蜘蛛の糸
そっとまぶたに当たった
貴方のおろした細い糸
それは心臓をえぐって
わたしをすくいあげたの
「ごめん。ごめんね。本当にごめん」
私の胸に顔を埋め、そのまま寝てしまった彼の髪はちょっぴりゴワゴワしている。
彼が私に目をつけたのは、4年前の春。吉祥寺のアコースティックバーでバイトをしながら歌っていた私は、暗い客席でサングラスをかけたままの不思議な人を見つけた。たしか、アルペジオの曲だった気がする。深く息を吸い、いつものように客席をゆっくりと見渡しながら、私は唄い始めた。客席が明るくなった時、サングラスを外した彼と目が合った。それが、大手芸能事務所に所属している男性タレント、中久保雅也だということだけはわかった。出番が終わり、機材をざっと片付け、バーに戻ろうとドアノブを掴もうとしたとき、コンコンとドアが鳴った。少し後ろに下がるとドアがそっと開いて、奥様が笑顔で立っていた。そして、
「いい話よ」
と言って、ソファに私を座らせた。
「どうぞ」
奥様はいつもよりオクターブ高い声で誰かを招き入れた。少し埃くさい楽屋に入ってきたのは、サングラスの彼だった。
「汚くてごめんなさいね。どうぞ、お座りになって」
いえ、お気になさらず。と彼は言って、私の向かいにあるチェアに座らなかった。何となく部屋が、男らしい、上品な香りに包まれた気がした。
「あのねえ、本当は向こうで話してもいいかなと思ったんだけど、何せお客様がいらっしゃるから。さあ、お話になって」
「端的に話します。僕、あなたの音源が欲しいんです」
「えっ」
「裕実、あんた何て顔してるのよ」
「だって」
私が戸惑っていると、彼はふふっと笑って、「俺のこと、知ってるよね?」とサングラスを外した。私は黙って頷くことしかできなかった。
「あの、二枚しかないんですけど……」
私は、売れ残っていたデモを二枚渡した。
「ありがとう。これで全部?」
「いえ、あと一枚あるんですけど、昨日売れてしまって」
「じゃあそれ、また買いに来ます」
「あ、ありがとうございます」
「迎えが待っているので、また今度お会いしましょう。では」
「はい」
彼女、売れてるんですね。そんなことないですよ。奥様と彼は、楽屋を出て行った。数日後、彼は本当にやって来て、同じ席に座ってライブを見ていた。相変わらずサングラスはかけたまま。私は生憎その日に出番はなく、バイトとしてカウンターの中から彼を見ていた。彼の座っている隣のテーブルの片付けをしているときに、そっとエプロンの紐を引っ張られた。私は慌てて、いらっしゃいませ、お久しぶりです。と言った。
「今日は、ありますか?」
あの日の夜、帰宅してすぐにパソコンを立ち上げて、余っていた空のCDに渡せなかった音源を収録した。そしてそれはカウンターの下に置かせてもらっていた。
「すぐ、お持ちしますね」
「いや、裏に行くよ」
「お時間は大丈夫ですか?」
「ふふっ、時間なかったら裏行くなんて言わないから」
「そうですよね、失礼しました」
「閉店したら、案内してくれる?」
「はい、もちろんです」
その日は奥様が不在で、マスターに状況を説明すると快諾してくれた。
「相変わらず、埃っぽくてすみません」
「ううん、俺、この部屋、ちょっと好きなんだよね。嫁が掃除好きだからさ、懐かしい感じがする」
「そうですか」
「うん。あ、二枚とも素敵だったよ。最近ずっと移動車の中でリピートしてる」
「ありがとうございます。これが、お渡しできなかった一枚です」
「ありがとう。これもきっと素敵なんだろうね」
「それは初期のものなので、少しテイストが違うかもしれません」
「そうなんだ。余計に楽しみになってきちゃった」
少し沈黙が続いた。家に帰らなくていいのか聞こうとしたとき、彼が話し始めた。
「俺ね、あんな感情的な歌、初めて聴いた。言葉だけだと漠然としちゃうけど、歌にのせると気持ちが伝わってくるもんだね。全部、カオルちゃんが作ってるの?」
「はい。一応」
「すごいねえ。いつ頃から?」
「本格的に始めたのは、高校を卒業してからです」
「セオリーとか独学?」
彼の口は止まることを知らないようで、ついに、マスターにドアをノックされた。
「裕実ちゃん、隣で寝るよね?」
遅番の時は始発で帰るため、ここに寝泊まりをさせてもらっている。
「あ、はい」
「じゃあ、鍵は預けておくね。セキュリティは店のほうだけにしておくから。私は帰ります」
「ありがとうございます。おやすみなさい」
ドアが閉まったと同時に、彼に謝られた。
「俺、なんか悪いことしちゃったね。ごめんね」
「いえ、人生に一度、あるかないかわかりませんから。こんなに有名な人とお話できることなんて」
「そんなに自分のこと卑下しちゃだめだよ。ここで寝てくの?」
「終電、ないので」
「じゃあさ、外で少し飲まない?」
「えっと……」
彼は家庭を持っているのに、こんな夜中まで出歩いていいのか。でも、当時の私にはそれを聞く勇気がなかった。
「私で、よければ」
「よかった」
彼と私は裏口から店を出た。そこにはワンボックスカーが停まっていて、彼が「いつもんとこ行って」と運転席に向かって言った。車が走り出して一時間くらいだろうか。停車したのは、高層ビルのような立派なホテルの前だった。既にコンシェルジュがいて、彼は私を先に車から降ろした。
