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氷葬

作者: 文咲るね

 少女の吐息が白く色付いた。一面の銀世界に少女は点々と足跡を残していく。空は厚い雲に覆われ、風は冷たく少女の白い頬を突き刺した。

 リディア・ゼレーニナというのが少女の名前だった。黒い温かそうな帽子( ウシャンカ )から覗く、北風をそのまま表したような白銀色の長い髪がさらさらと靡く。足元を見つめるばかりのブルーサファイアの瞳には長い睫毛の影が落ちていた。

 自分で編んだショールを身体にしっかりと巻きつけるのにリディアは足を止めた。凍みるような風に目を細め、顔を上げる。氷の湖を目指し、少女は歩みを速めた。



 遥か彼方、地平線の向こうまで、深い青色を宿した氷の湖が広がっていた。いっそ氷の大地といった方が的確かもしれない。

 大昔、この一帯は大きな湖だった。ある冬の朝、湖は何の前触れもなく突然凍ったという。そして、冬はこの地方に腰を下ろしたまま立ち去る気配もなく、雪と氷の街が生まれた。それがどれくらい昔の話なのかリディアは知らなかったが、少なくとも曾祖母が子どもの頃には既に湖は凍っていたというし、その父母や祖父母の代にもやはり湖は凍っていたそうだ。

 滑らないように恐る恐る、リディアは厚い氷を踏みしめた。罅割れるようなこともなく、氷は寛大にリディアを受け入れる。

 透き通った氷の下、深い湖底に光は届かず、何よりも深い青に覆われていた。水が跳ねる音がするのに気付いて足元をじっと見下ろせば、透明な氷の上に水が張っているらしく、爪先から同心円状に波紋が広がっている。

 そういえば昨日は珍しいことに少し暖かくて、雪ではなく雨が降ったのを思い出した。水溜まりが氷の上に残っているので、足を踏み出せばあたかも水面を歩いているように波紋が広がる。湖が鏡のようにリディアの姿を映し出していた。

 この凍った湖に魚はいない。その代わり、湖に揺蕩うように横たわるのは、生を終えた人間だ。リディアの下で、老若男女が蒼褪めた顔を晒している。

 湖面には目印となる、区画の記された標が規則正しく立っていた。ひとつ、ふたつと数えながら、リディアは目的の場所を目指す。

 見つけた。ほう、と白い溜息を吐く。

 その氷の下に眠るのはリディアとそっくりな顔をした少女だった。胸元に置かれた金属プレートには「ルチア・ゼレーニナ」という名前と、それから生没年が書かれている。彼女が持っていた中でいちばん上等なドレスに身を包み、可憐な白い花に囲まれて、眠っている。阻むものは僅かばかりの厚さの氷だけだというのに、どこか途轍もなく遠いところにいるように感じられた。震えそうな長い睫毛も吐息の漏れそうな唇も、エンバーミングを施された彼女の肉体は氷の中に閉じ込められて、ただ触れることも叶わない。

 膝をついて、帽子と手袋を外し、氷を撫でる。漣の痕も残らない氷の表面は、リディアの白い指を突き刺すような暴力的な冷たさを孕んでいる。


「姉妹か」


 不意に聞こえた声にリディアは振り返る。深い夜色の瞳がリディアを映していた。黒いフードの隙間からはどんよりとした曇り空と同じ色の髪が寒風にそよぐ。幼げな相貌の、それでいてどこか老成した雰囲気を醸す青年は、口元に品の良い微笑を湛えてリディアを見下ろしていた。沸き起こる警戒心を隠すこともなく「ええ」とリディアは頷いた。


