんは今日も反乱軍の会議とかで帰ってこないのだろう。


 だめだ、今日は全く眠くならない。

 あれをやるか。


 目を閉じたまま仰向けになる。ちょうどへその下あたり、丹田とかいう場所を意識しながら深呼吸を繰り返す。幼いころ、なかなか寝つけなかった日に母さんに教えてもらった方法だ。これを繰り返すとだんだん心が落ち着いて眠れるようになる。この方法を試して眠れない日はなかった。


 三秒間で肺いっぱいに空気を吸い込んで、十秒使ってゆっくりと吐き出す。二度、三度と繰り返す。頭がぼうっとしてきた気がする。このまま寝てしまえば、夢でも愛梨に会えそうだ。

 そう思ったときには、すでに意識を失っていた。


 それから、どれだけの時間が経ったのかはわからない。なにかが体の上に乗っかっているような圧迫感のせいで目が覚めてしまった。


 結局、夢は見なかったな。

 父親はもう帰ってきただろうか。

 朦朧とする意識の中でまぶたを開いていく。

 体の上に覆いかぶさるようにして、母さんが乗っかっていた。


「ん……母さん?」

「声出さないで。お願いだからじっとして。動かないで」

 耳元でささやかれる母さんの声を聞いて、背筋が凍りついた。横目で妹が寝ていた方を見ると、

「……あぁ」

「だから喋らないで」


 血にまみれた妹の傍で、誰かが背を向けて立っている。窓から差し込む月明かりに照らされた髪は腰まで伸びており、紅色がべっとりと付着したナイフを所持している。防具のようなものは一切身につけていない。闇と同化するくらい真っ黒な服を着ていた。


「……あ……あ」

 吐き気と震えが全身を支配していく。いったいなにが起こっているのか。目を強く閉じて、息を殺して母さんの下で死んだふりを続ける。


 振り返るな、そのまま去ってくれ。


 家の外から二度、爆発音が続けて鳴り響いた。


 神様に願いが通じたのか、その人間は家から出て行った。なおも母さんの下で目を閉じ続ける。外から悲鳴が聞こえても俺はただただ死んだふりを続ける。


 お願いだから、誰も入ってくるな。

 誰か助けてくれ。


 死の恐怖に震え慄きながら目を閉じ続ける。遠くの方から、小動物の足音のようなにかが聞こえ始めた。


 ぽつ、ぽつ。


 なんの音だろう。だんだんと近づいてくる。


 ぽつぽつぽつぽつ。


 気がつけば、優しい雨の音が鼓膜を何度も揺さぶっていた。


 ぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。


 目を閉じてからどれくらい時間がたったのもわらわからない。


 ぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。


 湿気と血生臭さが混ざった空気が鼻から肺に流れ込んでくる。気持ち悪さに耐えかねてようやく目を開けた。守ってくれた母さんに話しかけた。

「母さん。大丈夫――」

 言葉がそこで止まる。

 目を半分だけ開いたまま、母親の顔は静止していた。


 ぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつぽつ。


 澄んだ雨音だけがよく聞こえる。


 ぽつぽつぽつぽつ。


 脳をクリアにしていく。


 ぽつぽつ……ぽつ…………ぽつ――。


 ついになにも聞こえなくなった。まっさらな脳内にゆっくりと浮かんでくるのは、雨の音ではなく、ただの現実。


 ――死ん、でる?


 理解した瞬間、悲鳴を上げながら体を横に滑らせていた。支えを失った母親の体はそのまま布団にぶつかる。鈍い音が室内に響き渡る。

「母さん?」

 腰が抜けて立ち上がることすらできない。座ったまま後ずさりを繰り返していると、壁に背中がぶつかった。これ以上下がることはできないのに、足が布団を蹴って体を後ろへ移動させようとし続ける。

 よく見ると、真っ白だった布団は血で真っ赤に染まっていた。


「あああああああああああああああああああ」


 足が布団を踏みしめるたびに、布団に染み込んだ血がじゅわりと染み出して、足の爪を真っ赤に染める。母親の奥で瞑目したまま動かない妹の頬にも血が飛び散っている。


「由香……? 母さん?」

 怖い。信じられない。嘔吐物が口の中に溢れ返り、そのまま口の端から垂れ流れているのが分かった。

雨は次第に激しさを増していく。


「無事か! ……修二」

 ようやく父親が帰ってきた。部屋の扉を開けたずぶ濡れの父親は、一瞬目を見張り、すぐに駆け寄ってくれた。きつく抱きしめてくれた。


「父さん。俺……俺……」

「なにも言わなくていい」


 そう言われた瞬間、体の中でなにかががらがらと音を立てて崩れ去っていった。恐怖、絶望、悲しみ。そういった負の感情を幼子のように泣くことでしか表現できない。父親にしがみついて泣き続ける。気持ち悪い。気持ち悪い。脳裏に刻まれた長髪が、ナイフが、吐き気へとつながっていく。


 ケーキの甘ったるさが、ふとよみがえった。


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