「大丈夫。後で行くから」
不安を抱えたまま、コンシェルジュについていくことしかできなかった。エレベーターに乗り、ホールに出ると、部屋に案内された。
「どうぞ、ごゆっくり」
部屋に入ると、塵ひとつない空間が広がっていた。シックな色で統一された家具。窓から見える大きな観覧車。まるで海外にいるようだった。私は、夢を見ているのではないか?と思った。それでも、靴底から伝わる振動は確かなもの。各部屋を回っていると、ドアが開く音がした。そこで一気に現実に引き戻され、瞬間的に「早くここから出なければ」と思った。
「お待たせ」
「あの、私、帰ります」
「どうして?ここまで来たのに。今日だけかもしれないよ?こんなところに来れるのは。とりあえず、シャワー浴びてきなよ。大丈夫だよ、何もしないから」
彼の言葉を信じるしかなかった。第一、このホテルがどこにあるのかもわからないし、車で1時間分のタクシーに乗るお金もない。私が急いでシャワーを浴びて出てくると、ドアの前には半裸の彼がいた。
「ちょっと早くない?ま、いっか」
私は彼の素肌を見ないように、床を見つめて歩いた。
「あれ、飲んでていいよ」
テーブルの上には、赤ワインのボトルと、グラスが2つ置いてあった。怖くて、飲むことができなかった。私は、ここに居てはいけない。今ならここから出られる。……でも、彼は本当に何もしないかもしれないし、こんな機会は二度とないかもしれない。気持ちがぐらぐらと揺れた。数分後、彼は髪を濡らしたままシャワールームから出てきた。
「あれ、飲んでないの?」
そう言うと、空のグラスに赤ワインを注いだ。
「はい。飲んで?」
女が男に甘えるように、首を傾けながら、彼は私に言ってきた。こんな風に、何人の女性を落としてきたのだろうと考えながら、グラスを持ち、一口だけ、それを飲んだ。やっぱり、無理だった。
「もしかして、苦手だった?」
「私、お酒弱くて。バーで働いているのに、笑えますよね」
「いや、なんか、ごめんね。甘いのなら飲めるかな?」
そう言って、彼は立ち上がってベッドルームを出て行った。どうやらルームサービスの電話をしているようだった。しばらくしてカシスオレンジやファジーネーブル、チェイサーの水まで運ばれてきた。もう、飲まないわけにはいかなかった。
「もっと、カオルちゃんとお話したくて。眠かったら言ってね?」
睡魔は襲ってきていた。変に気を使ってしまって、短時間にアルコールを体内に入れたらこうなることはわかっていた。そして、1時間以上経っても彼は私を襲う素振りを見せず、仕事や音楽の話をしている。ここで眠ってしまったら、貴重な時間が失われてしまう。
「ふふ、もう首がガクンってなってるよ」
「ごめんなさい。眠くて」
「ああ、ごめんね。こんな時間まで付き合わせちゃって。ゆっくり寝な?」
「すみません。先に寝ます」
私はベッドに横になった。なあんだ、彼はやっぱりいい人なんだ。何もして来なかったし。なんて、思っていた。油断していた。
「俺も、酔っ払っちゃった」
深い呼吸になり、もう少しで眠りに入るという時に、大酒飲みが嘘をついて、私の隣に入ってきた。横向きで寝ていた私の背中から、耳に低い声が入ってきた。
「ねえ、香水つけてる?」
こうしていつも女を落としているのか。ここまで来たら拒否の仕様がない。あと数分、いや数秒早く寝ていれば、私は襲われないで済んだかもしれない。
「つけてないです……」
「いい匂いする……俺、この匂い好き……」
髪についていたであろう彼の唇は、私の首元へ移動し、右肩の辺りを強く吸われた。気がつけば、私の身体は天井と向き合っていた。長い睫毛が近づいてきた。鼻が頬に当たった。私はどこかで、今の欲望のまま一晩くらい過ごしても罰は当たらないだろうと思い始め、彼の体温を受け入れることにした。アルコールとタバコの匂いが、口内から全身に染みていった。
どうして、彼がシャワーを浴びているとき、無理にでも出て行かなかったのだろう。彼には家庭がある。子どももいる。ねえ、どうして私を抱くの。彼に身体を揺らされながら考えていると、涙がぼろぼろと流れてきた。めんどくせー女。きっと彼はそう思っている。彼は、私の涙を指で拭って、「たまんねえ」と呟いた。嘘つき。女の涙には、男を冷静にさせる物質が入っているという奥様の言葉を思い出した。
彼はそれきり、バーに来なくなった。奥様には、見捨てられたのよと言われた。私は、彼にとって複数いるであろう、一晩だけの女になった。たった一晩でも、彼は私を落とした。というか、私が単純なのだ。彼のことを調べていくうちに、ファンが多い理由がわかった気がした。国立大学院卒、日常会話程度なら四ヶ国語を話せる。演技もダンスも歌もそつなくこなす。何事も真摯に取り組み、努力を惜しまない。たまに出るおとぼけ発言で女性ファンの心を掴む。