「双子の妹」

「一心同体の?」

「そうだったかもしれない」


 素っ気なく答えた。青年は気にした風もなくリディアの隣に跪く。


「ご挨拶しても?」

「どうぞ、見知らぬ方。フードくらい脱いだらどう?」

「ああ、失礼」


 フードを脱いで、青年は黙祷を捧げた。それを横目で確認して、リディアもそっと目を伏せた。北風が標の間を駆け抜けていく。沈黙を破ったのはやはり青年の方だった。


「美しい景色だな」


 ルチアの亡骸を見下ろしたまま、青年は言った。そう、と肯定も否定もせずに相槌を打つ。


「僕が今まで見た中で最も美しいと言っても過言ではない」

「そんなに美しい?」

「絶景だ。同じように沈めてほしいとはとても思わないが」


 黒手袋に包まれた指が氷の表面を撫ぜた。

 ふわりと死の匂いを感じた。噎せ返るように甘ったるく、それでいて喉の奥に染み入るような苦みを伴っている。

 ルチアが死ぬときに同じ香りがしたのを、リディアは覚えていた。


「誰か死んだの」

「当然。いつでもどこでも誰かが死んでいる」

「……あなたの周りで、という話のつもりだったのだけど」

「さあ。どうだろう」


 肩を竦めてしらばっくれた青年にリディアは諦めて沈黙を貫くことにした。早く立ち去ってくれればいいのにと思いながら、ほとんど感覚のなくなった指先を氷から離さない。そうしていれば氷が溶けて妹に触れられるとでもいうように。氷は溶ける様子もなく、リディアから体温を奪っていく。ただでさえ白い肌からは血の気が引いていっそ青白い。


「そろそろやめておかないと、指が壊死するぞ」


 見兼ねて青年が窘めた。


「指がなくなると不便だ。それに、君がそういうことをするから彼女は冥府へ旅立ちづらくなるんだ」


 青年はおもむろにリディアの手を取った。手袋越しにしても質量を感じない青年の掌を訝しみつつ、「彼女?」と疑問を口にする。


「勿論、ルチア・ゼレーニナ」


 それ以外にいるか? と青年は口の端で笑う。死の香りが強くなった。鼻腔を擽り、冷たい素手に絡みつくようなそれに背筋がぞわりと粟立った。思わず引っ込めようとした手はしっかりと握られていて、それなのに握られている心地がしない。手袋の質感も温度も感じているのに、青年の手に籠っているはずの力は感じられない。


「冥府へ行くべきルチア・ゼレーニナの魂は、此処で迷ってしまっている。君の所為でね、リディア・ゼレーニナ」


 青年が立ち上がるのに引っ張られてリディアも立ち上がった。ただでさえ白かったリディアの顔からさっと血の気が引いた。


「あなた、ルチアの葬儀にでも来てくださっていたの? なら知っているでしょうけど、神父さまにお祈りしていただいたもの。ルチアの魂は既に女神の御手にあるわ」

「言っただろう、君の所為だと。ルチア・ゼレーニナの一部を寄越せ。首に下げているだろう?」


 はっと胸元を押さえたリディアに青年は相変わらずうっすらと笑みを浮かべ、リディアの手を掴んでいるのと反対の手を差し出した。リディアは青年の手を振り払い(今度は難なく逃れられた)、着込んだ衣服の襟元に冷たい手を突っ込んで自棄を起こしたように無造作に、首から下げた鎖を引き摺り出した。

 小指ほどの大きさのボトルが鎖から垂れている。きっちりと蓋がされ、中には褪せたような白金色の髪が数本入れられていた。氷下で眠るルチアのそれだった。それを青年の手には置かず、青年の夜色の瞳を睨み上げた。


「どうする気?」

「そうだな……。在るべきところに返しておこうか」


 リディアの手からルチアの遺髪を奪い取り、それをルチアの頭部が位置する辺りの氷の上へ押さえつけた。手を離した先に髪は残っていない。


「神の御手を離れた迷える魂の末路に死あるのみ。決別せよ、リディア・ゼレーニナ。ルチア・ゼレーニナの魂は、『死者と掟の書』に則り、この僕アルリツィシスが責任を持って送り届ける」

「アルリツィシス」


 繰り返した名前に聞き覚えがあった。この地方の神話に登場する、死の象徴にして冥府への渡し守、あるいは死神と呼ばれるもの。甘くも苦い死の香りを身に纏い、その手には『死者と掟の書』を携えているという。

 裏付けるかのように青年は懐から本を取り出した。見たことのない金色の飾り文字が羅列された、青年の瞳と同じ夜色の表紙の、厚く大きな本。それが『死者と掟の書』なのだと直感した。


「この香りは、僕のものじゃない。ルチア・ゼレーニナの魂が朽ち果てていく香りだ。肉体を離れたまま此方に留まりすぎた魂に待ち受けるのは消滅のみだ。気持ちの整理はとっくについているだろう、リディア・ゼレーニナ。悲しみを忘れることへの脅えが魂を此の世へ引き留める。恐れる必要はない。悲しみを忘れることは、死者を忘れることではないのだから。最愛の妹を想うならば、祈ると良い」


 一陣の風が吹いた。思わず目を瞑ったリディアが恐る恐る目を開けたとき、青年の姿は消えていた。

 手袋越しに、そっと氷を撫でる。

 北風が、囁きと死の香りを吹き払っていった。

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