第1章ー7 『避けられぬ犠牲』
『ダイア、お前は、僕にどうしろと言うんだ…。こうするしか…こうするしかないだろう!?……だから…殺してやる。』
蘇る記憶。それは思い出したくもないものだらけだ。魔界の生活の方がはるかに長いが、忘れてしまいたいものばかりしかない。今見ているこの夢、そう、ザラザラと血塗られたこのおぞましい記憶は、ダイアの記憶から1番消し去りたいものだった。これ以上は見たくない。ここから先は思い出したくない。そう思えば思うほど映像がくっきりはっきり見えてくる。当時気づかなかったところまで鮮明に見えて、発狂しようとも現在の自分はこの記憶の中にいない。
吐き気がしても自分自身がどこにいるかわからない。目を瞑りたくてもこれは幻覚。逃れられないおぞましい記憶はまだ再生される。
この記憶の登場人物は、三人だ。死体と、ダイアと、ダイアよりも少しばかり背が高い、金髪の少年。
『俺の人生から消えろ。君が俺に触れれば触れるほど、俺は壊れる。お前が悪いんだ、ダイア。』
彼の金色の瞳に映るのは、所々に血がついた、キラリと光るナイフだ。過去のダイアはゆっくりと下がるも、少年はじりじりと迫り寄る。そして聞こえる彼の小さな本当の声が、現在のダイアと過去のダイアを狂うほどに悩ませる。
『俺を止めてくれ。』
『俺は愛されたい。』
『……助けて』
その嘆きの声が聞こえるほどに言い返せず、何もできず、責めることができない。そんな自分を呪ってしまいたいほど嫌いになる。これはいつの時でも同じだ。当時もそうだった。それに、思い出せば毎回そうなる。血を飲んで自分を落ち着けるのが日課だが、今はそれがない。なぜならこれは紛れもなく夢なのだから……………。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「…………夢でも、見たくなかった。」
目が覚めた時、家には電気が付いていた。寝ていた場所はいつもの棺ではなく、ベッドだった。久しぶりのベッドで起きたダイアは、どうも柔らかすぎて居心地が悪い。薄目で電気の光になれながら天井を見つめる。なぜ自分が寝てしまっているのか、彼には見当もつかない。ベッドで横になった覚えもそもそも寝た覚えも無かったからだ。
「起きたかい?ご主人。」
隣から聞こえるダークパンサーの声で首を動かすと、笑いながらやや心配そうな顔で覗き込むダークパンサーがいた。ダイアにはこの光景に見覚えがあった。ダークパンサーに初めてあった日、まさにこのベッドの上で、この時間に出会ったのだ。あの時も謎が多かったが、疑問に思ったことが解決したことなどまだ1つもない。何も知らない相手と契約を結んだとは、思い出すとなんとも危険なことだ。
「……僕はいつから寝てた?」
「寝たと言うか倒れたと言うか…まあどちらも結果的には眠ったわけだけど。ご主人は太陽に焼き殺される寸前だったのさ。そこを私が助けたんだから、感謝してほしいくらいだけどねぇ。」
ダイアが飲む血を持ってくるためか、ダークパンサーは一安心した顔で席を外しながらそう言った。倒れた覚えもあまりないのだが、その前の行動を思い出せば納得できる話だった。
精霊を送る途中に突然精霊が発狂しながら消え、ダイアの意識はそこからなくなった。太陽に耐えられないのはどうしようもないことなのだが、貴重な時間を無駄にした自分をただただ悔いた。
「精霊が消えた理由が何か、ダークパンサーはわかるのか?」
いくら時間が経っているからといえ、精霊が消えたと言うのに余裕顔なダークパンサーは、何かをつかんだ様子だった。いや、平静を保っているだけなのかもしれないが何にせよ、聞いて損をするものでもないだろう。
「ご主人はまだ外に出ていないからねぇ。見ればわかるけれど、現在、あらゆる自然が消滅しかけている。自然という定義は数知れないし、ご主人には想像がつかないだろう。感覚も、外を出たって明確にはわからない。なにせ、何がどうとハッキリした変化はないのだから。しかし、今までとは何かが違う。草も木も花も湖も川も海も、死にかけている。なぜそう感じるのかはわからなくても、とにかく死にかけているんだ。
それはなぜか。精霊という存在が消えたからさ。守るものがいなくなれば、全て無防備になるからねぇ。」
ダークパンサーの瞳に映るのは間違いなくダイアであったが、しかし彼はダイアを見ていなかった。もっと遠くのどこか違う場所。自然が消えているという事よりも、精霊___リッツの消滅を悔やんでいるようにダイアは感じる。彼らの付き合いを知っているわけでもないし、互いにどう思っていたかも知らない。友でもなければ敵でもなく、また他人でもないリッツという存在が消えた心境は、ダイアにはわかるはずもなかった。なにせ、そんな相手は過去にも今にもこれからも、存在することはないのだから。
「じゃあ、精霊は、リッツは、もう戻らない?」
どんな答えも求めていない。正直、リッツが消滅したこと事態は、それほどまで悲しいことではなかった。自然を守る精霊が消えたことは悲しいことだが、"リッツ"という存在が消えたことはどうでもいい。惜しい人材を失くしたとは思っても、それ以上のことは思わない。しかしそれも仕方がないだろう。ダイアはリッツとあってまだ数時間しか経っていない上、何も知らず分からないのだ。
「戻らない、訳でもない。私はあえて"消滅"といったが、消滅したのは"精霊"だからねぇ。リッツという存在は、まだどこかにいる。彼が見つけて欲しいと私達に頼んだ事が証拠さ。精霊が消えた原因は、例の魔力が自然に影響を及ぼしたせいでもあるが、1番の原因は、我らが神のお陰というものだからねえ。神が力を貸してでもくれれば、精霊殿は消滅することもなく、むしろ対抗できただろうが、神は力を貸すどころか、精霊としての資格を剥奪した。神の所業といっても過言ではないぐらい、残酷な話だ。」
