Spirit
野営地から湖までは歩いて2時間少々、遠くは無い距離であった。
朝日を照り返す澄んだ水面。岸辺近くの浅瀬に水鳥が立ち、毛繕いをしている。
3人は岸辺に立って湖を眺める。
まずエドナが歓声を上げた。
「すごくきれいですね。」
シンも目を細めて湖に見入る。まるで湖全体が一つの巨大な宝石のようだ。
急に、背後の茂みが音を立てる。
3人が同時に振り返ると、茂みから水鳥の群が飛び出してきた。
「なんだ・・・驚かせるねえ。」
ロゼリアがため息交じりに言い、湖に向き直る。と、信じがたい光景が待ち受けていた。
シンとエドナも向き直り、そして絶句する。
岸部近くの水面から、巨大な水竜が長い首を伸ばしていた。
その後ろには亀のような甲羅が水をまとって見えている、美しい水竜。
首だけでも3メートルはあるそれは、澄んだ紫水晶のような瞳で3人をゆっくりと見回す。
「魔物・・・?精霊・・・?」
エドナが緊張の中でなんとか声を絞り出し、身構える。
シンも緊張を隠しきれないままに疑問を重ねる。
「村の人から聞いた魔物の特徴に当てはまるけれど、この感じは、マナ・・・?」
答えを出したのはロゼリアだった。
「村人が恐れる魔物だよ。そして、精霊そのものさ。何十年、いや何百年かな、ずっと姿を見せなかった精霊が急に現れたもんだから、姿を知らない村人が魔物と勘違いした。そうじゃないか?」
合点したという素振りを見せるシン、信じられないといった表情を浮かべるエドナをよそに水竜は満足そうに頷く。
「我が名はラクシュミ。この湖を守り、豊穣の風を吹かせる精霊。永き時を生きる精霊と違い、刹那を生きるヒトは移ろう。恒常は求めぬ。」
中性的、どちらかといえば女性的なよく反響する声で水竜は語る。
精霊は寿命が無いわけではないが、それは人間とは比にならないほど長い。数万年も生きている精霊が今も存在していることが実際に知られているほどだ。
人間の世代をまたぐ変化でさえも、精霊には早いものに感じるのだろう。
精霊ラクシュミは目を細めてしみじみと言葉を置く。
「久しいな、弱きヒトの子よ。」
紫水晶のふたつ目は既にロゼリアからその視線を離していた。その視線が向けられているのは、シンであった。
「え・・・?」
シンがなかなか発しないような疑問符を漏らす。
「忘れたか、ヒトの子。我はそなたの心を長きにわたり見続けているぞ」
精霊を見据えるシンの表情が少し強ばる。
「まさか・・・」
それ以上言葉を発せられないでいるシンの代わりにロゼリアが答える。
「やっぱりか。ウユニ村の術式学者が湖の精霊に関して気になる論文を出していてね、あんたじゃないかと思っていたんだよ。あんた、この湖に帰って来たのは9年前だろう。この村で湖の魔物騒動が起こった年だ。そして、それ以前にあんたがいた場所は、アイサルのはずだ。」
シンが息を呑む。
ユーラビア国の隣国アイサル。排他国家。他国を屈服させるための独自技術の開発。研究。
エドナの頭の中に、エジノバでロゼリアから聞いた話が蘇る。
「シン様・・・?」
シンは精霊から目を逸らし、何かを考えている。エドナの呼びかけは耳に入らないようだ。
ロゼリアが更に言葉を重ねる。
「アイサルはユーラビアからこの精霊を連れてきた、いや、捕らえてきたんだ。アイサルには精霊が少ないからね。この精霊を特殊な装置に入れ、断片化した。マナの集合体である精霊は離散と再集合ができるんだ。そして、その断片が研究に使われていた。ひどいことをしていたと思うよ、本当に・・・。」
精霊ラクシュミは目を細めたままでロゼリアを見据え、話を聞いている。まるで齟齬がないかを確認するように。
だが、その目にロゼリアに対する怒りや憎しみといった感情は見られない。
シンは俯いたまま精霊に、目の前のまばゆい存在に目を向けられないでいる。
精霊がアイサルでどのような苦しみを受けてきたのかは想像できない。しかし、自分の受けてきた苦しみを当てはめずにはいられない。
研究者の失態の隙をついてすぐに逃げ出すほどだ。相当のものだったのだろう。
そして今も、自分の命を繋ぐため、この精霊は自らの一部を失っている。ロゼリアが重たそうに口を開く。
「精霊ラクシュミ。私達研究者はあんたに本当にひどいことをしてきた。その過ちは認める。謝って許されるようなことではないだろうけど、本当に、申し訳ない。でも・・・シンは、何も悪くない。私達のせいで、あんたみたいに苦しんでいるんだ。今どういう状況か、あんたにはわかるんだろう。頼む、力を貸してくれないか。」
苦い表情で言うロゼリアを精霊ラクシュミは静かに見つめる。
