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6.Subject
小さな部屋で十数人の子供が思い思いに遊んでいる。年の程はばらつきがあるが、概ね10歳前後だろう。おままごとをする少女たち、トランプで遊ぶ子たち、本を読んでいる子。ぬいぐるみを抱きしめてうずくまっている子もいる。
三方を窓の無い壁に囲まれ、残り一つの面は全面ガラスだが、そのガラスには特殊な加工が施されており、部屋の中からは白い壁に見えて外が見えないようになっている。
「にん・・・主任っ!」
若い男性研究員の呼びかけに、黒紫色の艶やかな巻き毛を肩下まで垂らした女性がはっと振り返る。年は20歳を僅かに過ぎたくらいだろうか、長身で細身な体つきに、男性研究員と同じ柄の若草色の服、この研究施設の制服なのであろうそれを身に着け、更にその上に白衣を羽織っている。男性研究員はほっとしたように苦笑する。
「もう、しっかりして下さいよ、ロゼリア主任。あなたまで研究を降りられたら、誰がチームを引っ張るのですか。」
ロゼリアはふっと笑い、応える。
「すまないね、ちょっと考え事をしていたよ。実験結果だね?」
男性研究員は一枚の紙をロゼリアに差し出し、自分もコピーを見ながら説明を始める。
「投与するマナ緩衝剤の濃度を段階的に上げていく実験についてです。被験体はf-212からf-216。初期濃度から10倍ずつ濃度を上げ、24時間ごとに投与。目標濃度までは6日です。拒絶反応はやはり全検体1回目から起こりました。3日目で1検体死亡。4日目に2検体、5日目に残りの3検体が全て死亡です。目標まで届きませんし、個体差が激しいです。もう少しサンプル数を増やさないと何とも言えないですね。」
頭を掻きながら男性研究員が言う。だが、書類から顔を上げてはっとなる。ロゼリアは神妙な面持ちで書類を見つめる。
「すみません・・・人間の子の命と考えると、どうしても手が進まなくて。」
ロゼリアは再び子供たちに目を向けて口を開く。
「それが普通だよ。それを意識しながら進んで実験できるほうが、気が狂っている。」
男性研究員は声をひそめてさらに呟く。
「自分の娘と同じ年頃の子と思うと、自分も逃げ出したくなります。」
そして、悲しい目のままにっと笑って続けた。
「まあ、そんなことしたら本当に娘も嫁も失っちまうんで逃げ出せませんけどね。」
約2年前、国家政府からアイサル各地の優秀な術式研究者に、国内随一の研究都市ルスラへの招集がかかった。
大陸を牽引する術式技術の研究開発の名目で研究者に示された待遇は、高給与・家族全員の移住費用の国負担と研究所近郊の研究員用宿舎の家賃補助・そしてルスラの研究員という、アイサルの学者ならば誰もが羨望する地位であった。実際この招集を断った者はどうしても移動出来ない重病の家族を持つ者程度で、総じて100名もの研究者がルスラの新設研究施設に集った。
しかし、実際の研究内容は何人もの奴隷の子供に薬剤を投与し、苦しませた挙句死なせるという悲惨なもので、約9割の研究員が数日で研究を辞退し出した。
「本当に、国は言葉が上手いですよね。俺たちはまんまと人質をとられちまいましたよ。」
辞表を出した研究員に国が出した通達は、家族全員の国籍剥奪であった。
アイサルはユラ大陸の中で最も閉鎖的な国であり、国籍をもたない人間が入国許可証無しで国内を歩いていれば即刻捕えられ、多くの場合殺される。つまり、国内での国籍剥奪は死を意味する。
結局、研究が始まって1年の間に半以上数の研究者が逃亡を図ったが、本人と家族の亡骸が晒されなかった事例は無かった。
2年立った今、残った研究員は20人程度である。ロゼリアは1年前、異例の若さで3代目の主任研究員となった。
「あまり不要な話をしていて、上に聞かれても助けないよ。」