意識を失う寸前に聞こえたリッツの、「我輩を、見つけてくれ。」という言葉がダイアの脳裏に蘇る。間違いなくあれは、精霊からの願いではなく、リッツ個人の願いだ。そして彼は他でもないダイアとダークパンサーにそれを頼んだ。残酷で冷酷な運命を辿った彼がどこにいるのかは、ダークパンサーも分からないだろう。聞かなくとも彼の口調でわかる。しかし、『探さなければならない。』とダイアの直感が告げていた。リッツの叫びは、届かないものに__神に救いを求める声ではなく、届くものに救いを求める声であった。そしてその届く者とは、紛れもなく、ダイアとダークパンサーの2人だ。
「なるほどねえ。はあ、また、仕事か。」
ダイアはゆっくりと呟く。いつもの、見栄を張った子供の口調ではなく、ギャンブルを楽しむ貴族のように、「これは一本取られた」と言わんばかりの口調で。
そして最後、疲れた様子で、呆れた様子で、仕方なくてしょうがない様子で、しかし、どこか嬉しそうな様子で、微笑した。
仕事___それは、番人の仕事とは程遠いものだ。町を守るのではなく、リッツを探す。ただ、彼はリッツに求められた。自分を探して欲しいと。求められれば、依頼されればなんでもする、それが番人の仕事でなくとも、リッツが番人に“依頼している”のであれば、それは“番人の仕事"へと変化する。依頼されたのであれば、やらないわけにはいかない。
リッツがそのことを理解しながらダイアへ依頼したことが、今、ようやくわかった。神に裏切られた、いや、見捨てられたと悟った瞬間に、狡猾な彼はダイアとダークパンサーへ依頼した。現在精霊ではないリッツは、管轄も何もなく、未知の生物を調べることも手を出すこともできる。それが終われば、恐らくリッツは精霊へと戻ることができるだろう。
そこまで神は深く考えていないのかもしれない。しかし、ダイアはそう思いたかった。そうでないならば、あまりにも惨すぎる。神へ忠誠を尽くしてきた彼の現実が、もし仮に見放されただけ、精霊としての権利を略奪されただけなのだとしたら。彼には何が残るのだろうか。何も残らない。リッツという名前だって、本名ではなく、spiritからとっただけの名前だった。もともと名前が存在しなかったのだろう。彼にあったものは、精霊という役職だけだったのだから。
ーーこれ以上は深読みしても仕方がない。ーー
ダイアはそう思い、腰掛けていたベッドから降りた。神がもし、リッツを精霊になることを許さなかったのだとしても、現在は神が、リッツに事を任せたのだと信じておくことにした。そうすれば、リッツを探す事が無駄でないように思えた。異様な魔力への打開に近づけるように思えた。
そうすれば……………また神を信じられるように思えた。
「…此の期に及んで、何故僕は何かにすがっているんだろう。それに、僕は何と言っても、神を信仰しては生きられない吸血鬼だ。神にとって、邪魔で悪である存在とみなされた吸血鬼…。」
契約を結んだ時から、この町の番人になった時から、ダイアは魔王へ忠誠を持たねばならなかった。しかし、未だに絶対的忠誠も、尊敬も、ましてや敬愛すらしていない。できるはずもない。彼は魔王を恨んだ時期さえあったのだから。そして今回の一件のせいで、今度は神すら恨むことになりそうだ。
昔は、辛い思いをしても十字架に耐えながら神を崇高してきた。しかし、どれだけ崇高しても彼の人生で報われたことは一度もなかった。あえて言うならば番人へ着任でき、特に不自由のない暮らしをしている事は報われたと言ってもいいのかもしれないが、両親が焼き殺されなければこんな事にはならなかっただろう。虐められていた彼でも、(少し風変わりな紳士と思われるかもしれないが)成長すれば貴族の威厳を見せられただろうし、上品な食事も一生食べられただろう。
番人に着任しなくとも、安泰な生活が約束されていた。自分がちっぽけな存在だと言う事は自覚していたが、神に届かないほど小さな声だとは思わなかった。神が気難しく、試練をよく与える事もわかっていたが、これほどまでに神の耳が遠いとは思わなかった。
「私は、誰が何を信仰しようとも構わないと思うけどねぇ。実際、この町を守っているのは我々魔者だというのに、悪魔や魔王の崇高派は少ない。意思のある生き物なんて、そんなものだろう?」
「…彼らは、確実に神や魔王が存在しているという確証はない。存在しないと思っている存在に縋るのは容易いと思う。しかし僕はどうだ?神も魔王も存在しているということを認知しておきながら、自分の立ち位置を理解せずに神に助けを求める。
いや、今ではその神でさえも、信用どころか疑念を持つようになった。番人を始めた頃は、神そのものは敬愛していたし、尊敬もしていた。僕には手の届かない遥か上の存在で、僕の声は聴こえるどころか届くことすらできない。そう思っていた。リッツに出会うまでは。」
ダイアの声は次第に薄れていった。手の届かない存在だと思っていた神が、手を届けさせてくれない存在と思えて来る自分を恐れ、神を信じたいと願った。(信じさせてくれと神に祈った事は言うまでもないだろう。)
「ご主人はどうやら、間違った解釈をしているようだ。」
ダークパンサーの手は止まっていた。血を皿に移していたが、皿から血が溢れた。驚いて手が止まったと言うより、自我を見失ったかのように見える。ダイアは眉をピクリと動かし、ダークパンサーに少し警戒しながらダイニングへ座った。ダークパンサーがダイアへ血を渡すことがわかった以上、正気に戻るまで座って待つのだ。
「僕が、どう、誤った解釈をしていると言うんだ?」
「神についてさ。」