あの日からオーディションにとことん落ち、デモテープを送っても連絡が来ないことが続き、憂鬱になっていた。彼が来ないのであれば、ここで働く意味はない。そう思うようにまでなっていた。半年後、マスターが急に逝去され、奥様も生きる意味を失ったようで、バーは閉店した。私は、ファミレスでアルバイトをして、ライブハウスで唄い続けた。彼が私を探して、いつか見に来てくれるかもしれないと、どこかで思っていたから。数ヶ月後、現在のマネージャー、横山さんにスカウトされ、事務所のレーベルからメジャーデビューすることになった。音楽番組にも呼んでいただくことが多くなり、事はトントン拍子に進んでいった。
どの仕事をしていくにも当然だが、挨拶は基本中の基本。特にこの世界では、自分から楽屋に挨拶に行くことで印象がかなり違ってくる。初めてテレビ局で仕事をしたとき、横山さんがどっしりとした大きな紙袋を持ってきたことを覚えている。
「どうしたんですか、その袋」
「どうもこうもないわよ、売り込むにはこれしかないでしょう」
挨拶に行って、出演者本人がそこにいればいいけれど、不在の場合は付箋にメッセージを書いてCDに貼っておく。いつしかそれが綿島カオルの当たり前になっていた。付箋を買い足すたびに、彼に近づいていくような気がした。だから、彼が時々歌い踊るグループの一人、藤原さんのラジオにキャンペーンで呼ばれたときはもの凄く嬉しかった。
「よかったら、みなさんに渡していただけますか?」
「ああ、ありがとう。これから収録なのよ、丁度よかった」
「ありがとうございます。また、機会があったら、よろしくお願いします」
「こちらこそ。じゃあ、またねー」
収録後、藤原さんはそう言って、チャーミングに手を振り、スタジオを出ていった。
彼は、綿島カオルのCDを受け取った瞬間、どんな顔をするのだろう。驚く?笑う?泣く?藤原さんの後を追いかけて、彼の表情を間近で見てみたいと思った。でも、それは叶わない。いつか会えたとしても、あの晩のことで彼を脅すつもりもなかったし、墓場まで持っていくつもりだった。
その時は、思っていたより早くやってきた。ゴールデンタイムの有名音楽番組の出演が決まったのだ。私は収録前、普段通りに出演者の楽屋を回った。もちろん、彼の所属するグループの楽屋も。相変わらず皆さんお忙しいようで、楽屋には誰もいなかった。彼のチーフマネージャーに了承を得て、付箋とCDを置いてもらうことになった。ロビーでメッセージを書き始めたが、最後の一枚を書き終えることができない。書いて、消して、書いて、消して。ああ、紙が汚くなって、破って、捨てて、書き直して……を、何度繰り返したか。何を書いたかも覚えていない。今思えば、彼に対するラブレターみたいなもの。書けないことが当然だった。そうやって悩んでいるうちに、彼が楽屋に入っていくのが見えた。付箋には他の出演者と同じ、当たり障りのない内容を書くことしかできなかった。
鉢合わせは避けたい。彼が出るのを見計らって、置いてこよう。そう決めたとき、彼が楽屋から出てきた。心臓が一瞬、止まったような気がした。次の瞬間には、彼はこちらとは反対側に歩いて行った。私は急いで椅子から腰をあげ、楽屋に向かった。
「すみません、遅くなってしまって」
「大丈夫ですよ」
「テーブルの上に置かせていただいても、よろしいですか?」
「ええ。先日も藤原が聴いていましたよ。そういえば、今」
チーフマネージャーの声を切るかのように、ドアが開いた。
「俺、台本忘れちゃった」
紛れもない、彼の声だった。とにかく平静を装って挨拶をしなければならない。
「初めまして、綿島カオルです。本日はお世話になります。よろしくお願いします」
この時の記憶はあまりない。ただ、彼と目を合わせないように、首元だけを見て話していた。彼の返事を待たずに、私は楽屋を出た。もう、何も考えたくなかった。自分の楽屋に戻ると、マネージャーの横山さんが、驚いた顔をしていた。
「何で、泣いているの?」
そう言われて、私は泣いているのだと気付いた。
「どうした?何か言われたの?何かされた?」
ううん、違うの、横山さん。私は首を振ることしかできなかった。横山さんは、私をそっと抱きしめてくれた。涙はすぐに止まらなかった。
数週間後、私がお世話になっているサウンドプロデューサーから連絡があった。
「この前藤原くんに会った時、綿島ちゃんと話がしたいって言っててさ」
「はい」
「今週どっか空いてる?3人で飲まない?」
「今週は、木曜日の午後なら空いてます」
「おっけ、藤原くんにも連絡しとくわ」
「ありがとうございます」
当日、サウンドプロデューサーが来られなくなったと連絡があった。藤原さんはそれでもいいと言ってくれたようで、私は指定された料亭に向かった。女将さんに案内され、二階に上がった。襖を開けると、藤原さんが熱燗を飲みながら座っていた。
「まあ、座んなよ」
言われるがまま、私は藤原さんの前の席に座わった。
「何飲む?お酒はやめとく?」
「いや、生で」
「飲むねえ、いいねえ」
「ふふふ。で、ペーペーの私と話ですか」
「あー、まあ、それはカオルちゃんを呼び出すための言い訳。本当の理由はもう少し経ってからね」
「はい」
「綿島カオルって本名なの?」
「いえ、本名は佐藤裕実です」
「へえ、じゃあ裕実ちゃんって呼んでいい?」
藤原さんは人懐っこい方で、私の敬語を簡単に取っ払ってみせた。
「俺、見ちゃったんだよ。あの日、裕実ちゃんが泣いてるとこ」
「あの日?」
「うん。付箋のついたCD、置いてくれたとき」
