第2章ー1 『小さな依頼』
ーー今の状況を整理しよう。まず、僕の前にいるのは依頼人の高坂絹さんとダークパンサー。
そして僕が今驚いていることは、二人が必要以上ににらみ合って話が進まない事。--
なぜ絹がまた来たのか分からない。少なくとも一週間以上は魔者がやってきていなかったのだろうし、あの魔除け薬は今更効果が切れるようなものでもないはずだ。さらに、ダークパンサーも自分も、まだ血を一滴入れた小瓶によって召喚されたことは一度もないし、魔除けを持った絹が命の危険にさらされるようなことになる可能性は極めて低い。
それに、リッツが消えてからというもの、ダークパンサーとは少々距離を取るために絹を見張らせていた。それなら問題事が一つでもあれば報告するはずだ。
「…僕はお茶を入れてきます。」
この空気から逃れるにはただ待っていてはいけない気がした。話はいつ始めてもらってもいいし、いつ帰ってもらってもいいのだが、何とも言えない二人の睨めっこに付き合っているのは流石に気が引けるのだ。
ダイアはそそくさと席を外し、お茶を沸かしに行こうとした。
「いえ、コーヒーで。」
きつい物言いで絹は言った。ダイアはダークパンサーが何かしたのではないかと不安になった。苦情を入れに来たんじゃないだろうか。ダークパンサーの方を見ても、相変わらず笑っている。目は全く持って笑わずに絹をにらみつけてはいるが、やはりきっちりとにらんでいる。
ダイアがお茶を淹れるのを気にしていないのも可笑しい。こういった雑務はいつもダークパンサーの仕事だ。リッツが来た時は考え事の邪魔をしないように敢えて自分で淹れたが、今回の場合は気を使う必要などないはずだ。
絹とは気が合わないだろうと思っていたが、ここまでだったとは計算違いだった。ダイアは湯が沸くのを待ちながら、久しく飲んでいなかったコーヒーの準備をした。コーヒーを淹れてから紅茶を淹れるなんて面倒はしたくなかったのか、ダイアは紅茶の準備は一切にしなかった。ここしばらく紅茶しか飲んでいなかったのもあったのかもしれない。久々にコーヒーでもいいだろうと、そう思って。
お客様用のカップを選び、汚れが無いか確認しながら客間の方を見た。相変わらずに二人は睨みあっていた。さっきと違って話はしているが、ただの口げんかにしか聞こえない。
「信じられない。人の家に入ろうとしてしかも塾の先生に化けて出るなんて。先生ロッカーから出てきたのよ?」
ダイアは途中で耳を疑った。家に入り込むのはとにかく、人間をロッカーに入れて自分は化けていたなんて、元番人としてどうなのだろうか。
これは完璧にこちら側のミスというか失態だった。コーヒーを淹れ終えたら必ず謝罪しようと思った。塾講師は恐らく記憶を消されているのだろうが、講師がロッカールームからでてきたという記憶を持った人間も全員消しておかないといけない。
依頼人から苦情がくるなんてことはこれまで一度もなかったのに。とダイアはため息をついた。
「だけど、私の教え方の方が何十倍も上手いし、その上君も魔者にちょっかいを出されることはない。一挙両得じゃないかねぇ?」
ーーお前は事を荒立てるんじゃない!素直に謝っておけばいいものを。ーー
思わずにはいられなかった。変に開き直るなんてことはしなくていいのに、なぜこうも面倒な方向へとばかり持っていくのだろうか。たしかに、何百年と生きているダークパンサーなら人間にわかりやすく授業を受けさせるのは容易いだろうが、そう言う問題ではない。