黄色い目をキラリと光らせながら、横目でダイアを見た。ダイアはその視線に気付きながら、ひたすら机に手を置き、俯いていた。
そしてダイアが口を開きかけた時、ダークパンサーの目が手元に戻り、溢れた血に気づいたのか、血を入れてある容器を片付け、溢れた血をタオルで拭いた。そして、彼はダイアが話す隙を作らずに続けた。
「そもそも、神は全知全能ではない。強大な力を持っていても、できない事は多い。あのお方は、ただただお優しいのさ。しかし優しいからといって、全ての生き物に耳を貸すこともできないし、耳を貸せたとしてもそのものを助ける事はできない。ある意味、人格だけは神そのものなのだと保証できる。
しかし…“神”には向いていない。神としては無能だ。だってそうだろう?聖書でいう、“迷える子羊”だって、あの方なら確かに同じことをするだろうが、世のリーダーが残りの99匹を残しては、失格ではないかい?99匹の大きな犠牲の可能性と、確実な1匹の小さな犠牲、神ならばどちらを取るか明白。
まあ、私は今の侭でいいと、あのお方でいいと思っているけど。今までも、これからも。」
ダークパンサーのその言葉の一つ一つは、ダイアに話しかけている様子でなかった。誰でもいい、独り言をどこかの誰かに聞いてほしい、そういった感じだ。ダイアも、真剣にダークパンサーの話を聞いているというより、誰かの独り言をたまたま耳に入れてしまったかのような感覚で聞いていた。
「……おや、私にしては、少しばかり話が長くなってしまったねぇ。さあご主人、この血を飲んで身体を落ち着かせるといい。夢に魘されていたようだから。」
ダークパンサーのその素っ気ない物言いは、ダイアにこれ以上深く訊かれないようにと配慮したように思えたのだが、それは逆効果だった。
ーー神についてやけに詳しいな。使い魔如きが、なぜ…ーー
机の上にそっと置かれた、血の入った皿を持ち上げながら、ダイアはダークパンサーを横目で見つめた。趣味の悪い黒装束に、長い白髪で鋭く黄色い目。いつもと変わらない風変わりな男性の容姿は、羊の皮を被った狼のように笑っていた。先ほどの真剣な顔とは似ても似つかない愉快な笑顔は、ダイアをひどく安心させた。皿を口に近づけ、血を飲んだ。口の中では鉄のようなしょっぱい味が広がる。赤黒いそれは、喉に流し込むと、不思議なまでに力をみなぎらせた。血液は___とりわけ人間の血液は、吸血鬼のダイアにとって大切な生命の源だということを、認めざるおえない。美味い、不味いではなく、胃が満たされるわけでもなく、精神と身体を確実に癒していた。飲んだ直後はいつも以上にいろんな機能が優れ、興奮状態に陥ることが多いのだが、今はまさにその状態だ。ダイアが先ほどまで寝ていた奥の部屋からの小さな光さえも眩しく感じるぐらい、暗い場所も隅々まで見え、洞察力も優れ、感覚が敏感になっていた。
「ご主人、血を味わいたいのは痛いほどわかるし、そのすぐ後の快感もわかるけど、私はいつ、ご主人の血をいただけばいいのかねぇ?」
それを聞いてダイアは、少し申し訳ない気持ちになった。ダークパンサーは既に多大な魔力を浪費していた。ここしばらく、悪事を働く魔者__魔邪と呼ばれる者たちが多く、ダークパンサーはこれらを殺すために毎回魔力を使っていた。しかも転送魔法を使っていたのもあり、今の魔力の量は深刻な状態だった。契約を結んだ相手の血液は、通常の何倍も魔力が漲る。ダイアは最近、気分と機嫌が悪かったし、ダークパンサーは血をもらっていなかった。催促だけはなんどもしていたのだが。
「………まあ、仕方ないか。その代わり、血液分の仕事はするんだぞ。」
「いつもそれ以上の仕事をしているつもりだけどねぇ。」
「勝手にほざいてろ。」と冷たく罵るダイアだったが、言葉とは裏腹に、ダークパンサーの仕事ぶりは影で認めていた。全く血を渡していないダイアに、普通のファミリアなら怠惰を働いているはずだ。しかしダークパンサーは、態度こそ悪いものの、求められる以上の働きを行なっていた。ダイアの身の回り(普通ならばしなくていいのだが)、例えば食事を作ったりなどするし、雑魚な魔邪の排除も日頃からしている。ダイアは毎日書類整理や町の見回りをしているだけで、外で動くことといえば、あまりにも被害が大きい魔者を倒す時ぐらいだ。
「………好きなだけ受け取るといい。さっき血を飲み干したし、体調もそこそこいいからな。いつもより多く摂っても大丈夫だと思う。」
腕をダークパンサーに差し出し、窓を見つめながらダイアはそういった。ダークパンサーに血を吸われる時は、いつも顔を直接見ないようにしていた。なぜなら、血を吸う彼のその姿は、悍ましいものだからだ。口元の周りには濃くて赤黒い血がべっとりと付着するし、何よりも、血を飲んで活気付いたギラギラと光る目が一番恐ろしい。カトリーヌの書室から帰ってきたダークパンサーも驚くほど血塗れで悍ましかったが、それとは比にならない。あれはただの返り血で、ダークパンサーはその血に対して何も思ってはおらず、ただの赤い液体としか認識していないからだ。しかし、ダイアの血は違う。ダイアの血は、ダークパンサーにとって生命の源で、魔力の源なのだ。血の不足によって餓える事もあるし、まだ一度もなってはいないが、場合によっては中毒者のように何度もなんども催促する事もある。(ダークパンサーは何度も血を催促しているが、この場合は中毒ではなく餓えからの欲だ。)
「じゃあ遠慮なく。
我願う。契約の主人、ダイア・ブラームに流れしその純血を、我が力の源、生命の源として流させよ。」
