~羨望~
エシリア村のはずれにある丘の上には、かつて村のシンボルだった大きな桜の木がある。春を迎えるたびに村民たちはその木を囲んで、飲み、踊り、唄い騒いだらしいのだが、それはもはや遠い記憶。村の衰退を表す鏡のごとく枯れてしまったのだ。花が咲くことも蕾が芽吹くことも、もうないだろう。
季節は晩秋。
俺は枯れた大木の幹を背もたれにして座っていた。澱んだ灰色の空を見つめながら、沸々と湧き上がる怒りをなんとかして沈めようとする。まだ昼過ぎだというのに太陽は全く姿を現さない。この丘から少し下ったところには、四角い石を置いただけのお墓が点在する集合墓地があって、俺の母さんと妹はそこで眠っている。ここに来る前に、二人が大好きだった黄色い花――名前は忘れてしまった――を二輪、墓前に供えてきた。
「俺はもう、弱くない。 父さんはいつまで俺を子供のままだと」
遠くの空にいる二匹の渡り鳥が、はるか彼方へ真っすぐに飛んでいく。目的地までの最短経路を知っているかのような飛び方が気に食わない。舌打ちをしてしまう。
「息子のことを大切に思ってるからこそだろ。そんな父親がいることって、羨ましいよ」
隣でポケットに手を突っ込んで立っている誠也から言われる。風になびく前髪の隙間からは涼しげな切れ長の目が覗いていて、彼の穏やかな雰囲気がその顔の作りに表れている。睫毛は男にしては長い方だ。目の下にできている深いくまは、彼が忙しく動いていることの象徴でもある。
「大事に思ってるなら、息子の頼みくらい聞いてくれよって思う。俺はもう子供じゃない」
「毎回言うけどさ、俺だって修二には復讐なんて馬鹿みたいな道、選んでほしくないと思ってるよ」
「だからそんなの誠也が言ったって説得力ないんだって。初めて会ったときは応援してるみたいなこと言ってたくせに」
矛盾した発言をする誠也に対して、不機嫌をぶつける。
「確かにな。反論の余地すらない。もしかすると、仲良くなるための口実だったのかもしれないなぁ」
その返答を想定していたかのように、笑って軽く受け流された。
「笑い事じゃない」
「悪いわるい。ま、でも人の感情は水みたいに形を持たないって言うだろ?」
「そんなの聞いたことねぇよ」
「人の考え方はそのときに置かれてる状況で変わるってことだよ。まったく、心ってのは厄介なものだなぁ、ほんとに」
「もういいよ」
ぶっきらぼうに言って、俺は不毛な会話を終わらせた。そのまま俯いて、怒りを押し殺そうと唇を噛んだ。
父親との関係を俺が嘆くと、誠也は決まって本気なのか冗談なのかわからない態度で受け流してくる。そのときの誠也は表情こそ笑っていても、瞳は虚ろで質量を持っていない。俺が何度もこの話題を出してしまう理由はそこにあった。
誠也が俺と同じ側の人間なのだと思うことができて、安心するからだ。
「でもな、修二」
真剣な顔つきに戻った誠也が、そう言って一歩前に出た。
なにを言うのかと、哀愁漂う誠也の背中をじっと見つめる。
「俺みたいな生き方って、けっこう格好悪いよ」
「俺はそう思わない」
「そういうところ、修二は頑固だよな」
振り返った誠也は、とぼけたように笑いながら続けた。
「俺がもし修二だったら、友達が復讐に身を委ねようとしたら全力で止めるよ。そんな生き方、馬鹿みたいだって」
「本当だったらそれが正しいのかもしれないけど、俺の正しいはそうじゃない」
「百億の人間がいたら百億通りの正義があるってか? そんな偽善、ただのまやかしだよ。正義は人間がたどりつけない高みに一つだけあって、人間が自分でほざく正義なんてただの自分勝手なプライドだ」