「はぁ。」
コーヒーはまだ出来上がりそうになかった。二人のにらみ合いを終わらせるにはもう少し時間が経たないと無理だ。
ダイアはしばらく二人の話を聞くだけにして、湯が沸く前にコーヒーに合うお菓子でもないか探した。
魔界と人間界での食べ物の差は大してない。(そもそも魔界での食事は人間が食べるようなものではなく、大半は魂や血液なため、人間が食べるような食事は娯楽でしかない。それを食べ物と認めるかどうかは怪しいところが…)
絹が人間だからという理由で口に合わないことはなさそうだ。ダイアは戸棚を開けた。ちょうど良さそうなものが皿の上に乗っている。ビスコッティだ。普段は紅茶と一緒に食べているが、本来コーヒーに浸して食べるものなためちょうどいい。絹、ダークパンサー、そして自分の分をそれぞれ違う皿に乗せた。
「だいたい、はじめから私を疑うみたいな目で見てるのはなぜなの?血生臭い匂いをつけた儘ついて来る、嫌がらせかのように私に懐く猫を演じる、迷惑極まりないわ。」
絹が声を荒らげた。血生臭いのは恐らくダークパンサーが魔者を倒した後だったからだろうとダイアは思ったが、同情したい部分も二、三ある。特に、嫌がらせかのように猫の姿で懐いて来るなんていうのは“同じ被害者だ”という親近感しか湧かない。猫じゃなくても、媚を売るような姿勢はよく見せられていた。気色悪い以外の言葉が思い浮かばないくらいそれはもうしつこく、うざったい。
「疑うも何も、私はご主人に命令されたから動いているんだけどねぇ。」
ーー僕を巻き込むな!ーー
色々思い出した後に彼の性格を変える必要があるとダイアは悟った。そしてそれと同時に激しい怒りを感じた。やかんが沸騰する前に頭が沸騰しそうだ。
ダイアはまず、コーヒーとビスコッティを机に置いて席に着いたら何を言おうか考えた。話題を変えるためにコーヒー、あるいはビスコッティの説明をすることも考えたが、どうも今はそんな空気ではない。かといって、ダークパンサーの素行を自分が謝ったところで、絹の怒りが素直に冷えるとも限らない。
それどころか、絹には「あなたに謝られても意味がないわ」と言われ、ダークパンサーには「ご主人が謝る必要も、私が謝る必要もないねぇ」と言われそうでならない。どうしたものか。今日は不幸の連続だ。ダークパンサーには棺で眠っていた最中に気味の悪い色気付いた女の声で、しかも意思疎通で起こされ、頭がよく回らないうちに依頼人がそちらへ行くかもしれないなどという話を聞かされ、その依頼人は明らかに不機嫌な態度でやってきた。どの不幸も全てダークパンサーが招いたことではあるが…。
やかんの水が沸騰した。ダイアの頭が怒りで沸騰する事はひとまず回避できた。
彼はポットに熱い湯を入れ、準備して置いたサーバーにお湯を円を描くように注いだ。コーヒーの独特な苦くてコクのある香りが充満する。紅茶党だったダイアも、まだ飲んではいないが淹れた瞬間にたまにはコーヒーもいいものだと思った。トレイの上にソーサーとコーヒーカップ、シュガーポット、ミルクポット、ビスコッティを乗せた皿を置き、あまり近寄りたくはないものの二人のいる客間へ持って行った。
「ダイアくんはあんなにも礼儀正しくて真面目なのに、どうしてあなたはそんな性格なの!?
