序
忘れもしないあの夏は、18の時のことだった。
周りが受験勉強を始めている中で、大学進学に燃え上がることができずに、モチベーションの上がらないままではペンも手に取れず、かといって特にほかの熱中できることもなく、無為の日々を過ごしていた僕は、ある日、ふと他人の噂話を盗み聞きして知った、カゲロウ坂の幽霊屋敷の真相を、暇つぶしにでも確かめることにした。
そこは、地域のはずれのほうにあるうらぶれた区画の中でも、もはや住む人間もまばらになった住宅街にある。一見すると、旧家の現世への置き土産のようにも見えるくらいの、建築も絢爛な、日本風の屋敷であるが、中に入ると、よほど久しく人が住んでいないらしく、階段は朽ちて所々に穴が開き、柱も変色して今にも崩れそうなほどである。
それくらいなら別段奇談の一つもささやかれる程でもなかろうが、ここが他の廃墟と一線を画す不気味さを誇るのは、何故かそこには、ホームレスも、不良も、はては動物までもが、決して近づかないことだった。中に入ってみたという友人は、一歩踏み込んだ瞬間に、鳥肌が立つほどの冷気に襲われ、玄関先で引き返してしまったらしい。また別の人の体験によると、夜中にそこに近づいたら、灯りがともされており、その下を少女の影が通り過ぎたということである。いずれにせよ、長い間、そこに人が住むことはおろか、動物が近づきすらしなかったということは、真実であるらしかった。
ほんの気まぐれに訪れてみたのが、忘れられない思い出になろうとは、その時は考えてすらいなかったのだった。
その日は前日に雨が降ったので、蒸し暑い日だった。気温は高くはなかったけれど、湿度の高さに、ワイシャツは学校に着いた時点で既に汗まみれだった。
授業を終えて、自転車に乗り、30分ほど行くと、例の屋敷がある。途中の喫茶店で時間をつぶしたから、着いたのは夕方も暮れる八時過ぎだった。
大気の水が結露して、庭の雑草にむすび、学ランをたくしあげていた僕のふくらはぎに、冷たい気持ち悪さを落としていった。花はなく、緑一色である。地面に時折除かれる土色が、足にまとわりついて、歩きづらい。それもまた、雰囲気の演出に一役買っているのかと思うと、苦笑がこぼれた。
玄関先には何もない。当たり前かもしれないが、インターホンすらないのである。どれほど人が住んでいないのか……昔の時間が、ここに閉じ込められているような気がした。
横開きの扉は、簡単にがらがらと開いた。
灯りはあるはずもなく、一寸先はまさに闇で、持っている懐中電灯で足元を照らさなければ、おぼつかないほどだった。
一歩踏み込んだら、かすかな懐かしさを感じた。
これは嘘ではない。入った瞬間、まるで家に帰ってきたかのような、安心感が広がったのである。周囲には狂ったのだと言われそうだが、本当なのだ。
玄関に入ると、右側の奥に向かって襖が立ち並んでおり、左側には、腐りかけの階段がある。そこを昇り2階に着くと、三方を部屋に囲まれる。左右はいずれも、個室らしいが、正面だけは物置だったようで、そこの荒れようは他の二部屋よりもひどい。
足元には砕けたガラスの破片が散らばっている。懐中電灯で照らすと、反射されるので、踏まずに済むだろう。
おびただしい足元の星空の中に、一つ、目立って大きい光があった。
拾い上げてよく見ると、それは腕時計だった。時刻は10時22分で止まっている。銀色に鈍く光っているが、さびているのだろう。それほどはっきりとした色ではない。一見して高級なものであるのが分かる。持ち帰りたいが、色々と面倒なことが起こりそうだから、そっとそこに戻した。
その時だった。
「ねえ…そこで何してるの?」