ダークパンサーは、ダイアの手の指に自分の指を重ね、ブツブツとそう詠唱した。ダイアは目を瞑りながら自分の血が取られるーー奪われるその瞬間をしっかりと感じていた。契約者には傷を一切つけず、自らの体内へ直接血を流し込む。普通の使い魔ならばこれで終了のはずだった。しかし、以前にも話したように、ダークパンサーは舌でわざわざ堪能する方だった。ダークパンサーはダイアの指から血を採取して、それを先ほどダイアが飲んだ血の入った皿に移した。
「何が嬉しくて自分の血を飲んでいる男の姿を見なくてはいけないんだか。」
「見る見ないは自由だし、むしろ見られるのはそこそこ恥ずかしいんだけどねぇ。」
ダイアは好奇心で見ている訳でも、見るのが楽しくてみているわけでもない。勿論、自分が動いてダークパンサーから視線を外すことなど容易にできる。ダークパンサーの方だって、同様に見られたくないなら自分が別の場所へ移って飲めば済む話だ。しかし、どちらも動くことはなかった。ダイアは冷たい視線で血を飲み干しているダークパンサーを睨みつけ、大きなため息を漏らした。ダークパンサーは、ダイアが見える位置を動きもせずに血を飲み干す。どちらも意地を張り、妙なプライドを貫いた。
ーー何故僕が動かなければいけないんだ。見られるのが恥ずかしいなら自分で動けばいいじゃないか。ーー
ーー何故私が動かなければならないんだかねぇ。血を飲む姿を見たくないのなら、ご主人が動くのが普通だろうに。ーー
似た者同士というものだろうか。少なくとも、この光景と心の中の声を誰か__例えるならば金髪の生意気な堕天使__が見れば、間違いなく“似た者同士のどうでもいい意地”だと評するだろう。
ダークパンサーが血を飲み終えると、さも美味しそうに舌なめずりをしながらダイアに笑みを向け、皿を片付けた。ダイアは“気色が悪い”とでもいうようなそぶりでまた窓を見つめた。
不気味な蒼白い月が暗い番人の家を照らしていた。以前も同様に不気味だったのだが、現在はそれ以外の恐ろしさも感じる。精霊が存在していないからだろうか。何が以前と違うのか、何が違和感を感じさせるのか、ダークパンサーが言ったように、それすらもわからない。ただ、何かが欠けていた。何かが恐ろしかった。精霊という、当たり前の存在が消えただけで、精霊の重要さが初めてわかる。辺りを注意深く観察すると、例の異様な魔力が充満していた。その強大な魔力は、前に感じたものよりも遙かに強力だった。刻々と魔力の持ち主は力を上げていた。
「あんまり外を見ないほうがいいと思うよ、ご主人。どうやらこの魔力は夜の方が力が強いみたいだしねぇ。
いくら番人の家が魔王様のお力で護られているからと言っても、無闇に外へ行ったり、窓から顔を出したりすればご主人の存在が魔力の持ち主に知られてしまう。まあ、既に認知されていることは否めようがないんだけども、それでも闇雲に行動する方が危険が多い。」
闇は今尚、広がっていた。その闇夜を照らす月さえも、闇に呑まれているようにみえた。か細く、しかし綺麗に、不気味に蒼白く光る。善と悪、光と闇。どちらも相対的で絶対的な二つの言葉を月は映していた。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「………番人…ですか。」
カーネルが男の元へ行き、状況を報告しようとした時、掠れた重い、低い声が響いた。男は椅子に座り、水の入った鏡が貼ってある器を覗き込んでいる。カーネルから見えるものは、苦笑しながら器を見続ける自分の主君と、チラチラと角度によって見える水に映った映像だ。小さな吸血鬼の少年___恐らくダイアと言う少年と、以前番人をしていたと思われる白髪の男性が話し合っている姿が見える。しかし、何を話しているかわかるほど詳しくは見えず、そして恐らく主人の側から見ても分かりそうにない映像だった。情報不足、これ以外の言葉がカーネルには浮かばない。
「カーネル、来ていたのですね。ちょうどいい、少しこれを見るといいでしょう。」
肘掛から手を外し、カーネルの方をみると、彼はそう言った。機械のような口調をした敬語で感情を読み取らせない。無愛想というわけでもなく、気遣いも怒りも喜びも持ち合わせているというのに、どう言ったわけか他人がみると何も感じない。それは長年付き添って来たカーネルも同様だった。いつだって、彼の考えに気づいたことはないし、彼の感情に気づけたこともない。ただ、彼に身も心も全て委ね、指示通りに動けばいい。彼に何もかも頼ればいいのだ。そうすれば、彼は必ず喜び、必ず全てがうまくいく。
今回も、彼が出した命令に疑問一つ持たず、警戒もせず、深読みもせず、何も考えずに言われるまま動いた。
「御意。我が主。」
主君の顔は見えない。暗がりに身を潜めるかのようにひっそりと部屋の一番暗い場所に座っているのだから、当たり前だろう。見えるのは、紅いガーネットの指輪をはめた大きな手と、筋肉のついた膝、そして、ウォーターオパールのようなキラキラと光る目。(実際には水色が主色なのだが)
「貴方は、彼を…この少年をどう思いますか?」
自分の主君の後ろへ遠慮がちに回り、水に映った映像をカーネルは見つめた。思った通り、映像は途切れ途切れで、これをひとつの“情報”と呼ぶにはあまりにも無理があった。
しかし、彼の方はこれを情報と見なしているようだった。カーネルにはこの途切れた映像だけでは何も推測できない。
人間のような、魔者のような生き物が体を震わせ、それをみたダイアと思わしき少年が駆けつける。すると生き物は叫び(叫んだように見える)、姿を消した。少年は、しばらくすると目を見開きながら倒れていく。倒れた少年を白髪の男性が抱え、少年を見ながら笑い、何かを呟き、家に帰った。映像はここで終わっている。と言っても、映像が一部一部途切れているために、カーネルが頭の中で補正しているのだが。