男性研究員のこれ以上の発言を制して、ロゼリアは話を戻す。
「同じ手法でサンプル数を増やすより、もう少し手法を考えてみましょう。投与期間を一日開けてみるのはどう?順化が追い付いていないのかもしれない。」
男性研究員は頷き、応えた。
「承知しました、主任。・・・検体数もだいぶ減りましたね。一月前、5倍はいたのに。」
ロゼリアが無機的に返す。
「明日、大規模侵攻がある。ユーラビアとの間の小国カンタナグザ。また大量の奴隷が引き連れられてくるだろうね。」
男性研究員は複雑な気分になり、居たたまれなくなったのか自分の手帳に何やら走り書きし、実験計画書を作成してくると言ってロゼリアの元を後にした。
研究の転機とは突然訪れるものである。ロゼリアが研究所の主任室で書類整理に勤しんでいると、男性研究員が勢いよく扉を叩いて入ってきた。
「主任!遂にマナ順化剤の目標濃度が達成できました!先日入った200検体の中の50検体を隔日投与で順化処理したところ、現在4人生き残りがいます。・・・これで、ついに、終わりに一歩近づきましたね。」
男性研究員は喜びを噛みしめて興奮気味に語る。ロゼリアはこの成功の影に眠る犠牲を考えないことは出来なかったが、喜ばしい感情も嘘ではない。
「よし、次はマナ投与耐久実験のデータをとるよ。死なせない様に慎重に行うこと。これで精霊の断片、フラグメントを組み込めれば、大躍進だ。」
「はい!」
勢いよく男性研究員は主任室を飛び出し、実験準備に取りかかった。ロゼリアも立ちあおうと席を立ち、実験室に向かう。途中、検体の控室の前を通る。以前見ていた子供とは別の子供たちがお飯事やトランプで遊んでいる。
その中に4人、明らかに様子の違う子が混じっている。薬剤を投与された50人の生き残りだろう。3人、少年1人と少女2人は息を荒げながら横になっている。何人かの子供が心配そうに周りで様子を見ている。そしてもう1人は、立つことは出来ないようで壁に背中を預けて座っているが、荒い呼吸をしながらも集まってくる子供たちに笑顔を振りまいている。心配ない、大丈夫、とでも言っているようだ。
肩まで届くくらいの柔らかそうな黒髪を持つ、細身の少年。ロゼリアはしばらくその少年から目が離せなかったが、ふと時計を見ると急ぎ足で実験室に向かった。
四角い部屋。自分と同じか少し上かくらいの子供が部屋の中にあふれている。思い思いに遊んでいる子がいれば、親や故郷を想い、泣き続ける子供もいる。読んでいた本から目を上げると、一人の金髪の少女がこちらを覗き込んでいた。
「すごいね、モジがよめるんだ。その本、モジでいっぱいだね。」
少女は興味津々に本を見る。
「読めると楽しいよ。知らないことが沢山書いてある。」
笑顔で返す黒髪の少年に、少女は少し俯いて答える。
「でもわたし、本なんてさわったこともないから・・・。」
少年は読んでいた本を閉じて本棚に戻すと、代わりに小さく薄い本を取り出して少女に差し出す。
「この本は絵が沢山あるから、文字が読めなくてもお話がわかると思う。」
少女は驚きながら本を受けとり、ありがとう、と言ってにっこりと笑う。
「君が今読んでいた本にはどんなことが書かれているの?」
「ユラ大陸の生きものと自然について色々なことが書かれているよ。見たことない生き物ばかり。耳が体の半分くらいの長さまで長い動物が駆け回る野原、角の生えた馬が静かに住む森。湖には大きなヌシが住んでいて、海には色とりどりの魚が泳いでいる。見てみたいなあ。」
少年は目を輝かせて少女に語る。少女は声を弾ませる。
「すごい。ぜんぜんわかんないけど、みてみたい!」
少年は楽しそうに話す。
「うん、全然わからない。だからなおさら見てみたい。きっとこの世界にはきれいなものや面白いものが沢山あるよ!」
楽しそうに話す二人を見て、近くで寝ていた少年が茶色い癖毛を掻きながら近寄ってきた。少女は目を細めて茶髪の少年を見、不服そうに言う。
