09 目覚まし時計が鳴っても、起きられない日はあるのです。
目が覚めたとき、部屋にいたのはソファーで船をこぐマルガリータだけだった。
窓から差し込む明るい日の光。影を見れば、正午前、くらいだろうか。かろうじて午前中、といった時間帯らしい。
今日もまた鬱陶しい四肢の痛みに眉をしかめて、ふと左の肩の痛みがずいぶん軽減されていることに気付いた。おそるおそる左手を動かす。ゆっくりと拳を握り込むと、動かさないためにできたのだろう、掌にむくみを感じ、手の甲は皮膚が突っ張るような奇妙な感覚を覚えた。さらに握力も一気に落ちているらしく、思うようには動かない。ぎこちないまま何度か握ったり開いたりして動きを馴染ませ、手首も同じように動かしていく。それから肘。さらに、そうっと肩を動かした。痛いことは痛いが……、打撲だとか、そういった種類の痛みのようだ。ああ痛いな、と思う程度で、動かすことは苦ではない。もちろん激しい運動は論外だが、日常生活で困る痛みでもない。
それを把握した瞬間、どっと安堵が押し寄せた。四肢の動かない生活というのは案外ストレスになっていたらしい。あれだけ眠ったのに瞼が重くなって、俺は意識を手放した。
もう一度目が覚めたとき、空は茜色に染まっていた。
左手が動かせることを確認する。……夢、じゃない。今まで一人では上体さえ満足に起こせなかったが、左手をベッドについて起き上がった。ばきぼきっ、とあちこちの骨が鳴り、肺や右の腕が痛んだ。……もう慣れた……。これ……。
ソファには相変わらずマルガリータがいて、今度は毛布にくるまって寝転がっていた。
左腕をすこし動かしてウォームアップ。それから掛け布団を引っぺがし、左足を軽く揉み解す。あちこちむくみっぱなしでけっこうツライ。
足の裏をごりごりと力任せに揉み解した。痛い。痛いけど、やったほうが、やらないより楽になれる。足つぼマッサージだとかなんだとか色々あるらしいが、詳しいことはわからない。ただ、痛くてもやってしまうと身体が楽になるからやる。それだけだ。
そうしていると、イミさんが入ってきた。眠たそうな顔は相変わらずだけど、俺の左腕を見て唇がつり上がる。正直、微笑んだのかにやりと笑ったのか安堵したのか、感情がまるで読めない笑い方だったけど……。
「痛みは?」
「普通の打撲程度」
ますます笑みを深めたイミさん。今日で三日目の付き合いになるけど、この子感情表現乏しいんだよな……。沈黙で話の先を促すと、ふと口元の笑みは消え、いつもの眠たげな顔になる。
「今朝、あんまりにもヨッシーが起きなかったから。
紙があったし、きっと練習してて夜更かししたんだろうって。身体動かないもんねー、痛いもんねー、あれ、でもそういえば左の肩って症状確定してなくない? って話になったの」
そういえば、外れてはいないけどそれくらいしかわからなかったんだよな。
「で、マリーが。
骨折だったらお医者さんの知識が必要で、難しいけど、打撲だったら軽減できるかもって。
チャレンジして今はMP枯渇状態」
イミさんのほっそい指が、くうくう眠るマルガリータを指差す。
「なるほど……、激しい打撲を、ただの打撲程度にってわけか」
「なんか、すごい連打しまくってた。MP枯渇するとだるくなるみたい。マリーはちっちゃいから、余計つらいいんじゃない?」
すごい他人事ちっくだな、イミさん。
「イミさんと大石さんは?」
「調査の続き。マリー、お城に住んでなかったから連れ歩いてもあんま意味ないし。あたしもちょっとは回復手伝ったけど、あんまり魔力ないみたい。すぐ疲れてやめた」
あんたが犯人だろうが。いや、事故だったけどさ。
割りきれない感情で微妙な顔になると、イミさんはこくりと小首をかしげ、何を思ったか付け加えた。
「大石さんは少なくとも普通の人よりはあるみたい。MP」
「へぇ。俺はどれくらいなんだろう?」
「『リヒト』とか、どんぐらい使えた?」
「さあ……、さすがに何時間も連打すると疲れた感じはしたけど」
「なら、ヨッシーも普通の人くらいはあるんじゃない? あたし二十回でギブ」
それまた随分少ないな。おい。
「あたしの場合は、書にも問題あるみたい。
ワルメルギス・ル・クラウディアって、シンプルで荒削り。だけどやたらとMP食うらしいし」
「へぇ……」
使いやすさより魔力のコストパフォーマンスを考えるなら、別の書のほうがいいこともあるかもな。
まあ、初心者のうちは自分に合った執筆者が一番いいだろうけど。
「あとでマルガリータには礼言わなきゃな。
収穫とかは?」
「あんまり。