「だから誠也に言われても説得力ないって」
そう言えば誠也がまた困ったように笑うだろうと、俺は思った。
「まあ……そう、なんだよな。結局は」
けれど誠也は表情を曇らせて、黙り込んでしまった。体に触れるとそこからボロボロと崩れてしまいそうだ。少しだけ背中を丸めた立ち姿からは異様な儚さが感じ取れる。
「誠也?」
どうしたのかと名前を呼ぶ。返事はない。重苦しい空気が二人の間に立ち込め始める。風に煽られて軋む木の枝の乾いた音しか聞こえない。
「おい誠也? だからどうしたんだよ?」
「ああっ……いや、別にどうしたってわけじゃないけど……さ」
肩をびくりとあげた誠也は、次の瞬間には小さく笑っていた。続けて大きく背伸びをしながら、気の抜けた声を出す。
「そうだよな。俺が復讐に生きてるんだもんな」
あからさまになにかを隠したような言動だった。俺は言いようのないもどかしさを感じて、誠也を問い詰める。
「ってかさ、なんかさっきからいつもの誠也らしく――」
「さて、これから会議だ。世界が動き始めそうな気がするよ」
誠也のかかとが地面に戻ってくると同時に、気持ちよさそうな吐息が漏れる。ごくごく自然に言葉を遮られた。
「修二の世界もこれからぐんと前進するはずだから、準備だけは怠るなよ」
「まあ、そうだといいけど」
「絶対にそうなるさ」
「そう言うなら会議に俺も連れていってくれって、言ってるじゃん」
ふてくされたように言うと、はははと声を大にして笑われた。
「また今度な。次こそは……うん。絶対に、たぶん、きっと」
「だから初めて会ったときに父さんに進言するって言ったのはどこのどいつだよ」
「あれは悪かったと思ってる。まだ早いって一蹴されるとは思わなかったんだ。それにさっき人の心は流体だって言ったろ」
「なんなんだよそのいいわけ」
「そう怒るな。焦る必要はないと俺は思うけど」
「焦ってない。俺はなにもできなかった自分を変えたいだけだ。弱いままの自分じゃなく、強い大人になりたいんだよ」
胸の前で握り締めたこぶしを見つめながら、強い口調で言い切る。
「なにもできないことを自覚できていたら、それはもう子供じゃなくて大人だと思うけどなぁ。子供は常になんでも思い通りになると思ってる。昔は俺もそうだったなぁ」
誠也は懐かしむようにそっと声を空に向けて飛ばした。
どうやら今日の誠也は真面目に会話をする気がないらしい。それを悟った瞬間に、体の奥深くから苛立ちが溢れてきた。
「俺が言いたいのは、そんな屁理屈じゃなくて――」
思わず言葉が引っ込んだ。
突然、誠也から両肩を掴まれたのだ。
「心配しなくていいって、言ってるじゃん」
真正面に立っている誠也の顔は、笑っている様に見えるだろ俺? と声高に主張しているだけの不自然な笑顔。それをまざまざと見せつけられ、心が恐怖すら感じていた。
「修二の夢はいつか叶うから。俺が保証する。安心しろ」
誠也の震えている声が、違和感に拍車をかける。
「保証するってどういうことだよ?」
「そのままの意味だって。じゃあ、本当にもう行かないと遅れるから」
そう言い残して、誠也は足早に去っていく。
「おい! 誠也!」
あわてて呼ぶが、誠也は立ち止まってくれなかった。発言の意図はわからないまま、胸がつかえるような感情だけが現実として残っている。
「俺が保証する……って」
座ったまま、誠也の残した言葉の意味を考え続けた。
俺が保証する。
その言葉には妙な現実味と虚無感が混ざっている気がした。
「だったら俺も会議に連れていけよ」
結局、いつものように受け流されたのだと解釈することにして、俺は拳を地面にたたきつけた。