「あの日は、具合が悪くて……」
「ううん。隠さなくても大丈夫。あの生放送のあと、中久保もなんか調子悪くてさ。もしかしたら具合でも悪いのかなって、喫煙所で中久保と話したんだ」
私は、何も答えられなかった。
「裕実ちゃんとの関係、全部聞いた。俺は、好き勝手に恋愛してきたしさ、事務所もそれはわかってる。んー、つまり俺が俗にいう遊び人だってこと。だけど、中久保は、知っての通り、演技もするし、歌って踊るし、キャスターもしてる。クリーンなイメージしかないわけ。ここだけの話、取締役になるのもそんなに先じゃないんだ。だから、あの夜のことは、黙っててほしいって」
アルコールが、スーッと抜けていく感覚があった。
「言われなくても、誰にも言いません。…というか、中久保さんとは、何もありません」
藤原さんが、そっと口角を上げた。
「そうやって生きてきたんだね」
「はい」
藤原さんと私だけ切り取られて、週刊誌にこの晩のことが載るかもしれない。それでも藤原さんは、この場を設けた。つまり、藤原さんにとって中久保さんは、自己犠牲を強いても守るべき大切な人なのだと、深い愛を感じた。
ここ最近、半日休みはあったものの、丸一日の休みはなかった。横山さんが気を利かせて、あの番組の後に丸一日の休みをくれた。数日前から、あの観覧車が見えるホテルを予約し、部屋番号も事前に確認しておいた。
彼と共演する前日、自分が混乱して、通常の綿島カオルでいられないことはわかっていた。出演者が多い場合、CDのケースに先にサインを書いておくことにしている。その時にフィルムの下を切ってケースごと出すため、中久保さんに渡す歌詞カードにだけ、私が泊まるホテルの部屋番号を書いておいた。小さな釣り針だ。それでも、彼が気づく可能性はゼロだと思っていた。
「フロントです。おやすみの時間に申し訳ございません。横山様からお電話が入っております。おつなぎしてもよろしいでしょうか?」
「はい」
何も考えず返事をしたものの、横山さんには部屋番号まで伝えていなかったし、何かあるなら携帯に電話にかかってくるだろうと疑問に思った。
「もしもし、カオル?」
心臓が、一瞬止まった気がした。
「あ、今はカオルじゃないか。裕実だね」
確認しなくても、電話の相手が誰かわかっていました。
「中久保さん?」
「よかった、やっぱりこのホテルで合ってた」
「どうして……」
「仕掛けたのは、そっちでしょ?」
何も言えなかった。
「今から迎えに行くから。荷物まとめてタクシーで大桟橋まで来てくれる?」
「はい」
電話はそこで切れた。考えている暇はなかった。急いで荷物をまとめ、簡単に化粧をして、タクシーを呼んで、フロントでチェックアウトを済ませた。タクシーの窓から大観覧車を見ていると、夢を見ているような感覚に襲われた。
大桟橋に着いたものの、私は中久保さんと連絡が取れないことに気づいた。わかりやすいところにいなくてはいけないと、「ようこそ 大さん橋へ!」を背景に立つことにした。しばらくして、一台の車が私の前で停まった。助手席の窓が開いた。
「あの、駐車場は、あっちですよ?」
するとルームライトが点いて、すぐに消えた。眼鏡をかけた男性が運転席に座っていた。
「横山です。乗って」
助手席のドアがそっと開いて、私はそこに乗り込んだ。
「そんなに大事なもの入ってんの?」
「え?」
「リュック」
「いや、大事なものは入ってないですけど……」
「じゃあ、後ろ置いとけば?」
そっとリュックを後部座席に置いた。しばらく沈黙が続いた。何だか怖かった。
「あの」
「どうして場所がわかったかって?どうして会いに来たかって?野暮なことは聞かないほうがいい」
「はい」
彼の気持ちが全く読めなかった。同時に、野暮がどういう意味だったかを考えていた。
「あのさ、どういう恋愛してきたの?」
「ごく、普通だと思います」
「ふーん。明日仕事は?」
「明日はありません」
それきり彼は、何も話さなくなってしまった。私は沈黙に耐え切れなくなり、流れている洋楽を無意識に口ずさんでいた。勿論彼に気づかれないよう、声は出さずに。
「歌えばいいのに」
「え?」
「知ってるんでしょ?」
どうやら信号待ちの間に見られていたようで、彼はその曲を初めからかけ直した。
「いや、歌うなんて……」
戸惑っていると、隣から歌声が聞こえてきた。私は少し穏やかな気持ちになってきて、そっと、彼の声に自分の声を重ねた。その後も流れてくる曲を二人で歌い続け、気がつくと車はコンビニの前に停まっていた。
「あそこに見えるタワーマンションわかる?」
「はい」
「先に行っててほしいんだけど」
彼はそう言って、私の手のなかに鍵を閉じ込めた。
「二本?」
「普通の鍵はオートロック。ディンプル…つってもわかんねえか、丸いへこみが沢山あるのが部屋の鍵。部屋番号は2304ね」
「はい」
「大丈夫?こういうとこ初めて?」
彼は軽く笑いながら聞いてきた。私は笑顔で黙って頷くことしかできなかった。私は試されているのだ。きっと、彼は頭の悪い女は嫌いだから。ここで額から突き出すような声を出して、「できなぁい」と言ったら、私は簡単に捨てられる。
「じゃあ、俺、車停めてそのまま行くから」
「はい」