カーネルは、なんども繰り返される映像を見続けた。この少年の眼差しは、いつだって暗い。何かを諦めているような、とても子供とは思えない眼をしていた。いくら150前後の年齢といえど、吸血鬼の寿命と容姿を考えると小さな子供なのだ。
「私めには、この少年の目に、諦念と、わずかな希望を感じます。そして、純粋さを。」
思ったままにカーネルが話すと、彼はフッと鼻で笑った。見下した笑いではなく、面白い、と言った笑い方だった。もともと主人は口を開いて大きな声で笑う人物ではなかったし、この笑いが普通だった。カーネルも、主人はこの笑い方が普通だと思い込んでいた。
「純粋ですか。あぁ…では、次に貴方は、この、男性をどう思いますか?“同じ”使い魔として。」
彼は水に映った男性に手を向けた。自分が使い魔という部分は訂正して欲しかったが、彼に逆らいたくはなかった。逆らって機嫌を損ねたり、嫌われたりするのだけは、使い魔とからかわれることよりも胸が痛かった。
従って、主人の命令通り、白髪の男性をゆっくりと観察した。先程のような、少年に感じた純粋さはない。何を考えているかわかるようでわからない、そんな感じがした。ある意味主人と似ている部分があるかもしれないと思ったが、それは言わないでおこうとカーネルは心に決めた。
「私めには、この男性に、何を考えているのかわからない、という底知れぬ恐怖と、反対に、表面だけを見れば、何も考えていない、という安堵を感じます。」
自分でそのことを述べて、カーネルは気づいた。主人とこの男性は、確かに得体の知れない恐怖がある。それは酷似している。だが、何も考えていないような楽天的な部分は、主人からは微塵にも感じられなかい。これは、カーネルにとって決定的な違いであった。そこは全く正反対なのだ。主人には得体の知れない恐怖と共に、何か言葉には表せない魅力が、恐怖と隣り合わせになっていた。
「なるほど。あなたにはそう見えるのですか。とはいえ、感じ方は人それぞれですからね。……我々は人ではありませんが。」
ニヤリと主人は笑う。ここでまた、カーネルは2人の違いを見つけた。笑い方だ。男性の笑い方は、何処か卑しい笑いだった。プライドと傲慢さが露わになっているような、腹の立つ笑み、と言うのだろうか、それとも薄ら笑いと言うべきなのだろうか。一方で主人は、満足げにゆっくりと、冷酷に含み笑う。どちらも同じで、どちらも違っていた。そしてカーネルは、主人の笑いの方が、まだ気に入れた。心のないマシーンのような、周りのものをただの物として見ているような目で、自分だけで考えを巡らせ、自分だけでその考えについて感じる笑み。何事も1人で考え、1人で終わらせる彼にはぴったりな笑いだとカーネルは思う。
笑いながら主人はまた映像を見つめていた。彼の目には何が見えているのだろうか。おそらく、自分が見えているものとは違うものが見えているはずだ。カーネルは彼の後ろで見守ること以外できなかった。
「……しかし、変化というものは誰もがするものなのですね。
カーネル、アレはどうなっていますか?」
変化をする相手が誰かはカーネルには分からなかった。また、主人がそのことについて自分から話すことはないだろうと思った。聞く必要も、訊く必要もないと思った。主人が訊くように命令するならば話は別だが、少なくとも今の状況下では、そのことについて考えることすら意味を成し得なかった。
カーネルはアレについてを話した。アレとは、物体ではない。生物だ。だが、主人は生物としては認識しておらず、ただの道具としか見ていないようだった。
「順調に魔力は強くなっております。思うに、復活するまでに後半年はかかるかも知れませんが…。」
実際は、半年もかからないはずだが、カーネルはあえて、一番長い時間を伝えた。何事も最悪な事態を想定することを命令されていたからだ。
「それは良かったです。さて、カーネル。私は例外がない限り、貴方に命令をし、それを実行すること以外は望んでいません。」
「はい、我が主人。承知しております。私共は、貴方様の手であり足であり、私情をねじ込むのは主の意向に反します。」
主人がこのように遠回しに“例外”と使うときは、決まってその“例外”を認めたときだった。きっと今回も、その例外は主人に認められ、私情を挟むことが許されるのであろう。カーネルは、主人に下される命令を予測しながら、それに見合う答えを考えた。
「難しく考える必要はないのですよ。私の求める命令……いえ、要求、でしょうか。それはカーネル、貴方が今思っている疑問について、話してもらいたいということです。これは、独断で答えてもらって構いません。話したくないのであれば、私は貴方の意思を尊重するでしょう。」
カーネルの疑問は、一つだけだった。あまり抱きたいと思っていなかった。というのも、疑問を抱くことさえ、主人に逆らうような気がしていたからだ。主人に対しての忠誠心が本当ならばその行動、命令について疑問を抱く必要がどうしてある?下される命令について、“何故”と感じるよりも先に、“当たり前”と感じる方が普通だろう。
しかし今回は、いつもと違う歯痒さをカーネルは感じていた。主人から提示された作戦は、非の打ち所のないものだ。問題は、例の少年と使い魔だった。主人はこの2人を恐れているようにおもえた。恐れる必要がないはずなのに、主人の方が明らかに強いというのに、一体何を恐れているのだろうか。それがただひとつの疑問だった。
「……我が主人、正直にお答えいたします。貴方様の考えが、私には分かりません。貴方様は、強く、聡明なお方のはずです。しかしながら、素性の知れない使い魔と、番人の力を与えられなければ何もできない、貴族の吸血鬼に目を向けていらっしゃる。まるで夜に這う大蛇を見る目で。」