「テリム、ねすぎだよー。つまんないんだからー。」
テリムと呼ばれた茶髪の少年は欠伸をしてぶっきらぼうに返す。
「ねみーんだもん、しょうがねーだろ。なにしたって変わんないし。ねたってあそんだって同じだろ。ラナはねなさすぎ。」
ラナと呼ばれた少女は大きなため息をついてから黒髪の少年に向き直り、ぽんと手を叩いて問いかける。
「そう、なまえ。きみのなまえは?」
少年は少し間をおいてから答えた。
「シン。」
苦しいときは生きていることを実感する。胸の奥から込み上げるとてつもない吐き気、絶え間ない頭痛。腕にも脚にも力が入らない。意識も朦朧とする。50人近くの子供たちと共に、大人、きっと研究員というものだろうそれに、部屋から連れだされた。
行った先の部屋で一人にされ、何やら頭が揺れるような匂いがしたと思ったら手足の力が抜けて立てなくなった。何やら注射を受け、気づいたらこの状況だ。連れていかれていなかったラナとテリムが駆け寄ってくる。ラナが叫ぶ。
「シン!だいじょうぶ?くるしい?いたい?」
心配そうに顔を覗き込んでくるラナを見て、シンは微笑みかける。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
テリムが被せる。
「ぜんぜん大丈夫じゃねーだろ!ほら、横になれよ。」
テリムがシンを寝かせた。
自宅というものはやはり落ち着く。仕事を終えて帰った時に、自分を迎える家の灯りが見えると心が安らぐ。庭に敷かれた石畳を踏みしめる。両脇に植えた背の高い薔薇とその足元の花々に暖かい明りが映る。
ロゼリアが自宅のドアを開けると、おかえり~、というおどけた声が奥から聞こえ、続いて銀髪の青年が出てきた。細目だが朗らかな笑顔のため柔和そうな人相である。
「お勤めお疲れ様、愛しき我が妻よ。」
青年がわざとらしく言うと、ロゼリアが悪乗りしたように答える。
「家宅警備お疲れ様、愛しき我が旦那。」
青年が笑いながら反論する。
「しっかり働いてきたよ!ロゼ、今日はアスパラカレーだよ。食堂長からおいしいアスパラを貰ったからね。」
ロゼは幸せそうな表情で答える。
「旦那が料理人って幸せなものだねえ、シラツキ。」
すかさずシラツキが返す。
「こんなに優秀できれいな妻に3食作ってあげられる僕はもっと幸せだからね。」
シラツキはロゼリアの働く研究所の食堂で料理人として働いている。朗らかでどこか天然で、その面ではロゼリアと対極的だ。研究中殺している心も、家で最愛の旦那といるときは息を吹き返すようだ。
小さな木でできた家から暖かい灯りと笑い声が漏れ出し、夜の静けさに溶け込んでいった。
「おはようございます、主任!」
この若い男性研究員は元来熱心だ。研究が進んでいる今は更に熱心になっている。ロゼリアよりも早く出勤し、研究の準備をしていた。
今日はマナ投与耐久実験の結果に基づいて精霊を4人の子供に組み込む。彼らは今、他の子供たちとは別の小部屋に隔離されている。
「昨日のマナ投与実験の結果に基づいて、各検体のマナ許容量以下の精霊フラグメントを用意しておきました。術式施術班が準備完了するまであと一時間ほどだそうです。施術のメインオペレーションは主任ということでしたが、大丈夫ですか。」
男性研究員はロゼリアに確認をする。ロゼリアは頷く。
「もちろんさ。器具の用意を怠るんじゃないよ。」
ロゼリアは男性研究員が部屋から出ていくのを見送り、検体隔離室へ向かった。この隔離室はガラスではなく格子戸が設けられており、牢屋のように見えて気分が悪い。少女二人は身を寄せ合って眠っており、男児のひとりは薄い毛布を握って寝ている。
一人、黒髪の少年だけが起きていて、窓から外を眺めている。いつもの部屋からは見えない外が珍しいのだろう。
ロゼリアは暫く少年の後ろ姿を見つめた後、目を伏せて立ち去った。