私が後部座席からリュックを取ろうとすると、彼が取ってくれた。
「じゃあ、気を付けて」
「中久保さんも」
私は車を降りて、目と鼻の先にあるタワーマンションに向かった。エントランスに着いて、集合玄関機を見ると、鍵穴がなかった。田舎の三階建てアパートのオートロックくらいしか知らない私は、若干パニックになってしまった。部屋番号を押すのか?それとも特別な番号があるのか?いや、番号が共通であれば誰でも入れてしまう……。私は、コンビニから歩いているときに、このマンションに人が入っていくところを見ていた。そのシーンを脳内で再生すると、その人はスムーズに、立ち止まることなく入っていく。とりあえず鍵を四角に囲われたところに近づけてみると、ガチャン、と音がして、ドアが開いた。エントランスを通り過ぎて、エレベーターに乗り、無事に部屋の前に着いた。ドアについた二つの鍵穴にディンプルキーを差し込んだ。
「開いた……」
まるで、何かの冒険をしているようだった。玄関に入ると、足元のセンサーが反応して、電気がついた。その光を頼りに、玄関の電気を点けた。全身の力が抜けて、私は玄関マットの上に座り込んでしまった。しばらくすると、ドアが開いた。
「うぉっ」
両手にコンビニのビニール袋を持った彼がいた。
「ビックリしたー。なんてところに座ってるの」
「すみません」
「上がって、上がって」
彼に続いて靴を脱ぎ、部屋に上がった。
「やっぱ、俺見る目あんなあ」
彼はそう呟くと、適当な場所にビニール袋を置いて、私の頭をグッと抱えて、強引に唇を重ねてきた。
「見る目?」
「うん」
彼は微笑みながら頷き、私の頭を優しく撫でてくれた。
「よく入れたね。俺、エントランスでうろうろされてたら、たぶんそのままにしといたよ」
読み通り、やはり彼は頭の悪い女は嫌いだった。パチパチと部屋中の電気を点け、ローテーブルに缶酎ハイを並べている姿は、ほんの少し寂しそうだった。
「こっち来なよ。座りな?」
私はローテーブルの近くに座った。
「こんなに大人しかったっけ?ちょっと着替えてくる」
テーブルの上の缶酎ハイは、カシスオレンジ、カルピスソーダなど、甘いものが沢山あった。数年前のたった一晩のことを、中久保さんは覚えていたのかなと少しだけ自惚れた。しばらくして彼は着替えて戻ってきた。
「着替える?」
「いや……」
「あ、持ってないか。俺のでいいなら、貸すよ?」
「じゃあ、お言葉に甘えて」
彼のTシャツとスウェットを借りて、洗面所で着替えた。そこには柑橘系のディフューザーが置いてあった。彼は香りにこだわっているのかもしれない。そう考えると、他の部屋の香りも知りたくなった。リビングに戻ると、彼の姿はなかった。
「あれ……」
部屋を見渡すと、一つの窓の前だけカーテンが開いていた。私がその窓を開けると、強い風が部屋のなかに入ってきた。急いでバルコニーに出て窓を閉めると、そこには煙草を吸う彼の姿があった。
「寒くない?」
「大丈夫です」
「ねえ、どうして俺と会おうと思ったの?連絡してくれればよかったのに」
「連絡先、消しちゃったんです。奥様に『あんたは捨てられた』って言われて。もう二度と会うことはないだろうと思って、消しちゃったんです。……正直、中久保さんのことナメてました。会えるとは思ってなくて」
「俺をナメるなんて百年早いね」
彼は、私を鼻で笑った。
「そうですね」
「俺だからわかったんだよ?あの数字だけで。他の男じゃ気付かないよ」
「そう思って、それしか書かなかったんです」
「どう?俺デキる男でしょ?」
彼がいうと不思議と嫌味っぽくならない。ルックスに甘えず、常に努力を重ねてきた方というのは、周知の事実だから。その辺にいる男性がこの台詞を言ったら、私はその場で吐いてしまう自信がある。
「お願いだから笑ってよ」
その割に、自分の立場を把握していないところも、きっとファンが減らない要因。笑いごとじゃないのに。
「飲めそうなのあった?」
「お酒ですか?」
「うん」
「はい。普段、甘いの飲むんですか?」
「飲めないことはないけど、家じゃ芋ロックしか飲まないよ」
「そうなんですね」
私は部屋に戻って、キッチンの棚からグラスとアイスペールを取り出した。
「お、気が利くね」
「勝手に触っちゃってすみません」
「いい嫁さんになりそう」
「またまた。おだてても何も出ませんよ」
それから、大して面白くない深夜番組を見ながら、二人でお酒を飲んだ。だいぶお酒に飲まれてしまった私の口が、つい暴走してしまった。
「抱かないんですか?」
「何を?」
「……私を」
自分の口から出た言葉が耳に入ったとき、飛んだ娼婦だと思った。
「抱いてほしいの?」
返事をする前に、強く腕を引かれて、身体をベッドに投げ込まれた。
「ごめん。ごめんね。本当にごめん」
私に毛布をかけて、胸に顔を埋めてきた。かわいい。私はそっと彼の髪をなでた。下腹部に残った重く怠い痛みに顔を歪めつつ、サイドテーブルに視線を移すと、そこには子どもの写真があり、吐き気がするほど醜い感情が、身体の奥から全身に広がった。とりあえずまぶたを閉じて、朝を待った。こんなにも醜い感情を抱いたのは何年ぶりだろう。子どもに罪はないのに。
「おはよ」
「おはようございます」
