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走った後のように息が切れる。
いつからか。昨日湖に向けてウユニを発った時から違和感は覚えていた。
エジノバでの術式の使用がこんなにも後を引いているのか。
ラクシュミの元を離れ、ウユニに帰った後は更にひどくなった。
本当に、時間が無いのかもしれない。
ベッドに横になる。少しはましか。
なんとか呼吸を整え、目を閉じる。睡眠をとれば、少し良くなるかもしれない。
だが、果たして自分はもう一度目をあけることができるのだろうか。
堪え切れない不安に包まれる。死を覚悟できていたのではないのか。
自問自答も虚しく、重苦しい倦怠感の中、微睡みの中に浸っていくのを感じた。
エドナは宿の自室で茫然と外を眺めていた。
眩しい夕日が木々の影を長く伸ばしている。
シンは大丈夫だろうか。
部屋に戻っていくシンは異様に疲れているように見えた。
思考が止まらない。
シンの過去を、エドナはロゼリアに聞いただけでしか知らない。
自分からは何も話さないのだ。心を閉ざしているということなのだろうか。
どうすれば心を開いてくれるのか。どうすれば、シンに生きることを選んでもらえるのか。
どういう言葉を選べばいいのか。どんなに自分の頭の中を探っても出てこない。
そもそも自分の語彙の中にあるのだろうか、今シンにかけるべき言葉が。
思考が袋小路にはまり、エドナはぼすんとベッドに倒れこんだ。
「うぅん・・・」
ロゼリアは今どうしているのだろうか。何か打開策を探しているのだろうか。
・・・自分は何もできていない。
シンのように相手の心を照らして不安を消すこともできない。
ロゼリアのように現状を変えるだけの知識もない。
自分には何ができるのだろう。何も持たない自分に何ができるのだろう。
「持たない…?」
エドナは自分の思考の中に引っかかるものを感じ、口に出した。
何も持たないなんてことはない。
自分はこんなに幸せを感じた。シンに幸せをもらった。
幸せを得る方法を、教えてもらった。
自分が持っているのは、シンからもらった幸せだ。
それしかないが、それがある。
十分だ。
エドナは立ち上がり、すっかり暗くなった部屋の扉を開けた。
目が覚めると、呼吸が落ち着いていた。
ほっとする。
良かった。
またこの世界を見ることが出来た。
見る、あの精霊はそれが出来ない。
やはりあの精霊に視界を、世界の美しさを取り戻させるべきだ。返すべきだ。
ベッドから起き上がる。
重苦しさは残るが、寝る前より楽だ。やはり睡眠は体力を回復させるのに有効だ。
取り留めもないことを考えながら、扉を開けてバルコニーに出る。
日はもうすっかり落ちているが、この村に着いた時と変わらない、草木の花々と果実の豊かな匂いが立ち込める。
バルコニーは部屋と同じくらいの広さがあり、木のベンチが設けられている。
長椅子に腰を下ろし、夜の風に身をさらす。
心地良い。
虫たちの声が賑やかに響く。
エドナと村を回った時に食べた果物は本当においしかった。
視覚、嗅覚、触覚、聴覚、味覚。五感がこの世界の美しさをとらえ、脳に伝える。
世界は本当に美しい。
虫たちの声を押しやり、木の床を踏む音が聞こえた。
振り向くと、満面の笑みのエドナが立っている。
本当に笑顔がよく似合う女の子だ。
自然とこちらも笑顔になってしまう。
エドナはシンの隣に並んで座ると、同じように風の音と匂いを感じた。
一緒に村を回った幸せな思い出がいくつもいくつも蘇る。
「シン様」
エドナが呼びかける。
幸せな思い出に心を委ねた笑顔がかわいらしい。
「シン様、体調は大丈夫ですか。」
「ああ、エジノバでは心配かけてごめんね。もうすっかり大丈夫だよ。」
後半に偽りを並べてしまう。
悟られたくない、心配をかけたくない。この笑顔を失わせたくない。
自分勝手な願いだろうが、今は許してほしい。
残された短いであろう時間は、悲しい顔よりも笑顔を見ていたい。
エドナはしばらく黙った後、少し悲しげに返した。