礼儀どころか失礼な態度しかとらないし、行動だってろくなものじゃない。」
「君はご主人と一日しか話したことがないのにまるで何年もの付き合いにような物言いだねぇ。そもそも私の存在を鼻から敵視していたのは君の方じゃないか。」
二人の口喧嘩はヒートアップしていた。ダイアはなるべく音がしないようゆっくりとコーヒーカップを机に置いた。この時点で少しは二人とも落ち着くだろうと思っていたのだが、ダイアの存在など気にしていない。自分の席に__ダークパンサーの隣で絹と斜めに向かい合う形で座った。二人を宥めるために息を吸った。せめてコーヒーだけでも飲ませれば、多少は落ち着くだろう。その飲ませるきっかけだけでもダイアが掴めれば、なんとかなるはずだ。
「このままでは埒が明きません。一旦落ち着いてください。
ダークパンサー、お前もお前で依頼人に対してなんて態度だ。元番人とは到底思えない所業だぞ。」
ダイアは反論される前にコーヒーを啜った。ミルクも砂糖も入れる事はなかった。二人はそんなダイアを見て黙ってコーヒーを飲むことにしたようだ。ダークパンサーはそのままブラックでコーヒー啜り、絹はミルクを入れながら砂糖をティースプーンに乗せて溶かした。これはこれでものすごく悪いどんよりとした空気だったが(最初とあまり変わらない気がした)机を叩き壊されそうな状態だった十数秒前よりはよほどマシだ。念のため意思疎通でダークパンサーに釘をさそうかとも思ったが、また気持ち悪い声色かあるいはそれに近いもので対抗してきそうなのでやめた。
絹はコーヒーを飲んだ後、ビスコッティを浸して食べた。味だけは保障のできるものだったので、もしかすれば機嫌を直してくれるのではないかとダイアは期待した。
「…美味しいわ、このコーヒー。」
素っ気ない態度で彼女はそう呟いた。まるで戦意を喪失した兵士のようなぐったりとした疲れた顔でビスコッティを少しずつ頬張る。たまにコーヒーを飲みながらため息をついていた。
ダークパンサーは相変わらず絹を睨みつけながら様子を伺っているように見えた。コーヒーも飲んではいるが味わっているようには到底みえない。ダイアは絹の気持ちが心底わかるような気がした。ダークパンサーを使い魔として契約できている時点で相性が悪いわけではないのだが、常日頃態度が悪い事には腹が立っていた。絹を見ていると自分と同じ事に怒りを持っていることが痛いほどわかる。
ダークパンサーと本当に仲が悪いカトリーヌとは違い、ダークパンサーは彼女を警戒しているようにも思えた。少なくとも、カトリーヌのことは堕天使としてある意味だろうが普通の意味だろうが尊敬しているが、絹のことを尊敬など微塵もしていないだろう。
「まず、高坂様、貴女に謝らせてください。きちんとこの使い魔を管理していなかった事は、こちら側の失態です。申し訳ありません。」
落ち着いたと見えたところで一か八かダイアは謝罪した。絹は特に変わった反応を見せなかった。ただただ、その場で頭を下げるダイアを見つめていた。
「私はダイアくん__ダイアさんに謝ってほしいんじゃないもの。」
「しかし…。」
ダークパンサーが謝るとは到底思えない。彼の強情さを一番知っているダイアだからこそそう思った。とはいえ、なんとかしてダークパンサーに謝らせるしか方法はないのだろう。ダメ元で意思疎通をする事にした。
ダークパンサーと心を通わせる事だけに集中し、肉体から一部の精神を切り離す。
『ダークパンサー、今すぐに彼女の前で謝れ。これは契約者としての命令だ。』
ーーとはいっても、どうせまた屁理屈でのらりくらりと躱されるんだろう…ーー
期待などしていない。形だけでも命令をして置いただけだ。ダイアは絹に謝らなかった場合のことを考えていた。ひとまず帰ってもらい、よく言い聞かせておくと言うのが賢明だろう。絹の顔色を伺うに、ダークパンサーが謝れば機嫌が良くなりそうなのだが…。