「どうして・・・」
白い施術台を前に、ロゼリアが力なく座りこむ。3人目の命が消えた。男性研究員が力なく言う。
「主任の責任ではありません。理論上は失敗するはずは無いのに、どうして・・・。」
術式によって人体に精霊を組み込む。マナを自在に操る精霊の力を手にするという夢のような技術。だが、研究員たちにとっては地獄の日々だ。
この段階を成功させれば地獄の日々を脱することが出来るかもしれない。3人の施術は成功したように見えたが、術後数分で拒絶反応が起こる。何が間違っているのか見当がつかない。男性研究員がロゼリアを励ます。
「個体差が激しいのです。次はまた違った結果が出る可能性がありますよ。」
ロゼリアは汗を拭って立ち上がった。目の前の寝台には、術式で眠りに落ちた黒髪の少年が寝かされている。
目が覚めると、ずっと取りつかれていた苦しさが嘘のように消えていた。牢のような部屋に入れられていた記憶はある。あそこにいた他の子供たちはどうしているだろうか。まどろみの中朦朧と考えていると、ラナの顔がのぞく。
「シンおきた!」
テリムの顔も見える。
「おまえ、起きたんならそう言えよなー。」
シンはラナが大きな本を抱えていることに気付いた。ラナは得意げに言う。
「へへーん、これ、なんでしょう。」
シンが首をかしげると、ラナは本を開きながら言った。
「せかいのずかん!シンがいないあいだにみつけたんだ!」
シンは一抱えもある大きな本をラナから受け取る。本の題名から、写真つきの紀行文であることがわかる。
ページをめくると、そこには息をのむほどに美しい写真が並べられていた。太陽の光にきらめく海、燃えるような夕日が沈む地平線。鏡のように滑らかな湖が空を映している。ラナがはしゃぎながら言った。
「これだよね!シンのいつもいってる『きれいなもの』って。」
シンは頷く。
「うん。きれいだね・・・。」
「おいしいものも、たくさんあるかな?」
おどけて言うラナに、テリムが悪戯っぽく言う。
「おれも見てみたいな、ラナがまるまる太ったすがた。」
ラナの回し蹴りが炸裂する。
写真を見つめ、3人は想像を膨らませる。いつの日か自分達も若草を踏みしめて、この美しい景色を見たい。思い描いた草原の風が、髪を揺らして吹きすぎていった。
術式施術を終えたロゼリアが廊下の壁にもたれかかっている。片付けを終えた男性研究員がロゼリアを見つけて歩み寄った。
「お疲れ様です、主任。検体も意識を取り戻したようですし、ひと段落ですね。あの最後の検体はマナ順化剤の副作用も一番軽かったみたいですし、希望が持てますよ。とりあえず少し外で休みませんか。他の研究員も皆休憩に入りました。」
ロゼリアは頷いた。もう少し経過観察をしたい気持ちは勿論あるが、正直体力が限界だ。
外の空気はやはり良いものだ。風が疲れを優しく吹き流していく。ロゼリアはふっと息をつく。なぜだろう、あの黒髪の少年のことがどうしても頭から離れない。
本を読んでいたり他の子と話していたりしていた様子を見る限りでは、周囲の子供よりどことなく大人びて見える。年齢は変わらないようなので、恐らく育ちが良いのだろう。
カンタナグザ侵攻の際に連れられてきた奴隷の子の一人だろうが、カンタナグザのような小国では平民の生活水準が低く、基本的に読み書きができない。ならば貴族か何かの子供だろうか。
ロゼリア首を振る。何かに思考が占領されるのは危険だ。思わぬ所で重大な見落としをしかねない。
ロゼリアは少年のことを頭の隅に押しやり、術式施術過程を反芻する。この過程でミスに思い当たることが往々にしてあるので、重要な過程だ。
考えている間に男性研究員が歩いてきた。
「主任、ちゃんと休憩していますか?また実験のことで頭がいっぱいなんじゃないですか?息抜きも必要ですよ。」
鋭い。男性研究員は二つ持ったコーヒーの片方をロゼリアに差し出した。暖かい湯気が立ち上がる。