シンは何か言いたそうにしているが、言い出せない。
アイサル国家が学者たちの家族を人質に取り、研究させていたのだ。ロゼリアが悪かったわけではない。
ラクシュミはロゼリアから目を離し、空を仰いだ。
「国に首輪をかけられし飼い犬に罪をかけるほど愚かではない。加え、敵わぬ相手に戦を挑むほど愚かでもない。」
淡々と言うラクシュミをロゼリアが振り仰ぐ。
この精霊はアイサルの研究の全てを知っていたのだ。
普通ならば、知ったうえでも敵わない国家にぶつけることができない怒りを、ロゼリアのような学者たちに向けるだろう。
しかし、この精霊は怒りを本来あるべき方向に向けている。そればかりか、自らの力量もわきまえ、国家への報復も考えていないのだ。
寛大で自己理解のある精霊だ。
この精霊ならば、シンを生かすのに協力してくれるのではないだろうか。
ロゼリアの胸の中に希望が灯る。
「弱きヒトの子よ。」
ロゼリアの懇願に返答をしないまま、ふいにラクシュミがシンに目を向ける。
シンは反射的に精霊に目を向ける。
目があう。
鼓動が高鳴る。
この精霊の関心が向けられているのは自分だ。この精霊は何を考えている。今すぐにでも自らの断片を取り戻そうとするだろうか。それならば、自分はここで死ぬかもしれない。
だが、この精霊が今も尚自分のせいで苦しんでいるのならば、それも良いのかもしれない。
今までこの精霊のおかげで沢山のものを見ることが出来た。
見たいものはまだそれ以上に多いが、十分な長さの人生を持っていたとしても、人間のそれでは世界の全てを見ることなどできない。それならば、自分のために苦しむものなど無い方がいい。
ラクシュミがシンを見据える。
「ヒトの子よ、解しておらぬようならば教えよう、我が自らの一部をそなたの中に置くことで失っておるものを。我は、視力を失っておる。」
シンが息を呑む。
ロゼリアとエドナも絶句した。
この精霊は見えていないのだ。目が合ったように感じていたのも、きっと心を感じて目を向けていただけなのだろう。
精霊は人間と同じ機能の目の他、心を見る目を持っている。喜び、怒り、悲しみ。様々な感情の変化が精霊の目には映る。
ラクシュミが続ける。
「そなたらが見ているこの湖の美しさも、森の豊かさも、我が眼には映らぬ。ただ、心のありようだけが見える。」
シンは心が激しく揺らぐのを感じた。
自分が綺麗だといって楽しんでいるこの世界を、この精霊は見ることができていない。
ラクシュミがシンに問いかける。
「そなたに生きる意志はあるか。知ったうえで、生きる意志はあるのか。」
シンの心を完全に見透かしたような問いを放つ。
ロゼリアが遮る。シンがこのような時にどう考えるか、ロゼリアにはわかるのだ。
「待った、精霊ラクシュミ。」
「我はこの者に問うておる」
ラクシュミはロゼリアの介入を許さない。
最悪の状況だ。
この状況でシンがラクシュミに自らの生を望めるはずがない。
搾取された経験を持つものが搾取する側になるのは容易なことではないのだ。特にシンの性格では、無理だ。
もどかしさに耐え兼ねてロゼリアがまた口を開こうとする前に、ラクシュミが沈黙を破る。
「答えの期限を我は定めぬ。無論、定めずともそなたの都合があるであろうがな。短き時を生きるものよ、考えよ。」
青白い光が辺りに満ち、目が開けていられなくなる。
瞼の奥から光が落ち着いたことを感じると、シンは自分がウユニ村の門の外に立っていることに気が付いた。
太陽は頂点を越え、影が長くなり始めている。
エドナが不思議そうに周りを見回している。転移系の術式を使われたのだろう。
ロゼリアは調べることがある、とだけ告げて歩き去り、術式学者翁の家へ向かった。
残されたシンとエドナは少しの間沈黙の中にいた。
エドナは何か気の利いたことでも言えないかと模索したが、見つからずに思索を続けていた。
俯いていたシンがふと顔を上げ、それに気が付いたエドナがシンの方を向く。シンは普段と変わらない笑顔を見せている。
「何も言えなかった。ふう、緊張したー。」
伸びをして、シンは歩き出す。
「少し疲れたから宿で休むね。エドナはどうする?」
いつも通りの口調。湖でのことが無ければ安心感を覚えていたであろうが、今のエドナにはシンが無理をしているようにしか感じられなかった。
ぎこちなく返す。
「なんだか私も疲れました。一緒に戻ります。」
ロゼリアのように知識が無いエドナは、今自分にできることを見つけることが出来ない。
ひとまず今は、少しでも長くシンの傍に居たい思った。
ありがとうございます!