あたしもだんだんやることなくなってきたから、大石さんのかわりにマッピングやってるところかな。前より屋根とか壁とか登るの楽になったし、こっちに来たら」
最初、木の上で寝てたもんなぁ……。
「高いとこ好きなの?」
イミさんは眠たげな目でじっと俺を見た。それから考えるように天井を見上げる。
「……好き、かもしれない」
かもしれないって……。
「ねぇ、ヨッシー」
天井からまた俺に目を移して、イミさんは言った。あいかわらず、何を考えているのかさっぱりわからない眠たげな目で。
「あたし、人間ってすごいと思うの」
「いきなり。どうしたんだ?」
「ひとつの人格を持って、たくさんの感情がせめぎ合う中で、いろんな人とかかわって生きていく。
すごく難しくて、複雑で、めんどうくさくて難儀しそうだなって」
それは……、そう、だろうな。
そして、それができなかったのが……俺だ。
「猫になりたいな。
人間らしく生きるの、すごく難しくて、大変だから」
ソファーにかがみ込んで、イミさんはマルガリータの金髪をひと撫でした。それから俺を振り返ると、眠たさを取っ払った大きな瞳で、柔らかな唇で、透き通るような皮膚に覆われた頬で。
ふわりと西日に染まる部屋で、笑った。
……そうか。
君も、普通の社会に適応できなくて取り残された、こっち側の人間なのか。
日が暮れるころ、ようやくマルガリータが目を覚ました。
ちょうど俺やイミさんは大石さんが本から得た知識を要約したものを聞いていたところで、ラベンダー色に染まった空と集まった俺たちの姿にマルガリータは大慌てする。
「わ、そ、その、す、すみません! あた、あたし、寝坊っ!?」
「寝坊じゃなくて昼寝のしすぎじゃないの? 朝起きてたし」
「はうっ」
なんでそう突込みが容赦ないかな、イミさん。
大石さんが苦笑して涙目のマルガリータを宥めている。すっかりパパ役が板についたようで。……そういやこの人、奥さんいるんだっけか。子供いてもおかしくないわな。いるかどうかは知らないが。
「あたしもうそんなにお昼寝の必要な子供じゃないです……!」
しばらくぐずぐずといじけていたが、それでもマルガリータは気を取り直して夕飯を作りに行った。朝も昼も食ってないから、俺の腹はぺこぺこ通り越して空腹を感じられない。
もっとも、日本では普通に三日絶食、とかやってたけどな。いや、虐待でもないし拒食でもない。そこまで俺は辛い人生送ってない。単に、作るのが面倒くさかったり、部屋から出るのが億劫だったりするだけだ。それでも限度は三日。それ以上になると、低血糖でふらふらする。
……ものぐさなんだよ。俺。
「あれこれ言いたくありませんが……、その、あまり、夜更かしはどうかと」
困ったように大石さんが忠告する。正直、反論と反発が山ほど頭の中に浮かんだ。もともと夜型だとか、太陽は好きじゃないとか、限界まで起きていないと眠れないとか、そう、いろいろ。
大石さんの好意もわかる。心配してくれるのも、わからない、わけじゃない。
それでも素直に頷けなかった。つい苦虫を噛み潰したような顔になる。空気がずん、と重くなった。
「ま、あたしも夜型……、っていうか、すごく睡眠時間長いけどねー」
イミさんが茶化す。……気を遣って、くれた、んだろうか。
「そういえば……どれくらい眠られるんですか?」
大石さんが尋ねる。不意に空気が軽くなった。すごいな、イミさん。……真似ができない。俺は、上手く人と……そうして、適度な軽さで付き合うのは、すごく……苦手だ。
「十六時間くらい」
半日以上かよ。
「じゅうろく……」
大石さんが呆然と呟いた。けろりとイミさんが頷く。
「起きてるの辛い。もう一生寝ててもいい」
「あの、それって棺の中で?」
「それもアリかも。あたし、眠姫のお話大っ嫌いなんだよね。なんで起こすわけ? お姫様は眠り続けました、でいいじゃない」
ふてくされるなよ。童話相手に。
「一応……それだとバットエンドになるからでは……?」
もっと言ってやれ。大石さん。
「ひどいよね。世の中の人間みんなが目覚めたいと思うわけじゃないのに。医者は過眠症だとか言うし」
「過眠症……ですか」
「十時間以上の睡眠が……何日だっけ? 一週間? 二週間……? 忘れたけど、連続してそれくらい続くとそーいう名前がつくらしいよ? よくわかんないけど」
学校とかどうしてるんだろうか、この子。中学生なら少なくとも八時間は学校にいなくちゃいけないのに、十六足す八は二十四。朝夕の食事や身支度、宿題、登下校の時間はどうなってんだ……?