「ありがとう。どうしても考えてしまうんだよね。」
ロゼリアは苦笑し、コーヒーを一口飲んで立ち上がる湯気を茫然と見つめた。ゆらゆらと規則的に揺れる湯気。
急に不自然な感覚が頭に差し込む。
立ち上がる湯気がロゼリアの方になびいている。風は後ろから吹いているはずなのに、逆方向になびく湯気。ロゼリアは目線を上げる。
目線の先には実験棟と、その隣の書庫や食堂などの施設が入った付属棟からなる研究所。ロゼリアは一瞬頭が真っ白になった。
見落とし、失態。コーヒーカップを取り落とす。石に当たってカップが割れるのと同時に、まばらに草が生える地面に熱い液体が撒かれる。
「主任!?」
カップの割れる音に驚いた男性研究員が慌ててロゼリアを振り返る。
「精霊・・・。あんた、今朝精霊を保管庫から出した時に、封印術式を正しくかけ直したかい!?マナが流れている!濃いよ!」
研究員が青ざめる。
ロゼリアが研究所に向かって駆け出そうと地面を蹴ったのと同時に、腹の底に響くような不気味な地鳴りが起こった。続いて立っていられないくらいの地震が起こり、ロゼリアと男性研究員は地面に倒れた。
マナの流れに意識が持っていかれそうになる。爆風のようなとてつもない圧力が前方から襲いかかる。
目を瞑り、必死に意識を繋ぎとめる。轟音が頭を埋め尽くした。
3分、いや、1分ほどだったろうか。地震はおさまり、辺りに静寂が満ちる。
ロゼリアは少しずつ目をあける。だが、目の前の光景を易々と受け入れることは出来なかった。目の前にあったはずの研究棟が不気味な青白い光に包まれている。
ロゼリアは数秒の硬直の後、はっとなって飛び起きた。
「シラツキ・・・!」
研究棟に向かって駆け出す。が、腕を何かに引っ張られ、その動きは止められた。
「主任!落ち着いてください!マナが濃すぎます、死にますよ!」
ロゼリアは研究員の手を振りほどき、叫ぶ。
「落ち着いていられるか!」
再び駆け出そうとした矢先、二度目の衝撃波が走る。
体が見えない何かに吹き飛ばされ、着地したのかどうか、それすら判然としないままに意識が遠のくのを感じた。
地震は何の予兆も無く起こった。部屋全体が激しく揺さぶられる。
子供たちの悲鳴が耳をつんざく。悲鳴を上げたのは子供たちだけではない。壁が不気味な音を立てて歪む。天井が崩れ落ちてくる。子供たちが降り注ぐ破片から逃げ惑う。
シンはあたりを素早く見回すと、ひとつの扉を見据えた。普段は施錠された、この部屋の唯一の扉。
全力で体当たりをすると、扉は想像以上に容易く開いた。座り込むラナとテリムを助け起こし、外へ飛び出す。
幸い廊下の天井はまだ崩落していない。
他の子供を助けようともう一度部屋に戻ろうとしたが、その瞬間にもう一度大きな揺れが起こり、衝撃波が走る。
一瞬瞑った目をすぐに開ける。出てきた扉の向こうは、瓦礫に埋め尽くされていた。
一瞬で、多くの命が消えた。絶望にふらつくのをなんとか食い止め、脚に力を込める。
今ここで自分が止まれば、ラナもテリムも死ぬ。座り込むラナ。茫然とドアのほうを見つめ、立ち尽くすテリム。
とにかくこの場所から離れなければならない。この棟から出なければならない。シンはラナの手を引いて立たせようとした。だが、ラナは動かない。ラナは今の状況がわからないというような表情をする。
「あれ・・・どうして・・・ちから、はいらない・・・」
テリムも倒れこむ。
「なんだよ、これ・・・苦し・・・気持ち悪・・・」
シンはこの症状を知っていた。身をもって体験してきた。
何やらわからない注射をされた時の苦しみ。その時の研究者の会話が頭の奥で蘇る。
「マナ順化剤・・・マナ・・・?」
恐らく大量のマナがこの空間に満ちているのだろう。原因が推測されたところでシンには何もできない。テリムがシンの考えを察したようで、口を開く。