ベッドの端で紫煙をくゆらせる彼がまぶしかった。服を着てリュックを背負うと、彼に声をかけられた。
「もう出るの?」
「はい。洗濯とか掃除とかしたいので」
「そうだよね」
「じゃあ……失礼します」
「あ、待って、連絡先」
「はい」
彼と電話番号を交換して、部屋を出た。玄関で見た彼の顔は哀しく笑っていた。
「今タクシー呼んだからさ、先にカオルちゃん出てくれる?」
「はい。あの、ありがとうございました。ごちそうさまです」
「いいのいいの。また飲もうよ」
私は藤原さんに営業スマイルを向けて、料亭を出た。携帯をチェックすると、新着メールが一件。
[終わったら連絡下さい]
「もしもし」
「あ、終わった?」
「はい」
「今からこっち来れる?」
「はい」
厳重なセキュリティを通り抜けて、彼の部屋に入った。
「ごめんね、遅くに呼び出しちゃって。」
「いえ、そんなことないです」
「とりあえず、座って?」
「はい」
一体何を聞かれるのかと、内心ドキドキしていた。
「どうだった?」
「もう中久保には会わないでくれって言われました」
「だよねー。俺が言ったんだもん。で、なんて答えたの?」
「そういう関係ではありません、もう二度と会いませんと」
「ふふ、そっか」
彼は満足そうに微笑んだ後、視線を落とした。
「明日、何時?」
「9時入りです」
「じゃあ今日は帰りなさい」
「……はい」
「そんな顔しないの。とりあえず顔が見たかったからだけだからさ。……なんか、ごめんね?」
私と藤原さんの間には何もないことを誰よりもよく知っているはずなのに、わざわざ私を呼び出したことを謝っているのだろう。もしかしたら、自分のしたことは束縛で、所謂面倒くさい男になっていたのではないかという、自己嫌悪も含めて。
「どうして謝るんですか」
「いや、わざわざ来てくれたからさ」
私の全てを知りたいと思ってくれたことが嬉しくて、つい、心の声が溢れてしまった。
「……好きな人じゃないと、来ませんからね。お邪魔しました」
彼は玄関まで私を送ってくれた。オートロックなのに。こうしてさり気ない優しさを与えられた私は、簡単に溺れていった。
この世に生を受けて最初に好意を抱いたのは、実家の近所に住むお兄さん。胸が躍るような感覚がしたのを今でも覚えている。高校時代は同級生と付き合いながら担任の先生に想いを抱き、短大時代には准教授とちょっとだけ関係を持ったりした。
俗に言う“ファザコン”なのだと思う。小学生の頃、父親は若い女と不倫をして殆ど家にいなかった。その割に厳しくしつけられ、どこにも甘える場所はなかった。全てを受け入れてくれそうな年上男性に惹かれるのは当然なのかもしれない。それでも、好意を抱いた相手が既婚男性ならば、自分の想いを伝えなかった。旦那さんやお父さんの気持ちを揺らすだけでも、ご家族に迷惑なのだから。自分が幼い頃に受けた傷を、好きな人の周りの人たちに負わせることは出来なかった。
中久保さんは既婚者で、お子さんもいる。違う。これは恋じゃない。違うの。裕実、気付いて。恋でもなければ、愛でもないわ。ただの依存よ。彼の外見に惹かれるんじゃない。何度もそう思った。「理性があるのは人間だけよ。」奥様の言葉が脳内でぐるぐると回っていた。
気が付けば、お風呂を入れ、洗濯物をたたみ、夕飯の準備をしてしまっている自分がいた。男性に尽くすのが癖になっているようで、中久保さんのママにはなりたくないと思いつつ、家事をしないと気が済まない。彼は私の前では、奥さんと連絡を取ったり、子どもの話をしたりしない。そのせいか、私は奥さんと無理に別れて欲しいとは思わなかった。きっと罪悪感もあると思う。それでも日が経つにつれて、彼に不信感を抱いていた。彼は他にも部屋をいくつか持っていて、そこに奥さん以外の女が出入りしているのではないか。愛する人を信じきれない、私の思考の悪い癖。バルコニーで煙草を吸っている彼の横で、つい聞いてしまった。
「私、何番目ですか」
「え?なに。一番って言ってほしいの?」
「違います。他にも私みたいな子、沢山いるんだろうなって」
「いねえよ。嫁と子どもしか」
「ごめんなさい。変なこと聞いて」
「いや、俺も何も言わなかったから、……悪い」
「中久保さんを信じきれなかった私がいけないんです」
「そんなことない。大事なことは言葉にしなきゃわかんねえし」
私は首を横に振った。
「時間、ある?」
「はい」
「じゃあ、ちゃんと話すね」
彼は灰皿を持って、私に部屋に入るよう促した。
「裕実にとっては聞きたくないこともあるかもしれないけど、大丈夫?」
「はい」
彼を彼にしている、すべてを知りたい。自分の嫉妬なんてちっぽけなものだから。きっと。
「俺ね、我儘言って大学院まで行かせてもらったから、事務所にもメンバーにもこれ以上迷惑かけたくなくて。そうなると俺は人一倍スキャンダルが怖くなって、恋愛できなくなった。初めて主演させてもらったドラマの打ち上げのとき、俺、監督の奥さんと関係を持ったんだ。なんか、変にバレない自信があって。監督は俺を信頼してくれてたし、子どもとも仲良くしてさ。でも、子どもって怖いよね、すぐに勘づかれた。そこで奥さんとの関係は終わった」
彼も不倫体質だった。