「…………思った通り、正直ですね。安心しました。貴方は私をよく観察しています。その疑問に応えられるかは分かりませんが、今の言葉__夜に這う大蛇を見る目というのはいい例えです。
大蛇を日のさす早朝に見ても、恐れる必要は全くない。そのままゆっくりと後退するか、静止しておくか。捕まえて遠くへ逃すことも容易い。しかし、夜には見つける前に襲われる。そこには確かに存在していても、何処にいるかはわからない。
あの二人はそんな存在です。ええ、侮ると大変な目に遭うでしょう。現在の魔王よりも大きな障害かも知れません。まあ最も、私の場合、大蛇程度なら宵闇だろうと敵にすらなりませんが、あの二人、特にこの男は、危険な存在であることに間違いはありません。」
主人は視線は変えず、映し出された男を穴が開くほど見つめた。それほど危険には見えない。警戒すべき人物であるとしても、魔王よりも手強いとは思えなかった。しかし、それもまた主人の意向とあらば、この疑心も捨てなければならない。カーネルは、その身も心も全てを主人へ捧げていた。
主人はその後、カーネルに『行け』と手で示し、水に移った映像を何度も見直しはじめた。
カーネルは命令通り主人の部屋を出た。赤黒いドアを開け、狭くて急な暗い螺旋階段へ出た。
「フラーンファ。」
呪文を唱えて小さな炎を手に灯し、カーネルは慎重に階段を降りると、下から悲鳴が聞こえた。しかしカーネルは気にしない。あの悲鳴はカーネルの命令を、忠実な部下がやってのけた証拠だった。
ーー裏切り者は始末せよーー
主人の教えに従い、カーネルは部下に命じ、裏切り物を処罰させていた。裏切り者の名は、ロゼル。艶やかな黒髪のハルピュイアだ。彼女の、全てを映す黒曜石のような黒くて大きな目は、あどけなく、裏切りを働くとは到底思えなかった。見た目に惑わされてはいけないと、今回の件で見に染みたカーネルは、ため息をしばしばつきながら地下の扉をゆっくりと開いた。
ロゼルの髪は今までと違い、ぱさついて白くなっていた。大きな可愛らしい目は、きつく、隈ができている。美しく若い女の身体も、今では皺だらけの老婆。
主人から与えられたはずのものが、全て返却されていた。
艶やかで純白な白鳥の羽根、それは醜い禿鷲の羽根だった。綺麗な手と爪、それは濁った黄色い色をした鉤爪のついた手だった。
美しかったものが全て、作り物だったのだ。彼女に恋心を抱いた者たちは大勢いた。カーネルも時として例外ではない。それほど彼女は美しかった。だが、面影は一切ない。今の彼女を見た雄達は、果たして尚も彼女を愛するだろうか。性の対象として見るだろうか。とんでもない。
今の彼女は、青白い肌で皺だらけの醜い老婆でしかない。こんな化け物にどんな感情をいだけるとすれば、同情か嫌悪だろう。
「ロゼル、裏切り者にはどうすべきか、覚えているだろうな。」
ロゼルの姿が変わったことに些か動揺しすぎたせいか、見落としていた部分があった。
それは、すさまじい拷問後だった。恐らく荒んだ顔はその疲れのせいだとカーネルは思った。足の爪は、数枚はがされ、髪は何本か地面に抜け落ち、腹には打撲痕がついていた。未だに鎖へ繋がれているということは、まだなにも話していないということだろう。
「嗚呼ロゼル、なんて強情なんだね君は。」
ロゼルは何も話さない。ただただ、自分を醜く鋭い目で見つめるだけであくまでも無言を突き通すようだった。こんな状況でもなお喋らないということは、それほどまでに固く誓った目的があるのだろう。あるいは、それほどに忠誠を尽くすべき___自分の主人と同じような人物がいるのだろうか。
憶測ばかりがカーネルの頭に浮かんだ。
ゆっくりとロゼルの周りを歩き、顎に手をかけ、ロゼルに余裕を与えないよう目だけはしっかりとロゼルを捉えた。
「部下たちからも聞いただろうが、君が話せば、この拷問も終わる。もしかすると、逃がされる可能性もある。なぜ、話さないんだ?
ここにいた君ならわかるだろう?私たちの拷問がどれほど苦痛で恐ろしいか。」
あたりを見れば一目瞭然だった。赤黒いシミが壁にこびりつき、鉄のような生臭い匂いが漂う。そのせいか、聞こえないはずの死者の悲鳴が耳鳴りとともに聞こえるような気が、ロゼルはしていた。恐怖を一層感じさせるような冷たい空気は苦痛だ。横目で机を見た。「まだ終わらないぞ」というかのように、ペンチ、ハサミ、鋸、焼印を押すための金属、水の入ったバケツ…。この悪夢は永遠にも等しいと感じられた。恐らく、拷問はこれだけではないのだろう。これだけならまだ耐えられるのだが、彼らには魔術という極めて厄介なものがある。しかし、この全てを乗り越えなければ、何も解決しないではないか。なんのために仲間を裏切り、なんのためにこんな仕打ちにあったのか。ここでもし自分がリタイアしてしまったのなら、何もかもが無駄になってしまう。
ロゼルは恐怖を押し込みながら無言を突き通した。
「うん…よし、ではこれは試したかな?」
後ろの男にカーネルは尋ねると、ガタイのいい無口な男はゆっくりと首を振った。カーネルが手に取ったのは、焼印の道具だった。高熱の炎を魔術で出し、金属をあてがった。金属はだんだんと赤くなっていき、ジュッという音が聞こえた。
「さて、どこに当てようか。以前の君の姿ならば、この係を率先してやりたい者もいただろうが…。
とんだハズレくじを引いたよ。」
躊躇なく、カーネルはロゼルの腹に焼印を押した。甲高い声で叫んだが、すぐに歯を食いしばり、涙を流さないよう目を見開く。顔を逸らそうとするが、首を固定されているため、体はビクともしない。
つまらない反応に見兼ね、カーネルは太ももの羽を広げ、ゆっくりと長い時間焼印を押した。油断も隙も与えず、今度はロゼルの羽をむしりとり、そこへまた焼印を押した。カーネルは疲れた様子で常に無表情だった。拷問を行うなど造作無い。