「シン、おまえ・・・こんな辛いのに、ずっと耐えてたのかよ。」
シンは二人を何とかして助け起こそうとする。マナのことなどこれっぽっちも知らないが、今自分が立っていられるのはきっと薬剤の投与のせいだろう。
シンの行動をテリムが制する。
「おまえ、おれよりちっさいくせに、無理だよ・・・。」
ラナもテリムに同意する。
「おねがい、シン、いって・・・」
シンは首を横に振る。
「できるわけないよ、一緒に行こう!」
テリムが力を振り絞って叫ぶ。
「こんのアホ!今ここで皆死んだら、誰がきれいな景色を見るんだよ!」
ラナが後に続ける。
「シン、わたしたちみんな、みんなしんだら、わたしたちのことを知っているひと、いなくなっちゃう・・・。おねがい、わたしたちのかわりに、みて。きれいなけしき、たくさん、みて。」
涙に押されながら言葉が紡がれる。天井の崩落が始まる。瓦礫の破片が顔を打つ。テリムが声を張る。
「ひとつ、ひとつだけ忘れんな!おれたちのこと、もちろん覚えていてほしい。でも、引きずられるな!思いだして泣くとか、ぜったいするな。シンもラナもおれも、たくさん辛かった。いっぱい苦しんだ。だから、これからはジユウなんだ。ラナとおれは、シンとはちがうところでジユウになる。そう絵本で読んだことがある。シンは、ここでジユウになれ!」
ラナが涙を流しながら微笑みかける。
「ほんとうに、たのしかった。ありがとうね、シン。」
言い切って満足したのか、ふたりの体が支えを失って地面に崩れ落ちた。
シンは数秒立ちつくし、突き飛ばされるように走り出した。涙がとめどなく零れ落ちた。
頭が痛い。とてつもない吐き気がする。引きずるようにしてなんとか体を起こす。隣で男性研究員が横たわっており、動かない。恐る恐る首筋に手を当ててみるが、体温が感じられない。
なぜ自分だけが生きているのだろうか。ふと手首を見ると、銀色の無機質な輪が巻かれている。術式施術を行う時に体内のマナの流れを増幅する補助具だ。検体に急な容態変化が起こった時にすぐに対応できるよう、装着したままにしておいたのだ。恐らくこれがマナの影響を軽減したのだろう。
目の前には数分前は研究所であった瓦礫の山がある。ロゼリアはよろめきながら研究所の残骸に向かう。
見えかけた研究の終着点。抑えきれない興奮が見過ごしを招いた。実験用に拘束していた精霊の暴走。
一つ一つの事実を受け止めながら、ロゼリアは重い体を引きずって歩く。
「シラツキ・・・シラツキ、どこだい・・・」
瓦礫の山の前にたどり着き、かつて食堂であった場所へ向かう。探すものは存外すぐに見つかり、ロゼリアに心の準備の時間を与えなかった。
瓦礫の隙間から覗く色白の肌、銀色のやや長い髪。ロゼリアはその場に崩れ落ち、絶望に包まれた。
研究は終わった。未完成のままで。何百人の子供たちの犠牲は水泡に帰した。
彼らはあまりにも理不尽に生を剥奪されてきた。戦争で家族を奪われ、生活を奪われ、代わりに与えられたものは苦しみ。そして、自らの命も剥奪された。世界をまだ知りもしない子供たち。
そして、研究で荒み果てた心を柔和な表情で癒してくれた、最愛の夫を失った。この人を守るためならば、何だってできた。何だって、してしまった。
座り込んだままの姿勢で茫然と空を見つめる。太陽はまだ帰路についたばかりで陽気な日差しを注いでいる。雲がゆっくりと流れる。
どれだけの命が失われようと、どれだけの悲しみが生まれようと、世界は平然と時を刻む。生者は時に流され、死者は時に置き去りにされる。死者と生者との距離は、ただ時と共に開いていくばかり。それならば、いっそ、今まで奪ってきた数多の命と共にありたい。愛しき夫と、共にありたい。
視線を落としていくと、黒光りするものが目についた。そうだ、シラツキがいるということは、ここは厨房だった場所だ。調理道具が溢れている。黒光りする刃に引き寄せられるように、ロゼリアは重い体を引き起こし始める。