「シン様・・・本当のこと、言ってください。」
はっとしてエドナの方を振り返る。
エドナは悲しそうな顔でこちらを見ている。
「シン様、辛いときは辛いって言ってください。悲しいときは悲しいって言ってください。隠さなくてもいいんです。」
感づかれるようなことをしただろうか。何か不要なことを言っただろうか。
思考が巡る。
過去の自分の言動を振り返る。
「エドナ?僕は大丈夫だよ。心配いらないよ。」
平然を装って取り繕う。
「シン様」
エドナが立ち上がる。
シンは呆気にとられて停止する。
「ラクシュミの湖に行く途中で魔物と戦っていた時、苦しそうだったの、気づいていました。」
気づかれていた。
シンは落ち着かなくなって立ち上がり、ゆるやかに答える。
「そっか。それは心配かけてごめん。実はまだ少し体調が戻ってなかったんだ。でも、もう大丈夫だから。」
だが、エドナは涙を浮かべはじめる。
「ラクシュミが最後に言っていたこと・・・シン様の時間が、もう少ししかないということですよね・・・。」
やはり鋭い洞察をする。
確かに今のままだと、ロゼリアに看てもらったほうが正確にわかるだろうが、あと3日持つかわからない。
自分の体だ、直感的にわかる。
シンは肯定する代わりに諦観に満ちた笑顔を浮かべる。
最後の時には、この美しい世界を称え、笑顔で終わらせたい。
エドナの瞳から涙が零れ落ちる。
結局泣かせてしまった。後ろめたさが心に満ちる。
だが、エドナは以前のように泣いているだけではなかった。
次の瞬間、シンは信じられない感覚に包まれた。
エドナがシンを抱きしめる。
「シン様・・・生きましょう。一緒に、生きましょう。私はシン様にこの世界の素敵なものを沢山教えてもらいました。でも、もっと沢山見たいです。シン様はどうですか、もう十分ですか。そんなこと無いですよね。まだまだ見ていないもの、沢山ありますよね。」
抱きしめられているためエドナの顔は見えないが、放った声の振動が伝わる。
こんな風にされたのは初めてだ。
こんなに人に触れられたのは、人の体温に触れたのは、初めてだ。
「エドナ・・・?」
シンは無抵抗に、だが疑問符を投げかける。
「私、シン様がいない世界は嫌です。絶対に、嫌です。私の世界はシン様がくれた世界です。白黒だった世界が、シン様と出会ってから、命を救われてから、すごく色とりどりで綺麗になりました。毎日が楽しくて仕方がありません。」
思い出す。
アイサルの研究所から出て旅を始めた時の事。
見るもの全てが新鮮で、初めて見るものに次々と心を奪われていった。
今もそうだ。
経験を積み、「初めて見るもの」は減ったものの、そういうものを見つけた時は心躍る。
美しい景色を見た時の感動。
本当は、もっと見たい。
もっと知りたい。
長い時間を生きて、世界をゆっくり見てみたい。
まだ行ったことの無い土地が沢山ある。
海や空の向こう、見てみたいものが沢山ある。
目の奥が熱くなる。
この感覚は一体何だろう、長い間忘れていた何かが呼び起される。
「シン様、お願いがあります。」
エドナが声を絞り出すように言う。
「私と一緒に生きてください。生きて、この世界の事をもっと沢山教えてください。一緒に感動して、一緒においしいもの食べて、一緒に笑いたいです。ずっと、一緒にいてください。」
シンの頬を涙が伝う。
涙。
涙を流すなんて、いつ以来だろう。
研究施設にいた時だろうか、いやもっと前か。
長い間閉ざしていた心に光が差し込む隙間ができる。
「シン様」
エドナが再び言葉を繋ぐ。
「私、シン様のこと・・・大好きです。」
自分かエドナか若しくは両方か、心なしか体温が上がるのを感じる。
「エドナ」
シンはエドナに抱きしめられたまま声を出す。
涙のせいだろうか、声が震える。
「僕も、まだ、見たい。知りたいことが沢山ある。生きて、沢山見て、沢山知りたい。・・・生きたい。生きていたい。」
いくつもの涙が零れ落ちる。
二人はそのまま涙を流しつづけた。
ありがとうございます。