ダイアは再度ため息をついた。人の機嫌を伺うのは苦手な方だし、それに合わせた対応をとるのも嫌いな方だと言うのに、近頃はそんなことばかりだ。頑固なロリ堕天使の時も、精霊の時も。人付き合いなどほとんどない番人の仕事は、ただでさえコミュニケーションを取るのが下手なダイアをより一層下手にさせてしまう仕事だった。人と話すことなどほとんどないのだからと安易に思ってはいけないことを思い知る。今度からは依頼が来てもダークパンサーに任せず、自分も参加しようと思った。これ以上無愛想になっては何もできない。
ダークパンサーの返答を待っているのだが、なかなか返ってこなかった。意思疎通をした上で考え事をしているのか、自分の精神がダークパンサーに繋がっていないのか。どちらにせよ、謝る気はなさそうに思えた。
『…まあ、そろそろいいだろうかねぇ。知りたいことも分かったわけだし。』
ダイアは戸惑いを隠せない。絶対に屁理屈を添えて謝ることなどないと思っていたのだ。それはもう絶対的な自信があった。しかし、ダークパンサーは“そろそろいいだろう”といったのだ。どう言うことだか全くわからない。それに、知りたいこととはなんなのだろうか。ダイアはわけがわからなかった。もともと何を考えているかわからない人物ではあったのだが、今は本当に何もわからない。目の前にいる人物がダークパンサーなのかも疑わしいほどだ。
ダイアはダークパンサーのことを唖然とした様子で穴が空くほど見つめていた。と同時に、ダークパンサーがどんな行動に出るのかと気になってもいた。絹が帰ったら絶対に何があったのか問いただそうと心に決め、頭をスッキリさせようとコーヒーを飲んだ。苦い味が口いっぱいに広がる。なんでさっきまで平然と飲めていたのだろうと思うほど口に合わなかった。落ち着いて舌が敏感になったのかもしれない。コーヒーの香りまでは良くとも、味は受け付けられないのだとダイアは思った。今更ミルクを入れるわけにもいかないので、カップを戻し、もう飲まないことにした。
いつのことだったか、コーヒーの美味しさを延々と語るあるフォーンのことを思い出した。コーヒーマニアな彼がいうには、ブラックコーヒーの場合、あのえぐみも濃くの1つで、香りが何よりもよく、(それに関してはダイアも異論がないし、紅茶と似たものすら感じる)始めは苦手でも慣れると本当に美味しいらしい。しかし、ダイアは慣れる程飲みたいとは思わない。ブラックコーヒーが飲める者は周りに何人かいるのだが、彼らはおそらく口を揃えてダイアにこういうだろう。「確実に人生の幾分か損をしている」と。
コーヒーを一口飲み終えると、待っていたかのようにダークパンサーが絹に対して謝罪をし始めた。とはいえ、性格が性格なために、謝罪と認めて良いものか…。文面に起こしたのだとしたら謝罪だろうが、気持ちひとつ篭っていなかった。
「高坂 絹、申し訳ない。ああ、ご主人の言う通り、私に非がある。
しかし…監視はこれからも続けるし、君のお友達が大好きな猫は度々現れるだろう。“依頼人”を守ること、依頼を守ることは絶対だからねぇ。その依頼人が例え短気で低脳な依頼人でも。」
少しでも真面目に謝罪する瞬間を期待した自分がバカだった。期待をしないままただ眺めていればよかったのだ。やはり彼には無理がある。プライドと自己中心的なダークパンサーには。彼の性格を充分に、充分すぎるほどに理解しているのを再確認したダイアは、頭を覆った。今回絹が許したとしても、この性格は近いうち絶対に災いする。今は相手が人間だからいいものの、もしこの相手が怒りやすくてプライドの高い性格の木の妖精だったら、怒りっぽくはないが神経質なエルフ、ダークエルフだったらどうなっていたことか…。