「それから数人と付き合って、7年前に嫁と結婚した。裕実も知ってると思うけど、長男は嫁の連れ子。俺との子どもができたからって、急いで結婚したけど、……あの時生まれて来れなかった子は、俺の子かわからない」
彼の気が狂ったかと思った。瞳孔が開く感じがした。お腹の中にいる赤ちゃんと血の繋がっていない男性と結婚するなんて、同じ女として理解ができない。それでも話を聞くことにした。万が一、本当に狂ってしまっていても、原因は言葉の中に散りばめられているだろうから。
「嫁はね、アメリカの大学を首席で卒業して、家事も子育ても完璧にこなすスーパー主婦だった。でも、当時の俺は見る目なかったんだろうな。2年前に流産してからブログを毎日更新して小遣い稼ぎ、昼間はパチンコ、夜はクラブに通ってブランド物をホストに貢ぐ。この前だって、パチ屋にいるところを週刊誌に撮られて、俺、仕方ないからその写真を買ったんだよ」
一息おいて、続けた。
「流産してから頭痛が酷いって言われて、拒否されてる。嫁と俺を繋ぐものは、何もない」
私の頭の中に、高層階病が浮かびあがった。同時に、私は奥さんの代わりで、ただの性欲のゴミ箱だと自覚し、悲しくなった。いつになったら私の存在は出てくるの?もうこんな話は聞きたくない。高層階病に考えをシフトすることにした。
「お子さんの具合、悪くないですか?」
「どういうこと?」
「お節介かもしれないですけど、高層階に住んでいる人は流産や死産の確立が高くて、具合が悪くなりやすいんです。子どもも精神的に不安定になったり、免疫力が下がったりするみたいです」
「そうなんだ」
「だから、引っ越したら奥さんの調子戻るかもしれませんし、お子さんも外で遊べますよ。畑仕事するのもいいんじゃないですか?」
勝手に動く口から溢れ出す嘘たちが、現実になるような気がした。でも、ゴミ箱は感情的になってはいけない。
「裕実はさあ、何がほしいの?」
「え?」
「俺との人生じゃないの?」
「……私は、中久保さんと一緒に死ねたら、それでいいです」
「どういうこと?」
「年老いて、一緒にいられたら、それだけでいいです」
「それって、今はエネルギーがないってこと?」
私は首を振って答えた。
「わかってるでしょう?……私は、これまで中久保さんが積み上げてきたものを壊す勇気はありません」
「ごめん」
「もう……会うのはやめましょう」
言葉にした途端、涙が一気に溢れだした。
中久保さんに抱きしめられて、声を上げて泣いた。彼は私の涙を拭って、私は彼の涙を拭って。いつの間にか唇が重なって、深い闇に落ちていった。散々重なってきたはずなのに、もうこれが最後なのだと思うと、彼の全てを受け入れずにはいられなかった。
いつも以上に子宮を強く突かれ、私は少し声が枯れていた。部屋には彼と私の匂いが充満し、空気清浄機の音だけが響いていた。もう終わりなのだ、彼とはこうなる運命だったのだ、と自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど、目が潤んだ。
「もう泣かないで」
「欠伸しただけです」
彼は繋いでいる右手に力を入れた。何を言っても、見透かされてしまう。嬉しいけれど、悲しい。私も強く握り返した。その後は、何も話さず、眠りについた。
カーテンが薄白くなった頃、私はそっと左手を離し、静かにベッドから出た。布団をかけなおして彼の顔を見ると、頬に涙が伝った痕があった。ごめんなさい。心の中で呟いてベッドルームを出た。音を立てないようにして、服、化粧品、ピアスなどの小物をまとめてビニール袋に入れた。そして、キーチェーンから鍵を取り、それをローテーブルに置いて、リビングを出た。
「今日早いの?」
背中から声がした。
「どうしたの、その荷物」
私はその声を無視して、靴を履いた。サイズが大きめの靴でよかった。
「ありがとうございました。さよなら」
ドアを開けると、白く霞んだ空が鼻の奥を突いた。
家に着いて、マグやシャンプー、読みかけの小説などを置いてきてしまったと気づいた。私の部屋には中久保さんの物は何もないけれど、私がこんな思いをしているのだから、中久保さんも病んでしまえばいい。
数週間、私は仕事に没頭した。レギュラーの仕事をこなしながら、眠くなるまで曲を作り続け、普段行かないようなライブにも足を運んだ。その間に、中久保さんが離婚したとネットニュースで知った。私のことは、一切書かれていなかった。
私は、以前から行きたかった銀山温泉に旅行に行った。彼のことは、頭の片隅にクルミボタンくらいに存在していたけれど、それよりもこれまで見たことのない温泉街の造りに興奮していた。
私がお世話になった宿には、今年から小学校に入ったという女の子がいた。宿の娘さんだ。父である宿のご主人が彼女を膝の上に乗せて、ロビーで話をしていた。微笑みながらそこを通り過ぎ、部屋に向かった。襖を開けた瞬間、作り笑顔は解除され、胸の中にあるドロドロした汚いものの存在を認識した。私が彼を受け入れ求めたのは、彼に父性を求めていたからだと気づいた。
何事もなかったかのように日々は過ぎて行き、彼に別れを告げてから、半年が経過していた。その日は、来年のライブツアーに関しての打ち合わせがあり、自宅に戻ったのは20時過ぎ。郵便受けに、不在届けが入っていた。それには、書留で差出人不明という情報しか得られなかった。若干怖くなった。それでも、書留にするには何か理由があるのだろうと、郵便局まで取りに行った。
