~焦燥~
俺は幼馴染の津村愛梨が入院している病院にやってきていた。
もともとまっさらだったはずの病室の壁には、濃灰色の汚れがいくつもこびりついている。
衛生的とはかけ離れているこの病室で、愛梨は古びたベッド上で満面の笑みを浮かべていた。
「ほんとに、愛梨はいっつも笑ってるよな」
四人用の病室に八人も押し込められているからなのか、ここに来るたびに息苦しさを感じてしまう。
「ケーキ、今度はもっと美味いやつ、作ってくれよ」
優しく語りかけても、愛梨は返事をしてくれない。この病室に押し込まれた他の患者と同じように、笑ったまま寝たきりになっている。
病名は表情固定化症候群。
通称、ハピネスシンドローム。
人形化病とも呼ばれている。
表情が笑顔で固定化され、しゃべることも動くこともできなくなる病気だ。
治療法はまだ見つかっていない。
「でも、愛梨は料理するの苦手だからなぁ」
さかのぼること一年。植民地同然の扱いを受けていたエシリア村は、大量の貢物を王都に献上することで、なんとか村民の安全だけは保障してもらっていた。しかしその年は、飢饉と不作で貢物を用意できなかったのだ。
結果、見せしめのために王都から軍隊が派遣され、その際に人形化病を引き起こす化学兵器が使用されてしまった。
「俺の母さん料理上手かったから、教えてもらってたらよかったのにな」
村にとってこの患者の存在は、ただでさえ肉薄している財政を圧迫するものでしかなかった。死んでしまえば金はかからないが、治るかどうかもわからない病気で生き続けている患者には莫大な金がかかる。助かるかもしれない、という絶望を覆いつくすためだけに生まれた希望ものっかるから、さらにたちが悪い。
母親と妹を王都の軍人に殺され、幼馴染までも死んでいるのと同じような状態。これでどうしたら恨みの感情を抱かずにいられるだろうか。母と妹を殺した人間、残忍な化学兵器を開発した人間を殺したいと俺が思うのは、間違っているのだろうか。
「じゃあ、俺もう行くわ」
逃げるように病院を後にする。愛梨が常に笑っていることも、なにもしゃべってくれないことも、なにもできない自分も、すべてが腹立たしい。
病院の外に出ると、身を切るような冷たさの風が苛立ちを逆撫でしてきた。
雲の切れ間からのぞく夕焼けが焦燥感を駆り立てる。
村には痩せこけた子供、痩せこけた老人、痩せこけた大人しかしない。村民が背中を丸めて歩くさまが、背景の崩れた建物によく似合う。
「……俺が絶対殺す」
足元に落ちていた小石を思いきり蹴飛ばす。
小石はしばらく転がって、路上の片隅で横たわっている人間の肩にぶつかった。
その人間のもとまで歩み寄り、死んでいることを確認すると、叫びたくなる気持ちを堪えて家まで走って帰った。