ふいに、瓦礫を踏みしめる音が転がり込んだ。動きを止めて顔を上げると、そこには黒髪の少年が立っていた。
服は汚れ、手足は傷だらけになり、所々に血が滲んでいる。その顔にはかつて薬剤の投与でどんなに苦しい思いをしても見せていた笑顔がもう見えない。泣きはらした目を半ば伏せ、頼りなく立ち尽くす。
この少年はきっと、私の事を死ぬほど恨んでいるに違いない。私はこの少年の全てを奪った。ロゼリアが呻くように言う。
「憎いだろう・・・殺してくれてもいい。・・・いや、殺しておくれ。」
しばらく風の吹き抜ける音だけが場を満たした後、少年がやっと聞き取れるくらいの小声で呟くように言った。
「みんな死んだ。ラナも、テリムも、死んでいった。僕だけが生きている。」
ロゼリアは顔を上げ、少年を見据える。少年は俯いたままで、だが今度ははっきりとロゼリアに向けて言う。
「苦しい薬のおかげなんでしょう、研究者さん。」
耐えかねて一度視線を落としたが、少年の次の言葉に、ロゼリアは耳を疑った。
「ありがとう。」
はっと顔を上げると、少年は寂しそうだが、笑顔を浮かべていた。
「ラナとテリムは、僕に生きろと言った。世界を見ろと言った。これは、僕が生きているから、できるんだ。生きているから、ラナとテリムの願いを聞ける。ふたりは僕に、自分の人生を生きろ、と言った。だから、僕は、生きるよ。生きて、世界を見て、きれいなものを沢山見る。ふたりの分も。」
ロゼリアの後ろの、切れ切れの雲を瞳に映して、少年は力強く言葉を並べた。
「あの後、シンは瓦礫の山の向こうに歩き去って行ったけど、私はしばらく動けなかった。だけどね、あの子に生きることを後押しされたのは確かだよ。3年かけて生きる道を探して、また3年かけてシンを探した。やっと見つけた時、あの子はアイサルの田舎を転々としていていたよ。どこで身に着けたのか知らないけど既にかなりの強さだった。」
ロゼリアは目を細めて笑う。
エドナはしばらく茫然としていた。想像の世界に入り込んでおり、こちらの世界に戻ってくるまで少々かかる。
「アイサルでも街には通行証が無いと入れないからね、国籍の無いシンには無理だった。街に入るどころか、衛兵に見つかりでもしたら、捕まって殺されるよ。・・・私はあの子に、シンにしてやれることは全部したいと思ってね。ここユーラビアにシンを連れ出して、身元保証人になって移住者としてシンの身分証をとった。私のアイサルの研究者身分は生きていたからね。それでも手続きは苦労したよ。まあ、あの子は自分の出生は喋ろうとしないし、聞いたところで私がそれを保証できないから実の所、偽装だけどね。」
ロゼリアは付け足すように、現在との時間の隙間を埋める。
「まあそういういうことで、しばらくシンと旅をしていたんだけどね、その間にシンの精霊の問題に気づいたってことさ。」
エドナは返す言葉を探すが、なかなか見つけることが出来ず黙る。
「さて、私はちょっと調べ事をする。シンを頼んだよ。」
ロゼリアはソファから立ち上がると、書斎に入っていった。
はっと目をあけると、薄暗い部屋の白い天井が見えた。電気は消えているが、まだ外は太陽が出ているのだろう。カーテンの隙間から光が漏れている。
体を動かそうとする。痛みは無い。
かけられた毛布がベッドと擦れて音を立てる。
「シン様・・・?」
聞き覚えのある声が横から聞こえる。顔を向けると、そこには椅子に座った二つ結びの長い髪の毛を持つ少女が、心配そうな目でこちらを見つめている。
「シン様!」
少女が急に眼を見開き、声を上げる。
「シン様、私のことわかりますか!?」
たたみかけるように問いかける少女。
呟くようにその名前を呼ぶ。
「良かった、本当に、良かった・・・。私、もし、シン様が・・・うぅ・・・ロゼリアさんー!」