特にドリュアスが相手だった場合、無駄に普段の容姿がいいダークパンサーなんて木の中に引き込まれるだろう。まあ、ダークパンサーなら自力で脱出できそうではある。が、脱出できた時にはとうに何百年も時が進んでいるはずで、(魔者にとって何百年は数年だが)その何百年という間にダイアが仕事を一人でこなすことは目に見えている。
絹を返したらとことん性根を叩き直してやろうと心に誓った。番人の仕事を一人でこなしたくなんてない。
「…その依頼人が監視をやめてほしいって遠回しに言ってるのに。魔除けがもらえればよかったのよ、私は。それに、噂に聞いていたこの町を守る番人、それがどんな方なのか知りたかっただけ。
つくづく、漆黒の番人さんが番人じゃなくてよかったと思ったけど。」
「それは僕も同感です。今までこいつがこの町を守っていたなんて背筋が凍ります。」
町のことを思えば、自分が番人になって心底よかったと思った。ダークパンサーは邪魔者を排除するような戦闘力は長けているが依頼人なんてものを相手にする能力は全くない。相手に合わせようという意識が全くないのだから。
「はぁ。ダイアく…さんに免じてこの件はもういいわ。」
「そんなに間違えるのならもう“ダイアくん”で結構ですよ…」
「あらそう?なら遠慮なくそう呼ばせて貰うわ。
今日ここに来たのは、この人のクレームももちろんのことだけど、もう一つ依頼したいことができたの。正確には、私の友達の依頼。彼女の住んでいる家に、厄介そうなのが取り憑いているようでね。でも、私のその友達、赤城優は__そこのダークパンサーさんはもう知っていると思うけど、霊力が皆無で。そのせいか、なにかが取り憑いている事さえわかっていないの。最初は、私たちが言う座敷わらしみたいな小妖精かもしれないと思ったわ。けど、そんなものじゃない。明らかにアレは悪意を秘めていた。」
絹の目には、恐怖の色も不安の色も、全くと言っていいほど映っていなかった。ただ起こったことを淡々と述べているように見える。正に“他人事”と言った様子だった。
ダイアは霊力のない娘に興味など抱きはしなかったが、ダークパンサーが興味を持ちそうな話ではあった。霊力が以上に強い娘、高坂絹と、霊力が皆無な娘、赤城優。
“その二人が巡り会う可能性など真の運命の相手を探し出すよりも困難なことだろう。その所謂一つの奇跡が、この小さな町で起こり、“友達”といえる関係性を持っているのだから、この世というのは面白いものだ。”とダークパンサーなら詩人めいた回りくどい言い方をするはずだ。(ダークパンサーに限らず、カトリーヌでもリッツでもそうだろうが。)
ダークパンサーが赤城優という少女を知っていたのだとしたら、なおさら興味を持っているはずだ。どうせならその好奇心を存分に満足させられるように、彼女の家に取り憑いている魔邪を任せてしまおう。それならば自分は部屋に閉じこもって入ればいいし、ダークパンサーも赤城優の傍で生態を把握できるだろう。
と思ったのだが、それを意思疎通で伝えようとする前にやめた。流石に依頼された内容を使い魔に“全て”任せるというのは番人としての顔が立たない。少なくとも一度か二度は赤城優の自宅に足を運ぶべきだろう。
「わかりました。一度調べてみます。その取り憑かれているという家を教えてもらえますか。」
ダイアは地図を机に広げた。絹は目を凝らして地図をなぞった。「あったわ、ここよ。」と指先に力を込めて指した場所は、ここから少し離れた一軒家だった。絹の家の斜向かいだ。ダークパンサーは知っていたのだろうか、とダイアは一瞬思ったが、わざわざ斜向かいの家の人間に興味を示す使い魔ではないことを思い出し、情報が少ないであろうことを密かに嘆いた。(それに、苦情の内容を思い出しても絹がダークパンサーを家に入れることはなさそうなので、そもそもダークパンサーが家に近づくことはなかっただろう。)
