エピローグ
中にはかなりの数の墓石が建てられており、一見してわかるほどではない。僕は教えられたとおりに進むと、入ってずっと奥に行ったところ、そこを右に曲がり、またまっすぐ行ったところに、それはあった。入り口から見れば、最も右隅に位置していることになる。
もうだいぶ長い間訪れる人がいなかったらしく、以前はつややかだったろう御影石も、今は苔がむしてひびが入り、見るも無残な姿を遺すのみとなっていた。むろん彫られた文字も解読はおろか、そこに果たして文字が彫られてあるのかすらおぼつかないほど、風雨に浸食されていた。
あたり一帯には、秋の訪れを告げるかのように、虫の輪唱がさびしげに響いている。夏草が風にそよいでいる。その草むらの中に、声の主は潜んでいて、僕をじっと見つめているのだろうか。
墓石にむした苔を落として顔を上げると、眼下に、海とそこに広がる街が見えた。どうやらここは山と言うよりも崖と言ったほうが適当で、先に訪れた街と南北に続いているらしい。海は月光を反射して、漁師たちの灯りが所々に光っているが、灯りがなくとも、崖に打ち寄せるさざ波の音で、すぐにそれと分かるだろう。悄然として、僕は崖に寄り添い、眼下の絶景に心を浮かべた。
どれほど時間が経っただろうか。背後の墓場から、人の気配を感じて振り返ると、紛れもない紗雪その人が、あの時のように白いセーラー服を着て、顔は泣きそうに立っていた。
「……。」
しばらく無言で見つめあった。やがて紗雪のほうから、
「こんなところに、何しに来たの?」
もうあの涼しい丁寧な言葉づかいではなく、刺々しい口調になっていた。
「……。」
「答えないの? まあいいけど。」
彼女は少しずつ僕に近づいてきた。意を決して、
「……なぜ何も言わないで消えた?」
「……。」
今度は彼女が黙り込んだ。
「あんなにそばにいてくれたのに、どうして何も言わないで、消えたんだ?」
「あなた、もう知っているんでしょう? 私がもう死んでいること。」
まだ一縷の望みを抱いていたが、他ならぬ彼女自身の口から、それを打ち砕く言葉が出てきて、僕は驚きとも失望とも言えない感情にとらわれた。
確かに彼女はもうこの世の人間ではないようだ。ならばそれは抗いがたい現実で、人間にはどうすることもできない。僕は生きていて、彼女は死んでいる。二人の間に、見通すこともできない距離が、悠然と、横たわっている。
それでも。
「幽霊だからって…それが一体、どうしたってんだ?」
「…え?」
予想していなかったらしい一言に、彼女は驚き、歩みを止めて僕を見つめた。
「幽霊だからって……だからって消えたのか? 俺に何も言わないで?」
「それは……。」
「幽霊だからって…死んじゃったからって、関係ないだろ。」
僕はうつむいた。
そうだ。
「幽霊だからって、人間と仲良くしちゃダメなんてルール、誰が決めた?閻魔大王か?」
「ううん…。」
「俺は……俺は楽しかった。紗雪といた時間は、退屈な俺の人生の中で、かけがえのないものになった。うれしかった。楽しかった。あたたかかった。何よりも…。」
嘘偽りのない真心が、堰を切ったように流れ出す。
ああ、と僕はこころのため息をついた。目から涙がこぼれた。
「これからもずっと、ずっと一緒だと思ってた。君といるときだけが、俺にとっての慰めだった。君といるときだけ、人生に感謝できた。」
やがて言葉に嗚咽が混じり、聞くも醜い有様になる。僕はこころで、自嘲したが、もうなりふり構っていられなかった。
一回彼女は、僕の前から姿を消した。それが怖い。次はいつ消えてしまうか、分からない。
だから、この子が僕の前から永遠に消えてしまう前に、僕の気持ちを、ありったけ伝えなければならない!
「……君の笑う顔も、泣きそうな顔も、全部神様のおくりもののような気がして、僕の宝物だった。」
「やめて…やめてよ!」
彼女はもう泣いていた。涙声で叫んだ。その拍子に涙も鼻水も飛び、顔はいろいろなものが混ざってぐちゃぐちゃになり、お世辞にもかわいいと言えるものではない。しかし、僕には、それすらも、いとおしい。
「前にも言ったな……俺は熱中できるものがなくて、人生がつまらないって。」
そうだ、始まりはすべてここだった。僕は死にたくなるほど屑みたいな生活を送っていた。今思っても、あの頃は一番悲惨で、たとえこれから先様々な苦難が待ち受けていようとも、もう二度と戻りたくない。
それを変えてくれたのは、紗雪だったではないか。彼女は、僕の人生に劇的な変化をもたらしてくれたではないか。
彼女は僕にとって、何よりも大切な人となったのではないのか。
「君が好きだ。」
ようやく言えた。僕の気持ちが、余すところなく、すべて、ここに凝縮されている。何を言っても、結局、この言葉には及ばないだろう。
彼女はその言葉を聞いた瞬間、硬直した。目を思い切り見開いて、僕の顔を見た。そして、両手で顔を覆い、その場に膝から崩れた。
「君が好きだ……世界中で、誰よりも。」
「私だって…私だって、あなたのことが好き。好きなのに……好きなのに……。」
僕のこころは透き通っていた。そして、これが恋をすることなのだなと、今になってやっと悟った。
「好きなのに…私は幽霊なんだもん! 死んじゃってるんだもん! どうして…どうして…。こんなに好きなのに…こんなに愛しているのに…死んじゃったから、恋人になれないなんて…家族に、なれないなんて…ひどいよ…。」