「痛いだろう?苦しいだろう?吐いてしまえば、君は楽になる。なんなら主人へ君をあの姿に戻るよう頼んであげよう。さあ、君はなぜ、あれを盗もうとした。盗んでどうするつもりだった。言え。」
甘い言葉の誘惑。ロゼルは誘惑には乗らなかった。代わりにカーネルへ唾とゲロを吐きかけ、げっそりとした細い、疲労した顔で嘲笑う。
ロゼルは間違いなく"吐いていた"が、それはカーネルが求めるものとは明らかに違っていた。
「まだダメなのか…。」
カーネルは、本当は休んでいたかった。寝心地の悪いベッドでも構わない。硬くて背中が痛くなるような椅子でも構わない。凍えるように冷たい床でも構わない。寝られるのならどこでもいい。
この女が吐けば、少なくとも数分は寝られるはずだ。女を殺すという手もある。殺しさえすれば、数日はゆっくりとできるはずだ。それでも彼がロゼルを殺さないのは、彼の疲れた体を無理にでも動かすのは、主人への忠誠心がその動力となっているからだろう。
「ああ君、彼女に悪夢は見せたか?」
ミノタウロスは、またもや首を振った。あれだけ時間を与えたというのに、何をしているのだろう。カーネルは焼印をロゼルに当てながら、部下たちの間抜けさを呪った。この辺の拷問をもっと早くしていれば、恐らく彼女は口を割ったはずだ。それなら自分は動かなくて済んだ。
カーネルはこの怒りをロゼルにぶつけるため、ナイトメアを怒りに任せて唱えた。
「この者に苦しみを与えよ。決して殺すな。夢の中で苦しみ続けよ。ナイトメア。」
長ったらしい呪文は、今すぐ消えてなくなるべきだとカーネルは思った。時間の無駄だ。カーネルはミノタウロスに椅子を頼み、それに座りながらロゼルを見つめた。
ロゼルは虚ろな目で、何もない空間を見つめ、恐れていた。魔術は効いていた。まだ、現実と悪夢の中間を見ているようだったが、それでも苦しそうではあった。
だんだん体がビクビクと痙攣し出した。白目をむき、口から血を吐き出す。カーネルは舌を噛まないよう、すかさず猿轡を咥えさせた。首、腕、足、足首、胴への押さえをきつくし、それをひたすら見守る。始終、ポキっという骨の折れた音がした。それをミノタウロスの後ろにいる魔術使いに回復させ、また骨が折れれば何度も治した。声ではない。鳥の鳴き声が静寂をかき消す。
カーネルが椅子に座った途端、疲れがどっと押し寄せた。眉間に手を当てた、瞬きを何度もした。しかし、睡魔は遠ざからない。立ち上がれば眠気は覚めるはずなのに、体は重く、起き上がらなかった。瞼が重い。不思議なことに、喉が枯れてもなお叫び続けるロゼルのうるさい鳴き声は、いつの間にか聞こえなくなっていた。目を瞑って状況を整理しなければ。カーネルはゆっくりと目を閉じた。
眠いから目を瞑っているのではない。眠いから座っているのではない。言い訳を自分にたくさんし、カーネルは安らぎの眠りを求めるため、そっと体を背もたれに預けていった。
「カーネル様!カーネル様!」
ミノタウロスが自分の名を呼んだ。理由はなんとなくわかっている。ロゼルの心身が限界まで達したのだ。ここからは、カーネルにとって一番大変な作業となる。
カーネルは眉間に手を当てた。目を閉じ、明らかに眠っていた自分を寸前まで起こさなかったミノタウロスに、今日だけは感謝しようと思った。
「あぁ、ミノタウロス、彼女もちょうどいいころ合いだろう。」
ロゼルを見やると、彼女の体は震え、羽は数枚抜け落ち、失禁していた。無様で哀れで何とも言えない姿だ。顔は苦痛と苦悩で歪み、目から乾いた涙が伝っている。
「この者の苦しみを柔めよ、けしてやめるな、夢と現実の狭間に、ナイトメア。」
彼が呪文を唱えると、ロゼルは体の緊張が全て解けたかのように、深いため息をついた。正確には、まともに息ができないため、うめき声だろう。
今の彼女なら、苦しみから逃れるために、何でも話すだろう。それでも話さないというのなら、彼女の口から真実を聞き出すのは永遠に無理だ。
「ナイトメア、君は知っているはずだね。名前の通り、悪夢を見せる呪いだ。決して身体には影響を与えないが、心に多大な影響を与える。あまりやり過ぎると、正常な思考を持てなくなる。
私のような魔力が高い者へされたのなら尚更だ。さらに、私の場合は最悪、死なせてしまうこともある。
さて、今君の体には、何が起こっているのだろう。蜈蚣や紙魚、馬陸が体を這いずり回っているのか。それとも、おぞましい生物が君のその枯れた皮膚を舐めまわしているのか。
今君は、何をされている?」
カーネルは、ロゼルが真実を話すかどうか試していた。ここで何か言葉を発するならば、他のことも洗いざらい話す可能性が出てくる。心身ともに疲れている状態なら、まともな意思は働かずに真相を話すはずだ。猿轡を外し、口元に耳を近づけた。
「小さな虫たちが、私の身体を這いずり回っている。髪の毛に、服の下に、上に、顔に…
あ、お、大きな虫が、ああ、今そこに…。いや、来ないで…!」
呂律がうまく回っていない。だらしなく唾液が流れている。話すのもやっとなようだ。
「他には?他には何が見える。」
「嫌、嫌、嫌!話したくない見たくない、今すぐ止めて、今すぐ止めて!!」
ほとんど金切り声で、何を言っているか聞き取るのは大変だった。彼女がどれほど恐ろしいものを見ているのか、カーネルは知る由もない。大きな虫とだけ言われても、その虫がなんなのか正確に言われても、カーネルには今一理解できないし、何が怖いのかも分からない。
「話せ、今見えていることを。」
「あぁぁ、顔のない黒い生き物が、私の体に近づいてくる!痩せた足に痩せた腕、黒ずんだ皮膚で、骨ばった手で…まるで冥界の亡者が愚者の手を握るように、来ないで、来ないでお願い!