「私が優の家へ案内するわ。新しい友達を紹介するとでもいって、簡単に入れるように。調べることはお手伝いできないけれど、その方が仕事も早く進むでしょう?」
「ええ、そうしていただけると助かります。姿を消してなどしたら、それこそ使い魔の二の舞ですし。高坂様のご都合次第で我々は調べ始めますが、何時頃がよろしいでしょうか。」
願っても無い事だった。今回の場合は、赤城優からではなく高坂絹からの依頼であったため、普通なら赤城優や家族がいない間に密かに調べる事になる。が、そんな泥棒のような真似はできればしたくなかった。「自分は番人だ」と説明しても、赤城優にはわかるわけがないし、そもそも怪しい男と13歳かそこらの少年がそんなことを話したからといって水道の配管工事の様にすんなり入れるわけもない。
町を守る番人の存在は都市伝説の様に曖昧で、助けを求めない限りは番人の家にたどり着くこともできないのだ。霊感が皆無な少女なら、なおさら番人などと言う存在には疎いだろう。
「私は別にいつでも。…それに、今すぐでも構わないわ。今すぐ行きましょうよ。」
絹はなぜか張り切った声でそう言った。ダイアは窓を見た。カーテンから滲み出た橙色の光が、暗く燻んだ床を照らしていた。ダイアはカーテンを少しだけ開け、斜陽を前に自分が焼けないかどうか確かめて見た。熱いが、火傷をする程ではない。太陽の効力は弱くなっていた。今なら外に出かけられると思い、ダイアは絹の案に賛成した。決めたとなれば、早めに行きたい。熱さに耐えるなどと言う事はせずに夜まで待つのもいいが、流石に一般の女子高生を夜に連れまわす訳にもいかないのだ。(それが近所の家であろうと。)
その上、絹は一度決めたら行動せずにはいられないタイプのようで、どのみち今日行くことは絶対だったはずだ。
まるでダークパンサーだ。仲が悪いのは性格が似ているからだろうか。いや、そんなことはどうでもよかった。ダイアにとって今重要なのは、ダークパンサーと絹の仲がなぜ悪いのかではなく、依頼を全うすることだ。
ダイアはコートを羽織った。長年愛用している、丈の長い焦げ茶色のコートだ。ところどころ皺があり、雨や雪といった季節を思わせる匂いが悪戯に鼻をついた。そろそろ買い換えてもいい時期かと思いながら、時代を感じさせるそのコートの背広を直した。ひと昔前のデザインの帽子も被り、ため息を一度つく。
カトリーヌに会った時ほど寒くなければいいのだが…とダイアは思い、ドアに手をかけた。
「寒い……」
思ったよりも外の空気は冷えていた。しかし反対に、夕焼けの空は目を見張るかのように快晴だ。これはダイアにとってあまり都合のいいものではなかった。夕陽が雲に遮られることなく煌々と輝いてしまうのだ。気温は寒くとも夕陽は熱い。寒さと熱さで、凍傷と火傷を負ってしまいそうだった。
こんな日に外へ出るなんて、馬鹿のすることだ。とダイアは思ったが、自分がその馬鹿者だと知りながらも依頼を受けるしかない。太陽は依然として熱い以外の機能は果たしていなかったのだが、冷気の方は「早く仕事を済ませよう」とやる気にさせるスイッチの役割をしていた。
「さて、どう行くべきだろう。」
ダイアは白い息を吐きながら小さな声でそう呟いた。始めのうちは絹を連れて空でも飛び、夕陽と睨みあいながら赤城 優の家へと向かおうと思っていたのだが、雲一つない今、それはとても危険な行為だった。流石にそこまでの馬鹿には成り下がりたくない。太陽を前にすると、ダイアは魔力も碌に使えない人間のように、無力なのだ。影を選んで進むのが無難か、そう考え、灼熱の炎と極寒の冷気に阻まれながらも自分の足で進んだ。