「学校に行くの、大変じゃないんですか?」
大石さんも気になったらしい。イミさんはこくりと頷く。
「すごく大変。遅刻するとなんでか怒られるし。すごく困る」
いや、そりゃ怒られるよ。
「遅刻……」
「だって、遠足に行くときに遅刻して怒られるのはわかるよ? みんなが困るし。でも学校だよ? 怒られるとかわけわかんない。どうせちんたら毎日毎日同じところ勉強するだけで、時間が無駄に費やされるし。あんなうっすい教科書を一年もかけて勉強とか、ナニソレ。人様をナメてんの? それって拷問? とか思うじゃん」
うわ。まさか、イミさん……。
「テストの点数、聞いていいか?」
「オール百。あんまり学校行かないから、通信簿の成績は悪いけど」
マジか。意外に天才肌だな。
「すごいな、それ」
「あんなにくどくど説明されて、まだわかんないとか抜かす奴の気が知れない。いや、わかんなくてもいいよ。なんでそんな奴と同じ速度で勉強する必要あんのかがわかんないのよ。飛び級させないとか新手の拷問としか思えない。イジメ? 国家の行う児童虐待? しかもあんな低レベルの子供と人付き合いをしなさいとか、どんだけエグいの? 言葉通じないしわけわかんないイジメは流行るし、理性で生きてたらあいつらとの生活とか発狂する。なんで勉強しに行ってるのに同い年の子守しなくちゃなんないの? あいつらガキ過ぎて話通じない。頭悪いのに授業中騒ぐし。聞いてるだけでわかることをわかんなーい、とか抜かすし。先公それに振り回されるし。叩かれればすぐイジメだ虐待だなんだと騒ぐし。人間とは思えない。サルの中で勉強するようなもんだよ。むしろサルのがまだ可愛げあるよ。あいつら学ぶもん」
……大変だったんだな。イミさん……。鬱憤溜まりまくってるよ。
大石さんも苦笑して、ぴりぴりするイミさんの頭を撫でている。大人だな、ほんとこの人。
しばらく思い出してイライラしていたけど、マルガリータが食事を運んできてイミさんはその不機嫌さをおさめた。
「今日はポテトのポタージュにしてみました」
鍋ごと台車で運んできて、その場でよそうマルガリータ。じゃがいものほんのりとした甘い香りが漂う。味は……まあ、ちょっと焦げ臭いけど悪くない。
「ありがとうな、マルガリータ。おかげでずいぶん楽になった」
片足で移動し、久々に席について食事ができた。左手だとぎこちないけど、ちゃんとスプーンも持てるし。
マルガリータがえへへと照れる。なんか、だんだんこの丸っこいそばかすだらけの顔がかわいくなってきた。
「他のところは、やっぱりあたしじゃ無理でしたけど……、ちょっとでも楽になったなら、よかったです」
「すごく助かったよ。それから、大石さんも。長らくお手間をかけさせました」
「いえ、しかたがないことでしたしね。もし私がそうなったら、鈴木さんにお願いします」
「もちろんですよ」
そんなことを言って笑い合うと、パンを齧ったイミさんが手を上げた。
「ねえ、あたしにはないの?」
「日々の笑いをありがとう」
ぶっ、と吹き出すマルガリータと大石さん。こらこら、汚いだろ。イミさんは満足してこくりと頷く。満足なのか、あれで。
相変わらずよくわからない人だけど、まあいいか。
それから今日あったことを話しつつ、ふとダメ元でマルガリータに聞いてみた。
「なあ、一度に複数の魔術とか、使えないのか?」
「一度に……? 呪文が必要な以上、完全な同時発動は無理だと思いますが……、ひとつを使いつつもうひとつを発動させる、ということなら、一応できます」
「できるのか。俺、発動はするもののその場で消えちゃったけど」
言うと、マルガリータが目と口をぽっかり開けて俺を見た。間抜けっぷりに磨きがかかるからやめなさい、その顔。
「で、できちゃったんですか!?」
「できるって言ったのお前だろ、マルガリータ」
「そ、そりゃそうですけど……。発動だけはする、って、それ軽く中級レベルですよ? なんだって発動しちゃったんですか!?」
中級……、か? アレで?
「大石さん、イミさん」
二人に目を向けると、それぞれ頷いて自分の書をとってくる。
「できるわね」
「問題ないです。維持は無理でしたが」
普通に発動する二人。マルガリータはしばらく口をぱくぱくさせて、それから俺の枕を抱えて部屋の隅でいじけはじめた。
「あたしなんて。あたしなんて……!」
「マ、マルガリータさん? あの、そんなに落ち込まなくても……」
「マリー、寝るなら部屋に戻んなさいよ」
「うわぁぁぁぁん! イミさんの意地悪ーっ!!」
だんだん反論できるようになってきたな、マルガリータ。
よかったよかった。