「こちらですね」
「ありがとうございます」
受け取った封筒には、何かが入っていた。私の仕事上、刃物や薬物が入っていてもおかしくはない。私は待合の椅子に座り、ビリビリと雑にそれを開けた。封筒のなかはクッションが入っており、小さなメモと鍵が二本出てきた。私はそれらを隠すように鞄のなかに入れ、自宅へ戻った。どこの部屋の鍵かは、メモなんて見なくてもわかる。
彼と別れて、寂しさを感じていたのは事実。本当は、すぐにでも走り出したかった。でも彼は、頭の悪い女は嫌い。もしかして、元の奥さんが送ってきた?いや、私の住所は知らないはず。いっそのこと、このまま返送してしまおうか。
もう一度だけ会って、もう会わないときちんと約束しよう。そう決めて、彼の部屋に向かった。もう鍵で動揺しないように。夜泣かないように。私は、強い女なのだから。
すっかり慣れたオートロックを過ぎて、彼の部屋の前に着いた。インターホンを押そうと思ったが、ここまで来てインターホンを鳴らすのもおかしいと、送られてきた鍵でドアを開けた。
「お邪魔します」
部屋は真っ暗だった。もしかしたら寝ているのかもしれないと、リビングや寝室を見て回った。誰もいなかった。心臓をそっと握られた感覚がした。ここで彼を待つ勇気はなかった私は、一旦部屋を出て、近くのカフェで時間を潰した。読み終わっていない本を読み始めたが、文字を目がなぞるだけで、内容は全く入ってこなかった。
一時間半後、もう一度部屋に入った。電気は点いておらず、どの部屋にも誰もいなかった。本当に終わりなんだという絶望感が、胸の中心からドッと広がった。視界が滲んだまま、私はキースタンドに鍵を掛けた。このままではここで号泣してしまう。深呼吸をして私は部屋を出た。俯いて歩いていると、前から人がやってきた。その人を避けようとドア側に寄った。
「裕実!」
その人は私の目の前に来て、帽子を取った。
「裕実」
顔を上げなくても、わかっていた。私の前に立っている人は、私の大好きな人。そっと腕を引かれて、部屋に入った。
「知っていると思うけど、俺、離婚したんだ」
さっきまでこの部屋にいたのに、もうここには来ないと決めたのに、いざそれを覆されると、なかなか自分の気持ちに正直になれなかった。
「俺の独り言だと思って、聞いて?」
敢えて返事をしなかった。
「俺は裕福な家庭に生まれて、金銭的に不自由した覚えはない。私立の中学に進学して、そのままエスカレーター式で大学院まで行かせてもらった。だけど、どうして俺がこんな仕事してると思う?……俺、親から認められたかったんだよ、たぶん。親からもらえない愛情を、世間に求めたんだ。だけど、ファンはお金はくれても愛情はくれないでしょ?いや、愛情を与えられても、俺たちにはわからないわけ。全てを受け入れてくれるわけではない。だから、今も無意識に枯渇した愛情をずっと誰かに求めてる。結局、俺は俺のまま、何も変わらないまま、ここまで来てしまった。俺は誰も守れないし、誰も信じられなくなった。あの時の子どもも俺の子じゃなかったって余計にね」
「そんな」
「最後の最後にそう言われたよ。親ももう長くないし、俺の人生って何だったんだろうって考え始めたんだよね」
子どもを諭すように、ゆっくりと彼は話してくれた。
「結局さあ、自分が幸せじゃないと、一人も幸せになんて出来ないんだよ。誰かのための人生なんて綺麗事だろ」
多くの人に求められる華々しい世界でも、彼は彼なりに悩んでいた。
「だから、俺は幸せになろうと決めた。わがままで、勝手かもしれないけど。それを叶えるためには、裕実が必要なんだ」
「私じゃなくても、いいんじゃないですか?」
彼は、私という性欲のごみ箱を捨てて、一度家庭に戻った人。離婚はしたけれど、きっと彼には、もっと頭のいい人が似合う。こんなごみ箱じゃなくて。
「裕実はもう、俺に気持ちはない?」
「ないと言ったら、嘘になります。……もう、今日会えなかったら、終わりにしようって、決めてたんです。なのに」
泣きじゃくって上手く話ができない私を、彼は待ってくれていた。
「ゆっくりでいいから、言葉にできる?」
「……中久保さん」
「ん?」
「中久保さんのこと、信じてもいいですか?」
「当たり前。じゃなきゃ鍵も送らないし、こんな話しないよ?」
涙がとめどなく流れてきた。いつまで私は人間不信に陥っているのだろう。彼は私をずっと求めてくれていたのに。
彼は、そっと私を抱き寄せて、背中をトントン、と優しく叩いてくれた。
「もう泣くなって。幸せになろう。いい加減、俺たちの人生を歩もう?」
「でも、自信がないです。隠し通す自信も、幸せになる自信も」
「何だって最初は不安だし、こわいよ。でも、一個ずつ、一緒に消していこう?」
一週間後、彼の事務所からマスコミ各社へFAXが送られた。私との交際宣言だった。
「それでは、お聞きいただきましょう。来週水曜日に発売の新曲です。綿島カオルで、『蜘蛛の糸』です。どうぞ」
ネックをしっかりと握って、ピックを定位置に動かした。そして、顔を上げ、息を吸い込んだ。