「ダイアくんの様子を見ると、夜に優の家へ行った方が良かったのかしら。」
「いえ、お客様を僕らの都合で夜中に歩かせるわけにもいきませんから。」
ダイアはなるべく平静を保った様子でそう言った。しかし平静など保てるわけもなかった。ダイアが今思っていることはたった一つ。早く赤城 優の家へ行き、陽が落ちるまでわざとダラダラとした雑談を続けることだ。仕事はもちろん早く済ませるが、帰る時間は最低でも5:30か6:00が望ましかった。こんなことになるなら、ダークパンサーに任せておいた方が良かったのではないか。一瞬の気の迷いではあったが、そんな考えが脳裏に廻った。すぐさま、なぜ自分がこんな思いまでして歩いているのかを思い出すと、いくらか気分は安らいだが、根本的な原因__沈みかけの夕陽と道端の花を凍らせる冷気__は過ぎ去らなかった。両者ともにギリギリ我慢できる温度だと言うのがまた何とも腹正しい。
「ご主人は自分の身体にもっと気を使った方がいい気がするけどねぇ。自分がひ弱な吸血鬼だということを自覚しなきゃ。」
「ひ弱ね。別に太陽がでていないのなら僕はひ弱でもなんでもない。」
「1日は人間界では24時間。そのうち太陽はいつまで顔を出していると思う、ご主人?」
「さあね。」
「今の季節じゃだいたい14時間かそこら。そしてご主人が動ける時間を省くと、およそ12時間。
ご主人が外に出られるのはせいぜい13時間がいいところさ。」
「そりゃすごい。」
「そして夏にでもなれば、外に出て生きられるのは10時間が限界。しかも太陽の光を浴びている間は魔力が半分にまで一時的に減少する。ここまで人間界に適していないひ弱な魔者もそうそういないと思うがねえ?」
「僕は魔界仕様であって人間仕様じゃない。」
ダイアはあまりダークパンサーの話に耳を傾けていなかった。一応返事はしたが、殆ど生返事で返し、早く赤城 優の家に着けばいいのにと思っていた。そうすればこの、後ろは冷気に、前は熱に、左はダークパンサーの鬱陶しい話に囲まれるような状況は終わる。
いや、ダークパンサーが何も言いさえしなければ、それか、鬱陶しいとは思わないような話に変えてくれればこの地獄は天国にでも豹変するはずだ。だが、ダイアがいくら心の中で祈っても、その願いは叶う気配すらなかった。
ーーこの使い魔になにかを祈るのなら、神に祈った方がよっぽど効果的だろう。ーー
そう考え直し、ダイアはダークパンサーに関することを願うのはやめ、陽が早く落ちることと、気温が少しだけ上がることを第一に願い、祈った。気休めでしかないが、絶対に叶わないであろうことを願うよりは叶う可能性のあるものに期待をかける方が良かったのだ。
「そもそも私が言いたいのはご主人の身体を心配しているということなんだけどねぇ。」
「それはありがたい。」
「ああ、あるはずの頭を使おうともせず、太陽が真上にある状態で衝動的に外になんか出て、挙げ句の果てにはそのまま気絶されて。これで心配しない方が常軌を逸している。
それに、これからはあの魔力のせいで、もっと仕事が増えるだろうし…」
「もうすぐ着くわ。」
絹はダークパンサーの話を遮るかのように、大きな声でそういった。実際効果は覿面で、ダークパンサーのどうでもいい雑談は一気に静寂へ溶け込んだ。
ダークパンサーが黙ったことと、目的地が近いことはなんとも喜ばしい。先ほどまで耐えてきたあらゆる拷問が全て報われたような気がして、ダイアは素直に歓喜した。
「あ、ダークパンサーさん、その格好なんとかならないかしら。流石にそんな格好をしている人が家に来たら、どんな人でも怪しんでしまうわ。たとえ友達の紹介でも。」