その言葉が聞けただけでも、来た意味があったな、と思えた。好きな人に好きになってもらえるのが、たとえ相手が幽霊でも、こんなに幸せなことなんだな、ということが、分かった。
「好きになるほど…愛してしまうほど…あなたとの距離が、私に突きつけられた。越えられない距離だっていうことが分かっているのに、それでもますます好きになっていくのが怖かった。だから、消えたの。もうこれ以上好きになっちゃうと、つらいんじゃないかって。私だけじゃなくて、あなたまで悲しむんじゃないかって。」
僕は泣き崩れる彼女に走り寄り、そっと抱きしめた。彼女は変わらず、あたたかかった。
「大丈夫。君を好きになったことを、俺は後悔しない。たとえ君がそうしたとしても、俺はずっと、君を好きでいたいと思う。これからも、ずっと。」
僕は言いながら、言葉一つ一つをかみしめる。紛れもなく、僕のこころから流れた気持ちが、言葉に表されている。氷のように透明な言葉……。
「……もう……。」
僕の腕の中で、彼女は顔を上げて、僕の顔をしっかりと見つめた。相変わらず涙や鼻水にまみれていたが、すでに顔には微笑みが戻っており、とてもきれいだった。瞳の奥の悲しみは、もうどこにも見当たらなかった。
「ずるいよ……こんな時にそんな言葉が言えるなんて…私、好き、ってしか言ってないよ。」
「俺には十分だ。」
「私も好き。あなたが好き。ずっと好き。好きだよ。」
「俺もだ。」言いながら、また力を込めて抱きしめた。
「…ねえ、生まれ変わりって、信じる?」
意外な質問に、僕はとまどう。
「生まれ変わりって…。」
「知らないの? 死んでもまた、別の人間になって、生きることだよ。」
「信じるも信じないも…どっちでもいいさ。」
「ロマンがないのね。」
彼女はずるそうに笑った。
「私、生まれ変わるから。そしていつか、絶対に、あなたを見つけるから。それで、またあなたを好きになるの。」
「そんなこと言ったって…君が成長したら、俺はおじさんだぜ?」
「ふふ。知ってる? 私は平成11年に死んじゃったから、その時に生まれ変わるの。神様がそうしてくれるんだよ。」
「都合のいい神様だな…。」
「だから、君の目の前に、現れるのも、そう遠くはないかもしれないよ。」
はは、と僕は笑った。にわかには信じがたいことだろうが、その時の僕には、なぜか確信めいたもののように、言うなれば、数学の公式のように感じられた。
「分かった。……待ってるから。」
「……。」
ありがとう、と頭に響いた気がした。
気が付くと、僕はひとりになっていた。
今でも僕は、毎年夏の季節になると、この出来事を思い出す。それは何年経っても色あせないどころか、むしろ細部まではっきりと、浮き上がってくるようである。そして、なつかしさを感じるとともに、甘い切なさを覚えて、胸が締め付けられるような気持になるのだ。
今年も夏がやって来た。8年経った今まで、まだ彼女は僕の前には現れていない。それでも待とうと思う。紗雪は僕の初恋の人なのだから……。
ここまで思い出を書きなぐったところで、気分転換に散歩に出た。
僕は現在、都心近くのアパートの一室に住んでいる。あの後、僕は雪子に言われた通り、必死に勉強して、国内有数の名門大学に現役合格した。友達もできて、時には告白されることもあったが、僕はすべて断り、彼女を持たなかった。「好きな人がいるから。」と理由をつけて。そして順風満帆な大学生活を終え、大企業に就職し、今年で4年勤めることになる。職場の人間関係も良好で、上司も優しく、働きやすい職場である。人が聞くとうらやむかもしれないが、それでも、僕のこころには、一つの穴が開いたままで、今もそれは塞がれていない。
ちょうど昼下がりの道路は人も車もごった返して、非常に暑く、外に出たことを後悔するには十分すぎた。しかし少し歩いた以上、引き返すのも癪だったから、駅前にある知り合いの経営する喫茶店にでも寄ることにした。
巨大なスクランブル交差点に着いた。ちょうど信号は赤になったところで、思わず舌打ちをした。この炎天下、立たされることにイライラしないほうがおかしいだろう。
こちらの道路も向かいの道路も、信号待ちの人間であふれかえっている。つくづくうんざりした。
3分ほど待つと、信号が青に変わり、ダムが崩壊したように人が歩き出した。僕は後ろの人波に押されながら歩いた。
その時だった。白いワンピースを着た、涼しげな女性とすれ違った。そして、その胸の大き目な女の人の左目尻には、艶やかなほくろがあるのを、確かに見た。
波に押されながら渡りきると、すぐに僕は後ろを振り返った。
向こうでは、同じように先の女性が、僕のほうを確かに見つめて、おーいと言わんばかりに、手を大きく振っている。
時間が止まった感覚がした。
遠目からでも分かる。一緒にいたのは本当に短い間だったけれども、誰よりも僕は、彼女を知っている自信がある。
信号が再び青になった瞬間に、僕は走り出した。彼女は僕を、待ってくれていた。渡りきったら、すぐに彼女を抱きしめた。乱暴だったから、痛いよ、と小声が聞こえた。でも僕は力を緩めようとしなかった。もう二度と離したくなかった。自然に涙がこぼれた。女性は細く白くしなやかな指で、僕の涙をぬぐった。
8年越しの、再会だった。
終わりです