エドナは涙を浮かべ、肩を震わせて文にならない言葉を紡ぎながら、扉を力強く開けて飛び出していった。
事態がまだ上手く飲み込めないままで、シンは上体を起こし、ただ茫然とエドナの出ていった扉を見つめていた。
すぐに、先ほどエドナが壊れんばかりの力で開けて出ていった扉からロゼリアが入ってきた。
「気分はどうだい。エドナがスープか何か作るってさ。」
シンの隣に近づき、先ほどまでエドナが座っていた椅子に腰を下ろして尋ねる。
「大丈夫。・・・また世話をかけたね。」
シンはバツが悪そうに返す。ロゼリアは腕を組んで少し胸を反らせる。
「何を今さら。一体何年の付き合いだと思っているんだい。」
わざとらしく振る舞うロゼリアに、シンが屈託なく笑う。
ロゼリアは悲しい表情を浮かべずにはいられなかった。
「シン、まず先に謝らせておくれ。」
目を伏せるロゼリアに、シンは訝しがる。
「ロゼ?」
目を少し開き、ロゼリアが続けた。
「あんたが寝ている間に、私、エドナに話したんだ。・・・アイサルの事を。人の過去を話すなんて、反則だよなあ。」
ロゼリアが自嘲気味に言う。シンの方を見ると、シンはロゼリアに優しい表情を向けている。
「ロゼ・・・辛い役をさせてしまってごめん。」
優しい言葉をかけられ、思わず涙が流れ出そうになる。
それを食い止める代わりに、言葉が出てきた。
今は言うまいとしていた言葉が込み上げてくる。
「シン、エドナのこと・・・あの子は、本気であんたのことを想っている。今だって、あんたがここで寝ていた間、丸一日、ずっと傍を離れようとしなかった。前は早く独り立ちさせた方がいいなんて言ったけど、あんたもこのままずっと一人でいるよりか良いんじゃないかい。あの子にとっても」
「ロゼ。」
言葉をたたみかけるロゼリアをシンが穏やかに制する。
「エドナはまだこの世界を何も見ていない。どう生きるか、誰と生きるか、まだ決めなくても良いと思う。仮にこの先決める時が来たとしても、それは僕ではなくてエドナが考えることだよ。その時僕がエドナの傍にいられるかはわからないし、きっと・・・。うん、むしろ彼女は柔軟なままのほうがいいと思うよ。」
やはりこの青年は、人と深く関わろうとしない。この世界を存分に楽しもうとしている反面、自分が影響を与えないように一歩引いて見ている。諦観の中に、世界を見ている。
「シン・・・あんた、最初からそうだったかい。あんたはこの世界が好きなんだろう。沢山知りたいんだろう。どうして自分から関わっていこうとしないんだい。どうして、自分が影響を与えることをそこまで恐れる。死ぬからかい、そうなんだったら、遅かれ早かれ皆いつかは死ぬよ。どうして壁を作る。どうしてもっと生きることに固執しない。」
ひとしきり言い終えたロゼリアが呼吸を整える間、沈黙が流れる。
「それは、やっぱり、この世界が好きだからだよ。自分が生きるために、この世界を変えたくないから。」
ロゼリアは息を呑んだ。シンは、本人が意図しているかはわからないが、アイサルの研究の事を言っているのだ。
精霊を操り、他国との戦に有利になるための研究。自国が生き残るための研究。
多くの小国の奴隷の子たちの命が費やされた。シンの命を繋ぐ技術は、現在の、少なくともロゼリアが知る範囲の技術では、存在しない。即ち、研究が必要になる。
全ての研究でアイサルのように人の命が消費されることは無い。寧ろ、人の命が使われるような研究は極々僅かだ。
しかし、シンは自分の命のために犠牲が払われることをひどく恐れている。
自分のために、誰かが不幸な思いをすることを、ひどく恐れている。
ロゼリアがこの状況に耐え兼ね、何も思いつかないままだが何か言い返そうと口を開いたとき、ドアを叩く音が聞こえた。
「ロゼリアさん、シン様、スープできましたー。」
温かい匂いがふわりと立ち込めた。
読んでくださりありがとうございます。
明日も更新します。