ダークパンサーは無言で指をパチっと鳴らした。途端に体を黒いオーラが包み、体が縮み出した。黄色く光る、獲物を捉えた猫のようなつり上がった目が、あどけなく大きな子猫の目に変わるのがダイアにはわかった。彼を包んでいたオーラは色を褪せながら跡形もなく消えていき、地面にダークパンサーの変身した猫がポツンと残されていた。黒でも白でもない、灰色の猫は、アスファルトと同化して見え、残った大きくて黄色い目が一層大きく見えた。一見、とても可愛い幼い猫にしか見えないが、しかし、姿形は変えられても、“ダークパンサー”という不気味で奇怪な存在は尚も存在し続けているような気がダイアはした。
「これなら、赤城 優も違和感を持たないだろう?」
「ええ、そうね、グレイなら問題ないわ。さっきみたいにベラベラと喋らなければ何もね。」
ダークパンサーは何も言い返さなかった。いや、普通に考えて、そもそも猫は喋らない。猫が発するのは、鳴き声だけだ。それは言うまでもなくグレイも同じであった。ダークパンサーはグレイに、猫になりきっていたのだ。それでもダイアには“ダークパンサー”と言う存在が消えたようには到底思えなかった。狼が羊の皮を被っても無駄なように、目を凝らせばすぐわかる。が、それが使い魔との絆によるものなのか、それとも今しがた変身する瞬間を見たせいなのかは全くわからなかった。
グレイは、ゆっくり絹に近づき、毛を逆立てながら顔を鬼のようにして、ウーっと唸った。とても飼い猫とは思えない醜い姿で。
ーーこの場合、飼い主は僕なのか?ーー
ダイアは目の前にいる小さな醜い灰色の猫を見つめた。未だに絹に細い牙を向けている。室内飼いであるはずなのに、この行儀の悪さは一体なんなのだろうか。いや、殆ど放置していたのだから何も不思議なことではない。
絹はグレイの目を、親の仇でも見ているかのように睨みつけていた。グレイは相変わらず醜くい姿で、恐ろしい表情で威嚇していた。小さな鼻に目一杯皺を寄せ、長い爪を剥き出しにしたその姿は、まるで殺し屋だ。
「さ、行きましょ。ダイアくんもそろそろ限界じゃないかしら?私も同じよ。こんな寒いところにいるぐらいだったら、まだその猫を抱いてた方がマシよ。」
絹は再び歩き出した。もちろん、グレイが気を利かせて絹の冷えた腕の中に飛び込むことはない。すぐ隣の家の塀に飛び上がり、誰よりも上の位置から、細い四本足でてくてくと歩き始めた。
ダイアもそれについていき、グレイの横に並んで歩き出した。それに気づいたグレイは、突然ダイアの肩に飛び移った。
ーー全く、一体こいつは何を考えているんだーー
グレイはただの小さな子猫で、痩せていた。わざと振り落そうでもしない限り、落ちることも肩が凝ることもなさそうだった。しかし、それ以前に、グレイは小汚い野良猫でしかなかった。足についた泥を誰かが丁寧に洗ってくれるわけがないし、毛並みを綺麗に整えているわけもなかった。これでは長年愛用して来たコートが汚れてしまう。
「ダークパンサー、肩に乗る気なら、せめてその小汚い姿をなんとかしろ。」
了解、とでも言うように、グレイは「ニャーオ」と甲高い声で鳴いた。次にその小さな身体を水でもかかったかのようにブルブルと震わせ、泥や土を落とした。魔法でも使ったのだろう。毛並みは酷い儘だったが、それを除けば、まるで上品な白いペルシャ猫のように綺麗な姿になっていた。(しかしそれでも、周りから見ればやはり小汚い灰色の猫でしかないだろう。)
「着いたわ」
絹は一軒の家の前に立ち止まった。少し大きいが、至って普通の家だ。ただ一つ、そこだけ禍々しい妖気に満ちていた。消して強いわけではない。例の異様な魔力とも違う。
しかし、邪悪な信念だけは感じ取れた。
ーー何か嫌な予感がするーー
ダイアはそう思った。そして、恐らくそれは、グレイも同様に。