ソレの息遣いが聞こえたわ。ああ、もう、私の足に…嫌,嫌!!」
自分に何が起こったのか、確かめるようにロゼルは叫んだ。悲痛に呻き、必死で何かにすがろうと手を握り、腹にソレが這いずらないようへこませていた。その光景は全て幻覚と頭ではわかっていても、悪夢だとは割り切れなかった。実際に、息遣いも感触も痛みも汗も涙も、何もかも本物に思えた。一瞬でも気を緩めれば、これが幻覚だなんてすぐに忘れてしまいそうだ。
「よし、では次の質問をしよう。」
「ハア、ハア、今すぐこれをやめれば、話すわ。話す。話すからやめて!!」
悲鳴とも鳴き声ともとれる声に、カーネルは少し躊躇したが、仕方なしにナイトメアの呪文を解いた。彼女は恐らく、体を震わせている間も必死に叫んでいたのだろう。直接耳に届くことはなかったが、夢の中で必死に声を出し、痛みに耐え、今までの拷問よりも遥かに恐ろしい何かに立ち向かっていた。
「質問を始める。ゴードン、書き記しておけ。一語一句逃さずに。
さあ、君がまず答えることは、極めて簡単なことだ。ロゼル、何をしていた?」
実のところ、ロゼルが何をしていたのかも、カーネルは知らなかった。彼女が行ったことはただ一つ、アレに手を出していた。明らかにアレを盗み出そうとし、彼らの計画を邪魔していたのだ。なぜこんなことを行ったのか、盗み出して何をするつもりだったのか、今一訳の分からないことが多かった。
「私は……あの醜くて汚らわしい、魔物を殺そうとしただけ。カーネル!あなたたちのしていることは間違っている。人間界を、魔界を、いいえ、この世界を破壊すれば、次に破壊されされるのはあなた達よ!なぜそれがわからないの!!」
さっきとは至って違う、疲れた低い醜い声だ。しわがれていて、老婆というよりは風邪を引いた女のような声だった。どちらにしろ醜い。
「何故殺そうとした。何故、我らの主人に背くことをした。」
「やはり…あなたにはわからないでしょうね。カーネル、あなたはあいつに忠誠を誰よりも尽くしている。あいつのためなら、あの下賤な生き物のためなら、あなたは何だってする。命を差し出すことだって、身代わりになることだって、あいつが自分を殺してくれと言ったとしても、言う事を利く。だって全ての命令に従う犬だもの。あなたと私は似ている。とても、いえ、何もかも。けれど、従う相手が決定的に違う。」
彼女は独断で行ったのではなく、命令されてやっていた。これはかなり有益な情報だった。
ーー我々に刃向かうものがいるーー
それが知れただけでも十分だった。ただ、彼女が自分と同じように忠誠を誓った相手がいると言う事は、絶対に口を割らないと言う事だ。仮に自分がこのような状況下だったとしたら、カーネルは自分が死ぬ道を選んでいるだろう。それほどまでに主人へ敬意と忠誠を払っているのだ。
カーネルはロゼルを操る黒幕が、酷く頭の切れる者だと思った。ロゼルは芯の強い女だ。そんな彼女が簡単に忠誠を尽くすとは思えない。自分の主人と同じように、魅力があって頭がいい人物なのだろう。それが何者か、些か気になるところだ。
「ロゼル、その人物が誰か、君は話してくれるだろうか?」
「私とあなたは似た者同士、話すと思う?」
知らぬ間に彼女の身体は若返っていった。疲れ果てて隈があることは変わらないが、皺が消えていった。彼女の本当の姿は醜い老婆ではなかった。今まであれだけ拷問を受けていながら、彼女はまだ、変身を続けるほどの魔力と体力が、さっきまで残っていたのだ。見る見るうちに、綺麗な整った女の顔が現れる。が、以前のロゼルとは明らかに違っていた。目が細く、きつい顔をした美人な女だ。前の童顔で丸い大きな目をした少女はどこにもなかった。まだ醜い老婆の方が似ていると言える。(正直、カーネルはこの方がずっと良くて好みだった。)
「まだ魔力が残っていたとは、驚いたよ。それも、本当の姿がこれほどまでに美しかったとは。外れくじといったのを訂正しておこう。とはいっても、甘やかすつもりは毛頭ないが。
…先ほどの話に戻ろう。私と君は確かに、主人への忠誠心や、思考、性格、色々似ているところがあるようだ。そして私が君の立場にいるのなら、答えはNOだ。そう、主人から命令されない限り、絶対に口を割らない。何をされても。」
「フフ、やっぱり、私とあなたは似ているわね。じゃあ、主人から口を絶対に割るなと命令されたら、あなたならどうする?」
カーネルはロゼルの言おうとしていることがすぐに分かった。手に取るように、何もかも。カーネルは彼女の目を見つめ、唇を噛み締めながらかすれた声で答える。
「ああ、自分が話してしまう可能性を1%でも残したくない。よって、私ならば…」
「命を絶つ」
「命を絶つ」
同時に二人は答えた。ロゼルは微かに笑みを浮かべた。今まで見た何よりも優しい顔だ。カーネルは止めようとはしない。これ以上何をしても意味がないことは目に見えていた。彼女の身体は赤く、目を見ひらき、高い耳をつんざくような声で叫び始めた。
「カーネル様!!」
ゴードンは彼女が行おうとしていることに気づき、止めようとカーネルに命令を仰いだ。が、カーネルは首を振った。彼女にこれ以上苦しみを与えても意味がないのに、止めても仕方がない。彼女の身体は膨れ上がった。目は飛び出しはじめ、まるで蛙の腹のようだ。
「ロゼル、君の死は、いずれ全て無駄だったと分かるだろう。」
カーネルがそういうと、彼女は爆発した。皮膚がパラパラと飛び散り、赤い血が上から降ってきた。一瞬のことで驚いているゴードンに、カーネルは振り替えり、新たな命令を下した。
「ゴードン、ココを片付けてくれ。」
「……は、はい。」
ゴードンが自分を信じられないような目で見ているのが分かった。恐らく、自分のことをこう評しているのだろう。非情だ、無情だ、残忍だと。カーネルは、もっともだと心の中で思う。彼女の苦しみを開放するために自爆を許したという考えだけは、もしそうだったとしても認めようとはしない。
それを認めてしまえば、主人に逆らったことになる。主人が許しても、自分が許さない。
「私を残酷だと思うかね?」
「ええ、はい。」
ゴードンはたじろぎながら頷いていった。カーネルは悟った。彼はもう、自分を尊敬の対象としては見ないだろう。恐怖の対象としてみるはずだ。だが、別に構わない。むしろ好都合だ。彼は今まで以上に自分へ忠実に働いてくれるだろう。
「…それでいい。
ゴードン、一つ、ハッキリさせておこう。今回の件は__彼女が死んだのは、避けられぬ犠牲だ。彼女が裏切った時点で、こうなる運命だったのだよ。」